あのあと、だいぶ調子も良くなって、頭が痛くなっていたことなんてどこ吹く風。いまやすっかり体は大丈夫。保健の先生にそう告げて、教室へと帰った。
大丈夫なのはあくまで、体は。なのであるが。心の方は、言うなればぐにゃんぐにゃん。ともすれば、いとも簡単にちぎられてしまいそうなほど。豆腐メンタルとはこのことである。
「はぁ。気まずいし、気まずいし、はぁ…どうしよ…。」
こんな言葉が情けないほど湧いてくるのだ。不思議なことに。
悩むことなんてないはずなのに。頭は自分が思うようには働いてはくれない。
明久の生来からの性格と言ってもいいかもしれないが、なにごとにも無鉄砲。なにも考えずに、思ったことを素直にする。
文字通り、バカ正直に。
それは、時にはいいことにも響いたし、一方で自分を苦しめもした。
観察処分者になったことだって、まさにその代表例かもしれない。きっともっと賢いやり方があったに違いない。一日バイトでもすれば、わざわざ鉄人に勝負を挑むなんて無謀は避けられたにちがいない。
でも小学生の女の子を助けたかった。泣かせたくなかったし、笑顔にしてあげたかった。たとえちょっとばかり無理をしてでも。
だから後悔はしていない。それも明久の本音である。
そんな性格だからこそ、いやバカだからこそ、あまり悩んでこなかった。
だから悩むなんてことは、自分とはほぼ無関係といって過言でなかった。それが、どうだ。今、明久は悩みに悩んでいる。
なんでこんなに悩んでしまうのか自分でもわからない。悩まなさすぎたしわ寄せが今になって、大挙して訪れたという説もある。ともかくこの問題を解決するなら、微分積分の方が簡単な気すらする。(もちろん両者不可だが。)
そして今である。
放課後、自宅への帰り道。7割方帰ってきた頃だろうか。練習には一応参加しておいて不信感をもたれないようにしつつ、こそっと一人。みんなと帰る気にもなれなかったので抜け出してきて、見上げる空はオレンジ色。鮮やかに澄み渡る空は、沈む明久の心を真反対にしたような、そんな色であった。
一方で、
「…さむっ。」と思わずひとりごちてしまうほど。
こちらは、明久の心を写し鏡で写したような冬特有の冷たい風。
それを左手から浴びつつ、髪は乱れて流されながら、帰ってきていた。
ただ喧嘩しただけだ。そんなことは昔もあったことだし、小さな喧嘩なら日々してきた、と言っても過言ではない。
豚肉か鶏肉か。するとかしないとか。帰るだの帰らないだの。骨が折れるだとか折れないだとか。そんな口だけの喧嘩が思い浮かぶ。(骨に関しては、本当に折られているのだが。)
それと同時に結局なんやかんやで、2人して大笑いしてた時のことも思い出される。
だから気にすることなんない。今回もきっと、すぐに…
というか、こんなに悩んでる方がおかしいんだ。
だからとりあえず今は、前を向いておこう。
そんな風に今限定でわけもわからずポジティブシンキング。
一方で、なぜか手持ち無沙汰に本来切り詰めなければならない今月のお金の中から余裕もないのに、冬限定で3列ある自販機の2列を占領するあったか〜いコーナーの中からココアを選択して、買う。
ここで缶コーヒーでも買えたら少しは、格好という奴がつくのやもしれないが、苦いものは生来苦手だ。ゴーヤも苦味をしっかりぬかないと、口にできない。姉である玲は逆にそういう類のものが好きで、食後に甘い紅茶なんて淹れようものなら「アキくん、目を閉じてください。」てなものだ。
だからココア。甘くてほっとさせてくれて、美味しい。
しかし今日ばかりはココアの機械的な温かさ程度では明久の冷え切った手をあっためきることなど無論できないであろうが。
取り出すにしてもしゃがむのもたるくて、棒立ちそのままの姿勢から上半身だけ前傾。
なんとかかんとかココアをとりだして、その場を立ち去ろうとする。
すると、
「おい、釣り。…忘れてるぞ。」
そんな声に呼び止められて、振り返る。
見えるのは、いつもの赤髪。短髪。いつも覇気などという概念とは少しも関連性のない男、坂本雄二であった。
「…雄二!なんでこんなところに?」
「ちょっと用事があってな。」
そうはいうものの、雄二の手にはなにもなくて、手ぶら。その用事とやらを想像することはできない。
とにもかくにも、
「…ありがと。助かったよ。」
そう言いつつ、手を伸ばし、雄二からお釣りを返してもらおうとする。
「いーや。これはこの前、俺のハンバーガーにかじりついた代としていただいておく。」
そう言って、意地悪く微笑むいつもの顔。
「…。」
そんな気分になれず、なにも反応できずにいると、雄二は逆立てた赤髪をくしゃくしゃとかきむしって、大きくため息一つ。
「たっく。調子狂うなぁ…。」
と一言。きっと鋭かった目を少々ゆがめて、ゆるめて。柄にもなく無言で、すーっとさらにこっちにちかづいてくると、そしておとなしくお釣りを返してくれた。
そして聞いてもいないのに、ペラペラと語り始める。
「翔子から逃げてる。ちょっとかくまえ。もうあの病院にはいきたかねーんだ。小山に誘われて、というか半ば強引に2人で帰らされてたんだが…まぁなんつーか…なにいっても言い訳にしか聞こえねーな。」
そういえば、雄二も大変な状況になっていたんだっけか。すっかり忘れていた。
そんなことを考えていたら、なんとなく、軽口を叩いてやりたくなって、
「雄二も隅に置けないね。」
「うっせーよ。ハーレムの王様さん。」
「大半が男で、女子は女装させてくる変態と身内なんだけど、どうしたらいーかな。」
「ふっ。」雄二が軽く笑う。
釣られたように、緊張の糸がゆるんで、明久もまた「ふっ。」と笑ってしまう。
しまいには、大爆笑てなものである。
あははっ、とひとしきり笑いきってから、急に見たこともないほど真面目な面をはっつけて、ちょっと間あけておもむろに。
「明久。今話す気になれなくても仕方ねぇ。だから待ってやる。話す気になったらでいい。話してくれ。」
雄二が相変わらず真面目な顔をしたまま告げる。
雄二が人のことを、それも明久のことを気づかうなんて。
余計に笑いがこみあげてきて、「ふふっ。」とかなんとか笑ってしまう。
「なんだその気持ちの悪い笑いは。だいたい今のとこ笑うとこじゃねーだろ!」
雄二がいてくれてよかった、そう思うのは今、明久の頭がいかれてしまっているからだろうか。
きっとそうだ。
そう言い聞かせながら、少しだけいつも迷惑かけられてる分の仕返しに今回くらいは迷惑かけてやろうか、なんて思う。
「ほれ、行くぞ。」
「どこに?」
「お前の家だよ。久々に遊んでやる。翔子からも逃げられるしな。」
雄二の顔にはいつもの覇気のない顔。そこに意地の悪い笑顔を浮かべてみせる。
さっきまでの真面目な顔が嘘のようだ。
「そうこなくっちゃ!僕の目隠しドライブに死角はない!」
そういいはなって、かつかつと先をゆこうとする雄二の背中を追いかける。
その背中は少しだけ、認めたくないからほんの少しだけ、いつもより大きく見えた。
……
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雄二と久々にゲームに没頭すること3時間ほど。
玲は帰ってきて、その光景に驚いた。話に聞いたところによると、きっとしんどそうにでもしているものだ、と思っていたのだが。
当の弟は、大親友と思われる坂本雄二とひっつかみあいとっつかみ合い。顔には、生卵の白身だけが張り付いていた。だけれども表情はどこか楽しそうに見えた。
「あ、姉さん、おかえり。」
いつもと同じ言葉で、そういいやって迎えてくれた。
「あ、こんばんは。」
雄二は玲に気づくと、丁寧すぎるほどペコっと頭を下げて、挨拶をする。
ならばと玲も、仕事用の挨拶。腰をピシャッとしめて、深々と頭を下げる。
「こんばんは。今日は息抜きですか?ゆっくりしていってくださいね?」
「まぁ、そんなとこです。ありがたい言葉なんですが、でも、そろそろ失礼しようか、と思ってたところなんで…。明久。そろそろ俺は帰るぞ。」
へ?と。明久にとってみれば、まさにそんな感じであった。寝耳に水というやつだ。いつも通りなのだとしたら、このまま晩御飯もどっちかが作って食べて、深夜近くまで遊ぶ。これが鉄板であったから。
「なんだ。もう帰るの?」
それでも驚きを抑えて殺して、極めて冷静に。雄二ともっといたかった、なんて思われたらたまらないから。
一方の雄二は、変わらぬいたずら顔。
「姉弟水いらずってな。まぁせいぜい頑張れ。」
「雄二、きさま…」
この先になにが待ってるかなんて明久にも想像にたやすいことであった。このパターンは、「やめて!姉さん!助けて、うぎゃああ!」のパターンである。少しだけ備わった防衛本能がまさに臨戦態勢を告げてくる。
しかし雄二は、明久が思うのとは違うように明久の言葉をさえぎって続ける。
「いいから。なぁ、お前が一番困ってる時一番助けてくれてそばにいてくれたのは誰だ?俺でも姫路でも、ないだろ。」
それは明久が考えていたこととは真逆と言ってもいい考え方だった。
そう。なんだかんだいっても玲は姉なのだ。そう、大切な。
だからこそ、できるだけ心配も迷惑もかけたくはない。実際にそんな風にしてきた。むしろ心配をかけられるのは一方的に明久だったと自負している。
弟にバカほど肩入れすることとか、いつまでたっても結婚相手を見つけてこないこととか…。
見てくれだけはまともだと思うのだが。なんせ性格は「どうしたの?」と思わずにはいられないほどであるから。
そう明久は思っていても、きっと玲からしてみれば、逆に明久のことが心配で仕方が無いのだろうが。
最近ようやくそんなことが分かるようになってきた気がする。
「それじゃ、また明日な。」
雄二は明久に対して、そう言ったあと、今度は横にすっと身を動かして玲にも一礼。しかし、今度は無言で。
くるっと半転して帰っていく。
「またね。」とぎりぎりまで見送ってから扉を閉めて、家の中に入る。
そして少しばかり乱れた玄関の靴をご丁寧に整えあげて、
「荷物持つよ。」
「ありがとうございます。」
玲が掃除でもしたのだろうか。綺麗になった気のする廊下を歩いて、2人してリビングに戻る。
リビングについたらついたで、ドンと座って落ち着けるわけではない。
さっきから気が気でなかった荷物の中身。いらない生鮮食品を買ってきていたらどうしよう。今月は切り詰めなければならないのに。
袋を開けようとする。
「安かったからまとめ買いを…。」と玲がいうから、肉か野菜かであろうか。どちらにしろ「はぁ。」と、ため息がでる。袋を開け放つと、そこには銀色の世界が…とかではなく、
サンポール×15。
よもやのパターンであった。
「姉さん、これは…」
「はい。安かったので…」
「そんなに使わないよ!?サンポールなんて!」
サンポール×15なんて一生たっても使わない気が明久にはした。
サンポールは使うにしても、年に一回か二回。換気扇の掃除、風呂のタイル磨きぐらいだろうか。
まぁしかし、そんな明久を気にもとめず、玲はさも当然かのように、流れるような作業で洗剤のかごにサンポールを入れていく。
そんな作業を見つつ、すっかり呆れている明久に玲が作業を続けながら、
「そういえば、帰りに美波さんに会いましたよ。」と一言。
「美波に⁉︎なにか…言ってた?」
突然の今敏感になってしまっている名前の登場に、反射といってもいいくらいの反応。不意に声のトーンが上がってしまう。
「…いいえ。ただ「こんばんは。今日も麗しいですね。」、と。」
「そっか…。」
なにを期待してたんだろう…なにを、と言わないまでもなにかを期待してしまった自分に嫌気がさす。
そんな時、玲がほんとに急に
「…にしても、お腹がすきましたね。とりあえずご飯にしましょう。お願いしてもいいですか?」
と切り出してくる。少しだけそんなさまに、疑問も浮かんだけれど、断る理由なんてさらさらないから、
「うん。」
とだけ答えて、いつものエプロンをいつものように巻いて、キッチンへと向かった。