たぶん、他人に頼らないたったひとりきりでは、
どれだけ強かろうが手に入れることはできなかった。
歳を重ねれば重ねるほどに、時が早く進むように感じるのだという。
一年は飛び去るようで、十年もあっという間で、そうしているうちに終わりが来る。
旅の終わり。
昨日と同じ今日は、どれだけ楽しくても、永遠には続かない。
- / - -
約十年ぶりに顔を合わせたイグアスは、記憶よりずいぶんと低い位置から睨みをきかせてきた。
顎を撫でて首を傾げる。
自分と同年代だから、確か、この男も八十歳を過ぎた辺りだったはずだ。
「車椅子デビューか。そろそろそんな歳だったな」
「ただの骨折だ、骨折! ……そっちこそ杖なんざつきやがって。格好つけか」
「よくわかったな。男前が増すだろう」
「
「イグアスったら、念には念をって言うじゃありませんか。久しぶりの長旅ですよ。長く立ったままになることもあるかもしれないし……それとも、やっぱりお留守番しますか?」
エアが呆れたように応じた。イグアスは顔をしかめると、無言でふいと横を向く。
からかい混じりに、その心情を代弁してやった。
「久しぶりの妻の帰郷なんだ。ついてこなくていいと言うのは薄情だぞ、エア」
「んな――」
「まあ。貴方がそんなことを言うようになるなんて、年月というものは偉大ですね」
エアが、“口元に手を当てて”笑った。
一見では普通の老婦人にしか見えないが、長期間稼働している金属製の
イグアスは「若いままでいいだろうが」と不満げだったようだが、それがエアの望みだったのだろう。
まるで、人間のように振る舞うことが。
新しく生まれたCパルス変異波形にはそういった欲求がないようなので、おそらくは、彼女特有のものだ。
今回の帰郷は、その
彼らがそうした理由はそれなりのニュースになっている。ちょうど自分もルビコンに行こうと思っていたタイミングだったので、「ついでだから同乗していくか?」と、こちらから二人に話を持ち掛けたのだ。
とはいえ車椅子とは聞いていなかった。自前の恒星間航行機は単人で操舵できる小型サイズで、バリアフリーとは程遠い。
まあ、歩けはするようだし、いざとなれば一番馬力のあるエアがいるのだ。なんとかなるだろう。
そのまま旧交を温めていたところへ、レッドガンの現総長たる男がやってきた。
イグアスよりも頻度高くやり取りしてきた遊び相手だ。機嫌よく声をかけた。
「久しぶりだな。デスクワーク三昧のようだが、腕は鈍っていないか? 時間があれば一戦やりたいところだ」
「お帰りの際でしたら付き合いますよ。父母をよろしくお願いします」
イグアスが盛大に舌打ちした。
いつものことなので誰も気にしない。エアがくすくすと笑った。
「そろそろ行きましょうか。車椅子は私が運びますね」
「母さん、俺が何のために見送りに来たと思っているんです。運びますよ」
「まあ。貴方は本当にいい子ですね、ケイン」
にこにこ笑ったエアが、背伸びをして息子の頭を撫でる。
息子の方は、なんとも言えない顔になった。そういう顔は驚くほどイグアスに似ている。隣でイグアスも同じような顔をしていたので、尚更だ。
「……母さん。貴方の息子は、もう孫がいる年齢なんですが……」
「あら、怒られてしまいました。……ふふっ、いくつになっても子どもたちは可愛いものですよ。ごめんなさいね」
「いつまでやってる。さっさと行くぞ」
「はいはい。もう、せっかちなんだから」
彼らの「家族」としての姿を見るたび、不思議な気分になる。
不自然だからではなく、それが自然だからだ。環境が人を育てるとはこういうことなのだろう。親というものは、子どもを育てるうちに親になっていくものなのかもしれない。
親子として、祖父母として。年月を重ねるごとにぎこちなさは薄れ、なじむように変化して、よくある平凡なそれに近づいていった。
近づけようとしたわけではなく、紆余曲折の果てにそうなっていったのだろう。
そこには外野からはわからない苦悩があったのかもしれないし、案外、たいして悩むことなく辿り着いたものなのかもしれない。
たびたびエアから相談を受けていたレイヴンなら知っていただろうが、いつも「内緒」だと笑うばかりで、ほとんど教えてくれなかった。
だから結局、いまでもよくわからないままだ。
――レイヴンも、エアに何かを相談していたことがあったのだろうか。
旅路の間に一度訊ねてみたが、イグアスにスパルタ式リハビリを課していたエアは目を瞬いて、それから「内緒です」と笑った。
レイヴンによく似た笑い方だった。
- / - -
ISB2262 惑星ルビコン3という「天体」は、3500年ぶりの大きな変革期を迎えていた。
地球と同様、ルビコンは強い固有磁場を持っている。その磁気圏から生じる放射線帯によって、恒星風中の荷電粒子と星圏外からの強い宇宙線を防ぎ、電離層の性質を維持しているのだ。
その極性は、およそ数万年から数百万年ごとに反転してきた。
これがどういうことなのかというと、天体を一つの巨大な磁石としてみたとき、N極とS極――つまり磁気的な「北」と「南」が、何度もひっくり返ってきたということだ。
そのポールシフト(反転)よりも頻度が高く、数千年ごとに発生しているのが、移動した磁極が反転までいかず元に戻る現象だ。こちらはエクスカーション(遠足)と呼ばれている。
いずれも本来ならば千年単位、早い例でも数十年をかけて推移する変化のはずなのだが、何の弾みか、今回のルビコンでは二年で約55度のエクスカーションが発生すると予測されていた。
人類はその文明において、まだ星の磁極の大きな移動を観測できていない。
地球でも前々世紀からそろそろだと言われ続けているが、人類がこれだけ広範な宇宙のあちこちに居住するようになった今でさえ、いずれの開拓星域においても発生せず現在に至っている。
宇宙開拓時代に入っておよそ180年。まだ200年にもなっていない。天文学や地質学における時間スケールの「そろそろ」「もうすぐ」が人間の時間感覚でいかにざっくりしているか、そんなことを改めて思わせられる話だ。
ともあれ、まだ発生していないとはいえ、それによって引き起こされる現象はおおよそ予測されている。
惑星そのものが物理的にひっくり返るわけでもない。影響は主に磁場強度の極端な減少と、それに伴う宇宙線の増加によるもので、内容としては電子機器の障害や破損、超高層大気組成の変性、皮膚ガンの増加、その他磁気不足症候群による人体への小被害といったところだ。
そして、ルビコンにおいては、コーラルがそれらを最小限に留めるべく奮闘していた。
現在のコーラルはルビコンの地磁気上に存在する知的生命体だが、より正確に言えば、外部磁場から生じる誘導磁場に存在することがわかっている。
惑星のコア起源の磁場には直接的な影響力を持たないため、磁極の移動そのものを止めることはできない。それでも、惑星周囲を覆う磁気シールドをある程度まで維持することは可能なのだという。
空前絶後の大事業だ。
五十年前は想像もしていなかった。「人類とコーラルが力を合わせてルビコンを守る」などという、映画のような事態になろうとは。
エアを始めとする4人の変異波形たちはいずれも協力的で、人類もまたそれに応えた。
ダイナモ作用による天体の発電と磁場生成は非常に複雑なものだ。その上に磁気シールドを作ると言っても簡単な話ではない。
だがしかし、各種専門家の好奇心や探究心はそのハードルを軽々と超えた。呼んでもいないうちから距離の長短を問わずよってたかって
おかげで現在のルビコンは、妙な好景気となっているという話だ。
五十年も経てば恒星間航行技術も変化する。主に、所要時間の短縮という方向で。
二週間程度の道中はごく平穏なものだったが、ルビコン星系に入って間もなく、
Xクラスの恒星フレアだ。
宇宙空間の航行に問題はないものの、着陸には誘導管制が問題になる。発生からルビコン3到達までは二、三日ほどかかるとのことだったので、現地に連絡を入れた上で滑り込むことになった。
「最後にひやひやしましたね……! お疲れさまでした、フロイト」
「ああ。俺は機体のチェックをしておく。待たなくていいぞ。こちらは政府に用はない」
「あら……なるほど、そういう魂胆でしたか。貴方らしいというのか、なんというのか……」
エアがくすりと苦笑をこぼす。
それから、少し言い淀むような様子を見せたものの――結局は、言わないことにしたらしい。
せかすイグアスをいなしながら、どこか物寂しげな笑みを浮かべた。
「……では、また。できれば、近いうちにお会いしましょうね」
「ああ」
エアとイグアスの二人は、降り立った宇宙港で大層な歓迎ぶりに見舞われていた。
なにしろ有名人だ。人類が初めて接触した「宇宙人」と、その配偶者たる地球人類。フィクションの題材に使われ尽くした組み合わせは常に注目の的で、惑星封鎖機構とレッドガンとの長きに渡る協力体制もあり、大衆からは好意的に見られることが多かった。
それにしてもとんでもない人だかりだ。政府高官やメディア関係者にとどまらず、ロビーが溢れるような見物客で賑わっている。
コーラルに肯定的な人物を選別してはいるのだろうが、「おかえりなさい」「ようこそ」など、ずいぶんと熱量の高い歓声が渦巻いていた。
まさしくヒーロー扱いだ。自分だったら遠慮したい。
とはいえ、エアは人間に感謝されるのが好きだし、イグアスもちやほやされるのが嫌ではないタイプだ。適材適所、存分に目を引きつけてもらいたい。
先に降ろしたエアとイグアスが囲まれるのを尻目に、輸送機を駐機場へ回した。
今日の自分はただの運転手だ。出張らなければ目立つこともない。
地上電源に接続した機体のチェックと諸々の入星手続きをのんびり終え、騒ぎを遠目に悠々と人混みを回避する。
足取り軽くだだっ広い宇宙港を歩いていると、背後から、面白がるような声をかけられた。
〈うまく逃げたな。フロイト〉
「チャティ、迎えに来てくれたのか。元気だったか?」
〈ああ。こちらは変わりない〉
「そうか」
持ち上げられたアームと軽く拳を合わせ、そのまま連れ立って歩き始めた。
ACと同じ履帯がキュルキュルと音を立てる。昔よりもその音はささやかだ。見た目はあまり変わりないが、実際のところ、かなり工夫をして「変わりない」ままにしているのだと知っている。
成長と変化を重ねてきたチャティ・スティックという男は、背中のアタッチメントをパカパカさせながら言った。
〈長旅で疲れてはいないか、親友。イグアスは車椅子だったようだが、お前も助力が必要だったら言ってくれ。俺の得意技能を披露する〉
親のために自らを介護ロボとして改良していったやつの発言だ。実に頼もしい。
軽く笑って背を叩いた。
「今のところ大丈夫だ。気持ちだけ貰っておく」
〈そうか。少々残念だが、お前の健康は幸いなことだ〉
実際色々と不具合は多くなってきているものの、そもそも歳が歳だ。健康のうちだろう。
最近になって血圧調整の薬が追加されたことは、とりあえず黙っておくことにした。
〈ところで、あちらの迎えにはアーシルの孫がいたようだ。どこかでお前が来ると聞いてやって来たのだろう〉
「何? しまったな。……まあいいか、あとで顔を見せに行く」
縁があって名付け親になった末っ子の末っ子だ。物心もつかない頃からあれこれ構っていた成果か、よちよち歩きの頃には立派なACマニアになり、長じて頻度高くメールのやりとりをしてきた。もちろん内容はACのことばかりだ。
残念ながらパイロット適性はなかったものの、最後に会ったときには祖父そっくりの好青年に育っていた。
とはいえ、あの人混みに向かっていく気はかけらも起きなかったが。
自分たちの間に、子はなかった。いつだか聞かされたホーキンスの教えどおり、ちゃんと相談をして、子どもを持たないことは二人で決めた。
血なまぐさい傭兵稼業はレイヴンにとって子どもを産み育てる環境ではなく、それならそれで構わないと、自分もACに乗り続ける人生を選んだ。
周囲には(特にウォルターには)ずいぶんと呆れられたものだが、選んだ道が間違いだったとは思わない。
ずっとACを中心に置き続けた人生だ。初志貫徹、本望とすら言っていい。
――ただ、渋る彼らが言っていたことが、少しばかりわかるようになった。
歳を取ったものだ。
駐車場ではチャティが車を回してくれていたので、大人しく助手席に収まった。
他人の運転する車に乗るのは久しぶりだ。
チャティがぽっかりあいた運転席スペースに躯体をロックし、自身を車の制御システムに繋ぐ。通電したスピーカーからカントリー系の曲が流れ始めた。
彼が好むラジオ番組だ。聞き慣れない歌が終わると、パーソナリティの他愛ない話がそこから始まる。
〈とりあえずの行き先は、いつもと同じでいいのか〉
「ああ。いつも通りだ」
〈了解した。……変わりないようで何よりだ、フロイト〉
空港に続く長い道は一面のライ麦畑で、青々とした景色が続いていた。
ようやく食糧自給率が安定してきたところだ。もしコーラルが磁場の維持を手助けできなかったとしたら、ルビコンで作付けされている殆どの品目は深刻な不作になるだろうが、ライ麦だけはある程度の収穫量を維持できる見込みだと聞いている。ミールワーム一色の時代に戻ることにはならなさそうだ。
そんな話をしていると、示し合わせたかのようなタイミングで、ラジオがミールワームの話題になった。
祖父の誕生日を祝った席でミールワーム料理が出され、祖父に大激怒されたのだという「愚痴」だ。
話がわからず首を傾げていると、チャティが解説してくれた。
〈ミールワームは、今のルビコンでちょっとしたブームになっている。餌も、飼育方法も、昔とは全く違うものらしい〉
「へえ」
赤貧の時代の食糧という印象が染みつき、多少豊かになったルビコンでは敬遠されていたはずだ。
それだけ、苦しい時代の記憶が遠くなったということだろう。
メッセージを読み終えたパーソナリティが、明るく苦笑した。
《これねー、わかる。まじでわかる。だって、ウチも同じことやったからね!》
《美味しいんだって説得してグランマ連れてったんだけどね。もうどんどん機嫌は悪くなるし、帰る頃には口もきかなくなってるし。もうね、味じゃないの。多分。嫌なものは嫌って感じ》
《そのときは何だよーって思ったんだけど、あとで反省したんだぁ》
《あのさ、嫌いなもの、無理に食べなくたっていいじゃんねって。食べたいもの選べるのって幸せなんだよなあ、昔はそうじゃなかったんだなあって》
《でも、リナさんの気持ちもすっごくわかるよー。ほんと美味しいもんねミールワーム》
《美味しいものって、食べたら幸せで》
《だからさ、好きな人にも食べさせたくなっちゃうんだよねえ》
――それはわかるな、とひとりごちた。
チャティがちらりとこちらを見た。
- / - -
たどり着いたRaDの工房では、ピカピカに磨き上げられた「ロックスミス」が、十全の状態で待っていた。
フレームは当時のRaD製、武装は指定通り、懐かしの
一通りシミュレータで動かしてから起動する。
気持ちの良いほどスムーズな起動だった。チューンナップされたOSだけではない。各機関や部位にエラーはひとつもなく、ジェネレーターの回転数は早くも遅くもなく滑らかに上昇し、上昇したあとは安定的に数値を維持している。
「すごいな。骨董品とは思えないできだ」
〈代表が寝食を惜しんで頑張っていた。褒めてやってくれ〉
視線を動かすと、ツナギ姿の男がオイル汚れもそのままに、サムズアップを返してきた。
RaDの設計思想に惚れ込んで転職してきた元メリニットだ。飲み込みが良く手間を惜しまず、素直で理解が早いと可愛がられるベースがあっただけあり、RaDの技術者集団に片っ端から「ギリギリで破綻させない調整のコツ」だの「限界まで突出させた性能の吊り方」だのを吹き込まれてすくすく育っていった。そんな調子でついには(愛想の良い男に不信感のある)カーラの信用まで勝ち得たのだから、尋常ではない。
他に適任者がいなかったこともあり、現在は、
代が変わっても
《どうかなあ? フロイトさん。動かすに支障のないレベルにはできてると思うけど》
「いい感触だ。さすがの腕だな」
《うんうんやっぱり初代TOOL ARMはいいよねぇ! 設計に無駄がなくて性能は十分、修理性も高い! RaDのフレームは武器に比べて地味だとか言われるけど、それはそれで良さがあるんだ。特にこのエネルギーチューブの仕様が――》
勘違いをそのまま、目を輝かせてまくしたてる代表に手を振った。
いつもなら喜んで談義に付き合うところなのだが、今は早く動かしたくてうずうずしている。
「それで、ちょうどよさそうな仕事はあるか?」
《ああ。えーっと、それはチャティから話してもらおうかな》
妙に歯切れが悪い。
不思議に思いながら促すと、ロックスミスに間借りしたチャティが、昔を思わせる無感動さで続けた。
〈20時間ほど前から、RaDの精錬所が武装集団に占拠されている。排除を依頼したい〉
「……現在進行形か。やけにのんびりしているな。資材を奪って引き上げそうなものだが、ずっと居座っているのか?」
〈ああ。磁極遷移など政府のでっち上げだと主張して、星外勢力の排除を要求している〉
思わず眉をひそめた。
ツッコミどころが多すぎて、どれから言えばいいか困るほどだ。占拠テロで政府を動かそうというにはターゲットがおかしいし、星外勢力といっても今ルビコンにいるのは科学者連中の護衛と監査役の惑星封鎖機構くらいで、追い出す意味がない。
それどころか、そもそも前提が間違っている。
「……とりあえず、あれだ。……コーラルのせいだと言い出すやつがいるのは予想していたが、全部嘘だときたか。さすがに予想外だった」
〈磁力という、目に見えないものが相手だ。そういう人間もいる〉
「ものすごい無理筋だな。なんでRaDを狙ってその主張なんだ?」
〈ただの口実だからだ。武装集団と言ってもドーザーに近い。テロリストとも呼べない半端な連中だ〉
チャティの評は辛辣だった。
おかしな話だ。そんな連中を相手に、RaDがあっさり占拠を許したということになる。情報収集能力からも単純な武力からも、未然に防いでいそうな事件なのだが。
「……なあ、チャティ」
〈違うぞ。わざわざ仕事を作るようなことはしていない。一応は偶然だ〉
「偶然なあ。まあいいか、そういうことにしておこう」
わざとではなくても、タイミングを合わせたという辺りか。
どうせ自治政府がらみだ。つついて面白いことはない。
スケープゴートに選ばれた武装集団にはご愁傷さまだが、本気でその手の思想を持った組織に政庁だの学校だの空港だのを占拠されるより対処が楽だというのも事実だ。こんな見え透いた罠に引っかかるほうが悪い。
ともあれ、これ以上の放置は色々と面倒なことになる。
RaD側にもその認識はあったようで、そこから先は急ピッチで準備が進められた。
敵勢力はACが2機、MTが18機。なんと人質はひとりもいない。施設内の詳細な見取り図さえ用意されている。至れり尽くせりだ。
そろそろ出るかというタイミングで、チャティが追加情報を持ってきた。
〈フロイト、フレアによる恒星風が予測よりも高速だ。今日の夜19時ごろにはルビコンに到達して、磁気嵐が発生する。その時間帯の戦闘は避けるのが無難だ。レーダーに影響が出るかもしれない〉
「コーラルがどうにかするんじゃないか?」
〈それでも磁場強度は通常時の七割ほどだ。影響が出やすい。政府からも、指定時間は電子機器の使用を控えるよう呼びかけられている。先月はメトロが故障した〉
地下鉄が故障したというのは初耳だった。思ったより影響が大きい。
ならば日が沈むまでに片付けようと、現場に急行した。
ルビコンの地表は地球とよく似ていた。天候もよく、視界は広い。
寒冷化からの気候変動でそれなりの災害にも見舞われたというが、人々は今もたくましくこの星で生きている。眼下に広がる光景がそれを語りかけてきた。
広大な畑と整備された道路。点在する小さな集落は、もう豪雪向けの耐圧コンテナではなく、地元を思わせる家々だ。
そんな観光気分の道中で、道路封鎖の様相を見かけた。
「……そろそろ動きそうだな。治安部隊がしびれを切らしたか?」
〈ああ。少々、面倒なことになっているようだ〉
そのまま頭上を飛び越えて封鎖を突破すると、予想通り、突入準備を進めているとおぼしきAC部隊がいた。
こちらを補足するも、警告はない。
チャティが通信を入れる。
〈RaDのチャティ・スティックだ。状況を確認したい。指揮官と話せるか〉
少し置いて、ドスのきいた声が返ってきた。
集団から体格のいい男が歩み出る。
《……治安部隊第2特殊急襲グループ、ゴッセンだ。今さらお出ましか、ブリキ人形》
〈
《丸一日放置して何をぬかす》
〈世間を騒がせているのは申し訳なく思うが、政府とは協定を結んでいる〉
《何だと? ……ちっ、相変わらず勝手な連中だ……》
接近を制止されなかったので、集団の近くにACを降ろした。
見たところ、治安部隊のACは大半が無人機のようだ。それを制御する人間と技官、あとは対人制圧用の重装歩兵といった組み合わせで、ここ二十年ほどすっかり見慣れた構成だった。
指揮官らしき男がこちらにゴーグル型デバイスのカメラ照準を合わせ、何かに気づいたように、ますます苦々しい様子になった。
《AC「ロックスミス」……例の
「久しぶりに聞く呼び名だ。部下の縁者か?」
《くだらん話だ。去った影をいつまでも追い続けた馬鹿がいた。……まあいい、おい、RaDの。上と話がついているというのは事実だろうな?》
〈ああ。必要であれば確認を取ってもらって構わない〉
《いいだろう。引き下がるに当たって、二つ条件を飲んでもらう。一つ、猶予は40分だ。そしてもう一つ、記録係にこいつを連れて行ってもらう》
「記録係?」
指揮官が親指で示したのは、一機のACだった。
流線型の二脚機。BAWS製の半自律モデルAC、「トゥテラリィ」だ。
《お前らの自作自演でない証明が必要だ。――おい》
《了解。RシリーズのモードをサポートCに切り替えます》
応じる声に伴い、傍らに立つトゥテラリィのカメラアイが光の色を変えた。
少しばかりずんぐりとした丸っこい形状は、治安部隊のマスコットとも呼ばれる
そういえば大昔、「かわいい」の定義をレイヴンと話したことがあった。
角張っていなくて、小さくて、細長くないもの――あとは頭身だったか。頭部パーツが大きいこともあって、結構当てはまる気がする。
てきぱきと進められる準備を眺め、肩をすくめて言った。
「壊しても文句は言うなよ」
《事故ならな。重過失があれば請求書を送りつけるぞ、覚悟しておけ》
とても公僕とは思えない口振りだ。
誰の血縁だろうなと、名前を思い出せない顔ぶれを脳裏に並べながら、精錬所の上空へとブーストを噴かせた。
それらの代表格たるチャティが淡々と続けた。
〈見取り図を表示する。青マークがうちの高額機材だ。できるだけ壊さないでくれ〉
「もう一度確認するが、できるだけでいいのか?」
〈ああ。一応は補償される〉
ならばこれほど楽な話はない。天井を破壊して土煙とともに突入し、相手が反応する前に制圧を試みた。
まずはACだ。定まらない砲口を読み切って避けた。
拡散バズーカを頭上から撃ち下ろし、距離を詰めてコア装甲を切り払う。
うろたえた声が回線に交じり、混乱の中で射撃戦が始まった。半壊したACを盾に、立て続けにMTを破壊していく。
背後を守るように動いていたトゥテラリィが、防衛対象を守って敵機を撃ち抜いた。
炎が上がる。その影を揺らすように再び敵機へと向かう。
いつかの、オルトゥスを彷彿とさせる動きだった。
「……意外と、面影があるものだな」
こぼれ落ちた声を、チャティが拾った。
〈どうした?〉
「いや。懐かしいことを思い出した。一ヶ月耐久データ取りだ、タワーディフェンスの攻める方」
〈……ああ。ボスがBAWSと組んだ、
雑談の合間にその場の敵性機体が片付いた。
検索するような間をおいて、チャティが意外そうに続けた。
〈相当キツかったとぼやいていただろう。懐かしく思えるようになったのか〉
「あれはあれで面白かった。二回目はごめんだというのは変わらないが」
拠点防衛特化の無人多脚機という触れ込みのプロジェクトだった。トゥテラリィとは違い、純粋な自律AIタイプだ。
ACが到達するまでの20分を持ち堪えることを目指して、シミュレータ上でひたすら試行を重ねてブラッシュアップしていくという、当時でさえ一昔前の開発手法だった。そこに使うのがエースパイロットなのだから、かなりの贅沢な計画だ。
本領を発揮したソフト側開発の
問題は、スケジュールを詰め込みすぎだったことくらいだ。もはや何かの苦行だった。
短い休憩中にブロック食を齧りながら、ラスティとああでもないこうでもないと言い合って作戦を立てた。
当時は仕事を引き受けたことを後悔していたものだが、今や楽しい思い出だ。
戦闘音を聞きつけた敵がこちらへ近づいてくる。
それをレーダーで確かめながら、独り言のようにぼやいた。
「あいつはトゥテラリィの開発にも駆り出されていたからな。似ているのも自然か」
〈……AIが、面影を宿すことは可能だと思うか〉
「ああ。いま実感した」
ただ、そこにあるのは、あくまで“面影”だった。
あの男ならもっと前にしゃしゃり出てきたし、もっと鮮やかに戦場を蹂躙していた。サポートするなどとうそぶいても自己主張の消せなかったやつだ。そういえばあの時も、「合わせなくていいからお前の好きにやれ」と発破をかけて、そこから格段に攻略成績が上がったのだった。
懐かしさに口元が笑う。
ただ、後悔はせずにすんだ。
無人機はやはり無人機だ。平均的なパイロットを上回るという評価を得るようになってもなお、真似事でしかない。
「ラスティに感謝だな。あいつなら、別に物真似を見せられても腹が立たない。うまいこと実感できた」
〈意地の悪いことを言う。お前は昔から、彼に対してやたら当たりがきつい〉
「そうでもないだろ」
〈……まあ、お前たちの会話はとても興味深かった。こういう“仲の良さ”もあるのかと〉
「やめてくれ気色悪い」
反射で否定した。
本音を言えば友人の一人だったのだと思っている。ただ、どうにも素直にそれを認めるのは難しい。
なにしろ老境になってさえ、厄介な女に惚れられてものすごく揉めるなどという、微妙に腹の立つ苦労をしばしばしていた男だったので。
――まったくもう、と笑うレイヴンの姿を幻視して、ふいに、息が詰まる。
バイタルに出ていたはずだが、チャティは何も言わなかった。
機体を旋回させる。かかるGが自分の輪郭を思い出させた。
ぶれる視界の先で捉えた増援へ引き金を引いた。反動による手応えと集音マイクを通した不明瞭な音。破壊されて舞う金属片と火花、熱による陽炎が視界を彩る。
魂を昂らせる。
光景が、音が、温度が、重力が。
突っ込んできたACの刺突を最小限の動きで躱し、視界の外からレーザードローンの射撃を浴びせた。
悪罵が回線越しに聞こえた。
至近距離の敵機を蹴り飛ばす。衝撃によろめいた機体は、だが吠えるような声とブースト音に応じて、体勢を崩したままミサイルを放った。
MTを連れての屋内では悪手だ。だが、ただやられるのを待つよりよほどいい。
楽しくなって口角が上がった。腕はさほどでもないだろう。だが、
これは徹底的に相手をしなければと、巡り合わせに感謝した。
- / - -
予定通り、日没を待たずに作戦目標を達成することがかなった。
さすがにこの歳になると疲労困憊だ。たいして時間はかけなかったはずだが、身体のあちこちが不調を訴えている。
RaDの拠点に戻るなり、駆け付けた代表が興奮気味に通信を入れてきた。
《お見事! いやあ、全然衰えてないねえ。さすが最強と呼ばれる傭兵だ!》
「その肩書はだいぶ昔に返上してる。それに、やっぱり歳だな、無理をしすぎた。……悪いが、誰か降ろしてくれ」
足腰が悲鳴を上げてガクガクだ。立つこともままならない。
数人がかりでコクピットから引き出されたところで、ふと、声を上げた。
「ああ、すまん。ちょっと待ってくれ」
重い手をのばしてフレームに触れる。
硝煙にざらついた冷たい金属の塊。それをいとおしむように撫でて、目を細めた。
「楽しかったな、ロックスミス。……ありがとう」
別れの言葉だった。身辺整理はずっと続けていた。
おそらく、これが最後になる。
このあとはRaDに譲ることになっている。ここまで長期間預かってもらったのだ、誰かが使うなり、売るなりバラして研究するなり、彼らの好きにしていいと伝えていた。
寄ってきたチャティのミニACが、神妙に声をかけてきた。
〈……もういいのか、フロイト〉
「ああ。遠隔操作も試してはみたが、やっぱり、安全な場所から動かすのは好みじゃないしな。乗れなくなった以上は潮時だ」
手指や視力はまだ再生医療で持ち堪えているものの、老化で細くなった血管は高負荷のGに耐えられなくなっている。ただでさえあちこちにガタがきているのだ。残る命と膨大な金を費やして一か月を取るかどうかというラインにきている。
どんな無様を晒しても生きている限り乗り続けたいと、そう思っていた頃があったのは確かだ。
ただあの頃は、さすがにここまで長生きするとは思っていなかった。やりたいことはだいたい全部やりつくした感がある。
何より、戦っていて一番楽しい相手が、もういない。
「そうだ、チャティ。そろそろ恒星フレアが到達する頃だろう。オーロラが出ているなら見に行きたい。RaDの屋上にはドームがあったよな?」
〈休むべきだと思うが……お前は言っても聞かない。連れて行こう〉
「さすが、話がわかるな」
〈着替えは必要だ。耐Gスーツは身体への負担が高い〉
ロッカールームで言葉通りに引っ剥がされて着付けまでなすがままになり、チャティが自認する介護能力をしっかり思い知らされた後、明かりを落とした屋上に運ばれた。
透き通った夜の空を、波打つようなオーロラが踊っていた。
本来、この緯度ではあまり見られないものだ。
パステルカラーに近い新緑色。恒星風の速度の影響か、プラズマのエネルギーが強いらしい。
原理を知らない昔の人間は、ごく
極圏に住まう少数民族にとってはありふれたもので、これを死者の魂だと考えた。口笛を吹いたら死者が応えてくれるのだと。
そういえば、技研製の光学ミサイルもAURORAという名前だった。
レイヴンが一時期気に入って、よく使っていた緑色の光波。あの揺らめきを思い出す。
その色に似ている何かを知っているような気がして、ふと、ジャケットのポケットを探った。
手のひらに転がしたのは、五十年も昔に、この星で拾ったシーグラスだ。
ちょうどこんな具合の色だった。人間の目では、この暗がりで確かめることはできなかったが。
〈フロイト、それは何だ?〉
「ただの石ころだ」
〈そうか。……いや、俺はそれを知っている。レイヴンの“宝物”だ〉
記憶を引き出すようにチャティが言ったので、意外に思って顔を上げた。
どうやら、どこかで見たことがあったらしい。
「昔レイヴンにやったものだ。プロポーズしたときに、ポケットに入っていた」
まるで昨日のことのように思い出せる。
差し出したら、目を丸くしたあと肩を震わせて笑っていたくせに、レイヴンはこの石ころを特別大事にしていた。
そのあとも指輪だの何だの色々と装飾品は贈ったはずなのだが、順番をつけるなら、これなのだろう。
ただの石ころだが、レイヴンにとってはそうではなかった。
――だから、なんとなく持ってきてしまった。
「形見というわけでもないんだが、まあ、そういうやつか」
〈……看取ることはできたのか〉
「ああ。ちゃんと見送った」
引き留めることなく。泣き言を聞かせることもなく見送った。
老衰だったから、予兆ははっきりしていた。食が細くなって、立てなくなって、起きていられる時間が短くなって――最期は眠るようだった。
逃げずにただ傍にいるのは思っていた以上に苦しかったが、ちゃんと、虚勢は張れていたはずだ。
彼女の人生は波乱に満ちたものだった。それでも、その終わりはとても平穏で、絵に描いたように平凡だった。
それを誇らしく思う。
同時に、それを上回るほどに、苦々しくも。
「幸せだったって、楽しかった、って……愛してるって、そう言って逝った」
〈……そうか。大勝利じゃないか〉
「だろう?」
チャティの下手な冗談に、意識して笑った。
暗闇の中に白い息が浮かぶ。
「五十年だぞ。あの頃の俺が聞いたら、よく長生きしたものだとでも言うんだろうが……駄目だな。まだ全然、さみしさが減らない」
思っていた以上に大きすぎる空洞を、持て余している。
途方に暮れている。
嫌がるのを無視してでも、約束を破ってでも――あれからさらに発達したこの世界の情報技術をもって、あの女のかけらでもいいからこの世に残しておくべきだったのだろうかと。
〈そうか〉と応じたチャティが、言葉を選ぶようにして言った。
〈それは、俺にもわかる感情だ〉
「置いていかれたもの同士だからな」
〈俺にとっては、お前もそうだ。……もう、いくつもりなのか。フロイト〉
その問いかけに、思った以上に心配をかけていたのだと気づいた。
後を追うとでも思われていたのだろうか。
実際どうなのかと自問自答をしてみた後、笑って否定した。
「いや。生きている限りは生きていくさ。せいぜい楽しくやって、色々と土産話を持っていく」
〈そうか〉
「で、だ。あいつから何か預かってるんだろう」
よこせとばかり手を差し出すと、チャティが心持ち、困ったようにアイランプを明滅させた。
〈……渡すにあたって条件がついている〉
「俺がやばそうだったらとかまずそうだったらとか、そういうやつだろう。それだと貰いはぐれる。今くれ」
貰えるものはその場で貰っておく主義だ。この人生にそこまで時間は残っていない。
チャティは実にわざとらしく、盛大なため息を出力した。
〈いかにもお前らしい口ぶりだ。俺の心配は無用だったようで、何よりだ〉
「レイヴンもお前も心配性だ。……まあ、近所の若いのが、あまり良くない死に方をしたからな。わからないではないんだが」
彼らは
そんなことを考えているうちに、機械アームが差し出された。その手が持つのは予想通り、一通の手紙だった。
受け取った手紙をその場で開けた。
チャティが思わずといった様子で突っ込む。
〈今ここで読むのか〉
「ちょっと暗いな。何か明かりをくれ」
〈……まったく。俺でももう少し情緒を理解できるぞ、フロイト〉
そう言いながらも、ほんのりと読める程度の明かりをつけてくれた。
老眼用の眼鏡をかけ、明かりに手紙を寄せて目を凝らす。
厚手の上質な紙に、綺麗な文字が綴られていた。読みやすいようにかブロック体だ。
「貴方は大丈夫だと思うけど」から始まった手紙は、他愛ない、ささやかな、どうでもいいようなことばかりが書かれていた。
あれはどうなっただろう、そういえばこんなことを話したっけ、そのうちまた食べたいと話していたあれは食べてみた?――そんな、日常の延長線のようなことばかり。
色んなことがあった。大きなものも、小さなものも。
戦場にあった時間のほうが圧倒的に長かったはずなのに、今思い出すのは、そのどれもが平凡でありふれたものばかりだ。
気を使ったチャティは長らく沈黙を保っていた。
もういいぞとその躯体を軽く叩くと、ようやく、ごく慎重に口を開く。
〈……何が書いてあったんだ?〉
「ああ、大した内容じゃない」
大仰な愛の言葉も、生きてほしいなんて切実な願いもない。積み重ねてきた思い出と、暇つぶしになりそうな話題を思いつくままに書き連ねてみた、そんな感じの手紙だった。
きっと、心配はしていたのだろう。
それでも、死ぬ場所を選ぶ自由を阻もうとはしなかった。後を追うなとは言わなかった。
ただ、ちょっとしたタスクリストを積み上げていっただけだ。
――せいぜい十年ほどの残り時間をすごすための、ささやかな道筋を。
「馬鹿だよな。死ぬなとは言わないくせに、やっぱり生きてほしがっているんだ。もうこの年だぞ? いつ死んだって別に不思議じゃないだろうに」
チャティは何も言わなかった。何か、めずらしく考え込んでいるようだった。
よいせと声を上げて立ち上がる。それから手探りで杖を手にしたあとで、これは本来こういうときに使うんだったかと思い出した。ウォルターのように手に馴染むには、まだまだ時間がかかりそうだ。
本当に、丈夫だったこの身体にも大分ガタがきていた。
頭上を仰げば、緑色のオーロラが少しばかり薄くなっていた。コーラルたちが頑張っている影響か、この景色ももうそろそろ終わりなのだろう。
ありとあらゆる理論で否定されている過去への情報伝達が、どうして発生したのかはわからない。
ただおそらくは、未解明な部分の多かった物質としての「コーラル」が引き起こしたものだったのだろう。それらのすべてが不活性化した以上、この先同じ現象が起きることはなく、発生したその事実を知る者も他にいない。
それでいいのだと、今は心から思えた。
「それにしても、俺も大概長生きしたものだ。スネイルあたりが地獄で待ちくたびれていそうだな」
〈……安心しろ。おそらく待ってはいない〉
「それはそれで残念だな。じゃあミシガンあたり――」
〈誰も待ってはいない。レイヴンもだ。だから、まだ長生きをすればいい〉
顔を向けると、普段は感情豊かに表現をするチャティが、昔のように無機的に佇んでいた。
動かないまま沈黙を続け、やがて言葉を探すのを諦めたのか、ため息のように続ける。
〈……俺は、お前やボスと同じところには行けないのだろう。そう思うと、“かなしい”とはこういうことなのかと思う〉
「なんでだ。来れるだろ、来たければ」
きょとんとして言った。
「魂だのなんだのの話か? 誤差だ誤差。天国も地獄も人間の創作物だろう。設定なんて好きに変えられる。そうだ、ちゃんとACも持ってこいよ? 今度こそ、お前とカーラのコンビと戦いたいからな」
チャティが呆気にとられたようにカメラアイを明滅させ、やれやれとばかりに、頭部パーツを左右に動かした。
〈お前は本当に変わらないな、フロイト。……わかった。善処しよう〉
「楽しみだ。まあ、もう少しばかり先だな」
〈ああ。そうしてくれ〉
死後の世界などというものを信じているかといえば、正直なところ信じてはいない。
ただ、あったらいいなと空想を遊ばせるばかりだ。
その方が寂しくない。
だから人間は、それぞれに信仰や死生観というものを持つようになったのだろう。
〈色々と安心した。なによりだ。この先の予定があれば聞かせてほしい〉
「とりあえずはウォルターの墓参りだ。幸せにしたのは確定だからな、報告がてら自慢してくる」
〈そうか〉
「あとは、そうだな。最近できた、木星戦争のメモリアルミュージアムに行くか。ついでに地球にも寄って、今度こそフィーカだ。前は航空会社のストライキでスウェーデンに行くのを諦めた。オキーフが言っていた、本場のシナモンロールを浸けるやつをやってくる」
〈そうか。うまいといいな〉
「そっちに行くならついでに薪サウナ……いや、あれは別にいいか。わりと暇だ。一人なら尚更」
〈……そうか。ボスも、サウナよりは温泉を気に入っていた〉
「温泉といえば日本だな。そうだ、知ってるか。こんっな小さいサーモンの燻製が、ものすごく塩辛いんだ。塩の塊より上だったぞ、あれは」
〈そうか。塩分摂取量には気をつけてくれ〉
「塩といえば、
〈そうか。俺も少し調べておこう〉
あれこれと気ままな旅行の計画を立てながら、ふと、気の早さに気づいて苦笑した。
余生の話だ。急いで消化するようなものでもないだろう。
むしろ、のんびりやったほうがいい。
「……先の話をしすぎたか。まあ、一年くらいはルビコンの周辺にいるつもりだ。顛末は見届けたい。あいつがいなければ、こうはなっていなかっただろうからな」
〈そうか。また近々顔を出してくれ。うまいミールワーム料理の店を探しておく〉
「楽しみだ。昔食ったのも、わりとうまかった」
手紙を丁寧に懐にしまって、軽く叩いた。
最愛を見送って、それでも日々は続いていく。その記憶とともに生きていく。
どうしようもないほど大きな空洞を抱えながらも、きっと飽いてしまうだろうと苦笑しながらも、孤独ではない。――何とも幸いなことに。
ひとに恵まれた人生だったと思う。
それこそ、やり直す前には考えられなかったほどの濃度だ。
愛することを知って、失敗に学んで折り合いのつけ方を模索して、まともさを装うためにあっちこっちに助言を求めていった。そうしたら、なぜだろうか、不思議なくらいに周囲の人間が親身になっていった。
昔はどうでもいいと思っていた人と人とのつながりが、今の自分を形作っている。
見上げた空では、オーロラが消えようとしていた。
そのかわりに、
ひとつやふたつ、AC以外にも面白いと思えるものが見つかるはずだ。
いつか、それを話せたらいい。
万が一にでも死後の世界なんてものがあって、また言葉を交わすことができたなら――苦笑されるよりは驚かせたい。翳りなく笑わせたい。
そう思って、心の中で呼びかけた。
(ちゃんと生きていくさ。心配するな)
どうせなら、楽しかったと笑って死ねる生き方をしたい。
面影が消える前には、きっと、その時がくるだろう。
これにて終幕です。
長いお話に最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございました。心より感謝申し上げます。
お読みくださった方の中に、なにかじんわり残るものがあれば幸いです。