愛しい香り   作:プロッター

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第3話:厚かましい願い

 いかなる時も、優雅に。それが聖グロリアーナ女学院のモットーだ。

 正真正銘のお嬢様校であるこの場所で、その言葉は何度も耳にするし、どんな時もその理念を胸に抱かなければならないと痛感させられる。

 お嬢様校と言っても、聖グロリアーナに属する生徒は十人十色だ。生まれも育ちも上流階級の者から、どちらか一方または両方がそうでもない者もいて、お嬢様の「質」というものもまた様々である。

 そして誰もが同じではないからこそ、生徒たちは皆周囲に気を配り、周囲の目を常に意識する。しかも、将来的には社交界に出て多くの人と交流を持つこともある――人によっては既にそういう場に出る者もいる――からこそ、聖グロリアーナの中では多くの視線と思想が交錯していた。相手はどういう人なのか、自分は他人にどう映っているか。誰と関わるとどういう話を聞くことができ、誰といればより良い時間が過ごせるか。

 もちろん、皆が皆一人の例外もなくそういうことを日夜考えているわけではない。友達、級友として付き合ったり、気の置けない先輩後輩関係を築く生徒だって数多くいる。もちろん、恥ずかしくない振る舞いをもって接するという前提の下でだが、損得勘定だけで人と付き合うなど窮屈だ。

 故に、誰に見られてもそうであれ、という意味を込めての聖グロリアーナのモットーがある。

 そして、それは戦車道においても例外ではない。

 

「……よし」

 

 オレンジペコは、装填に欠かせないグローブを両手に嵌めて、その手を強く握る。

 聖グロリアーナに入学したばかりの頃は、優雅に振る舞うということは、常日頃から微笑み軽やかに気品を携えることだとばかり思っていた。だが、聖グロリアーナの戦車道に触れて、そうではないと思い知らされたものだ。

 それを特に強く実感したのは、共に戦車に乗る先輩と出会ってからだった。

 

「アッサム様、本日もよろしくお願いします」

「ええ、こちらこそ。頼りにしているわ」

 

 砲手席に座るのは、自分と同じ「ノーブルシスターズ」の1人で、チャーチルの砲手を務める3年生の先輩・アッサム。理知的で、分析と計算を駆使し冷静に戦車道に臨む姿は、穏やかさよりも凛々しさが前面に出ている。それでも、「冷徹」ではなく「優雅」という印象を抱かせる人だ。

 そして2人が挨拶するのを待っていたとばかりに、キューポラからするりと1人の隊員が身体を滑り込ませてきた。

 

「既に準備は整っております、ダージリン様」

「ありがとう、オレンジペコ」

 

 オレンジペコの言葉に頷き微笑むのは、聖グロリアーナ戦車隊の隊長にして、自分の実力を見出しこのチャーチルに乗ることを認めてくれた人物。オレンジペコが尊敬するダージリンその人だ。

 淡い金髪をシニヨンにまとめた髪型もさることながら、先ほど戦車に乗り込む時、オレンジペコの報告を聞いて頷く仕草のように、ダージリンの立ち居振る舞いはいつ見てもほれぼれしてしまうほど「優雅」だ。

 

「……あら?」

 

 そのダージリンが、何かに気づいたような声を出す。オレンジペコは、専用のティーポットで蒸らし終えた紅茶をカップに注ぎながら、「どうかなさいましたか?」と尋ねた。アッサムも不思議に思ったのか振り向く。

 するとダージリンは、オレンジペコの方を向くと、目を閉じてその綺麗な顔を近づけてきた。

 

「あの、ダ、ダージリン様……?」

 

 困惑して名前を呼ぶも、ダージリンは全く反応せず顔を近づけてくる。オレンジペコも妙に顔が熱くなってきた。これはまるで、キスの間際みたいではないか。

 聖グロリアーナの戦車隊に属している以上、どんな時も紅茶をこぼしてはならないとは理解している。それでも、突然の事態にオレンジペコも手に持っている紅茶のカップを落としてしまいそうだ。

 

「……何か、いい香りがするわね」

「へ……?」

 

 ダージリンは、オレンジペコと鼻の頭が触れるか触れないかの位置まで顔を近づけ、そう呟いた。情けない声が口から洩れると、ダージリンは顔を話して元の位置に戻る。

 

「紅茶とも違う、不思議な香りがオレンジペコからするの」

「そうでしょうか? 私はあまり感じませんが……」

 

 アッサムは集中するように匂いを嗅いでいるが、気づけていないらしい。おそらく、チャーチルの砲を挟んでいるため香りが届かないのかもしれない。

 そして、オレンジペコはそのダージリンが言う「不思議な香り」には心当たりがあった。

 

「多分、私が昨日寝る前に使ったアロマの香りだと思います」

「ああ、そういうことだったのね」

「……確かに、少し香りが違うような」

 

 オレンジペコが紅茶を渡しながら種明かしをすると、ダージリンは納得したように頷いて紅茶を飲む。アッサムも、ようやく気付いたかのように戦車の中の香りを嗅いでいた。

 昨日、寝る前にオレンジペコはアロマのマッチを焚いたのだが、部屋にかけてあったタンクジャケットか、あるいは自分の髪の毛に香りが少し移ってしまったのかもしれない。次は気をつけないと、とオレンジペコは留意する。

 そしてオレンジペコは、アッサムの分の紅茶も手渡しながら、ダージリンを見た。

 

「さっきはびっくりしました……。いきなりダージリン様が、その……」

「ふふ、ごめんなさいね。可愛いオレンジペコから可愛らしい香りがしたから、つい」

 

 ころころと笑うダージリン。先ほどのことを思い出し、しかも「可愛らしい」と言われてオレンジペコは恥ずかしくなる。いつになっても、「可愛い」と評されると照れくさくなる。

 戦車隊を率いるダージリンは、まさに「いかなる時も優雅」を地で行っているとオレンジペコは思っている。戦車に乗っている間は常に悠然と構えて指揮を執り、手にした紅茶を零すことは全くと言っていいほどない。さらに、先ほどのように人をからかったり皮肉を言ったりすることはあれど、悪印象を抱かせないような人柄の良さと雰囲気。

 そんなダージリンは、オレンジペコから見ればまさに理想の存在だ。一生かかっても、彼女のようになれるかと言われればそれも疑わしいほどに。

 この2人に加えて、ほかにも先輩は大勢いる。だが、オレンジペコがかつてイメージしていた「優雅」な印象そのままの人は、ダージリンを除けばほとんどいない。誰かしら、何か少し違ったところがあるし、中にはお嬢様らしからぬ面を持った人もいる。そういう人たちに出会うことで、オレンジペコは自分の中のイメージというものを改めさせられた。

 

「でも、オレンジペコがそういったものを使ったことなんてあったかしら?」

「ええ、まあ……私も使うのは初めてでした。最近はどうにも寝つきが悪くて、導眠にアロマが良いのではないかと思い、昨日街へ行った際に」

「寝つきが悪いって……大丈夫?」

「はい、何とか……」

 

 アッサムが心配そうに尋ねるが、オレンジペコは首を横に振る。生活に支障が出るレベルのものではないので、心配されるほどでもなかった。

 一方のダージリンは、「それで」とオレンジペコに再び尋ねる。

 

「どうだったのかしら? 実際に使ってみて」

「そうですね……」

 

 オレンジペコは昨夜のことを思い出す。

 あの時、部屋を満たして、自分を包み込むように立ち上ったラベンダーの香り。それを感じながらベッドに入ると、詩集を読んで眠気が訪れるのを待つよりも早く、オレンジペコの瞼は重くなり、滑らかに眠りに落ちることができた。そして今朝も、寝起きの気分が普段より少し良かった感じがしている。

 

「……とてもよかったです。昨日のように、良い眠りが得られたのは久しぶりでした」

「……そう」

 

 それを聞いたダージリンは、嬉しそうに頷いてまた紅茶を一口飲む。アッサムも一安心したのか、目を閉じて微笑み、紅茶を飲んでいた。オレンジペコも、自分の分の紅茶を淹れて一口飲むと。

 

「こんな言葉を知ってる?」

 

 ダージリンが告げる。オレンジペコのみならず、今の聖グロリアーナ戦車隊では定番のフレーズだ。アッサムは思うところがあるようで目を伏せている。

 

「『あなたは睡眠中に精神的な充電をしているのです。適当な睡眠は、人生の喜びのためにも活力のためにも、欠くべからざるものです』」

「ジョセフ・マーフィーですね」

 

 そしてオレンジペコは、それが誰の言葉なのかを言い当てる。

 詩集に限らず本をそれなりに読むオレンジペコだが、ダージリンはそれ以上だ。しかも、状況に応じて誰かの言葉を引用するというのはかなり難しい。これも、オレンジペコがダージリンを尊敬する理由のひとつである。とはいえ、ことあるごとに例のフレーズが出るのは食傷気味だし、この癖さえなければ、ダージリンはまさに完全無欠のお嬢様なのだが。

 ダージリンは、オレンジペコの注釈に頷くと、こちらに視線を移す。

 

「どんな時でも優雅に。日々私たちがそう振る舞うためには、教養や仕草を身につけるのはもちろん重要だけど、休息も同じぐらい必要。それはオレンジペコも、理解しているでしょう?」

「はい、それは……」

「そして休息というものの中で、心身ともに休めることができる最たるものは睡眠といえる。その質を上げるのは、常に万全の状態で日々を過ごすためにとても大切なことなの」

 

 ダージリンの講釈に、オレンジペコは素直に頷く。アッサムも、ティーカップから唇を離して静かにその話を聞いていた。

 

「休息を得たオレンジペコが、これからどんな風に変わるのか、楽しみにしているわね」

「……ありがとうございます」

 

 ニコッと笑うダージリン。オレンジペコは、その穏やかな笑みを目の当たりにし、恥ずかしさと嬉しさが自分の中で噴出するのを感じて紅茶に逃げる。

 睡眠の質をどうにかしようと考えたのは本当だし、睡眠の重要性に関してもオレンジペコは理解している。だが、ダージリンからこうして期待の言葉を向けられるのは想定していなかった。何せ自分は、ただ自分でどうにかしたいと考えただけだったのだから。

 だが、ここはその言葉を甘んじて受け入れることに決める。あれこれ言い訳をしてダージリンの言葉を否定するのは淑女らしくないし、そもそも自分は期待されてこのチャーチルに乗っているのだ。そう計らってくれたダージリンの期待に応えられた実感はまだあまりないからこそ、そのダージリンの言葉を胸に今後とも精進していきたい。

 

「そのアロマは、自分で調べたものなのかしら?」

「いえ……何分アロマは初めてだったもので。お店の方に聞いて、それがおすすめだと」

「なら、それを勧めてくれた人にも感謝をしないとね」

「……そうですね」

 

 与太話のようにダージリンが話す。それは、感謝の気持ちを忘れるな、というつもりの言葉だろう。決して、直接会って感謝の言葉を贈るように、と言ったのではないと思う。

 けれどオレンジペコは、あのラベンダーのアロマを勧めてくれた人…すなわち香戸に直接お礼を言いたい気持ちはあった。アロマのマッチも数には限りがあるし、アロマが本当に良質な睡眠につながるのなら、今後継続して使いたい。それに、学園艦が停泊している今なら、時間を作って会いに行くことができるし、何より自分のことを尊敬していると言ってくれた人だ。

 運命という言葉を盲目的に信じはしないが、香戸とは不思議な出会いと再会を経てできた縁がある。なんとなく、このまま手放してしまうのを惜しいと思っていた。

 

「ダージリン隊長、時間です」

「では、行きましょうか」

 

 アッサムが懐中時計を取り出して練習開始の時刻をダージリンに告げる。それを聞いて、まずオレンジペコはダージリンのティーカップとソーサーを受け取り、ダージリンは通信機を手にする。

 

「全車前進」

 

 ダージリンの指示を受けて、すべての車両が動き出したのがオレンジペコからも見えた。当然、自分たちが乗るチャーチルも前進する。

 今日の訓練は、行進間射撃の精度を上げるというもの。動きながら撃ち続ければ、相手から狙われても命中する確率は下げられる。その射撃の命中率と速度を上げ、さらに隊列を維持したままそれができるようになるための今日の訓練だ。

 オレンジペコは、香戸へ感謝しなければ、という自分の中の方針は一旦横に置き、訓練に臨む。アッサムは一発も外さないだろうな、クルセイダー部隊は足並みを揃えられるだろうか、と予想と不安を抱きつつ訓練が始まった。

 

◆ ◇ ◇

 

 その週の休日に、オレンジペコは再び陸にあるショッピングストリートを訪れていた。しかしこの日は、先週のようなウィンドウショッピングではなく、「Graceful」に行くという明確な目的地を設定している。

 例のマッチアロマを使ったおかげで、睡眠の質は大分改善され、日中も以前と比べて穏やかに過ごせるようになった気がする。だから、ダージリンの言葉もあって、やはり直接お礼が言いたかった。それと、マッチアロマも減ってきたので、追加で買いたいのもある。何なら、別のタイプのアロマを試してみたいところだ。

 聖グロリアーナ学園艦を降りてから1時間と経たずに、目的の店に到着する。最初こそ入るのには時間を要したものの、今日は2度目なのに加えて目的もあったから、ドアを開けるのに躊躇いはなかった。

 

「こんにちは」

「あっ、いらっしゃいませ」

 

 オレンジペコが挨拶をする。ほぼ同じタイミングで、カウンターを離れようとしていた店員が、踵を返してカウンターに戻りつつ挨拶する。

 その人物は、香戸だった。考えられる話だったが、彼が今日休みだった場合には、礼が言えないという意味で不完全燃焼感が残っていただろう。なので、それが避けられただけで一先ずは安心だ。

 けれどその時、一瞬だけ香戸の表情にわずかなぎこちなさを感じたのは、オレンジペコの気のせいだろうか。

 

「ご自由にご覧下さい」

 

 それでも香戸は、先日と同様にそう言ってオレンジペコに商品を選ぶのを促す。それから香戸は、バックヤードに引っ込んだ。忙しいのか、そこで誰かと話をしているのが聞こえる。詳しい話の内容はわからない。

 まずは先にお礼をと思ったが、忙しいならその邪魔をするのは好ましくない。なのでオレンジペコは、まず新しいアロマを買うのを先にした。

 最初は手軽さと珍しさでマッチのアロマを買ったのだが、やはり別のタイプにチャレンジしたい気持ちもある。それこそディフューザーや、精油といった効果がそれなりに持続するものを使ってみたり、スプレータイプのものもいいだろう。

 問題はアロマの種類で、何せ数がかなり多い。ラベンダーにリラックス効果があると既に知っているが、他については難しい。

 と思っていたら、ラミネート加工が施された小さなプレートが商品棚に掛けてあった。どの香りにどんな効能があるのかが、簡単にまとめられている。先週ここへ来たときはなかったものだったが、新しく作ったのだろうか。

 

「へぇ……」

 

 読んでいて、声が自然と洩れ出る。アロマが主に精神面に作用するのは身を持って知っていたが、スキンケア効果のものまであるというのは初めて知った。紅茶もそうだが、アロマも奥が深いようだ。

 そしてオレンジペコはそのプレートを参考に、安眠とリラックス、そして気になるスキンケア効果があるカモミールを試してみようと思った。カモミールは例のマッチアロマにはない種類のものだったので、今度は精油で試してみることにする。

 

「お願いします」

「あ、はいありがとうございます」

 

 オレンジペコがカウンターに近づき声を掛けると、香戸がバックヤードから出てきて精油を受け取る。「こちらでよろしいでしょうか?」という確認の言葉に、オレンジペコは頷く。そうして会計を進める香戸だが、ちらちらとオレンジペコの様子を窺っていた。何かおかしなところでもあるのだろうか。服も髪も、ここに来るまでにチェックはしていたので、特段変ではないはずだが。

 

「こちらお品物でございます」

 

 それでも香戸は、やはり手際よく精油を小さな紙袋に入れて、オレンジペコへ差し出してきた。

 

「……あの」

「はい?」

 

 その紙袋を受け取ってから、オレンジペコは意を決して香戸に話しかけた。こちらから話しかけたことに向こうは面食らったようだが、話の腰を折らないほうがいいと思い続ける。

 

「この間は、ありがとうございました。勧めてくださったアロマのおかげで、睡眠も少し改善されました」

「そうでしたか……それは何よりです」

 

 オレンジペコが頭を下げて、お礼を伝える。香戸は微笑むが、「店員として当然のことをしたまで」という謙虚な姿勢もまた滲んでいる。それでもなお、オレンジペコは続ける。

 

「それに、戦車道でも前より調子が良くなったといいますか……」

「……ほう」

「とにかく、香戸さんが勧めてくれたアロマのおかげで、以前と変わることができました。ですので、本当にありがとうございます」

 

 継続してあのアロマを使用したところ、睡眠の質は改善された。さらに、リラックス効果は日中も持続したようで、あまり緊張感を抱かずに学校生活を送れている。毎日が楽しくて幸せで仕方ない、とまではいかないが、それはアロマを使い始めてからなのでその恩恵と考えている。だから、感謝を示さずにはいられない。

 香戸は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。ここまで客から感謝されたのも初めてなのかもしれない。しかしながら、そこまで時間をかけず徐々に微笑を取り戻していく。

 

「……ありがとうございます。何分、そう言ったことを告げられたのは初めてで」

 

 もしかしたら、この店を訪れた人々は、オレンジペコのように商品を勧められても、そうされるのが客として当然のことと思っていたのかもしれない。だから、お礼を言われる機会に恵まれなかったのだろう。丁寧に教えてくれるのに、可哀想だとオレンジペコは思う。

 一方の自分は、真摯に自分のことを考えてくれたことと、そのおかげで自分がより良い日々を過ごせるようになったから、感謝するのは当然だと思っている。こうしてわざわざ出向くことはそうないが、折角学園艦が寄港中なのだし、罰が当たることもなかろう。

 

「……失礼ですが、オレンジペコさん」

「はい?」

 

 感謝の気持を伝えて、香戸の言葉を聞き届けて店を出ようとしたところ、逆に声をかけられた。最初にここへ来た時と同じように声はやや抑え気味だったが、自分が何者かを理解している香戸は自分の名前を確かに呼ぶ。

 

「この後、お時間はございますか?」

「え? 大丈夫、ですけど……」

「申し訳ございませんが、少々お付き合いいただけますでしょうか。ご相談したいことがございまして……」

「へ?」

 

 そして、時間を少し貰い受けたいなんて告げられた。急すぎて、人生でもかつてないことで、声が上擦る。

 だが、香戸の顔を見る。申し訳なさが前面に出ていた。彼としても、不本意なことを切り出したいらしい。もしかしたら、商品のテスターになってほしいとかそういう話だろうか。そうでないとしても、不埒なことを狙っている風には見られない。戦車道を経験していると、不思議と「目」が養われる。聡明な戦車隊のメンバーに囲まれているからかもしれなかった。

 

「……分かりました、構いませんよ」

 

 だからオレンジペコは、頷いた。

 不安がまったくないわけではないが、このまま帰っても後味が悪い。相談が何かは知らないが、断るのは聞いてからでも遅くはないだろう。

 

「……ありがとうございます」

 

 再び頭を下げる香戸。声にも心苦しさが感じられるし、表情だって半ば歪んでいる。同情心を誘うための演技とは思えなかった。

 そして香戸は、バックヤードに引っ込んで中にいた誰かと一言二言交わすと、再びオレンジペコの前に姿を見せる。先程まで着けていた店のロゴ入りエプロンを外し、その下に着ていたシックな服が明らかになっている。

 

「少し、場所を変えましょう」

 

 そう言って香戸は、自分について来てくれるよう目と言葉で促す。オレンジペコは、頭の中で疑問符が踊っているのを感じつつも後に続く。

 

「ありがとうございました〜」

 

 そして店を出る間際、香戸に変わってカウンターに立った長い黒髪の女性に声をかけられる。オレンジペコはその人にも会釈をして店を出た。

 

◇ ◆ ◇

 

 ショッピングストリートと喫茶店やカフェは、切っても切り離せない関係みたいなものがある。買い物の合間に一息ついたり、どこで何を買うか方針を決めるためだったり、とにかく腰を下ろして時間が欲しい人にこういう場所は重宝される。ここがかつて外国人居住区ということもあったから、この一帯にカフェが多いのはその名残もあるだろう。

 

「少し複雑な話になりますので、お茶を飲みながらでもよろしいですか?」

「ええ、構いませんけれど…」

 

 香戸蒼音は、オレンジペコとともに喫茶店に入る。予め確認しておくが、オレンジペコはこういった喫茶店に抵抗はあまりないらしい。蒼音が彼女と同じぐらいの時分には、このような堅苦しそう店よりもファミレスなどのカジュアルな店を好んでいたものだが、そこは流石の聖グロリアーナと言うべきか。

 ともあれ、蒼音とオレンジペコは窓際のテーブル席に通される。そしてまずは飲み物をということで、蒼音はブレンドコーヒー、オレンジペコはアールグレイティーを頼んだ。

 

「……お話をする前に、改めて。香戸蒼音と言います。大学2年生です」

「どうも……」

 

 「Graceful」でネームプレートを付けていても、自分から名乗ったことはなかった。だからここで、自己紹介の場を設けさせてもらうが、オレンジペコはやはり困惑している様子である。

 無理もないと、蒼音も呼び出した身で思う。ちょっと話をしただけの店員が、聖グロリアーナの「ノーブルシスターズ」の1人にいきなり相談を持ち掛けるなど。とても普段の口調で話せはしないので、自分の中の語彙力と接客業で培った言葉遣いをフル活用して話を続ける。

 

「相談、と先ほど申し上げましたが……まず大前提として、断っていただいても一向に問題はございません。重く受け止めないでください」

「……」

 

 オレンジペコは、こくりと頷く。

 どんな内容かまだ知らなくても、オレンジペコはその相談がどうであっても真摯に考慮するつもりなのが分かった。本当にたまらなく申し訳なくて、店の暖房もそこまで強くないのに冷や汗が垂れる。

 

「先週、最初にお会いした際……自分の姉が、戦車道をやっていると話したのは、覚えていらっしゃいますでしょうか」

「ええ、それは……覚えています」

「実はその日の夜に、オレンジペコさんがウチの店にいらっしゃったというお話を、家族内の雑談として話したところ……大変興味を持ちまして」

 

 今にしてみれば、自分だけの秘密にしておくべきだったと思う。けれど、一週間前の自分の言葉を悔やむのは今ではない。

 オレンジペコが、店員の差し出してきたお冷を飲む。そのコップを置くのを確認してから、蒼音は話を再開した。

 

「……姉が、オレンジペコさんに会ってみたい、と」

「へ?」

 

 素っ頓狂な声がオレンジペコの口から洩れた。そんな反応になってしまうのも仕方ない、と蒼音は一層申し訳なく思う。それでも、もう少し詳しく話をしなければならないと判断し、蒼音もまたお冷を一口飲んで続ける。

 

「姉は今、戦車道の社会人チームの隊長を務めているんです」

「隊長、なんですか?」

「ええ。規模はそこまで大きくはないようですが、戦車道の情報にはかなり敏感です。なので、聖グロリアーナの『ノーブルシスターズ』についても、存じ上げていたようで」

 

 最初に会った時は言わなかったが、姉の朱那はああ見えて戦車隊を率いる隊長だった。それを蒼音が最初に聞いた際には、「あんなのに務まるんだろうか」とプライベートを知る身内だからこそ抱ける感想を抱いたものだが、録画した試合を家族で観たところ、その認識は間違っていたと己を恥じた。

 戦術や戦車の種類などは、蒼音には分からなかった。けれど、仲間を率いて、仲間を鼓舞し、勝利を目指すその姿勢からは、間違いなく戦車道に真剣に向き合っていて、何より戦車道を楽しんでいるのが見て取れた。それは蒼音の知らない一面であり、

 だからこそ、戦車道の情報に対してのアンテナは広いし、何よりその弟が戦車道界隈でも有名な人と偶然知り合ったとなれば、興味を抱くのも当然だった。

 

「なので一度お会いして、お話がしてみたい、とのことです」

「……」

「もちろん、先ほど申し上げました通り断っていただいても構いません。オレンジペコさんのご都合もありますし、姉には自分から話をしますので」

 

 オレンジペコの表情を窺うが、紺青の瞳が揺れている。動揺しているのは明らかだ。当たり前だと思うし、こんな話を急にして申し訳ない、と再度頭を下げる。

 

「ええと……香戸さん」

「はい」

 

 おずおずと話しかけてくるオレンジペコ。視線を向けるのが怖かったが、それでも顔を上げる。困惑しているような目だが、どういうわけか口元は笑っていた。

 

「いきなり、そのような話をされるとは思わなくて、驚きました。けど……」

「?」

「でも……私も、お姉さまと話をしてみたいです」

 

 蒼音が予想していた答えは、「私でよろしければ」または「構いませんよ」のOKか、「すみませんが」のNGのどちらかだと思っていた。

 なので、オレンジペコが返した「朱那と話してみたい」という答えはある種予想していなかったものだ。おかげで、了承してもらえたはずなのに困惑する。

 

「……こちらから申し上げた分際でなんですが、よろしいんですか?」

「ええ。香戸さんのお姉さまが戦車隊長というのが、私も気になりまして」

 

 どうやら、オレンジペコにも興味を惹かれる要素があったようだ。

 もう少し詳しく聞こうと思ったが、そこで頼んでいた飲み物を店員が運んできた。蒼音も緊張していたので、コーヒーを飲んで一度気持ちを切り替えることにした。

 蒼音は、コーヒーと一緒に持ってきてくれた一杯分のミルクと砂糖をすべて投入し、ティースプーンでかき混ぜる。漆黒の液体は、明るいブラウンへと変わっていく。コーヒー好きには申し訳ないが、これぐらい甘くなければ蒼音は飲めなかった。

 一方のオレンジペコは、ティーポットで提供された紅茶を静かにカップへ注いでいる。ほとんど音を立てず、一滴もカップの外へ飛ばさず、それでいて緊張した様子もない。聖グロリアーナは紅茶の文化が強いと聞くので、きっとオレンジペコにとってはポットの紅茶をカップに注ぐなど造作もないのだろう。

 改めて、自分の目の前にいる人が何者なのかを再認識した。

 

「……先ほどのお話ですが」

 

 お互いに一口ずつ飲み物を飲んだところで、オレンジペコが切り出してきた。蒼音もコーヒーカップをソーサーに置く

 

「私は現在、隊長車であるチャーチルに搭乗しています」

「……はい」

 

 再度読み直した例の「月刊戦車道」のインタビュー記事には、オレンジペコだけでなくチャーチルの搭乗員全員の名前とポジションが載っていた。それに関しては既に蒼音も記憶している。

 

「それはダージリン様……隊長に実力を認められたからです。さらに私は1年生ではありますが、次期隊長としても推されているのです」

 

 やはり隊長車の乗員に選ばれることは、それだけで隊長への道が一歩近づくようなものなのだろう。とはいえそれは、オレンジペコ自身に実力とセンスがあり、その素質をそのダージリンが見抜いていたからだ。

 そしてオレンジペコは、そうして次期隊長候補となること自体を嫌がっている素振りではない。重圧に気が参っている、という雰囲気はするが。

 

「なので、隊長としての責務を果たせるように、他の隊長の方のお話も聞いてみたいと思っていたんです」

「なるほど、だから……」

「はい。香戸さんの申し出は、私にとってもありがたいと言いますか……」

 

 言って、オレンジペコも少し頭を下げる。

 目的が偶然にも合致するとは、蒼音は嬉しさはもちろん奇妙な高揚感さえ抱いていた。自分とオレンジペコの奇妙な縁が、巡り巡って姉の朱那とオレンジペコの2人をつなげることになるなんて。

 だが、その高ぶりもほどほどに、改めて頭を下げた。

 

「……面目ありません。それでは、よろしくお願いいたします」

「いえいえ、こちらこそ。香戸さんが仰ってくださったおかげですから……」

 

 そこで、小さな腹の虫の鳴き声が響く。店内で流れるクラシックのBGMに混じって、それは蒼音にも聞こえた。

 すぐさま、オレンジペコは恥ずかしそうに頬を染める。なるほど、先ほどの音の正体は彼女らしい。尊敬すべき戦車乙女でも、それ以前に年頃の女の子なのだと蒼音は理解しながら店のメニューを手に取る。

 

「……すみません。自分は昼休みなので何か食べようと思うのですが、オレンジペコさんはどうします?」

「……そう、ですね。私もいただこうかと」

 

 さりげなく食事に誘導できた、と思う。あまり直接的に「なにか食べます?」などと聞けば、余計相手を萎縮させ、遠慮させてしまいかねない。結果、オレンジペコは照れつつも、同調してくれた。

 とはいえ蒼音自身、休憩時間を無駄にはできないのでメニューはすぐに決め、オレンジペコにメニュー表を渡す。オレンジペコも、何を頼むか決めるのにそこまで時間はかからなかった。

 

「クラブハウスサンドを1つ」

「私はホットケーキを……」

 

 店員を呼んで追加の注文をしたところで、静寂が訪れる。朱那とオレンジペコの話の約束を取り付ける、という当初の目的は達した。なので話題が見つからなくなり、どうすればいいか蒼音には分からなくなった。

 

「……ふぅ」

 

 オレンジペコを見てみると、穏やかな表情で紅茶を一口飲んでいる。やはり緊張していたのだろうが、素人ながら飲む所作からは優雅さというものを感じた。か細い吐息さえも絵になる。

 そこで、香戸は気になったことを尋ねてみた。

 

「やっぱり聖グロリアーナだと、紅茶を飲むことが多いんですか?」

 

 紅茶を飲み終えたタイミングで尋ねると、オレンジペコはティーカップに視線を落として微笑む。

 

「そうですね……。1日に何度もティーパーティーが開かれますし、戦車道の時間も紅茶は欠かせませんので」

「ああ、確か戦車道でも飲んでるんでしたっけ」

「ええ。戦車に乗りながら、あるいは戦車道後のミーティングなどでも……」

「なるほど……どうりで……」

 

 呟きながら、蒼音もコーヒーを啜る。オレンジペコにもその独り言は聞こえたらしく、小首を傾げた。

 

「ああ、すみません。先ほどから、紅茶を注いだり飲んでいるところが、すごく手馴れているというか、優雅に見えて」

「ありがとうございます」

 

 正直な感想を述べる。オレンジペコの声に、嬉しさが上乗せされたのを感じ取れた。

 

「とはいえ、私などまだまだですけれどね」

「そうなんですか? 自分には、もう充分完成されているようにも見えるんですが……」

「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、聖グロにはもっと多くの先輩方がいらっしゃるんです。私よりも優れている方も、大勢おりますから」

「……やっぱり、すごいところなんですね。改めて思うと」

 

 20年以上生きた蒼音でも、事情が事情とはいえ、オレンジペコと接する際には緊張してしまう。それなのに、このオレンジペコ以上の存在がいると聞くと、まだまだ果てが見えないことを強く感じさせた。

 するとオレンジペコは、「紅茶といえば」と手を軽くぽんと合わせる。

 

「初めて貴方にお会いしたのは、紅茶の専門店でしたね」

「……ああ、財布を落とされたあの」

「それは言わないでください……」

 

 照れくさそうにするオレンジペコ。だが、あの時自分があのタイミングであの場所に行かなければ、今こうして話をすることもなかった。

 

「すみません。ですが、やはり休日にも紅茶を嗜むんですね」

「ええ。私も聖グロリアーナに入る前は週に数回飲むだけでしたし、休日も必ず飲んではいなかったのですが……学校に染まってしまったみたいで。今は飲まない日がないぐらいです」

「すごいですね……自分は紅茶を飲む機会がそうないですから」

 

 コーヒーを飲みながら感心すると、オレンジペコもまた紅茶を一口飲む。

 

「でもあの時は、香戸さんも紅茶を買ってました、よね?」

「ええ、ダージリンティーを。基本飲むのはコーヒーか緑茶なんですが、たまには紅茶を飲んでみようかなと」

「そう言えば、あの日そう仰ってましたね」

 

 蒼音とあの店員の話は、オレンジペコにも聞こえていたらしい。

 もう少し幼い時分には、蒼音もジュースを始め炭酸飲料が好きだったのだが、大学に入ってからは茶類を飲む機会が圧倒的に増えた気がした。きっかけは、いまいち覚えていない。

 

「一応、お店の方にも簡単に淹れ方は教わったんですが、やはり慣れないものですね……」

 

 ただ言った通り、紅茶は飲んだことがなかったので、事前に淹れ方を調べたのだが、それでも上手く淹れるのは難しかった。苦笑しながら呟くと、オレンジペコは顎に指をやって考え込む仕草をとる。

 

「どのようなことをアドバイスしていただいたのですか?」

「まあ、抽出する時間とか、お湯の温度でしょうか」

「他にもカップを温めたり、お湯を注ぐ高さも重要なんですよ」

「あ、そうなんですか」

 

 やはり、紅茶の文化が根強い聖グロリアーナだからこそ、その淹れ方についても造詣が深いようだ。むしろ、彼女の前で紅茶の淹れ方についてあれこれ悩んでしまったのが恥ずかしくなる。さぞ稚拙に見えたことだろう。

 

「そもそも、あの日はどうしてあちらのお店に?」

「ああ、自分は市内に住んでいるんですが、あの辺りは行ったことがなくて。開拓、という言い方もおかしいですが、ちょっと歩いてみたくなったんですよ。それで、中々よさげな雰囲気のお店だったので」

 

 同じ市に住んでいるし、自分がアルバイトをしている店もあるとはいえ、蒼音は地元の観光地や有名なスポットに自分から進んで行こうとは思わなかった。けれど、ある時ふと、自分の地元でも知らないところがあることに自分で疑問を抱いた結果、暇だったので散歩がてら回ってみようと思い立ったのだ。その結果が、オレンジペコとの出会いである。

 オレンジペコは、蒼音の言葉を聞いてふわりと笑った。

 

「実は私も、あのお店の雰囲気が気になって……。ですので、香戸さんと似た理由だったんです」

「へぇ……もしかして、オレンジペコさんも市内出身だったりするんですか?」

「はい」

 

 似たような感性を抱いて店に入ったり、出身地がほぼ同じだったりと、親近感が降って湧く。オレンジペコはかの有名な聖グロリアーナの生徒で、尊敬すべき戦車隊のメンバー。故に、住む世界が違うと思っていたのだが、こういう話を聞いているとその認識も改めさせられる。

 その事実に、ほんの少しだけ嬉しくなった。

 

「……? どうかされましたか?」

「いえ」

 

 つい口元が緩んでしまったのを見られてオレンジペコに聞かれるが、蒼音は誤魔化す。

 そこで店員が、頼んでいた料理を運んできた。

 

◇ ◇ ◆

 

 蒼音には、「休憩時間」という制限がある。なので、料理が運ばれてくると口数も減ってそれぞれ食事に集中するようになった。オレンジペコとしては、楽しく会話しながらの食事も好きだが、静かに食事に集中するのも嫌いではなかった。

 オレンジペコが頼んだホットケーキは、甘すぎない味付けで、それを包み込むように蜂蜜の優しい甘みと香り、そして柔らかな舌触りが噛み合っている。とても美味しい。けれどがっつくなんて真似は淑女として断固避けねばならないため、あくまでゆっくりと食べ進める。

 そうして食べ終わった頃には、すでに蒼音の休憩時間も終了目前だったので、食休みも早々に店を出ることにする。当然のように、2人分の食事代は蒼音が払ってくれた。曰く、「無茶なお願いを聞いてくれたことへのお礼」とのことだ。

 そして店の外へ出たところで、蒼音が再度オレンジペコに頭を下げる。

 

「本当、急な話だったのにありがとうございます」

「いいえ。私もありがたい申し出でしたから」

「すみません。それでは、また日時が決まりましたら連絡を……」

 

 挨拶をしたところで、まさにとんでもないことに気づいたと蒼音が顔で語る。

 

「……すみません、連絡先が分からないもので」

「あ、構いませんよ。私の連絡先をお伝えします」

 

 言いながらオレンジペコは、スマートフォンを取り出した。すると蒼音は、驚いたように手の中のそれを見ている。

 

「よろしいんですか?」

「ええ」

 

 蒼音が驚いているのは、連絡先をすぐ教える気になったことにだろう。

 確かにオレンジペコは、蒼音と改めて知り合ってからまだ1時間程度しか経っていない。けれど、連絡先を教えなければこの先どうにもならない。それに、話している内に蒼音は悪い人ではなく、むしろ信用に値する人であるとオレンジペコは捉えていた。戦車道を歩み、ダージリンの下についていると、自然と人を見る目が養われる。

 

「……ありがとうございます。有事の際以外は使用しないと約束します」

 

 律儀にもそう前置いて、蒼音は携帯を取り出し手際よくアドレスを交換する。

 両者のアドレスが無事に交換されたのを確認すると、蒼音は安心したように息を吐いた。

 

「本日はお時間をいただきありがとうございます。それではまた、改めて」

「はい。ご連絡お待ちしていますね」

 

 そうして別れの挨拶を告げ合い、蒼音は踵を返して「Graceful」の方へと歩いていった。

 その背を見届けてから、オレンジペコは自分のスマートフォンを見下ろす。

 こうして、血縁関係にない男性とアドレスを交換することは今までほとんどなかった。ましてや、出会って間もないのに自分から交換を持ちかけるなど皆無である。

 だからこそ、理由があったとはいえ、信用していたとはいえ、その行動に出た事実にオレンジペコは妙な感覚を得ている。達成感とは違う、自分が新しいステップに踏み出したかのような気分だ。

 自分の中で、新しい何かが動き出した。そういう感覚がする。

 

「あら、オレンジペコ?」

 

 そのオレンジペコを現実に引き戻したのは、知人の声だった。後ろを振り向けば、育ちの良さが窺える私服に焦茶色の髪をおさげにした、見知った人物が紙袋を提げてそこにいる。

 聖グロリアーナのマチルダⅡ歩兵戦車部隊長のルクリリだ。

 

「ルクリリさん、ごきげんよう」

「ええ、ごきげんよう。昼食だったのかしら?」

 

 挨拶を交わしながら、ルクリリはカフェを見る。つい先ほどまで、オレンジペコが蒼音といた店を。

 

「はい」

「今日はひとりかしら?」

「ええ、ちょっと色々見て回ろうかと」

「ふうん……そうなの」

 

 厳密には、つい先程まで1人ではなかったのだが、そこまでは言わなくてよいだろう。

 だが、ルクリリは虚空を見上げて「あっ」と何かを思い出したような声を上げた。

 

「先週も陸に降りてたわね。オレンジペコって、意外とアクティブだったの?」

 

 まさか、見られていたとは。特段悪いことはしてないし、むしろ良い出来事に巡り会えたのだが、なぜか焦りがオレンジペコの中で生じる。

 ルクリリは戦車道でも若干直情型の気があるが、同時に部隊長を任されているほどだ。観察眼は並の隊員以上だろう。

 

「こう長い期間停泊することもあまりありませんし、折角だからと思いまして」

「なるほどね……」

「ルクリリさんは、ショッピングでしょうか?」

 

 これ以上詮索されるのも何だったので、本音を含んだ答えを返しつつ、話題を逸らすことにした。丁度いいものを、ルクリリは手に持っている。

 

「ええ。服を少し……オレンジペコも同じかしら?」

「はい。私も、そんなところです」

 

 ルクリリが手に持っているのは、ファッションストリートにある有名なアパレル店のものだ。オレンジペコも、この後は普通に服などを見て回るつもりだったので嘘ではない。

 それでも、アロマのことは伏せた。

 

「そう。それじゃ、また」

「はい、ごきげんよう」

 

 ルクリリは、聞きたいことは聞き終えたという風に頷くと、先ほどオレンジペコがいたカフェに入っていく。彼女は彼女で食事時だったようだ。

 オレンジペコはルクリリに頭を下げてから、移動することにした。次に行く店はアパレル系と決めていても、具体的にどの店とは決めていないので、歩きながら考えることにする。

 そこでスマートフォンを手に持ったままなのに気づき、ポシェットにしまおうとする。と、中にある精油の小瓶が入った袋が目に入った。

 同時に、先ほど蒼音と交わした約束を思い出す。

 自分がいずれ隊長になるから、ほかの隊長の話を聞いて、心構えなどや隊長ならではの気苦労について聞いてみたい。もちろん一番身近な隊長はダージリンだが、聖グロリアーナの外の隊長とも話をしたいと、自分が隊長になる話が上がってからそれは考えていたことだ。

 だから本当に、蒼音の相談はありがたかった。最初に内容もわからず話を切り出された時は、まさか「付き合ってください」などと言われるのではないかとほんの少し思ったし、そうだったらオレンジペコも困惑の果てに断っていたところだ。

 だが、いざ持ちかけられた相談は、願ってもいなかった機会。それに恵まれたことが嬉しくて、オレンジペコは安心して微笑み、スマートフォンをポシェットにしまう。

 次に蒼音と、その姉と会う時を楽しみにするとしよう。

 

 

「ただいま戻りました」

「はーい」

 

 蒼音が「Graceful」に戻ると、槐はカウンターのパソコンで商品の在庫確認をしているところだった。蒼音は先ほど脱いだエプロンを着けなおすと、槐は席を立って背を伸ばす。

 

「オレンジペコさんと何してたの?」

「お茶しながら、戦車道のことを少々……」

 

 おや、と槐は小首を傾げた。

「なんで蒼音くんが戦車道の話を?」

「ウチの姉が話がしてみたいと頼んできまして、それでどうですかって」

「あー、そう言えばお姉さんがやってるんだったね」

 

 以前、槐との雑談で、蒼音には戦車道をやっている姉がいると話をしたことがある。槐もそれを覚えていたようだ。

 

「で、結果は?」

「驚いたことに、OKをいただきました。向こうも戦車隊長の姉の話を聞きたいとのことで……」

「それはよかったねえ」

 

 槐は嬉しそうに笑い、エプロンを外す。蒼音の次は、槐の休憩の時間だ。元々、オレンジペコがここに来る直前で蒼音の休憩時間は始まっていたのだが、その相談もあって、オレンジペコの接客を終えてから休憩に入らせてもらった。槐の休憩時間が少し遅れた点は、申し訳なく思う。

 蒼音は、胃の痛みを感じて腹を押さえた。

 

「とはいえ……厚かましいことを言ってしまったなって自覚はあります」

「そうだねえ、人によっては『何言ってんだこいつ』って反応されたかも。ま、オレンジペコさんが相手でよかったじゃない」

「本当、そうですね」

 

 実を言えば、朱那の頼みを聞いたときは、適当に頷いて後で「オレンジペコに頼んでみたが断られた」と朱那に噓をつく選択肢もあった。それ以前に、オレンジペコがまたこの店に来なければ、その話し合いの機会を設ける話も成り立たなかった。

 だが、幼い頃から確立された上下関係故に、蒼音は昔から朱那に対して嘘がつけないし、ついてもすぐバレる上、そもそも嘘をつくと自己嫌悪に陥るタイプだ。

 だから、もしもオレンジペコが店にまた来たら、多少の緊張と罪悪感を抱えたうえで話をしようと決めていたのだ。結果として良い返事をもらえたものの、それで万事解決とはいかない。まだ肝心の話をする機会は先だし、厚かましい願いを申し出たことにも変わりはなかった。

 

「なので何か、お詫びの品でも用意しようと思います」

「それがベストだろうね」

 

 槐は蒼音の言葉に同意してから、「お昼行ってくるね」と言って店を出る。蒼音は会釈してそれを送り出し、カウンターのパソコンを見る。途中だった在庫の確認作業を続けるのは蒼音の役目だ。

 その前に、オレンジペコがOKしてくれた旨を取り急ぎ朱那にメールで報告する。返事が来ても、それに答えるのはアルバイトの時間が終わってからだ。

 それからは、オレンジペコにはどういうお礼の品を用意したらいいだろうか、と頭の2割でそれを考えつつ、在庫確認を始める。給料分はしっかり働かなければ。

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