その日もいつものように竪琴を弾いていると、急に侍女たちが慌ただしく動き始めた。いつの間にかアンがやって来ていて、何か指示を出したようだ。
…何か指示って、一つしかないのだけど。
「レオナ様、お召し替えを。大魔王様がお呼びでいらっしゃいます」
「………そう」
ごくたまに、こうして呼び出されることがある。ここではあの男に跪くためだけに着飾らなければならないらしい。なんて馬鹿馬鹿しいのだろう。
上機嫌な侍女たちに支度を整えられた私は、アンに連れられ、謁見の間へ向かう。
…足取りが重い。
カーテン越しの宴の時とは違って、直接あの男と顔を合わせなければならないのだ。
「…大魔王様にご挨拶を申し上げます」
玉座の上で脚を組み、頬杖をついて私を見下ろしているこの男に跪くことに、もう何の感情もない。
「…面を上げよ」
面を上げろと言われれば上げるしかない。目の前の男の顔をなるべく視界に入れないように、視線を逸らし、うつむきがちに顔を上げる。
大魔王が合図をしたようで、従者によって何か台に乗せられたものが運ばれてきた。布がかけられているので、それが何かは分からない。
「歌姫として余に良く仕えているそなたに、褒美を取らせよう、と思ってな。受け取るがよい」
…嫌な予感しかしなかった。この男の表情を見なくても、愉快そうな声で私を玩具にして遊ぶつもりなのだと分かった。
「そなたのためにわざわざ加工できる者を探したのだ。骨が折れたぞ。オリハルコンを扱える名工などそうはいないのだからな」
…きっと、私に向かって何か説明をしていたのだろうと思う。でも、ほとんど耳に入らなかった。だって、それを目にした瞬間に、思考が止まってしまったのだから。
布が外され、中から姿を表したのは、私が宴で使っているものと同じくらいの大きさの、美しい竪琴だった。
青とも銀ともつかない冷たい輝きを放つ本体に、光を失った赤い宝玉があしらわれたそれが何を元にして作られたのかを一瞬で悟った私は、まるで、吸い寄せられるように、力無く、その竪琴に近づいて行き…、それを手にした瞬間、膝から崩れ落ちた。
「声も出せぬほど喜ぶとは、苦労した甲斐があったというものだ。さて姫よ、早速何か一曲弾いてみせよ」
…不快な声だ。
…本当に、一体何がそんなに面白いのか、全く理解ができなかった。
うずくまったまま動けないでいる私に、大魔王は言葉を続ける。
「…聞こえなかったか?何か弾け、と命じたのだが?」
………ふざけないで!!
「私のことはどうしようと構わない!でも、そのために彼を…、ダイ君のことを、土足で踏みにじるような真似をしないで!!」
私がそう言い放ったその瞬間だった。私の身体を、何か禍々しいものが包み込んだ。
…覚えがある。…これは…、暗黒闘気だ。
大魔王が何かしたのかと思ってそちらを振り向いたけれど、相変わらず頬杖をついて不快な笑みを浮かべているだけで、私に何かをした様子はない。
「そなたは、余に逆らうことはできぬ」
私を包み込んだ暗黒闘気は、そのまま私の身体に入り込んでその自由を奪い、私の意志に反して竪琴を奏で始めた。
…激痛だった。
まるで、全身が引きちぎれるような痛みに、私は一音一音、弦をはじくたびに悲鳴を上げ続け…、たった8小節だけの短い曲を一曲弾き終わる頃にはもう、意識を保つことすらできなくなっていた。
そして…、私はその場に倒れ込んだ。
「…余興としては、程々に楽しめたな」
遠のいていく意識の中で聞こえてきたのは、最後まで不快な男の声だった。
気がつくと、私は自室の寝台の上に寝かされていた。
どうやらアンが回復呪文をかけてくれているようだ。
本当にうっすらとだけれど、私を憐れんでいるように見えるのは気のせいだろうか…。
アンも私が目を覚ましたことに気づいたらしく、顔から憐れみが消え、淡々と話し始めた。
「あなたの負っているダメージは暗黒闘気によるものですから、回復呪文をかけたところで受け付けません。これは、倒れ込んだ時にできた外傷を治癒しているだけです。…あなたの身体に傷痕は残せませんから」
…どうりで、さっきから全然楽になった気がしない。
「ただの口約束だとでもお思いでしたか?あなたは瞳化解除の条件としてあの方のものとなることを了承したのですから、その時点で呪法は完成しています」
…どうやら、私は知らない間に呪法をかけられていたらしい。
「呪法の縛りに反すればどうなるか、身をもって分かったでしょう。…まあ、また苦しみたいのであればお好きになさっていただいて構いませんが…、その度にこうして対処させられる私の身にもなってくださいませ」
彼女に迷惑をかけてしまったことに関しては、なんとなく、謝らないといけないような気がしたけれど、今の私には声を出すことすらできなかった。
…本当に、私はもう私自身のものじゃないんだ…。
…こうして、あの男が飽きるまで、玩具にされ続けるのだろうか…。
…こんな状態になってまで、生き続けることに何の意味があるの…。
全身の痛みもあって、負の感情ばかりが頭の中を巡り続ける。
私の様子を見たアンは、回復呪文をかけるのをやめ、別の呪文をかけ始めた。
…
「…考えても仕方のないことをいくら考えても無駄です。次に目覚めた時には動くことができるようにしておきますから、今日はもうお休みなさい」
そう言うアンの表情は、やはり私を憐れんでいるように見えた。
それを最後に、また私の意識は途絶えた。
「ここは…天国?」
気がつくと、私は花畑が無限に広がる空間に立っていた。…ここが天国であるはずがないことは分かっている。私は死ねないのだから。
ここが天国だったらどんなに良かっただろう。だって、天国にはみんなが…、愛するあの人がいるのだから…。
そんなことを考えながらあてもなく歩いていると、遠くに人影が見えた。
見覚えのある後ろ姿が。
…まさか、ね。
…いいえ!私が彼を見間違えるはずがない!!
私は彼に駆け寄り、両手で彼の右手をつかんだ。
やっぱり…、やっぱりキミだ!!
会いたかった…。
やっとキミに会えた…。
会えて嬉しいはずなのに、振り返った彼を見て最初に口から出たのは、謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい…。最後まで一緒に戦うって約束したのに…。私一人だけ…、何も…、何もできなかった…」
彼はうつむく私の頭へ左手を伸ばし、そっと撫でると、笑って首を横に振った。
そして、その手でゆっくりと、私の両手を解き――、彼の名を冠した剣を、私に手渡した。
「これを…私に…?どうして…?」
彼は微笑んだまま何も言わなかった。
それが夢だったと気づいた時には、私は意識を失う前と同じ自室の寝台の上で、侍女に介抱されていた。
「まあレオナ様!お目覚めになられて良かった!3日も眠っていらしたのですよ。お加減はいかがですか?今アン様を呼んで参りますね」
私から離れてアンを呼びに行こうとする侍女の手を、とっさに掴んで引き止める。
「竪琴を…、あの竪琴は…?」
「ああ、あのオリハルコンの竪琴ですね。本当に素晴らしいお品で…。あれほどのものを下賜されるなんて、本当にご寵愛のほどが――」
「お願い、今すぐここへ持って来て!お願いだから早く…!」
目覚めたと思ったら急に騒ぎ始めた私に戸惑いながらも、侍女は竪琴を持ってきてくれた。
…どれくらいの時間、その竪琴を抱きしめるように抱えていたのか分からない。
長い静寂の後、私は恐る恐る、調弦を始めた。
不思議な感覚だった。
揃っていく音の一つ一つが、まるで…、元の持ち主みたいに、純粋で澄み切った、美しい音だったから――。
こうしていると、なんだか、彼と会話をしてるみたいだった。
…綺麗な音――。
そのまま彼を想って奏でた音色は、きらきらと煌めいていて…、これまでに奏でたどんな音色よりも美しかった。
…気づけば、大粒の涙が流れていた。
私に…、今の私に、こんな音が出せたんだ――。
私はあの日…、あまりに多くのものを一度に失ってしまったから…、自分の心まで失ってしまったような気がしていた。
…でも、それは間違いだった。
だって…、ここにあるじゃない!!
あらゆるものを失ってしまったけれど…、何もかもを失ってしまったとしても、これだけは、決して、手放してはいけなかった!!
キミが…、取り戻させてくれた!!
『敗北とは傷つき倒れることではありません。そうした時に自分を見失った時のことをいうのです』
かつてそう教わったじゃない。
まるでほんの少し前までの私の状況そのものだ。
でも…、どれだけ傷ついても、倒れても、私が自分を見失わない限り….、キミが取り戻させてくれたこの心がある限り、真の意味で、敗北することはない!!
『心を強く持ちなさい。あせらずにもう一度じっくりと自分の使命と力量を考えなおしてみなさい。自分にできることはいくつもない。一人一人がもてる最善の力を尽くす時、たとえ状況が絶望の淵でも、必ずや勝利への光明が見えるでしょう』
考えるのよ。自分の使命を。力量を。
今の私に尽くせる最善を。
どんなことでもいい。私にできることは本当にもう何もないの?
魔界というこの場所で、私一人だけが生き残ったこの状況で、戦う力も術も持たず、呪法で縛られた私にできることは?
……歌うこと……?
そうよ。
歌うことしかできないのならば、歌えばいい。
私にしか歌えない歌を。
“自分たち人間が長きに渡って太陽を独占してきた愚行を心から悔い、贖罪のために歌う歌姫”ですって?
…馬鹿にしないで!!
この歌を何のために歌うのかを決めるのは、他の誰でもない、この私自身なのだから――。
◆
宴がある日の歌姫の準備は大掛かりだ。
今日も控室では、開宴の何時間も前から、侍女たちが歌姫である私の支度を整えている。
「わたくし、レオナ様がこの竪琴を披露される今日を、指折り数えて楽しみにしていたのですよ」
「オリハルコンの竪琴なんてこの世界に二つとありませんもの。ご寵愛が魔界中に知れ渡りますわ」
慣れた手つきで手際よく作業をしながら、侍女たちは華やいだ声を響かせる。
…何とでも言えばいい。
これは愛する人から私に託された剣だ。
「支度は終わったかしら?」
「アン様!こちらでいかがでしょうか?」
支度が終わる頃合いを見計らって控室に入ってきたアンは、私の姿を見て、一瞬、とても驚いたような表情を見せた。
「…どうかしたの?」
「…いいえ。……とても美しいと、思っただけです」
そう言うと、アンはいつもの長々とした意味のない説明をすることなく、私が集中できるようにと侍女たちを部屋から下がらせた。
彼女が何故そんなことをしたのかはわからないけれど、厚意はありがたく受け取っておくことにする。
一音一音と丁寧に向かい終えた私に、彼女はいつもと同じ言葉を、いつもとは違う声色で私に告げた。
「お時間です。参りましょう」
宴での私の席は今日も同じ。
会場の一番奥で主催者の席を隔てるカーテンの、すぐ斜め前。
その自分の席を、顔を上げ、真っ直ぐ見据えて歩く。
その歩みに合わせて、靡くドレスの袖や裾が美しい曲線を描く。
案の定、私が抱えている竪琴がオリハルコンでできていることに気づいた会場中がざわめいているけれど、視線も雑音も、もう何も気にならない。
だってここは戦場なのだから。
席に着いた私は、目を瞑って深呼吸する。
ねえダイ君…、一緒に、最後まで戦ってくれる?
一度ぎゅっと抱きしめた竪琴を構え、いつもと同じ音色を奏で始める。
いつもと同じ歌を歌うために。
そう、いつもと同じ歌を。
私は歌うと決めたのだ。
私が歌わなければ、この世界から消えてしまうものを。
そこに、かつて地上が存在していたことを。
そこに、人間という種族の営みがあったことを。
侵略に対して懸命に抗い、戦い抜いた者たちがいたことを。
私たちが受け継いできたものが決して間違ってはいなかったのだと、私は今でも、信じているということを。
この命が尽きるまで。
感謝するわ、大魔王さん。
こんなに素晴らしい舞台を用意してくれて。
お望み通り、終生言いふらしてやるから。
このあたしは、もう、地上の指導者の一人でも、正義の使徒でもない、
ただの――、世界最強の女の子なのだから。