「きっとあの夏の青空の王だった、あの入道雲だって、家に帰って泣くんです」
リオは返答に困った。白髪の、老婆のような風体でカーディガンを羽織る同輩の、腹の裡が読めなかったのだ。
「……詩的ね。」
「雲は人でないし、気体だから一箇所に止まらない……とでも言うものと思っていましたが」
「雲は人じゃないし、私は人でなしだけれど、矢鱈に噛みつくような稚気はもうないわ」
ヒマリはリオに目を遣らなかった。リオはその後ろ姿に、僅かながら吝嗇を抱く。
「負けん気と知恵ばかりが、肥大して。弱い私は居なかったことにされていました」
「多くのことを諦めたのです。何をも諦めないために、その道程で」
知らない仲でなく、知らない過去でない。
「それでも、弱いときから、諦めなかったものが一つ、たった一つだけあるのです。私の誇りと言っていい、そんなものが」
その時、はじめてヒマリはリオを見た。
無機質な嫌悪感と、剥き出しの空っぽが交差する。
「一握の煤を指差して、誰にも気取られぬ傷をひた隠しに、己が身の純白を叫んだ天使を人々は笑いました」
「そうなる事を嫌厭し、人の為あれと生き続け、己の路を省みたのです」
きいきいと音を出した二輪の轍を、リオはひどく寒々とした心持ちで眺めていた。
「貴方は、赦されたかったのですか」
「赦されて……そうね、許したかったわ」
「許せましたか」
「……赦されただけね」
彼女の背を眺めていた時に、あんなにも見たかった表情が、正面を据えて己を見ている。リオは目を伏せた
「無神論は陶酔的ね。あの時、死んでしまえばと、浅い夢が見られるの」
軋む歯の音と、歪んだ眼輪筋に、気づかないフリをする。
「ごめんなさい。メランコリックでいけないわ」
「人の罪を叫んだ私は、果たして純白だったでしょうか」
「唯一、諦めなかったものに、理想を求め、それが独善と気づいたとき、私はどんな顔をしていたのでしょうか」
「己が身の煤をみつけたとき、天使はどんな事を思ったのでしょう」
「あの日の入道雲は、なぜ泣くのでしょう。ただの雲に、悲しいことなんて起きえぬのに」
ヒマリは手を伸ばした。
リオがかがむ。
「屈んでくれなくては、貴方の髪も触れぬ私は、……それに気づかなかった私は」
「天使のように嗤われることも、入道雲のように泣くことも、ありませんでした」
左の髪を掬い上げ、リオの耳にそっと掛ける。
空いた両手で、ヒマリはリオの頬を包んだ。
「ねえ、リオ。」
「死ねたらいいねと、貴方と共に想う、今この瞬間を」
「いつか笑い合う日が来たらな、と。願うことは、赦してくれますか」
リオは、見据えて言った。
「赦すわ」
ヒマリが微笑む。
「じゃあ、あとは」
許すだけですね