リオリールとトルテのアトリエ~三つ大島の錬金術士~ 作:ジャミゴンズ
村の入り口付近にある行政事務所の室内は、シンと静まり返っていた。
「……これが、現状だ」
大きな木製のデスク越しに、オイゲンが苦渋に満ちた声を落とす。
朝一番に駆け込んできたリオリールに、資料をいくつも渡しながらオイゲンは息を吐いた。
鼻の奥をツンと突く、墨の匂いが周囲には漂っていた。
そこに描かれていたのは、事実の羅列だ。
地表から海面まで二十五メートルという、目が眩むような断崖絶壁。
綱やロープを用意して降りることは可能かもしれないが、それが出来る人員は限られるだろう。
仮に岩礁地帯まで降りれても……渦の中心でツボを守るように陣取る、規格外の巨体を誇るポットクラーケがいる。
さらに、岩礁近くには海水を吐き出す壺のせいか、海流が大きく乱れて見た事も無い規模の『大渦』が唸っているのだ。
どれか一つでも厄介な代物なのに、あらゆる悪条件が折り重なって、海水を吐き出すあのツボへ近づくことを物理的に拒絶している。
それに、近づけてモンスターを排除できたとしても。
「ツボが壊せる物なのかどうかも、分からない。 私には、岩礁と一体化しているようにも見えた」
「……」
「岩と、一体化……」
リオリールは、ギュッと羊皮紙の端を握りしめた。
指先がかすかに震え、紙がくしゃりと嫌な音を立てる。
十段峠で見た光景を思い返せば、どう考えても錬金術士一人でどうにか出来るような規模の問題だと思えなかった。
「情けない話だが今のところあの場所に近づく有効な手立てが見つかっていない。 近くまでいければ、また何か分かるかも知れないのだが」
苦しげに眉間を揉むオイゲンの傍らには、二つの人影が静かに佇んでいた。
フラウセス教会の神父と、シャイエルだ。
オイゲンからの要請なのか、それとも教会の方針なのかは分からないが、協力体制を強いているようだ。
リオリールがそちらへ視線を向けると、シャイエルは無表情のまま、瞬き一つせずにこちらを見返してきた。
神父カデルエイになりすました錬金術士レッドは、目深に被った帽子のつばで表情を隠しながらも、じっとりと粘りつくような視線をリオリールへと突き刺している。
リオリール・フェルエクス。
三つ大島の制度である成人の儀の旅の途上にある、ただの15歳の子供。
錬金術という言葉すら知られていない辺境の地、ユウバナ村で生まれた名もなき錬金術士。
レッドは、帽子のつばを弄りながらリオリールに向かっていた視線をそっと降ろした。
悪魔怪人レッドマンはなぜ、この少女に拘るのか。
やろうと思えば、今すぐにでも三つ大島どころか、海を越えた大陸のフィンデラーント王国すら更地に変え、容易く世界を征服できるであろう圧倒的な存在だ。
リードにとってはアカデミーへのテロに使う予定だった、虎の子の禁忌の爆弾を使ってすら表面が焦げるだけのダメ―ジしか与えられない、規格外の絶望的存在。
それがレッドマンという悪魔だ。
今のところレッドマンは無敵だ。
アカデミー創設以来の天才と謳われた錬金術士レッドであっても、レッドマンを殺す方法はない。
だからこそ、執着しているリオリールという存在が、あまりにも謎であった。
「なぜだ……」
思わず口から漏れ出た低い呟きが、静まり返っていた室内に不意に響き渡った。
「なにとは? いったい、何のことかね、神父殿」
オイゲンが怪訝そうに顔を上げ、レッドへと問いかける。
一瞬の沈黙の後、レッドはいえ、失礼と短く喉を鳴らした。
張り詰めた空気が、少しだけ弛緩する。
リオリールは羊皮紙から手を離して姿勢を正した。
顔を上げるとその翠色の瞳の奥には、決意が灯っている。
「オイゲンさん。 私、何かあのツボに近づく方法を、錬金術でできないか考えてみます!」
力強く、迷いのない声。
それだけを伝えると、リオリールは深く、丁寧にお辞儀をした。
そして、振り返ることなく事務所の重たい木扉を開けて外へと出て行った。
バタ、と扉が閉まる。
「……まったく、情けないものだ。 ちっ……錬金術か」
オイゲンは錬金術士だからと言って、リオリールにこの問題に付き合わせるつもりは毛頭なかった。
とはいえ、手詰まりなのは確かで、『ふた島』では大陸側の事情に詳しい神父からも、錬金術に対抗するなら錬金術でないと難しいと断言されてしまっている。
オイゲンは深く、重いため息を吐き出した。
「子供にさせる顔じゃないぞ、まったく」
「ええ、本当にそうですね」
錬金術士レッドは、感情の読めない声で小さくオイゲンへ同調した。
彼の視線は、リオリールが去っていった閉ざされたままの扉を、ただじっと、冷ややかに眺め続けていた。
――・
潮騒亭の自室に戻るなり、リオリールは鉄鍋の下に薪をくべ、火を入れる。
熱気を帯び始めた釜の前にどっかりと座り込み、リオリールは真っ白なゼッテル用紙の束を引っ掴んだ。
あの二十五メートルという絶望的な高低差を、地上からどうやって下るかだ。
ペン先を唇に当てて思案する。
真っ先に思い浮かぶのは、『生きてるナワ』を海面まで伸ばすことだ。
大勢で降りることを考えると何本も必要になる。
つまり、大量の素材が必要だ。
ハチヤドの近くには『ぷにの楽園』がある。アデラたちに頼み込んで仕入れることが出来れば、ぷにぷに玉は何とかなるかもしれないが。
「綱の部分を構成するセイタカトーンが、絶対に足りないよ……」
群生してる場所なんてない。
もしかしたら高壁山脈や、ユウバナ村近くの『まみどり大森林』ならそういう場所があるかも知れないけど、リオリールは知らなかった。
更に言えば。
リオリールはそっと鍋を見つめた。
命綱として大人がぶら下がっても切れない強度と、二十五メートル以上もの長さを確保するには、大量の素材を一度に煮込むための大釜が必要になるだろう。
一本だけでも30メートル以上の長さが最低でも必要だ。
そんな巨釜ともなればリオリールの細腕だけではとてもじゃないが、攪拌することはできない。
錬金術にとって品質と効果、特性と効力を纏め上げる最後の攪拌は大事だ。
これだけは経験則でリオリールはハッキリと理解している。
「まともに攪拌できないんじゃ、考える以前の問題だよ。 これはダメだよ……」
頭を振って考えを変えてみる。
いっそのこと飛び降りれれば良いんじゃないだろうか。
「鳥のように、羽を作るとか……」
魔鳥の羽を布地に織り込めば、風を孕んで飛んだり滞空したりする衣服は造れるかもしれない。
ドラがいればすぐに魔鳥の羽は――
「あ……」
いや、ドラはいない。
トルテと別れたから、彼女にくっついて旅を一緒にしてくれたアードラーはリオリールよりも親と認識しているトルテについていってるはずだ。
「……」
袖口を握り、リオリールは首を振った。
オイゲンさんに頼んで魔鳥の羽を用意してもらえばいい。
飛べる道具を作れれば、崖下を安全に降りて岩礁の傍までは近づけるはずだ。
しかし、どうやって『飛ぶ機構』を錬金術の理論に落とし込み、持続的な浮力を生み出せばいいのか、リオリールにはさっぱり分からなかった。
「ええと、ええと、素材表をまとめたのが、確かこっちに……あいたっ!」
焦りに駆られて背負いバッグの奥へと手を突っ込んだ時、乱雑に押し込まれていた紙の縁で人差し指をすぱりと切ってしまった。
じわっと赤い血の玉が滲む。
リオリールは無造作に指を口の中に突っ込み、ヒリヒリとする痛みを意図的に無視した。
これまでトルテと一緒に採集してきた素材のリストを広げ、その性質や特徴を頭の中で繋ぎ合わせようと必死に視線を走らせる。
分からない。
素材同士の組み合わせで、そもそも空を跳べる機構なんて出来るのだろうか。
仮に海面まで降りられたとしても、そこにはあの巨大な大渦と、壺を守るように陣取るポットクラーケが待ち構えているのだ。
「モンスターが相手なら普通は爆弾だけど……」
いったん、分からない事を思考から弾き出してモンスターの事を考えてみる。
海中で効果を発揮する攻撃アイテムなんて、どうやって作ればいいのだろう。
『フラム』は、導火線が水に濡れれば一瞬で消えてしまう。
『レヘルン』で海水を凍らせようにも、あの広大で激しい海流を相手に凍結できる範囲などたかが知れていた。
少なくとも作ったことがあるフラムやレヘルンでは太刀打ちできないのは目に見えている。
「ライデン鉱で電気? 後はエアロライトの風とか?」
電気を水中で増幅させてぶつける。 あるいは、突風を巻き起こして海流を叩きつける?
しかし、ポットクラーケはあの大渦の近くで平然と泳いでいた。
それにどちらも、リオリールには全く理論が組み立てられなかった。
誰かを傷つけるような攻撃アイテムの構築を無意識に避けてきたから余計に知識がない。
自衛のための最低限のものしか作ってこなかったのだ。
爆弾の調合に関しては、ずっとトルテに頼ってきたからどうしようもない。
自分から深く学ぼうとはしてこなかった。
そのツケが、今になって重くのしかかってくる。
「ああ、もうぅ! どれも出来ないよ!」
リオリールは両手で自分の頭をくしゃくしゃとかきむしった。
結んでいた髪がほつれ、視界にぱらぱらと落ちてくる。
なら海はどうだ。
海から船で近づくには岩礁の前の『大渦』が大問題だ。
あの大渦は突破できないだろうか。
――無理だ。
すぐに結論が出る。
漁師の娘としての本能が、船を出すという行為自体が無謀として警鐘を鳴らしている。
あんな大渦、見た事も無い。
底知れない荒波が渦巻く岩礁に、船で近づくなんてまともに考えられない。
見た目はゆっくりと回っている渦だけど、海で育ってきたリオリールにはあれがどれだけ規格外の力を有した物か一目で分かってしまう。
どれだけ頑丈な船でも、あっという間に渦の暴力的な力に引きずり込まれ、メキメキと竜骨をへし折られて海の藻屑と化す。 その生々しい絶望のイメージしか湧いてこないのだ。
カチカチと、噛み合わせた歯の根が震える。
目の前にあるゼッテル用紙のキャンバスには、文字一つ書き込まれていない。
一文字も進まない白紙のまま、そこにある。
地上からも、海からも近づく方法がない。
残された手段は?
あるとすれば、高所からとてつもない物理的な質量をあのツボめがけて落とし、砕け散るのを祈ることくらいだろうか。
だが、それは十段峠そのものを破壊するような大掛かりな崩落を引き起こすことになる。
だけどそれは、『ふた島』の道を壊す、ということだ。
そんな恐ろしい破壊など考えたくもないし、そもそも引き起こす方法すら思い浮かばない。
だめだ。
何もできない。
ボコボコと、ぐらぐらに沸き立った鉄鍋のお湯が、行き場のない水泡を弾けさせる。
煮立った釜の音だけが、リオリールの耳に絶望の音として響いていた。
意気込んで、我が儘を言って、兄やトルテを困らせて。
その上で何もできないからって放り出せば、自分は何をしていたのか分からなくなってしまう。
そんなのは嫌だ。
二人とも手伝ってくれれば、もしかしたら何か良い解決法が思いつくかもしれないのに。
リオリールはぐっと目を強く瞑って首を振った。
違う、そうじゃない!
離れ離れになった途端に何もできなくなる。
その事実が苦しい。 悔しい。 自分が何も出来ない事もそうだけど。
何よりもカスカルやトルテのせいにして、自分を守ってしまいそうになる自分が情けなかった。
「あぁぁぁっ、もうっ! もぉーっ!!!」
大きな声で叫ぶ。
癇癪を起こした子供のように、床に置かれた自分の背負いバッグにボンボンと拳を打ち付けた。
中に入っている柔らかい素材が衝撃を吸収して、力のない音を立てる。
やり場のない怒りと焦りが、胸の奥でどろどろと渦を巻いているんだ。
リオリールのどこか冷静な自分がそう分析する。
息苦しい。
この潮騒亭の部屋の中が、孤独の牢獄のように感じる。
なんでこんなに苦しいの?
ポコポコと波立つ釜の湯の音が、こんなにも煩わしくなる。
嫌だ。
何も出来ないのに沸騰している釜の音がとても。
このまま狭い部屋に籠っていても何も良い事はない。 リオリールは自分の直感に従って乱れた髪を大雑把にまとめ直してヘアバンドを被り、ブリ人形がブルルンと震えると部屋を飛び出した。
気分転換になるかと思い、ハチヤドの街並みを歩いてみる。
普段は心が躍るような雑踏と騒めきが、騒がしいノイズにしか聞こえなかった。
食べ物の匂いが漂って鼻をくすぐっても、まるでお腹が刺激されずにむしろ気持ちが悪いくらいだ。
すれ違う人々は皆、湯上がりのような笑顔を浮かべ、楽しげに談笑している。
普段通りの光景なのに、全くリオリールには響かなかった。
むしろ、自分だけが世界から切り離されているような孤立感だけが際立って。
「やだな……ここ」
ハチヤドの明るさに、リオリールは初めて酔うような感覚を抱いた。
賑やかな景色をすり抜けるように歩き続け、気がつけばハチヤドの街の外へと足を踏み出していた。
あてもなく、目的もない。
でも、錬金術でなんとかしないといけないのは分かってる。
今はそれに縋る事しかリオリールは出来なかった。
手を動かしていれば何かが見つかるかもしれない。
分からなくても、希望が見つかるかも。
無意識のうちに足元に生える草花に手を伸ばしていた。
赤茶けた土を掘り返し、魔法の草を引き抜く。
根に付いた土を払いながら、リオリールはどこか上の空でぼんやりと緩慢な動きだった。
何を採ればいいの?
貝殻、赤砂、白砂……玉鋼石やコバルト草。
自然鉱物油に石のカケラや動物の骨。
ほとんど目についたものを手当たり次第にリュックの中におさめていく。
セイタカトーンを見つけて、手を伸ばした先。
その甲に、冷たい感触が落ちた。
「……雨?」
見上げると、いつの間にか空は分厚い灰色の雲に覆われていた。
ポツリ、ポツリと落ちてきた雨粒は、次第に雨脚を強くしてリオリールの身体を打つ。
「うぅ、冷たいよぉ……」
雨宿りできる場所を探そうと、慌てて立ち上がり、ぬかるみ始めた地面を駆け出す。
そうして走り出した先、大きな岩の手前を通り過ぎようとして足元が急に滑った。
靴底が空を切って、浮遊感。
「あうっ!」
庇う間もなく、リオリールは前につんのめり、泥水の中へと思い切り倒れ込んだ。
空から降る雨は、大きな雨粒と共に地面い形成しているリオリールの顔の真横の水たまりに落ちて、水しぶきが頬を打つ。
膝と手のひらに、小石が擦れる鈍い痛みが走った。
「うぅ……痛っ……」
不快な音と共に、顔の半分が冷たい泥にまみれたまま、リオリールの頬に雨とは違う滴が落ちていく。
震えた指先が、泥を掻く。
立ち上がらなければ。
甘えちゃだめだ。 何のために一人でここに残ることを決めたんだ。
自分で決めた事なんだから。
甘えるなんてダメなんだから。
そう自分を叱咤するのに、手足にまったく力が入らなかった。
何も上手くいかない。
一人じゃ何も思いつかない。
強がって残ったのに、結局はただの無力な子供だった。
ポロポロと、泥に塗れた頬を熱い涙が伝い落ちる。
声を殺してリオリールは泣いていた。
情けなくて、惨めで、そして何より、たった一人でいることがどうしようもなく心細かった。
一分、二分。
通り雨の雲が抜けて行って、雨音が消えていく最中だった。
ボロロン、ビョロロと音が鳴る。
いつかどこかで聞いた不協和音。
頭上の大きな岩石の上から、あの奇妙な弦楽器の音が聞こえてきた。
「謳う雨の音ヨ。 また曇り空を照らして~♬」
リオリールが泥だらけの顔をわずかに上げた時、聞き慣れない透き通った声が降って来た。
僅かに見える茶色い髪と、愉しそうに気ままに歌う横顔。
雨の冷たさすら忘れさせるような、真っ直ぐで、伸びやかな歌声がリオリールの脳天を貫くほどに響き渡る。
「で、ディーツハートさん……?」
「おうわっ! 誰やねん! って、リオちゃんやんか。 どしたん? アメンボの真似でもしとるん?」
信じられない声を聴いた。
今まで聞いた事も無い美しい歌声だ。
リオリールは泣いてることも忘れて、ポカンとした間抜けな顔でディーツハートを見上げていた。
「しっかしリオちゃんが居てはるとはな~~~、内緒やで? あまり人前で詩の練習するとこ見したないんや。 楽器の音が上手いこと出されへんしな」
照れたように快活に笑い、大きな岩から飛び降りてきたディーツハートが、ツィンケルタールを肩に担いで手を上げてきた。 いつものようにへらっとした笑みを浮かべて。
「いやぁ、高壁山脈にあるっちゅう問題を解決できたら認定証が貰えるかも思て挑んでんけどな。 丸一日かけて向かったのに、難しすぎやねん。 こらアカンわって、尻尾巻いて戻ってきたところや」
軽い調子で話しかけてくる声に、リオリールは咄嗟に泥だらけの顔を隠そうとした。
でも、すでに赤く腫れた目元も、ぐしゃぐしゃになった衣服も、彼には丸見えだった。
「なんや、泣いてるんか?」
そして、懐から取り出した小さなボールのような物体を、リオリールの足元の水たまりめがけて無造作に放り投げた。
「えっ、これなに――」
バチュン! と水を含んだ音と強烈な突風がリオリールの足元から吹き上がる。
空気を震わせる破裂音と共に、地面に溜まっていた泥水や雨粒が一気に天空へと向かっていき、リオリールは巻き上がる風に髪やスカートを抑えながらキャアと悲鳴を上げた。
周囲に生えていた背の高い草花や、近くの木々の枝葉が、下から吹き上げる不自然な風の圧力で激しく揺さぶられて、ザワザワと音を立てていた。
「な、何をするんですかー! ディーツハートさんっ!」
「だははは、大陸のエアボールや」
「そういうことじゃなーい!」
リオリールが抗議の声を上げる。
風の勢いが収まった頃には、いつの間にかリオリールのすぐ隣にディーツハートの腕が伸びていた。
そっと撫でられる目元。
驚くリオリールに、そのまま指だけを空に向ける。
ディーツハートが指先を向けた先。
彼が投げた風の道具によって巻き上げられた無数の水しぶきが、分厚い雲の切れ間から一瞬だけ射し込んだ微かな光を乱反射していた。
空中に漂う細かな水滴のスクリーンに、淡く、けれど確かな七色の虹が架かっている。
「リオちゃん、あかんで~。 不幸を目指しちゃ」
「ふ、ふこう?」
「そ。下ばっかり向いとったら、見えるもんも見えんようになる。 んでな、綺麗な虹を見逃すねん」
ニカっと笑ったディーツハートに、リオリールは困惑しながらも青空のスクリーンに照らし出された虹を見上げ続ける。
泥の冷たさも、すりむいた膝の痛みも、その美しい色彩の前に忘れていた。
「で、何があったん?」
頭の上で両手を組んで、伸びをしながら聞いてきた。
すっかり毒気を抜かれてしまったリオリールは、ディーツハートに泥だらけの地面に座り込んだまま、ぽつりぽつりと今の状況を話し始める。
海面上昇という恐ろしい問題のこと。 それが自分の大好きな錬金釜と錬金術によって引き起こされているかもしれないこと。
兄やトルテと意見が対立して、一人で残ると意気込んだものの、結局自分には何もできないと気づいてしまったこと。
「ふぅん?」
ボロロン、ボロロンとツィンケルタールをまた弾きながら、つまらなそうにディーツハートはリオリールの話を聞いてくれた。
「私……やっぱり、海面をどうにかする問題になんか、手を出すべきじゃ無かったのかな。身の丈を過ぎた、子供には無理な問題だったのかなって……」
膝を抱え、弱音をこぼすリオリール。
ディーツハートはその真剣な問いを、鼻で笑って一蹴した。
「ハッ、知らんわ」
「し、しらん? ひどいよぉ……」
「あのなぁリオちゃん。 そんなん、わいが知るかいな。 そもそも、その問題が身の丈に合っとるかどうかやなんて、自分の幸せに関係するかどうかや」
「えっと、不幸とか幸せとか……難しいかも」
「こんな簡単な事はあらへんで」
呆気にとられるリオリールをよそに、ディーツハートは再び岩に腰を下ろし、ツィンケルタールの弦を指先で弾いた。 ボロン、と不器用な音が鳴る。
「自分の幸せのために、がんばろ思ったんやろ。 ならええやん、それで」
「自分の……」
「ちゃうの? 幸せになる未来がある思てんから残ったんやろ」
「それは……」
「せや。 錬金術が好きで、変な錬金釜で悪用されとるの嫌やから、なんとかしたい。 それがリオちゃんの目指す『幸福』ちゃうの?」
そうだ。
錬金術で自分の家族と、ユウバナ村を幸せにしたい。
それがリオリールの錬金術を始めたきっかけで、それが初心の立志だった。
ハチヤドにきて、少しだけその枠組みが広がったけれど。
その根本はディーツハートの言う通りだった。
「我が儘言うたらええんや」
「え?」
「自分が幸せなるために手伝ってくれ言うて、お兄ちゃんや友達に頭下げればええ。 今は助けてもろて、後でなんぼでも恩返しすれば帳消しや。 一人で全部抱え込むから、泥水啜る羽目になんねんで」
まぁ~~、泥水が好きな変わり者も世の中には居るが。
などと嘯き、リオリールを指さしてディーツハートは笑った。
ストン、とリオリールの心の中に納得が生まれる。
胸の奥につっかえていた重たい石を、魔法のように取り除かれたようだった。
カスカルも、トルテも、突き放したわけじゃない。
リオリールの幸福のために、私を心配してくれていたのだ。
だったら、意地を張って一人で悩む必要なんてない。 頭を下げて、もう一度一緒に考えてほしいと頼めばいいだけの事だ。
「そうだよね……あはは、私ほんとに何やってたんだろう」
「泥水の中でじたばた泳いどった」
「もうっ! 茶化さないでよ、ディーツさん!」
「事実やん」
ぷくっと頬を膨らましてリオリールはそっぽを向いた。
だけど、口元は僅かに弧を描いている。
泥だらけの半纏振袖は重たくて不快だけれど、心はさっきまでの絶望が嘘のように軽くなっているのをリオリールは自覚した。
「それじゃ、私、戻ります!」
「またこけへんよう気ぃつけてな」
「ありがとう、ディーツさん! ベーっだ!」
ディーツハートに深々と頭を下げて礼を言いながら舌を出し、踵を返すと彼女は雨の降りしきるハチヤドの街へ向かって、勢いよく駆け出した。
足取りは不思議と迷いがなかった。
潮騒亭へと続く坂道を上り切り、見慣れた宿の入り口が見えてくる。
すっかり日暮れの空気がハチヤドを包み込む中、宿の前の木製ベンチに、見慣れた小さな人影が座っているのが見えた。
「……と、トルテちゃん? え、ど、どうして此処にいるの……?」
「リオ……」
名前を呼ばれリオリールは息を切らせながら、待ってくれていた大切なトルテと、真っ直ぐに向き合う。
トルテの目元は、今の自分と同じように、赤くぷっくりと腫れ上がっていた。
気になったが、まずは謝らないと。
「トルテちゃん、ごめんなさい!」
「リオ、ごめんなさい」
そして――同時に頭を下げた。
潮騒亭の暖簾の下。
リオリールとトルテが、顔を上げて二人とも呆気に取られた後に笑い合うのを、潮騒亭の店主が微笑ましく見守っていたのだった……