愛しい香り   作:プロッター

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第11話:愛しいあなた

『こんにちは。寒さが日に日に際立ってきておりますが、いかがお過ごしでしょうか。

 先日の練習試合、お疲れさまでした。こちらも初めて試合を生で観戦し、とても見応えのある試合で(こう言ってしまうのも何ですが)勉強のために来たということも忘れてしまうぐらい、のめりこんでしまいました。

 試合の後、黒森峰の隊長ともお話をされたようで、オレンジペコさんが次期隊長となるための糧となれたのかなと、いち観客として思います。

 改めて、本当にお疲れさまでした。

 

 自分の方は昨日、戦車道検定の試験を無事に終えました。勉強していた時点で分かっていたことですが、これまで受けた資格試験の中でも特に難しく、中でも自由筆記の戦術論に関する問題は一際でした。

 それでも、自分なりのベストは尽くせたかと思います。オレンジペコさんが戦車道の試合で奮闘されたのを見て、こちらもできる限りのことをと思い頑張った次第です。結果に関しては正直不安ですが、今は人事を尽くして天命を待つほかありません。

 

 また、近いうちに、どこかの休日で聖グロリアーナの学園艦を訪れたいと考えております。というのも、オレンジペコさんたちが、勇ましい戦いを見せた聖グロリアーナの皆さんが暮らす学園艦がどのようなものか、また地元を同じとする学校の学園艦がどのような感じか、気になったからです。

 その際に、またオレンジペコさんとお会いすることができれば幸いです。もちろん、オレンジペコさんのご都合もありますので、無理にとは言いません。

 長文失礼いたしました。

 戦車道も学業も大変かとは存じますが、お疲れの出ませんよう』

 

◆ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 学園艦は学校ごとに雰囲気が違う、というのは知っている。最たるものは、イタリア人が創設したアンツィオ高校学園艦だ。そこは「ローマよりもローマ」と評されるほどイタリアの都市・ローマの再現率が高く、観光地として名高い。

 ただ、お金のある学校は、学園艦の雰囲気が連絡船にも反映されるようになるらしい。

 蒼音の母校の連絡船なんかは、カラーリングも設備も至って普通、規模の小さいフェリーみたいなものだった。

 けれど、蒼音が今乗っている聖グロリアーナの連絡船は何から何まで違う。まずカラーリングは白を基調とし、高級感を抱かせる金の意匠が船体の側面に施されている。外見だけで、力の入れようは並大抵ではないと分かった。

 続いて船内。連絡船が学園艦と本土を結ぶ役割なのはどこも同じ故、設備は基本的に変わらない。しかし、デザインは欧風感が強めで、フェリーと言うより客船と見紛う。床は赤いカーペット敷きで、食堂のメニューはほとんどが洋食。今回は客室の世話にならないものの、一等から三等まであるその設えは中々のものだろう。船内のBGMはクラシックで固定されており、フリースペースではいつでもティータイムが楽しめるようインスタントだが紅茶と茶菓子が用意されている。

 本土から学園艦までおよそ3時間ほど。それだけの時間を飽きさせない、退屈させない設備は確かに目を見張るものがあるし、落ち着いた船旅を楽しめることだろう。

 そんな船で、蒼音は今、デッキに出て風に当たっていた。

 

「はぁ……」

 

 自動販売機で買ったホットコーヒーを飲んで一息つく。冬が近づきつつあり、かつ海上だから温かさはとても強い。

 寒いのにわざわざこうしてデッキに出てきたのは、何も内装の豪華さに気圧されただけではない。

 これからオレンジペコと会うことに、緊張しているからだった。

 休日に聖グロリアーナ学園艦へ出向くのは自分で決めたことだ。そしてオレンジペコと会いたいと持ち出したのもまた自分なので、自分から言いだしたのに緊張するのは変だという意見は全面的に受け入れる所存である。

 そして、今までオレンジペコと会うときは、空気に当たる必要があるほどに身構えることもなかった。

 それでもここまで緊張してしまうのは、やはりオレンジペコに対する気持ちが変わってしまったせいに他ならない。

 

 最初は確かに、尊敬の念を抱いていた。今もそれは変わらない。

 けれど時間が経ち、交流を何度も重ねるにつれて、その様相は次第に変わっていき、どういうわけかその姿がふとした瞬間に脳裏に浮かぶ程、オレンジペコが自分の中で大きな存在になっていたのだ。

 極めつけに、先日の聖グロリアーナと黒森峰の練習試合。試合中はその姿はあまり見えなかったが、奇策を弄し、終盤の撃ち合いで戦うチャーチルの中で頑張っていると考えると、気持ちはなお逸った。チャーチルから身を乗り出したのがほんのわずかに映った時には、本当に彼女は聖グロリアーナの「ノーブルシスターズ」なんだと再認識させられた。

 そして、試合後の一幕。相手方の隊長である西住まほと何らかの話をし、握手を交わして、どんな感情からくるものか知れない涙を流す姿を見て。

 オレンジペコに対する尊敬の念は、いとも容易く恋心へと変化した。

 

 これまでを思い起こしていると、現実を見ろと言わんばかりに連絡船の汽笛が野太く響く。見れば、船とは思えないほどに巨大な聖グロリアーナ学園艦が目前に聳えている。

 

『皆様、大変長らくお待たせいたしました。本艦は間もなく、聖グロリアーナ女学院学園艦・左舷連絡口に到着いたします――』

 

 アナウンスを聞き、蒼音はホットコーヒーを飲み干して、空き缶をゴミ箱に捨てる。

 自分はもうすぐ、間違いなく、聖グロリアーナ学園艦に人生で初めて足を踏み入れる。そこはまさに未知の領域だ。

 ここへ来ようと思い立ったのは、純粋な興味に依る。自分が応援している聖グロリアーナ女学院は、どういう場所なのか。優雅に戦車で戦う彼女たちを育て形作っているのは、どんな所なのか。

 ほどなくして連絡船が学園艦の横に付き、タラップが接続される。空港でよく見る飛行機とターミナルをつなぐ通路のような感じだ。そして、ここからはよく見えないが、車両用のタラップも接続されたのだろう。

 手早く準備を終え、乗船チケットを手に蒼音も船を下りる。学園艦の住人なら連絡船は無料で使用できるが、それ以外は普通にチケットを買う必要がある。蒼音もちゃんと、正規料金を払って往復乗船券を買っていた。

 

「ようこそいらっしゃいました」

 

 下船して、聖グロリアーナの船舶科と思しき係員の少女にチケットを見せると、スタンプが押される。よく見ると、スタンプは紅茶のカップ型だ。学園艦によって、この手のスタンプはデザイン差があるらしい。

 さて、蒼音が通っていた学園艦は、連絡船を下りたらすぐ甲板へ出るための階段もしくはエレベーターが出迎える。チケットの確認も降りる前に船の中で行われていた。

 しかし、流石と言うべきか、資金が潤沢なお嬢様校の学園艦は一味違う。タラップを過ぎたら、それこそ本当のフェリーターミナルのような待合室に出た。赤いシートのソファが等間隔に並べられ、壁際にはテレビが設置されており、映されているのは聖グロリアーナの――主に戦車道の――PV、連絡船の時刻表と二種類ある。自動販売機も設置されているが、紅茶のフレーバーの種類が多いように感じた。

 連絡船もそうだったが、こちらも飽きさせない、そして洗練されたデザインだ。

 

「何か、珍しいものでもございましたか?」

 

 お上りさん気分で空気に圧倒されていると、横合いから聞き慣れた声がした。

 見ればそこには、この数か月で随分と自分の中で大きな存在となったオレンジペコが、微笑みを携えて佇んでいる。装いはクリーム色のニットに、クラシックチェック柄のフレアスカート。あまり肌を見せず、色も落ち着いているのはそろそろ寒くなってきたからでもあるのだろう。

 

「……自分が住んでた学園艦とは、全然違うなあって」

「まあ、ここを訪れる方には、そう仰る方もいらっしゃいますね」

 

 素直に、場の空気に面食らったことを伝えると、オレンジペコは慣れたように答える。どうやら、庶民的な感想を抱くのはおかしいことではないらしい。

 さて、ここで蒼音は今日初めてオレンジペコと向き合う。別にこうすることなど何度もあったはずだが、やはり向いている感情が変わってしまったせいか、ただこうしているだけでも背中が熱くなってくる。

 

「……改めまして、今日はよろしくお願いします」

「はい。こちらこそ」

 

 挨拶は大事だ。ぎこちなさを隠すように頭を下げると、オレンジペコもにこりと笑い返してくれる。

 学園艦を訪れるにあたり、オレンジペコには事前にメールをした。そのメールを送る時点で、既に蒼音はオレンジペコへの恋心を自覚していた一方で、無理はさせたくないという気持ちも込めて「オレンジペコさんのご都合もありますので」と書いた。自分の気持ちに迷っていた頃は、年齢の差について色々悶々としていたのに、いざ感情が確定してしまったらこれだ。この感情は、思った以上に自分の背中を押してしまう力があるらしい。

 そして、そんな蒼音のメールに対してオレンジペコは。

 

『私でよろしければ、喜んでご一緒させてください。丁度、蒼音さんとお話したいこともありましたので』

 

 メールの文面だけでは、嫌そうな素振りは全くなかった。そして実際に会ってみても、やはりオレンジペコの笑みには迷いや恐怖のような、余計な感情はほとんど見られない。

 最後に会った時は、少しオレンジペコからそういうマイナス面の雰囲気がしたので、それがないのならまずは一安心だ。

 相手が本調子を取り戻せたのなら、自分も下手に慕情を言動に出したりせず接するべきであろう。咳払いをして、次の段階へ進むことにする。

 

「ひとまずは、甲板に上がりましょうか」

「ええ。蒼音さんは今日、どういった感じでこちらで過ごされますか?」

「そうですね……漠然とではありますが、いろいろ見て回ろうかなと」

 

 出かける時は目的地を設定することがほとんどな蒼音だが、今日に限っては「聖グロリアーナ学園艦を自由に回る」としている。初めて訪れる地だし、どこに何があるのかは調べれば分かるだろうが、初めてなのだからもっと自由に見て回りたい。もし二度目があれば、その際はより詳細を詰めればいいだろう。

 

「でしたら、私がお勧めする場所をいくつかご案内しましょうか」

「よろしいんですか? それでしたら、是非」

「では、行きましょう」

 

 オレンジペコのありがたい提案に乗ることにした。蒼音はどちらかと言えば、旅行地でよくある「定番の観光スポット」より「地元民が知る穴場」の方が好きだったりする。

 兎にも角にも、ずっと待合室にいては何も始まらないので、甲板へと出るエレベーターにオレンジペコと乗り込む。

 

「流石、エレベーターが6機もあるなんて……ウチじゃ考えられなかったな……」

「蒼音さんはどちらの学校を出られたんですか?」

「潮騒高校って学校なんですけどね――」

 

 そんな感じで雑談を交わしつつ、エレベーターで上へ向かう。学園艦を縦に貫くエレベーターは、ガラス張りではない普通の壁で囲まれている。それでも手摺は金メッキだし、優雅なイメージそのままの赤い意匠が壁に刻まれていたりと、ここにも妥協を知らない高級感・優雅さが満ちている。

 そして、エレベーターが甲板階に到着し、ドアが開く。青い空の明るさに少し目がくらみながらも、エレベーターを降りる。その先には。

 

「あら?」

「あ」

 

 聖グロリアーナが誇る戦車隊長・ダージリンがいた。オレンジペコは思わずと言った感じで声を出し、蒼音は驚きのあまり声も出ない。

 紺のモックネック風ラメニットと黒スキニー、そしてピーコックブルーのコートに身を包むダージリンは、どう見てもオフだが洗練されている感が強く、高校生とは思えない。噂に聞く「ノーブルシスターズ」のひとり、それも現隊長と言うこともあり、風格も相当だ。正直、見ているだけで緊張する。

 だが、同じくまともに口が利けないオレンジペコは、蒼音と同じ理由で緊張しているのではないらしい。大方、歳の離れた男と一緒にいるところを見られるのが気まずい、と言ったところだろう。オレンジペコに兄弟姉妹がいないのはダージリンも知っているだろうし、自分のことを果たしてどう説明するのか。

 

「……ダージリン様、ごきげんよう」

「……さて?」

 

 それでも、最低限の礼儀をわきまえて挨拶しようとするオレンジペコ。

 だが、ダージリンはどこか愉快そうに目を細めると、右手を頭の後ろにやり、シニヨンを解いた。ブロンドヘアーが風に靡くが、急な行動に蒼音は驚き、オレンジペコも頭に疑問符を浮かべている。

 

「どなたかと勘違いしているのかしら。ダージリン、という人は今日こちらにいないの」

「え……え?」

「どうぞ、気にしないで」

 

 くすくすと笑って、ダージリン(のはずだが)は手を振る。

 状況がつかめない蒼音だが、オレンジペコは状況を把握できたらしく、顔を真っ赤にしたかと思うと、一礼してから蒼音の左手首を掴んで歩き出す。抵抗するのも何か違うと思い、ダージリン(だと思う)に会釈をしてついていくことにする。そのダージリン(?)は、「もしもし、アッサム? ちょっとおもしろいことが起きてね……」と、誰かと電話を始めていた。

 それからオレンジペコに手を引かれて少し歩き、角をいくつか曲がったところで、お互いは足を止め、手を離した。

 

「大丈夫ですか……?」

「……はい」

 

 後ろから聞くと、オレンジペコはひとつ深呼吸をして答え、蒼音に向き直る。顔の赤みは少し引いていた。

 大丈夫そうなのを確認すると、蒼音は問いかける。

 

「今の人って、ダージリンさん、ですよね?」

「ええ、紛うことなくダージリン様です」

「でも、さっきのは一体……」

 

 未だにどういうわけかわからない蒼音だが、オレンジペコは苦笑する。

 

「ダージリン様って、実はああして人を揶揄うことがあるんです。と言っても、悪気はないんですが」

「……?」

 

 オレンジペコは、空を見上げる。

 

「きっと、私が蒼音さんと一緒にいるのを見て、邪魔しまいと思って、ああして冗談を言ったんですよ」

「邪魔、ですか……」

「ええ……」

 

 その単語で、何が言いたいかを何となく察する蒼音。

 オレンジペコは、再び視線をこちらへ向けた。その瞳は、微かにだが揺れ動いている。

 

「……デート、と捉えられたのかもしれません」

 

 恥じらうようなその言葉に、蒼音の口の中の水分が乾くのを感じる。

 デートの基準がどこからどこまでかは、明確ではない。けれど、こうして年頃の男女2人が休日に連れだって歩いていたら、例え本人たちがそうでないと思っていても、他人の目にはそう映ってしまうのものなのだろう。ダージリンも、戦車隊長の頭脳をもって、瞬時にそう捉えたのか。この場合は深読みのし過ぎだが。

 

「で、デートだなんてそんな……」

 

 だからこそ、蒼音はできる限りやんわりと、否定しようとした。今の自分たちがそう見られるのは、どちらかと言えば嫌ではないものの、オレンジペコが同じとは限らない。

 だが、蒼音も否定の言葉は最後まで口にはできなかった。

 

「……」

 

 照れているのか、それとも嬉しいのか。

 それは分からないけれど、オレンジペコがまた頬を赤らめてこちらを見ていたから。

 出だしから、蒼音は平常心を保てるかが不安だった。

 

◇ ◆ ◇ ◇ ◇

 

 資金がどれだけ潤沢かによって、学園艦の規模は変わると言っていい。聖グロリアーナ学園艦はその例に漏れず非常に巨大だ。地図を少し見るだけで、1日で回りきるのは到底不可能だと思えるほどに。

 けれど、オレンジペコが予め挙げたお勧めの場所は、いずれも距離がそれなりに近い。タイムリミットは夕方の本土行き連絡船の出港時刻だが、これなら無理なく余裕をもって回れそうだ。

 そして最初に案内してくれた場所は、戦車の演習場が見える観客席だ。中心地から程近い位置にあるそれは、見た目は言ってしまえば展望台である。市街地エリアをメインとする演習場を一望できるのはもちろん、学園艦の街並みも、その先にある海だって見えた。

 

「まあ、休日ですから戦車はいないんですけどね」

 

 オレンジペコの言う通り、今日は戦車隊の訓練が休みのため、演習場を走る戦車はただの1両もいない。けれど、戦車がいない演習場は、それはそれで珍しいのではないだろうか。それに、訓練がなくとも景色がいいのでそこまで残念がることもなかった。

 

「オレンジペコさんは、こちらで演習をご覧になったことが?」

「ここへ入学する前に、何度か。戦車隊に入ってからは、見る機会はなくなりましたね」

 

 入学を志して見学する時は、ここの世話になったのだろう。けれどオレンジペコは、今や隊長車の装填手、必要不可欠なポジションだ。戦車道の演習中にここへ来ることなどないだろう。

 

「けれどここは、自分が今いるのがどんな場所なのかを、改めて見つめなおすのに良い場所なんです。なので、お休みの日にはよくここへ来ています」

 

 窓の外に広がる景色を眺めるオレンジペコだが、言葉は穏やかながら、眼差しには強い意志のようなものを感じる。

 眼の前にあるのは、確かに聖グロリアーナの世界だ。格式と伝統を重んじ、優雅であることを常日頃から求められ、淑やかであれと常に呼び掛けてくる。

 ここはそういう場所であると、オレンジペコの言葉を聞くと、目に入る景色がそう訴えかけてきているように蒼音も感じる。

 そしてオレンジペコは、そこにいる自分は、どうあるべきなのかを、ここで思い起こしているのだ。

 

「……今も、自信は持てないですか?」

「少し前までは。けれど、OG会の一件などで、ダージリン様に認められてから、多少は自信を持ってもいいのかな、と思っています」

 

 蒼音は、今なお不安らしいオレンジペコに少しでも自信を持ってほしくて、言葉を頭の中から抽出した。

 

「自分が思うに……オレンジペコさんは立派に聖グロリアーナの1人かと。今までも、十分に淑やかで、優雅な立ち居振る舞いを見てきましたから」

 

 惚れているのを抜きにしても、蒼音は本当にそう思っている。これまで接する中で、オレンジペコからは聖グロリアーナの生徒たるにふさわしい所作、言葉を、幾度となく耳目で感じ取ってきていた。それに、聖グロリアーナを代表する戦車道にも懸命な姿勢で取り組んでいる。部外者の立場だからこそ言える意見だが、それでもオレンジペコの自信となりたい。

 するとオレンジペコは、こちらを見上げた。

 

「蒼音さんの言葉は、とても嬉しく思いますし、ありがたく受け止めます。それでも、『これでいいんだ』って妥協はしたくありませんから」

「……強いですね」

「『ノーブルシスターズ』ですもの」

 

 微笑む。今の自分に満足してしまえば停滞してしまい、向上心はやがて錆びつく。現状維持に満足しないからこそ、上を目指し続けている。そして同時に、自分の立ち位置は見失わない。本当に、尊敬すべき姿勢だ。

 

「では次に行きましょうか」

 

 オレンジペコに促されて、エレベーターで下へ戻る。

 学園艦を縦に貫くエレベーターに近い中心街は、やはりというべきかヨーロッパ風でまとめられている。石造り、レンガ造りながら古臭さを感じさせず美しさを抱かせる建物群に、道だってほとんどが石敷きだ。大手チェーンのコンビニも景観保護のために外観は洋風だし、街灯一つとってもガス灯が多い。「Graceful」のあるショッピングストリートとどこか雰囲気が似ていた。

 

「ああいうお店もあるんですね」

 

 蒼音が指さしたのは、交差点の角にあるパブのようなお店だ。学園艦は学生主体のものだから、そういった店はないと思っていたのだが、ここに住んでいる大人向けだろうか。

 オレンジペコは、「ああ」と補足してくれた。

 

「あちらのお店、聖グロリアーナの方も通われているんです」

「え、そうなんですか? ちょっとイメージできない……」

「見た目からは分かりにくいですけど、中はかなり静かでして。雰囲気があってそれなりに人気だそうです。クルセイダー部隊の方々は、お休みの日はよくあちらにいらっしゃるんですよ」

 

 窓越しに中を見てみると、確かに学生と思しき少女が何人か中で飲食を楽しんでいた。好き勝手に騒いでいる風ではなく、規律と雰囲気を守っているのは分かる。

 それから少し歩けば、欧風の街並みから日本でよく見かける住宅街に様相が変わってきた。個人経営の商店なんかも目に入ってくる。

 

「聖グロリアーナにも、こういう日本的な街があるんですね」

「陸にもこういう場所は多いじゃないですか」

「まあ、そうですけど」

 

 蒼音たちが住んでいる市は、外部からオシャレと思われがちだが、意外とこういう庶民的な感じの街の方が割合的に多い。オレンジペコの言に間違いはないと、苦笑する。

 すると、テニスコートが見えた。思えば、先程の展望台から学園艦を見下ろした時も、コートの数が多い気がした。

 

「テニスコートとか、なんか多めですね」

「グロリアーナのモデルがイギリスですから、人気があるんです。学校でも部活動はそれなりの結果を残せているんですよ」

「あ、やっぱり普通の部活もあるんですね」

「ええ。あとはクリケットとか、サッカーとか、馬術部もあります」

 

 クリケットは、詳しいルールは知らないけれどイギリス由来のスポーツだと聞いている。テニスもイギリスのトーナメントがニュースで紹介されていたはずだ。なるほど、やはり文化はモデルに依ることがあるらしい。そして、聖グロリアーナも戦車道一本勝負ではなく、普通の部活動があるのはやはり高校らしかった。

 

「そしてこちらが、その聖グロリアーナ女学院でございます」

 

 オレンジペコが手で示す先には、ヨーロッパの宮殿みたいなデザインの建物がある。石畳が校舎へと続いているが、門は閉じられていた。今日は休日だし、見学の予約なども入れていないため、入ることは当然叶わない。

 ここが普段、オレンジペコが通い、聖グロリアーナの戦車道が行われている学校。

 閉じられた門の先に広がっているのは、格式と伝統と優雅さに重きが置かれている、お嬢様たちの世界。目に見えない威圧感が迫ってくるかのようだ。

 

「どうかされましたか?」

「……なんというか、圧倒されて」

 

 自分の緊張を察したオレンジペコが尋ねてくるが、蒼音は感想を隠さずに伝える。その回答に満足したのか、頷いてくれた。

 

「それでは、次は……」

 

 踵を返し、オレンジペコが次へ案内しようとしたところで、鐘の音が鳴る。何事かと思ったが、腕時計を見れば時刻は12時だ。

 

「一度お昼にしましょうか」

「そうですね」

 

 オレンジペコの提案に頷き、学園艦の中心地である欧風の街区へと戻ることになる。今朝は連絡船の乗船時間が早めだったために、朝食もそれに合わせて早かった。だから、空腹感が襲ってくるのも比例して早くなる。

 だが、道の途中で蒼音は気になるものがあった。

 

「アロマのお店、こちらにもあるんですね」

 

 欧風の街並みに戻って間もなく目に入ったのは、二階建ての石造りの建物だ。店名には「アロマ」の文字が入っている。

 

「私は利用したことがないんですけどね」

「そうなんですか?」

 

 オレンジペコは、アロマを気に入ってくれたようなので、てっきり学園艦にある店も利用していると思ったのだが。

 しかし、疑問を呈するとオレンジペコはにこりと笑って。

 

「ずっと蒼音さんのところで買っていたので……アロマを買うのなら貴方の下で、と思いまして」

 

 オレンジペコの中で、アロマを買うのは「Graceful」と定義づけてあるらしい。それだけ、信頼をおいてくれているというのは蒼音にも分かるし、嬉しい。そして、それについてとやかく言うわけにもいかない。

 

「……ご贔屓に、どうも」

 

 だから笑って、そう返しておいた。

 

◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 

 昼食は、無難にカフェで摂ることにした。

 聖グロリアーナがイギリスをモデルにしているということで、蒼音は料理の質について一抹の不安を抱いていたらしい。が、オレンジペコとて下手な料理を紹介する気もない。

 なので、ジャケットポテトというイギリス料理を提供するカフェに行った。その料理は日本人受け(オレンジペコ自身生粋の日本人だが)も良い部類で、蒼音は「あ、すごい美味しい……!」と気に入ってくれた。オレンジペコも、ほっとする。

 そしてその後、オレンジペコは学園艦内にある資料館に蒼音を連れてきた。ここは、聖グロリアーナ学園艦が建造されてから今に至るまでの流れを、住民の生活面、学校の歴史面の両方から見ることができる。展示物には、十何分の一スケールの学園艦の模型や、歴代学院長、生徒会長の写真などがある。

 そしてそこでは、戦車道の歴史も紹介されていたいた。

 

「こうして見てみると、優勝したことがないというのはお恥ずかしいですね……」

 

 戦車道の年表を見上げながら、オレンジペコは頬を掻く。出場した大会の最終成績が併記されているが、準優勝やベスト4どまりがほとんどだ。「準」の付かない優勝は、ひとつもない。それほどまでに、黒森峰の存在は脅威だった。

 

「でも、変わるんですよね?」

「ええ。良い方向になると、思います」

 

 蒼音の質問には首を縦に振る。

 聖グロリアーナ戦車道の伝統は、因習は、今年をもって破られた。非常に強力な巡航戦車・センチュリオンを導入する。怖いものなし、と言い切れないが、これが打開策に繋がることを祈っている。

 そして蒼音には言っていないが、天才少女・島田愛里寿が見学する日も近い。あわよくば入学してほしいところだし、アッサム経由で入学を歓迎する旨も伝えていたが、全ては彼女次第、無理強いはできない。それでもし彼女が入れば、さらに聖グロリアーナの戦車道は変化を遂げるはずだ。

 

「優勝、できるといいですね」

「……ええ」

 

 蒼音が言うと、オレンジペコは自分の手を強く握る。

 大切なのは、来年度から自分が聖グロリアーナを率いるということだ。センチュリオンを導入しても、島田愛里寿ほどの人が入学したとしても、隊を率いる自分がちゃんとしていなければ、全て宝の持ち腐れになりかねない。そのプレッシャーは、やはり完全には解消しきれなかった。

 

「応援、していますから」

 

 その蒼音の言葉は、先ほどよりも柔らかさが増しているように感じる。

 見れば、蒼音が穏やかに微笑み、オレンジペコを見てくれていた。

 

「もしもまた、不安に思うこととか、緊張したりすることがあったら、遠慮なく言ってください。これまでみたいに、電話でも、メールでも、時間が合えば直接会いましょう」

「……」

「それでまた今日みたいに会えたら、気分転換しましょう」

 

 これまでオレンジペコは、メールや電話で自分の中にある気持ちを蒼音に明かしてきた。明確な理由があってもなくても、蒼音はそれに応じ、オレンジペコに向き合ってくれた。

 それはオレンジペコが隊長になっても変わらない、と蒼音は言ってくれている。きっと、その言葉は本当に気遣いから来ているのだろう。

 

「……ありがとうございます」

 

 でも、今オレンジペコの中には、太陽の光のごとく明確な感情が宿っている。蒼音の厚意に身を寄せるだけでは駄目だと思っている。

 今のままの関係がずっと続いていくのは、嫌だった。

 だからオレンジペコは、自分の中で決意を決める。

 自分の中にある不安や悔いを飲み下してでも、それを言葉で伝えたい。

 

◇ ◇ ◇ ◆ ◇

 

 資料館を出ると、時刻は15時を過ぎていた。本土ならまだ陽はかなり高い位置にあるだろうが、ここは海上で陸とは若干日の入り時刻が異なっている。なので、太陽はやや傾き、陽の光はオレンジ色に変わりつつあった。

 そんな中でオレンジペコが案内したのは、学園艦の右舷側にある公園だ。甲板の端にあるここは縦に長く広がっており、眼下には海が広がっている。時節的に花壇の花はまばらだが、公園の柵や東屋の屋根では多くのカモメが羽を休めていた。

 オレンジペコがベンチのひとつに腰を下ろしたので、蒼音も断りを入れてから隣に座る。お互いの手には、途中の自動販売機で買ったホットココアがある。

 

「本当にココアでよろしかったのですか?」

「ええ。グロリアーナで過ごしていると、出来合いの紅茶ではどうにも満足がいかなくて」

 

 来る途中の自動販売機には、確かに紅茶のペットボトルや缶はあった。けれど、自分で淹れる機会が圧倒的に増えて以来、量産される紅茶をほとんど飲まなくなったのだそうだ。コーヒーならインスタントでもいい蒼音にはいまいちその感覚がわからないが、オレンジペコの舌が肥えているのもあるだろう。

 

「蒼音さんも、コーヒーでなくていいんですか?」

「?」

「これまではお会いする時にいつもコーヒーを嗜んでいらしたので、てっきりお好きなのかと……」

 

 戦車道を歩んでいるからか、本当に人を見ていると思う。そういえば、昼食も紅茶だった。

 

「眠りに影響が出るので、コーヒーは1日1杯と決めているんです」

「なるほど……」

「行きのフェリーで飲んでしまったので」

 

 飲んだ経緯については、恥ずかしくて言えやしないが。

 オレンジペコは、ホットココアを一口飲み、両手で缶を持って夕陽に染まる水平線に視線を移す。

 

「今日は、本当にありがとうございます。学園艦を歩くのがメインになってしまいましたが……お楽しみいただけましたか?」

「はい、とても楽しかったですよ」

 

 蒼音は頷いた。一箇所に留まる時間と移動の時間がほぼ半々な感じだったが、知らない街を歩くのは中々な気持ちがいい。それに何より、オレンジペコと一緒だったのだ。楽しかったと、胸を張って言える。

 美しい瞳がこちらを向いた。表情は、夕日で定かでないものの、僅かな紅潮が見える。

 

「……これは最初にお伝えするべきだったかもしれませんが」

「?」

「戦車道の検定、お疲れさまでした」

「……ありがとうございます」

 

 最初に会った時は、会えたことが嬉しくて失念していた。けれど、蒼音は間違いなく、難関の戦車道検定を受験したのだ。

 

「どのような塩梅でしたか?」

「ベストは尽くした、とだけ」

 

 やれるだけのことはやったから、もうあとは結果を待つだけだ。戦術科目の自由筆記問題は、答えを導き出すのに手こずったが、問題の状況は割とすんなりとイメージできたと思う。それも。

 

「聖グロと黒森峰の試合を見たおかげか、問題文の状況が前よりも理解しやすくなってました。文章だけで理解しようとすると全然ですけど、頭の中でイメージできるようになったって感じで……」

「ほう……」

「とにかく、あの試合を見られてよかったです」

 

 例の練習試合は、本当に見られてよかった。良い戦いだったし、検定試験にも活かせたのだから。

 けれど、オレンジペコの顔に曇りが差した。

 

「……あの試合は、お恥ずかしい限りです。応援してもらっていただいたのに……」

 

 ココアを一口飲む。コーヒーとも紅茶とも違う、甘く温かい液体が喉を通し、外気に晒される身体を温めようとしてくれる。

 

「でも、自分から見て聖グロは頑張ったと思います。いや、頑張ったどころじゃなくて、あと一歩だったんですから」

 

 根拠のない励ましはしない。

 本当に、あと一歩で聖グロリアーナは勝てたところだった。あの時、ティーガーⅠとティーガーⅡの背後を取って、撃ち抜いていれば勝利できた。けれど、相手の状況察知が一歩上手だったがために、あの場から撤退せざるを得なくなり、そして敗北した。

 無論、当事者のオレンジペコはそれらをよく理解しているはずだった。だから、まだ表情は晴れない。

 

「黒森峰の西住隊長にも、同じことを言われました。一瞬だけでも、私の作戦は上回っていたと」

「……オレンジペコさんが、立ててたんですね。あの作戦」

「はい……」

 

 自分の立てた作戦の結果だからこそ、経緯も結果も全て受け止め、糧としなければならないと思っているのだろう。たとえ結果が無念であろうとも、悔しくても。オレンジペコは戦車道にひたむきだから。知り合ったばかりだった蒼音の相談に頷いて、隊長としてのあり方について学ぶぐらい、真剣だから。

 

「だから、蒼音さんには申し訳なく思っています」

「……なぜですか?」

「私のことを応援してくださっているのに、それに応えられなくて」

 

 ひたむきで、真剣だからこそ、そう思っている。応援してくれているのに、結果はあの通りだったから。

 だけど、それで自分に謝るのはお門違いだ。それだけは確かに言える。

 

「……オレンジペコさん」

「?」

 

 蒼音は、ココアを飲み干すと傍らに空き缶を置き、オレンジペコに視線を向ける。

 所詮は戦車道を歩めない男の言葉だから、どこまで自分の言葉が響くかも知れない。

 だけどオレンジペコが、自分の好きな人が落ち込んでいるのは、看過できない。

 だから思いの丈を、伝えたい。

 

「戦車道は、確かに勝敗がつきもので、負けた時は悔しいのもわかります。それが自分の立てた作戦の結果なら尚更ですし……だからオレンジペコさんがどれだけ悔しがっているのかは、自分にも伝わってきます」

 

 オレンジペコは、答えない。

 だが、答えは待たないで続けさせてもらう。

 

「けれどあなたの立てた作戦で、黒森峰をあと一歩まで追いつめた時、自分を含め観ていた人たちは、とても盛り上がっていました。あと一歩で、勝利するのではないかって」

 

 観客席の様子は、戦車に乗っていたオレンジペコには分からないだろう。

 けれど蒼音はその時、そこにいた。だからあの時、本当に観客席は盛り上がっていて、誰もが聖グロリアーナの勝利を確信していたのを感じ取った。

 

「聖グロが黒森峰に勝ったことがないのは自分は知っていますし、恐らくほかの方も同じでしょう。けれどあの瞬間に、オレンジペコさんは自分の立てた作戦をもって、可能性を示したんです」

「可能性……?」

「聖グロリアーナはいつか、頂点に立てると」

 

 頂点。

 黒森峰女学園が「王者」とされ、大洗女子学園が「大番狂わせ」を果たした今年。聖グロリアーナは、その後塵を拝することしか今までできていない。

 けれど、あの試合でオレンジペコが立てた作戦は、その彼女たちを追い抜き、いずれは頂点に立てるという可能性を、示して見せた。少なくとも蒼音は、そう思っている。

 

「試合に参加している人にとっては、その試合が全てなのかもしれません。そこで勝てなければ意味がないと、思っているのかもしれない。けれど自分は、いち観客としてこう言わせてほしい」

「……」

「観ている人々を歓喜させ、黒森峰の隊長にも一歩上と言わしめた。それだけの可能性を、オレンジペコさんは示したんです。結果は敗北でしたが、聖グロリアーナの未来を拓いて見せた敗北でもあると、自分は信じています」

 

 口の端が、震えている。瞳が、揺れている。

 

「だから、オレンジペコさん」

「……はい」

「結果を恥じないでください。そして、自分に……俺に申し訳ないなんて言わないでください。俺は、貴女のことを尊敬していて……」

 

 オレンジペコの手にあるココアの缶が、水音を立てていた。持っている手が震えているのだから、当たり前だろう。

 けれど、眼の前にいる1人の少女から視線を外さない。

 蒼音は、オレンジペコのことを尊敬している。

 それは、自分には決してできない戦車道という厳しい世界にいて。

 1年生ながら素質を認められて次期隊長に推されて。

 その重圧に押されながらもできることをやり続けて。

 聖グロリアーナの新しい道を拓いて。

 戦車道にひたむきで、真剣で。

 そんなオレンジペコのことを、蒼音は。

 

「……最高の戦車乗りだと、思っていますから」

 

 自信を持って、そう言える。

 オレンジペコに対する()()()()()気持ちは、今言うときではない。だから、自分がオレンジペコに思うもう一つの気持ちを伝えた。

 そしてそれは、確かに届いたのだろう。

 

「……うぅ、う……っ」

 

 オレンジペコが、嗚咽を漏らしていたから。

 みっともない泣き顔を見せたくないのか、身体が向いているのは海の方。背中を曲げて、泣いている。こんな人前で泣くことが「ノーブルシスターズ」らしくないと、思っているのだろう。

 蒼音は、それ以上を言わない。

 代わりに、オレンジペコの左肩に、そっと自らの手を添える。

 労わるように、慈しむように。

 

 落ち着いたところで、オレンジペコはココアを飲み干す。温度はかなり奪われていたが、それでも甘さは感じられる。

 

「……すみませんでした。人前で、こんな」

「いいえ、むしろ安心しました」

 

 泣き腫らした目に、ハンカチを優しく当てて涙を拭う。練習試合の後、西住まほと話をした時もそうだったが、どうして嬉しくて泣くのはこうも耐え難いのだろう。

 

「西住さんと話をした後で泣いていたのを見た時もそうでしたけど、責任を感じていないかと心配だったもので」

「……確かにあの時は、そういうものを強く感じていました」

「今はどうですか?」

 

 問われて、オレンジペコは自分の心を見つめなおす。

 確かに、その試合によって自分の中で渦巻いている不安は。

 

「……少しだけ、楽になっています」

「それはよかった」

 

 蒼音は笑う。

 涙を流すという行為には、随分と力があるらしい。ネガティブな行動に思えるそれも、時には役立つものだ。

 とはいっても、オレンジペコにはまだ別の懸念もある。

 

「……蒼音さん、もう一つお話をしても、よろしいでしょうか」

「?」

 

 太陽は傾いているが、まだ水平線との距離は離れている。陽の光は、自分と蒼音を包み込むように、穏やかに輝いていた。カモメたちは、今なお柵なり屋根なり道の脇なりで羽を休めている。1羽のカモメと視線が合った気がするが、多分気のせいだ。

 

「先日、蒼音さんとお会いした日。蒼音さんがお友達とお話しされているのを見た時……私は、怖く思ったんです」

「怖い……ですか?」

「はい。その時は、なぜそんな気持ちを真っ先に抱いてしまうのか、どうしてもわかりませんでした」

 

 弱音を吐いた後で、人前で泣いた後で、こんなことを話してしまうのはどうなのか。

 けれど心の中では、こうして自分に寄り添ってくれる蒼音への気持ちが膨れ上がっていた。あの試合で心に生じた蟠りを吐き出して、蒼音が心の重石を取り除いてくれたからかもしれない。

 

「だけどそのあと、槐さんと話をして……そして貴方とお話しして、分かったんです」

「……?」

「私が蒼音さんのことを、どう思っているのか」

 

 オレンジペコは、ココアの缶をベンチに置いて立ち上がり、蒼音の前に立つ。自分が陰になることで、蒼音に太陽の光は当たらなくなる。そのおかげで、蒼音が今非常に緊張し、かつオレンジペコの言葉を待っているのを理解できた。

 

「蒼音さんは、私のことを尊敬すると仰いました。そして、そんな私のことを応援するために、自分からいばらの道を歩み始めて、私の手助けをしたいと、贈り物もしてくれた」

 

 アロマフラワーは今も「紅茶の園」で使われている。ダージリンやアッサムを始め、他の戦車道履修者たちからの評価も上々だ。やはり良い香りとは、それだけでその場の雰囲気を良くするし、優雅さをより際立たせると思う。

 

「私は、あなたの言葉と行動に背中を押されて、今の私があるんです」

「……」

「だからこそ……私の中で、蒼音さんは……とても大きくなって。これほどまでに、私の心を、満たしてくれているんです……」

 

 言葉が詰まりだす。

 なぜそうなってしまうかは分かっている。()()を口にすることへの恥ずかしさ、その結果が悪い方へ転ぶのではないかという不安、つなぎとめてきたこの心地よい関係が途切れてしまうのではないかという恐怖。

 それらが理性として、オレンジペコの言葉を胃の中へ引きずり戻そうとしている。

 

「……蒼音さん」

 

 それでも、口の中の水分が引こうとも、その言葉を口にしようと、口を開く。

 だって、それほどまでにオレンジペコは。

 

 

「私は、あなたのことが好きです」

 

 

 自分の口から発したその言葉は、ここで交わしたどの言葉よりも、周りに響いた気がした。

 蒼音は、驚いたように、胸を撃たれたかのように、目を丸くして口を小さく開けている。

 自分の言葉は、間違いなく蒼音に届いた。

 

「……私は、蒼音さんの周りにいらっしゃる方と比べたら、まだ歳も低く、背丈も小さいです。けれど私は……蒼音さんへの想いだけは、誰にも負けない」

「……」

「だから……こんな私でよろしければ、付き合っていただけますか……?」

 

 蒼音に対する恋心。

 それと拮抗するかのような、自分が抱えるハンデと劣等感。

 それでも自分は、自分の中にある恐れを抑えて、全ての気持ちを蒼音に告げられた。これでもう、どんな答えが返ってこようと、悔いはない。

 

「……そう、ですか」

 

 間を挟んで、蒼音がついに声を出した。

 どんな言葉を告げられようと、オレンジペコに耳を塞ぐつもりはない。それは、想いを告げた人の最大の義務だ。

 

「……ひとつ、オレンジペコさんに理解を改めてほしいところがあります」

「?」

 

 返事としてはどちらとも取れない言葉に、オレンジペコは頷く。けれど、何を言うつもりなんだろう。

 

「自分は、人を見た目で判断しないと決めているんです。だから、最初に会った時も、貴女のことは戦車道を歩むれっきとした一人の女性と認識していますし、それは今も変わりません」

「……」

「他人よりも歳や容姿が幼いからといって、そこで自分は判断しません。ましてや、オレンジペコさんの言葉ですから」

 

 蒼音はそう言って立ち上がり、オレンジペコの横に立つ。お互いに、海を片手側に見る立ち位置になった。

 

「自分は貴女を尊敬して、応援しています。今までもそうでしたし、今後それを変えるつもりもありません。自分はずっと、貴女のことを応援し続ける」

「……」

「けれど……貴女と電話やメールで話す機会が増えていくうちに、貴女のことをより近くに感じるようになったんです」

 

 蒼音は先ほどのように優しいまなざしをオレンジペコに向けていた。だけど、その色合いは少し違う。

 

「いつしか、貴女の姿が自分の中に見え隠れするようになって、それはどんどん大きくなっていって。そして、あの練習試合で貴女の姿を見て、自分は……貴女の存在を、より強く感じるようになりました」

 

 目を伏せて、蒼音は続ける。

 信じられない、という気持ちが今のオレンジペコの中では勝っていた。不安や恐怖なんて二の次だった。

 だけど、それでも蒼音は目を開いて、続ける。

 優しく微笑んで。

 

 

「貴女のことが……オレンジペコさんのことが、自分は好きです」

 

 

 涙はさっき流し尽くしたと思ったのに、また視界が潤んできた。

 嬉し涙に、際限はないのだろうか。

 自分の好きな人と、同じ気持ちを抱いて繋がることは、こんなにも嬉しいことなのだろうか。

 

「だからこそ、オレンジペコさん。自分のような者でよろしければ、喜んでお付き合いさせてください」

 

 それでもオレンジペコは、涙を拭って蒼音の顔を見る。

 今の自分は、蒼音と同じように優しい顔になれているだろうか。

 

「……はい。私の方こそ、よろしくお願いいたします」

 

 オレンジペコが答えると、蒼音は笑って頷いてくれた。

 自分の抱えていた、蒼音に対する想いと背中合わせの不安は杞憂だったらしい。思えば、蒼音は最初に話をした時から、自分のことを「女性」と言ってくれた。見た目が幼いという理由で断るなんて、無駄な心配だったかもしれない。

 とはいえ、自分たちは恋人同士になれたのだ。あれこれ考えるのは後でいくらでもできる。

 だから今は、その嬉しさを全身で感じたって許されるはずだ。

 

「……蒼音さん。早速ではあるのですが、ひとつ、お願いをしてもよろしいでしょうか」

「……ここで叶えられることでよければ」

 

 槐からの「自分の気持ちを押し付けすぎないこと」という忠告を思い出す。

 だけど、それでも、オレンジペコはたったひとつだけ、願うものがあった。

 

「私は、ありのままの蒼音さんと、これから接してみたいです」

 

 オレンジペコと蒼音、そして朱那と3人で話していた時。蒼音は、朱那と話している時だけ、オレンジペコに対するような話し方ではなかった。あの砕けた様子が、蒼音の素なのだろう。

 今まで蒼音とオレンジペコとの間には、「Graceful」の店員と客、という最初の立ち位置から来る距離感というものが存在していた。加えて、蒼音がオレンジペコのことを尊敬しているという理由もあって、丁寧な言葉遣いで常に接してきたのだろう。

 だけど今日をもって、自分と蒼音は恋人となる。だから、そんな他人行儀過ぎる言葉で語り合うのではなくて、素直な蒼音を見てみたい。

 

「……じゃあ」

 

 息を吸って、吐いて、蒼音はほんの少し膝を曲げた。

 そして、オレンジペコと視線の高さと向きを合わせると。

 

「……好きだよ、オレンジペコ」

 

 素直な言葉で、素直な気持ちを告げてくれた。

 それでオレンジペコは、涙ではなく笑みを堪えられなくなって。

 

「……私も、蒼音さんのことが、大好きですっ!」

 

 真正面から、抱き着いた。

 蒼音は少し、困惑したかのように少しだけ足元をよろつかせたが、やがてオレンジペコの背中に手を回してくる。

 それから少しして体を離すと、お互い視線がまた交差する。

 気づけばお互いの唇は重なり合っていた。

 それと同時に、周りにいたカモメは、夕焼けの空へと飛び去って行った。

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◆

 

 思いが通じ合った余韻にしばし浸った後、蒼音とオレンジペコは公園を出た。連絡船の時刻には限りがあるため、いつまでもそうしているわけにもいかない。

 しかし、この数時間は人生でも一二を争うほどに目まぐるしいものだ。ついさっき、自分は晴れてオレンジペコと恋人同士になれた。それだけで、もう自分はここに来る前と大きく変わったと言っていい。

 オレンジペコの想いを聞き届けて、自分と彼女の間にある懸念や建前を押しのけて、この場で自分はそれに答えなければならない、答えたいという感情が発露した。大きくなった恋心とは、歳の差だとかそういう問題が二の次になってしまうものらしい。ただ今は、朱那が言っていたように「学生同士だから問題ない」という言葉で自分を納得させておく。

 

「蒼音さん」

 

 帰り道で、隣を歩くオレンジペコが、蒼音を見上げて話しかける。

 

「今年の末に、冬季無限軌道杯という大会が開催されるのは、ご存知でしょうか?」

「あ、そういえば戦車道ニュースでやってたね」

 

 戦車道検定に向けて勉強していた時、何かの役に立たないかと戦車道ニュースのサイトを見ていたら、偶然目にした記事。確か、戦車道の注目度が高まっているのを受けて復活に踏み切ったのだとか。

 

「それが、今の聖グロリアーナ戦車隊にとって、最後の公式大会になります」

「応援するよ。できたら直接ね」

「ありがとうございます」

 

 元から聖グロリアーナ戦車隊のことは応援しているのだ。オレンジペコと付き合うことになったのも含めて、勿論応援する。可能であれば、試合も観に行くつもりだ。

 

「その後、私は聖グロリアーナ戦車隊の隊長となるでしょう」

 

 最後の公式大会が過ぎれば、あっという間に卒業シーズンに入ることだろう。

 そうなれば、オレンジペコは隊長となる。けれど、不思議と今はもうそれについての緊張や不安をほとんど感じられなかった。

 

「そしてこれは、私なりの決意です」

「?」

「私はいずれ……ダージリン様を越える、聖グロリアーナの隊長に、戦車乗りに……プロの戦車道選手を目指します」

 

 足を止める。

 戦車道のプロリーグが正式に発足するのは知っている。そこに辿り着くまでの道程は決して易しくはないだろう。戦車道に限らず、「プロ」というものは一筋縄ではいかない。

 けれど、それにひたむきだからこそ、心血を注いでいるからこそ、その厳しい道を歩むことを厭わない。進むべき道を、迷わずそこに向けられる。

 その力強い宣言は、オレンジペコの中に揺るがない自信と芯があることを、確かに感じさせた。絶対にそうなるという意志までも伝わってくる。

 

「今回のことを、これまでのこと、そしてダージリン様から学んだすべてのことを、自分の中に蓄積して、そうなってみせます」

 

 拳を握って見せるオレンジペコ。今までにないほど、自信に満ちた表情だった。新しい一面を早くも発見できたと、蒼音は嬉しい気持ちになる。

 同時に、自信をもって前を向くその姿を見ると、とても気持ちが高揚する。

 

「だから、蒼音さん……」

「支えるよ。ずっと」

 

 何を言いたいのか、蒼音に何を望んでいるのかは、分かる気がした。

 だから蒼音は、それを言われる前に続ける。オレンジペコの手を、そっと握った。

 

「オレンジペコのことを、離れていてもずっと見てる。応援もするし、助けになれるよう戦車道のことをもっと勉強する。もしも途中でくじけそうになったら、いつでも言ってほしい。アロマもまた、見繕っておくよ」

 

 蒼音は天地が逆転しても、戦車道を歩むことはできない。だからこそ、戦車道を歩み隊長として成長し続け、プロを志すオレンジペコを応援する方法は、励まし、見守り、支えることだけだ。その「支える」にもやりようはいくらでもある。その方法をできる限り、蒼音はこなすつもりだ。

 戦車道検定の結果はまだ分からない。だけど、オレンジペコといる以上、培った知識は決して腐りはしない筈だ。受かろうが受かるまいが、それこそプロの戦車道選手に匹敵する知識を備えてみせる。もともと勉強は好きだから、なんの苦にもならない。

 

「……ありがとう、ございます」

 

 オレンジペコは、そんな蒼音の答えに目を細め、手を握る力をほんの少し強めると。

 

「あら、随分と仲が良さそうね」

 

 思わず、という感じにオレンジペコと揃ってそちらを見る。

 交差点の角から、ダージリンが姿を見せていた。その傍らには、今朝は見なかった長いブロンドヘアーと黒いリボンの少女――聖グロリアーナ戦車隊の頭脳・アッサムもいる。白のブラウスとラベンダー色のツイルフレアスカート、黒のコートのアッサムは、申し訳なさそうに眉を八の字にしていた。愉快そうなダージリンとは反対に、蒼音とオレンジペコに水を差してしまったことを少し詫びているかのようである。

 また、気まずい場所を見られたと蒼音は思う。今朝とは違って、今蒼音はオレンジペコの手を握り合っている最中なのだから。

 だが、オレンジペコは2人の登場に。

 

「アッサム様、ごきげんよう」

「……ええ、ごきげんよう。貴女は、ええと……お出かけかしら? そちらの方と」

「はい。それで恐縮なのですが、こちらの方を連絡船までお送りいたしますので……」

 

 大して驚いた風でもなく、アッサムと()()言葉を交わし、蒼音の手を引いて歩きだす。蒼音はまたしてもアッサムに対してぺこりと会釈をすることしかできないが、オレンジペコは華麗にダージリンをスルーしていた。

 

「あらあら、オレンジペコ? もしも~し?」

 

 そのオレンジペコの対応が意外なのか、ダージリンは微笑みながらもオレンジペコに声をかけている。何となく、声には戸惑いが見えた。

 思えば、蒼音もオレンジペコがダージリンのことを尊敬しているのは聞いているので、その呼びかけに応じないというのは不思議だ。

 だが、オレンジペコはダージリンの呼びかけに足を止めて、振り返ると笑顔のまま。

 

「ダージリン様は()()()()()()()()()()()()()んですよね? どうぞ、お気になさらず」

 

 今朝の意趣返し。この切り返しは予想外だったようで、ダージリンはフリーズした。方や隣のアッサムは口元を抑えて笑いを堪えている。

 そして再び歩き出すオレンジペコ。どことなく動揺しているダージリンが気の毒に思えたので、蒼音は「失礼します」とだけ言っておいた。

 

「……いいの?」

「ダージリン様を越えるための第一歩です」

 

 歩きつつ尋ねてみるが、あの皮肉はオレンジペコなりの成長の証らしい。なんとなくだが、オレンジペコを怒らせるのは危険そうだと蒼音は察した。普段温厚な人ほど怒る時は恐ろしいと相場は決まっている。

 

「とはいえ、次の戦車道の日にはあれこれ聞かれてしまいそうです」

「まあ、この状況を見られたらね……」

 

 蒼音は、未だ繋がれている自分たちの手に視線を落とす。しかしながらオレンジペコは手を離すつもりがないらしく、蒼音も同感だ。

 今朝、ダージリンの前に最初に姿を見せたときは、そこまで妙なところはなかった。しかし今は、恥ずかしげもなく手を繋いでいる。明らかに関係は進展したと捉えられただろうし、実際そうだから。

 

「聖グロの人も、こういうのには本当に興味があったりするんだね」

「ええ。意外とそういう方が多いんです」

 

 蒼音がいた学校のように、執拗に質問攻めにされたり、やんややんやと囃し立てられるイメージはなさそうだが、それでも恋に興味を抱く様子を想像すると微笑ましい。

 

「それでも私は、貴方のことを聞かれたら隠さずに話そうかと思います」

「……あまり、変なことは言ってもらわないでもらえるかなって」

「その点に関してはご安心を」

 

 オレンジペコのことだから、あることないこと話して自分のイメージを下げたりはしないと信用はしている。それでも、自分の知らない場所で自分の話をされるというのは中々心がざわつくものだ。

 とはいえ蒼音は、贈り物を一度したきりで、聖グロリアーナ女学院とはそこまで縁がない。しかも歳が離れた大学生だし、逆に何も話さないでいたらオレンジペコが不利益を被ることになりかねない。ここは彼女の潔白を優先すべきだ。

 

「……」

 

 不意に、オレンジペコが足を止める。

 手を繋いでいた蒼音も、それに合わせて立ち止まった。

 

「少し、寄ってもよろしいですか?」

 

 頷く。連絡船の時間までは、まだ少しだけ時間がある。

 オレンジペコが寄ろうと言った店は食器店だ。個人経営のお店らしく、一旦手を離して中に入る。そこまで広くはないものの、皿やコップ、ティーセットなどが整然と並べられている。

 

「いらっしゃいませ」

 

 眼鏡をかけた女性の店員が、穏やかに出迎えてくれたので、蒼音は目礼だけで答える。

 オレンジペコがここへ寄ろうと言い出したのには、何か理由があるはずだ。それを拾おうとしてみるが、何かを探し求めている姿を見てもいまいちそれは思い浮かばない。そもそも、ここに立ち寄ったこと自体かなり衝動的なものようだった。

 オレンジペコが足を向けたのは、カップの類が並べてある場所。普通のガラスのコップから、マグカップ、紅茶用のティーカップまで一通りある。オレンジペコの横に立ち、視線を窺ってみると、マグカップの辺りに向けられていた。

 やがてオレンジペコが手を伸ばしたのは、取っ手の頂点に彫られたバラの花がワンポイントの白いマグカップだ。取っ手以外は白の無地で、とてもシンプルなデザインである。

 

「蒼音さんは、コーヒーをよく飲むと仰ってましたよね」

「あ、うん。最近は紅茶を飲むことも増えたけど……」

 

 オレンジペコに勧められたカフェインレスの紅茶から始まって、最近はインスタントの紅茶も少しだけ飲んでいた。頻度としてはコーヒーのほうがまだ上だが、今後それも入れ替わるかもしれない。

 

「……でしたら」

 

 オレンジペコは、そのマグカップを蒼音に見せる。

 

「こちらを、貴方にお贈りしてもよろしいでしょうか」

「え?」

 

 急な話に首を傾げる。オレンジペコはそのマグカップを胸の前で、愛おしむように両手で持つ。

 

「私は学園艦で暮らしておりますから、今日が終われば蒼音さんとはまた離れ離れになってしまいます。だから……少しでも私との思い出になればと思いまして」

「……」

「それに、今日という日の記念でもありますから」

 

 蒼音にとってのオレンジペコは、家族以上に大切な存在となった。だからこの先、その存在を忘れるなんてことは決してない。

 だけれども、オレンジペコはやはり不安なのだろう。陸に住む自分とは違い、オレンジペコは向こう2年ほど海の上で暮らし続ける。だから、もしかしたら蒼音との関係が途切れてしまわないかと、不安になってしまう。これまでも、電話やメールで繋がっていたからそうはさせないが、恋人という一段階進んだ関係になったから、一層そのつながりが途切れてしまうことを恐れている。

 その気持ちは分かるし、蒼音もまた同じだ。

 

「……それなら、喜んで受け取るよ」

「……ありがとうございます」

 

 笑って頷くと、オレンジペコはそのマグカップを店員の下へもっていく。

 

「ありがとうございます」

 

 女性の店員は、笑みを浮かべながらマグカップを丁寧な手付きで包装する。思えば、ついさっきのオレンジペコとの会話は多分聞かれてしまっただろう。けれど、茶化されたりしないだけ十分だ。

 オレンジペコが、包装されたマグカップの入った紙袋を受け取る。

 

「またお越しくださいませ」

 

 店員の言葉に、オレンジペコは会釈をし、蒼音も目礼だけして店を出ることにする。

 だがその時、蒼音にだけ見えるように、店員は親指を立てていた。彼女とそのマグカップを大事にしなさい、という意味だろう。

 やはり、恥ずかしい。他の客がいなかっただけマシと考えておく。

 

 食器店を出ると、時刻は程よく過ぎていたので、オレンジペコは蒼音と一緒に連絡船の乗船口までエレベーターで降りる。今日は休日なのもあって、時間的に本土に出ていた聖グロリアーナの人たちが戻ってくる頃合いだった。自分は戦車隊の中でも面が割れている方だったので、これ以上誰かに今の姿を見られるのは少し避けたい。けれど、その心配もなく待合室にたどりついた。

 連絡船はまだ出航準備中で、乗船口は開いていない。その便に乗る予定の人たちが、本を読んだりスマートフォンをいじったりうたた寝をしたり、思い思いに乗船を待っていた。

 

「では、どうぞ」

「ありがとう」

 

 そこでオレンジペコは、先ほど買ったマグカップを渡す。蒼音は受け取ってくれたが、少しだけ申し訳なさそうな顔をしている。

 

「ごめん、俺の方も何か贈ってあげたら良かった……」

「私には、アロマがありますから」

 

 言いながら、オレンジペコはポケットからハンカチを取り出す。それには、カモミールの精油を一滴垂らしてあった。

 蒼音の下で買った精油も、ディフューザーも、オイルバーナーも、まだ健在だし尽きてもいない。

 

「アロマの香りを嗅いでいると、貴方のことを傍に感じるんです。だから私にとっては、それで十分です」

 

 これまでも、アロマの香りを嗅ぐたびに、不安になった気持ちは穏やかなそれへと変わっていった。だけど今は、その香りを嗅ぐと蒼音が傍にいてくれるような気持ちになる。だから今は、それだけで十分だ。

 

「……それならまた、アロマを贈るよ。今度は、オレンジペコに宛てて」

 

 そう言って、蒼音は空いた右手を差し出してくる。オレンジペコは意を汲んで、その右手を握り返す。

 そこでちょうど、乗船口が開く。アナウンスで乗船手続きが始まったことが告げられる。

 時間はもう、そんなに残されていない。

 

「じゃあ、また会う時に」

「はい……。お気をつけて」

「オレンジペコもね」

 

 少しだけ、惜しく思う。

 けれど引き留めるわけにはいかない。だから、ゆっくりと握った手を解こうとした。

 だけど、それは蒼音も同じだったらしい。蒼音もまた、手を離すのがゆっくりだった。

 その仕草にオレンジペコは、手を繋ぎ直したくなるのを我慢し、その手が完全に離れるまでの間、感じている温もりを覚えておく。

 やがて手が、指先が離れると、蒼音は笑って連絡船へと向かった。

 

 多分、次会う機会は、そう遠くないだろう。

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