「はあ、はあ、はあ…理君…アイギス…」
卒業式で、美鶴による祝辞の言葉の中でゆかりの脳裏によみがえった記憶。
影時間、特別課外活動部、シャドウ、ニュクス、父親、そして理。
ニュクスを退け、影時間が消えたことでそれにまつわる記憶をなくしていたゆかりだが、それだけともに戦った順平とは仲が良く、そして理とは恋人として過ごしてきた。
転校した彼と一緒の寮で生活し、生活する中でひかれあっただけの自分たちではないことをゆかりはようやく思い出した。
10年前に肉親を失い、各地を転々としていたという共通点のある、仲のいい異性の友達。
初めてであった4月からしばらくはゆかりにとって彼はそんな存在だ。
だが、屋久島で死んだ父親が遺した映像を見て自暴自棄となった時に彼が言ってくれた言葉、そして抱き合ったときに感じたぬくもり。
あの日から、急速にゆかりの中で理の存在が大きくなった。
それから二人が恋人同士になるまで、それほど時間はかからなかった。
戦いの中では目を合わせるだけで意思疎通できるほどで、以前よりましになったとはいえ、人と比べると感情の乏しい彼の心情も理解できるようになった。
ただの恋人ではなく、自分の中にある闇と一緒に向き合い、人生を変えてくれたかけがえのない男性。
それがゆかりにとっての結城理だ。
「理君…眠ってるの?ねえ」
アイギスに膝枕されている理を見て、最初は嫉妬めいた感情を抱きかけたゆかりだが、ならアイギスから無理やりでも取り上げるだけ。
そんなつもりで駆け寄り、理に声をかけるが目を覚ます様子がない。
今の理の様子は、昼休みや寮のソファーでたまに眠っている姿を目撃している誰もが見ても、ただ眠っているだけのように見えるだろう。
ゆかりも声をかけている当初はそんな風に思っていた。
だが、アイギスが見せている、どこか悲しみを含めた表情に違和感を感じ始めていた。
脳裏によみがえる最後の戦いの記憶、そして彼がニュクスを倒すために発動した力。
すべてが悪い冗談のように思えた。
確かに影時間の記憶をすべて失っていて、最近体調を悪そうにしていたが、それでもそれまでは元気でいたはず。
なのに、この約束の日になってこんなことになるとは信じられない。
恐る恐る、ゆかりの手が理の顔へと近づく。
他の皆も理の元へ駆けつけており、いつもは能天気な順平もゆかりのどこかおびえたような表情を見た瞬間、表情を凍り付かせていた。
冗談であってほしい、ただの夢であってほしい。
そんな思いを胸に、ゆかりの手が理の肌に触れる。
今の理の肌からは、あの屋久島の夏の夜、自室に招いた日、デートをした日、いつも感じた彼の体温が感じられない。
心まで冷えるほどの冷たさ。
「ねえ…ねえ、嘘よね…理君…ねえってば!!」
アイギスの膝の上の理の両肩をつかみ、何度もゆらすが、彼の目と口が開くことはない。
順平と真田は立ち尽くし、風花はその場で崩れ落ちる。
「救急車!早く来てくれ!頼む…!!」
すぐさま携帯を出した桐条が必死で救急に連絡し、座り込む天田のそばでコロマルが空に向けて鳴く。
かつて、荒垣が天田を守って死んだ日と同じように。
「おい…理!起きろ!起きやがれって…せっかく集まったんだぞ!みんな、思い出してんだぞ!なのに…なのに俺らに会わずに死ぬってなんだよ…ふざけんな!!ふざけんなぁ!!」
「順平…」
「くそぉ…クソクソクソクソ!ちくしょーーー!!」
床に突っ伏し、何度も拳を床にたたきつける順平。
せっかく、影時間を消し、滅びを退けたというのに、その立役者に対する仕打ちが順平には納得がいかなかった。
たとえ世界が救われたとしても、親友が犠牲になるのでは彼にとっては意味がないことだ。
「また…僕の前で、こんなの、こんなの…!」
「くっ…」
天田と真田の脳裏に浮かぶ、10月4日の記憶。
天田にとっては母親の仇ではあるものの、自分のことを守ってくれた男の、真田にとっては孤児院時代からの親友の死。
あの日と同じほどの、それ以上の悲しみを覚え、皆から背を向ける真田は拳を壁にたたきつけた。
「どうして…どうして結城君だけが…」
「昨日…約束したじゃない…。お母さんに会ってくれるんでしょう?どこかに二人で行こうってディスティニーランドに行って、山に行って、私がお弁当作るからって…」
嘘つき、という言葉が喉でとまる。
今はそんな約束はどうでもいい。
ゆかりがただ、彼に望むたった一つの願い。
亡骸を抱きしめながら、口にする。
「私を…一人に、しないで…」
「やっぱり…来てしまったね…」
「久しぶり…。綾時」
真っ暗な宇宙のような空間の中、1か月程度の間だけのクラスメイトであった男の声に目を開いた少年、結城理が口を開く。
アイギスの優しい笑顔と桜が舞う空を最後に目を閉じた理にとって、この空間に来ることは分かり切っていたこと。
あの時、大いなる封印を発動した自分が背負う運命が目の前の少年、綾時の背後に存在する巨大な門にある。
あの奥にニュクスが封印されている。
予想外なのは、眠りについたはずの綾時がここにいることだ。
ニュクスに取り込まれたのであれば、共に門の向こう側に消えるはずなのに。
「なんで、いるの?」
「僕にもわからないよ。でも、あの大晦日で君たちの選択を見届けて、寮を去った後の影時間で僕は消えたのは確かだ。そして、ファルロスだったころのこと、望月綾時として君たちと過ごしたこと…そして、アバターとなって、君たちと戦ったこと…全部覚えてる」
そのすべてが、ニュクスに取り込まれたらすべて消えてしまうというのに。
それが消えず、こうしてここにいることは、10年の間、理の中で封印されたことによって得た人としての性質の影響なのか。
「僕が言うのも変かもしれないけど…ありがとう。ニュクスを…止めてくれて」
「まだだよ、綾時。まだ…完全じゃない」
ニュクスが封印されたあの門は揺れている。
そして、理と綾時の目に映るのは黒い瘴気をでできた巨大なシャドウ。
獣のようなドクロと赤い瞳をしたその存在が門に近づくにつれて、門が揺れが大きくなる。
「あいつとニュクスを接触させないためにも、あとは僕が門と一つになる。これで、封印は完全になる」
「そうだ…そうだったね。ニュクスを封印したのは君という人間。だけど、ニュクスを封印から解いてしまったのもまた、人間だからね」
死への好奇心や自分を滅ぼす存在を願う心。
だが、死を遠ざけようとすればするほど、生きる意味を見失っていく。
すべての人間から滅びを望む心を消さない限り、たとえここであの化け物を倒したとしても、何度も甦ってニュクスを求める。
そうさせないためにも、あとは理が門と一体となり、完全な大いなる封印となる。
たとえ、二度とゆかり達に会えないとしても。
「聞きたいことがある」
「何?」
「君は…人としての死を望んでいるのかい?」
あの門と一体化すると、理は完全に死ぬこととなる。
大いなる封印が不要となるまでどれだけの年月がかかるのかはわからない。
その間に、残された理の肉体は朽ち果てることとなり、それで封印が不要となったとしても、還る肉体はもはや存在しない。
どう転んでも、もう結城理という一人の人間に戻ることはできない。
その覚悟が理にはあるのか。
「…きっと、みんなと会う前の僕なら、それでいいやって思ったよ」
10年前、ムーンライトブリッジでアイギスと今の綾時の戦いに巻き込まれたことで両親の死を目の当たりにし、瀕死の自分に綾時が封印されることになった。
その影響で感情を失い、10年前以前の記憶もあやふやになってしまった。
各地の親戚を頼り、転々としたのも、そんな彼を親戚が持て余したことが大きい。
何もかもがどうでもよくなり、自分の生死も含まれていた。
それがかすかに変わったのは、はじめてシャドウと遭遇したあの日。
ゆかりを守るために、彼女の召喚機を使って自らのペルソナ、オルフェウスを召喚した時。
あの時から、少しずつ人としても感情を取り戻していった。
10年間、ずっと死んだように生きていた自分がようやくまともに人として生きることができた1年は理にとっては宝物だ。
何もない空っぽの自分が今、満たされているのは間違いなくゆかり達のおかげだ。
彼女たちの生きる未来のために、この大いなる封印を発動した。
そして、この門と一体化する覚悟をあの最後の戦いで既に決めていたというのに。
(お母さんに…会ってほしいんだ…)
(春休み、どこか…行かない?デスティニーランドとか、どう?ふ、二人だけだよ?他の人とか、誘っちゃだめだよ?)
(私たち…一緒にいると、思う…?)
「ゆかり…」
脳裏によみがえる、昨日ゆかりと屋上でかわした言葉。
それを思い出すとともに胸を締め付けるものを感じる。
口から出しかけた言葉をどうにか飲み込もうとする。
その様子を綾時は優しく見つめていた。
「わかるよ、理。10年もの間、ずっと君の中にいたんだから」
苦しみながらその場で片膝をつく理の元へ、ファルロスの姿となった綾時が近づき、理の肩に触れる。
「君の素直な気持ちを聞かせて。それは…僕が望むことでもあるから」
「綾時…」
己を見つめる今の綾時の目は優しく、それは大みそかのあの日に決断を迫られた時とは全く違うもの。
悲しみなどなく、純粋に理の願いを聞きたいという思いが感じられた。
「…たい…」
「うん…」
「僕は…生きたい!順平や真田先輩…桐条先輩…山岸、天田…コロマル…アイギス…ゆかりと、みんなで、生きたい…。もっと、もっとゆかりのそばにいたいんだ!!」
昨日交わした約束を果たして、そこから先もゆかりや仲間たちと一緒に生きていく未来が思い浮かぶ。
そこには封印そのものとなる未来が塗りつぶされていく。
「助けてくれ…」
「それでいい、人としての当たり前の言葉…強がりのない素直な言葉…それが聞きたかった」
「綾時…?」
笑顔を見せ、再び姿を変える綾時。
だが、今度見せたのは綾時ではなく、理と全く同じ姿。
そして、彼が両手で理を押すと、まるで重力に引っ張られるかのように理の体が落ちていく。
「今の僕は、君という人間の性質も持ち合わせている。君ほどじゃないけど、僕も封印の一部になれるさ」
「綾時、綾時どうして!?」
「君が人生が終わるまでの時間くらい、稼いであげるさ。ゆかりさんやみんなによろしく!」
「綾時ー!!」
理が見えなくなるくらい離れたのを見届けた綾時が門に触れるとともにその体が門から生み出された鎖で縛られ、取り込まれていく。
(そうだ…僕は、僕はこの時のために、彼の中で生まれたんだ。ようやく、迎えられる…。僕の、本当の誕生日を…)
「理君…理君…」
理の亡骸を抱きしめるゆかりの涙は止まらず、彼女に言葉を誰も見つけられない。
彼の名前を呼ぶゆかりの言葉と春の風だけが耳に届く。
誰もが目の前の現実を受け入れきれず、ただ桐条が呼んだ救急車を待つだけ。
「…り…」
「え…?」
「ゆかりさん、今…」
ゆかりの耳、アイギスのセンサーがかすかに感じた、もう二度と聞けないはずの声。
同時に、抱きしめる理の体からかすかに感じるぬくもりと心音。
二人の目に涙が浮かび、ゆかりの腕に力がこもる。
「か…り…」
「理君…ちゃんと、ちゃんと呼んでよ、私の名前を…」
「…ゆか…り…」
弱弱しい、けれど確かに聞こえる理の声。
確かに死んだはずの彼がなぜ再び息を吹き返したのか、そんな疑問は今のゆかりにはどうでもよかった。
ただ、絶たれたはずの未来が再び甦るこの瞬間を感じるだけだった。
「馬鹿…びっくり、させないでよ…」
「ゆかり…」
ようやく、しっかりと呼べた最愛の人の名前。
理はまだ完全に戻らない体の感覚をどうにか奮い立たせ、その両腕でゆかりを包んだ。