愛しい香り   作:プロッター

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第4話:楽しい時間

 念には念を、と頭の中で考えつつ、自分の姿を鏡でチェックすること15分ほどが経過していた。

 戦車道の試合前も、ダージリンたちと出かける日も、ここまで念入りに確認を重ねたことはないと思う。これからすることは、戦車道関係の人に会うという、今まで何度も経験したシチュエーションにほど近いはずなのに。

 そうなる理由は判る。会うのは自分と年上の人で、かつ自分と同サイドに人がいないからだろう。自分ひとりで会わなければならないからこそ、緊張はするし、普段から気にかけているはずの服装や髪型にも殊更気を遣う。どんな些細なほつれも乱れも、粗相になってしまわないかと不安だから。

 時計は11時を回ったところ。今から出て、軽めの昼食をどこかで摂ってからでも、待ち合わせには十分間に合う。が、これ以上不安や緊張を振り払うために何度も確認を続けて、足を踏み出せないままでは本末転倒だ。

 だからオレンジペコは、鏡を見ながら頷いて、自分の格好がどこも変ではないと確定し、最後の仕上げに入る。

 机の引き出しを開け、液体の入った小瓶を手に取る。先週「Graceful」で購入したカモミールの精油だ。それを、机に広げたハンカチに1滴だけ垂らす。

 雫がハンカチに落ち、染み込むと同時に優しい香りがオレンジペコの鼻腔をくすぐる。けれど不快感は全くなく、むしろ気持ちが落ち着いてくるのが自分で分かった。リラックス効果は抜群だ。

 オレンジペコはその余韻に浸りながら微笑み、ハンカチを入れたポシェットを肩に提げ、机の脇に置いていた紙袋を手に寮の部屋を出る。

 日曜日のこの時間になると、大抵の生徒は外に出るため、人の気配はあまりない。

 歩きつつ、思い浮かべるのは今日会う人の1人、香戸蒼音だ。

 彼から持ち出されたお願いに乗っかる形で、オレンジペコもお願いを申し出た。結果として、今日話し合いの場が設けられ、そこにはオレンジペコに直接会っている蒼音も同席する。話すことの大半は戦車道のことだが、多少は姉の影響で知っているらしいから特段支障もないだろう。

 これから自分が出会うのは、まったくの赤の他人ではない。ちゃんとした知人がいる。連絡先を教えるほどの信用をしている、蒼音がいる。

 そう考えると、少しばかり緊張は解れた。

 

「ごきげんよう」

「どうも」

 

 階段を下りて玄関に向かう途中で、話したことがない薄いブロンドのロングヘアの女子とすれ違う。挨拶も問題はなくできた。

 深呼吸をする。

 しっかりしなければ。

 まだまだ先輩たちには及ばないが、これでも自分は「ノーブルシスターズ」の1人なのだから。

 

◆ ◇ ◇

 

 待ち合わせ場所まではイチョウの並木が続いていた。カレンダー上だけでない、気候にも秋の気配が強まった今はイチョウの葉が緑から鮮やかな黄色に変化を遂げ、道行く人々に秋の到来をこれでもかというほどアピールしている。写真を撮る人もざらだった。

 そんな並木道を、蒼音は朱那と並んで歩く。

 

「もうすっかり秋めいたわねえ」

「本当。毎年この時期になると、年の暮れを感じるよ」

 

 イチョウを見上げる朱那が楽しそうな声を上げる一方、蒼音は1年の終わりをひしひしと感じていた。

 蒼音は、四季の中でも秋が一番好きだったりする。気候は暑すぎず寒すぎずで過ごしやすく、食べ物は美味しく感じるし、紅葉で木々が色づくのも見ていて楽しい。加えて、1年が終わりに近づくことで抱く寂寥感も、何とも言えない味がある。だから秋は好きだ。次点は春だが、虫が湧き始めるのが減点対象だった。

 

「しっかし、オレンジペコさんがOKしてくれて本当によかったわ。こんな貴重な機会、絶対ないからねえ」

「ああ、だからちゃんとお礼はしないとでしょ」

 

 イチョウの下で背伸びをしながら歩く朱那は、これからのことが楽しみで仕方ないという風だ。話を取り付けたのは隣を歩く蒼音なのだが、その蒼音は朱那以上に緊張している。

 こんな風に改まって誰かと話をする機会なんて、オレンジペコに限らず日常生活ではほとんどない。学業の中で先生と話をすることはあっても、今日みたいなプライベートの日となれば前例は全くと言っていいほどやかった。強いて言えば、先週オレンジペコと話をした時ぐらいだが、あの時も仕事の合間の休憩時間だから微妙なところだ。

 

「お菓子はいいのを買ってきた?」

「ああ、紅茶に合う感じのよさそうなのをね」

「さっすが」

 

 蒼音が手に持っているのは、そこそこ有名な洋菓子店で買った菓子折りだ。流石に朱那も感謝していたのか、代金は朱那持ちで、それを選んだのはこの手の贈り物は外さないと家族内で定評のある蒼音である。

 これに加えて蒼音は、今日またどこかで改めて何かしらのお礼をオレンジペコにした方がいいと考えていた。こちらの申し出をありがたいと言ってくれたものの、それでも無理な話を持ち掛けた事実に対する申し訳なさは消えていない。あの日昼食代を奢っただけで完全に清算されたとは毛頭思わなかった。

 

「で、待ち合わせはここ?」

 

 朱那とともに辿り着いたのは、港沿いにある公園。草花が多く植えられ、噴水や洋風庭園を擁し海を臨むこの公園は、観光客にも人気の高い場所である。今は園内の木々が色づき、秋の花が見頃を迎えていて、休日の今日も人出は中々のものだ。

 蒼音はオレンジペコと擦り合わせ、待ち合わせは13時にこの公園と決めてある。朱那の言葉に蒼音は頷いた。

 

「確か公園のカフェの前で待ち合わせだけど……」

 

 言いながら、蒼音は朱那とその公園のカフェに向けて歩き出す。そこは公園の入り口にほど近い場所にあった。

 

「あ。い、た……」

 

 やがてオレンジペコを見つけた。しかしながら、蒼音のその声は最後までまともには紡がれない。

 カフェの前で、腕時計で時間を確かめながら佇むその人物は、顔と髪型でオレンジペコとすぐに分かった。

 言葉が失われかけたのは、その雰囲気によるものだ。白いブラウスとチェック柄の淡桃のカーディガン、ブラウンのフレアスカートに、ワインレッドのベレー帽を頭にちょこんと載せている姿は、純粋かつ淑やかな空気感を醸している。近くを歩く人は、露骨に見つめたりはせずとも、ちらちらとオレンジペコの方を見ていた。

 絵になっている、と直感で思った。

 

「……ねぇ。あの子、だよね?」

 

 思わず足を止めてしまったが、朱那も同様にその雰囲気に圧倒されているようだ。これからあの人と話をするなんて、と実感が湧かないらしい。

 それは蒼音も同じっただ。

 これまで蒼音は、オレンジペコと3度顔を合わせていたし、そのいずれもオレンジペコは私服だった。けれど、今のように、その姿を見ただけでここまで感情が刺激されたことなどない。

 そうさせる原因は何なのか。

 この公園全体の秋めいた景色と合致しているからなのか。

 ただ佇んでいる姿が華奢ながらも優雅さを醸し出しているからなのか。

 あるいは、こうして事前に待ち合わせの予定を立てて「会う」と決めたのが初めてだからなのか。

 そのうえで、蒼音がそんなオレンジペコの姿を、可憐だと思ったからなのか。

 

「……うん。あの子で間違いない」

 

 けれど蒼音は、何とか言葉を捻りだす。こんなところでショックを受けていては何も始まらない。疑問は後回しだ。

 だから朱那よりも、既に顔を合わせて素性が割れている蒼音が動くべきだった。

 

「……オレンジペコさん」

 

 気持ち少し早歩きで、オレンジペコのもとへ歩み寄る。周りの人に気づかれにくいように、声量は若干押さえて名前を呼ぶ。

 するとオレンジペコは、視線を上げてこちらを見てくれた。

 そして、微笑む。

 

「香戸さん。ごきげんよう」

「どうも。お待たせしてすみません」

「いえ、私もつい先ほど来たばかりですから」

 

 挨拶を交わすが、やはり前回と変わらない様子のオレンジペコだ。そこに蒼音も安心感を抱き、最初に彼女を見た時の動揺が引いていく。

 そこで、未だに後ろでもごもごしている朱那を振り向いた。

 

「ほら姉さん、挨拶しなよ」

「あ、うん……」

 

 促されると、朱那は会社の上司でも相手にしているかのようなぎこちなさでオレンジペコに歩み寄る。

 

「どうも初めまして。蒼音の姉の朱那です」

「こちらこそ、初めまして。聖グロリアーナ女学院のオレンジペコです」

 

 朱那が頭を下げると、同じように頭を下げるオレンジペコ。借りてきた猫みたいだ、と蒼音は朱那を見て思う。

 すると、頭を上げた朱那が一瞬だけ笑みを深めた。それは緊張を和らげる時にいつもやる癖みたいなものだ。

 

「かの有名な聖グロリアーナの、それも『ノーブルシスターズ』に会えるなんて光栄だわ」

「恐縮です……。私も、社会人チームの隊長にお目にかかれるなんて」

「ふふ、と言っても規模はそこまで大きくはないんだけどね」

 

 朱那も、徐々に普段の調子を取り戻せてきたらしい。そこについては蒼音もほっとする。会いたいと言っていた側が緊張でろくに言葉も発せなければ、今日の話し合いを取り付けた甲斐も薄れてしまう。

 一方のオレンジペコは、姉を前に緊張していると見える。年上2人を相手にするのだから、状況的に仕方がないだろうと思うし、何とかしたいとも思った。

 

「挨拶もそれぐらいにして、まずはどこかに腰を下ろそうか」

「ええ、そうね」

 

 蒼音が切り出すと、朱那は頷いた。

 ずっと立ち話をするつもりはなかったので、最初からどこかカフェなどのお店に入るつもりでいた。だが、待ち合わせ場所になっていたカフェは、公園の利用者が多く滞在しており、見る限り空席はほとんどない。あったとしても、3人――最低でも2人――で座れる席は望めないだろう。

 

「近くに別のカフェがあるから、そこに行こうか」

「任せるわ」

「お願いします」

 

 だが、蒼音はその点を考慮して第2候補もちゃんと調べてあいる。その場所へ朱那とオレンジペコを先導する形で向かった。

 基本的に今日話をするのは、朱那とオレンジペコがメインだと蒼音は思っている。蒼音はあくまで2人の間の橋渡し役だと思っていたから、話をする場所をセッティングするのも自分の仕事と考えていた。

 それでも、男の蒼音には及びもつかない戦車道に関する話を、2人がどう話すのかは楽しみだった。

 

◇ ◆ ◇

 

 蒼音が案内してくれた店は、オレンジペコが先週蒼音と話をし、昼食を共にした店とはまた別の喫茶店だ。先ほどの公園や街の中心部とは離れており、その上大通りの2本隣の道沿いにあるため、普通なら見つけにくい。見た目からして長い間店を構えているようで、いわば隠れ家のようだった。

 店の中は古き良き喫茶店という具合で、シーリングファンが天井で回転し、カウンターではクラシックスタイルのスーツを着る女性がコーヒーを淹れている。BGMにジャズが流れていて、オレンジペコは入った瞬間に「居心地がいい」と感じた。

 

「さて」

 

 ボックス席に通されて、オレンジペコは蒼音と朱那の2人と向かい合うように座る。そこへすかさず、店員がお冷とおしぼりを持ってきてくれた。朱那は会釈をしつつ、メニューを開く。

 

「ここは私が奢るわ。オレンジペコさんも好きなのを頼んでいいから」

「いえ、私もお話がしたかったところがありますし、自分の分は自分で支払います」

「そう……分かったわ。ならここは、間をとって蒼音が全部払うということで」

「どこの間をとったのか俺は何にも分からないんだけど」

 

 姉弟特有の軽快なやり取りにオレンジペコは苦笑する。すると、朱那は「冗談よ」と言ってこちらを見た。

 

「私に払わせて。今回、こうしてあなたとお話しすることができるのは嬉しいけど、元はといえば私が無茶を言ったのもあるから。オレンジペコさんが遠慮する必要はないのよ」

 

 にこっと笑う朱那。ダージリンやアッサムなどの先輩とは違う、大人の余裕とも取れる笑みだった。その笑顔にオレンジペコは、「ご馳走になります」と頭を下げる。とはいえ、それで高いメニューを頼もうとするほど図々しくはないので、アッサムティーを頼むことにした。

 

「アッサムティーを1つと、ブレンドコーヒーを2つで、1つはブラックで」

「かしこまりました」

 

 蒼音が注文する。香戸姉弟は揃ってコーヒーだったが、オレンジペコはコーヒーの類を飲んだことがほとんどない。あったとしても、コーヒー牛乳のように甘い味付けのものだけだ。

 

「聖グロの方の前でコーヒーというのも、ちょっと申し訳ない気がするけどね……」

「い、いえ。お気になさらず……お好きなものを召し上がってください」

 

 苦笑しながら朱那が言うが、オレンジペコはそれを否定する。自分が聖グロリアーナの人間だからと言って、飲み物までこちらに合わる義務などない。公式の対談でもないのだし、好きなものを好きなように飲んでほしい。そこまで気を遣われるのも恐れ多かった。

 

「紅茶は飲めなくはないんだけど、ちょっと私には甘すぎるかなって。私はコーヒーの苦さとか、その奥のちょっとした甘みがこう、うまく言えないけどお気に入りなのよ」

「……高校生の時に大人ぶってブラックを飲んで盛大に噴いて俺のショートケーキをコーヒー風味にした人が何を――」

「何か言ったか愚弟」

「いいえ姉上様」

 

 ぼそっと呟く蒼音の言葉を一言で封殺する朱那。そして何事もなかったように恭しく返す蒼音。

 その2人のやり取りに、思わずオレンジペコもクスッと笑ってしまった。

 

「……さて、それじゃ」

 

 そこで朱那が、仕切り直しという風に言う。

 どうやら、オレンジペコが緊張していることは向こうに知れていたらしい。それでリラックスさせるために、姉弟特有のやり取りを見せたのだろう。思うに、この2人は仲が良いみたいだ。

 

「オレンジペコさんも、私の話が聞きたいとは弟から聞いているわ。でも、私みたいな小規模な隊の戦車乗りに何か話して聞かせられる話なんてあるかしら……?」

「いいえ、そんな」

 

 謙遜する朱那の言葉を、オレンジペコは手を振って否定する。

 

「……ご存じかもしれませんが、私は隊長車の装填手で、次の隊長候補としても隊から推されているんです」

「ええ、蒼音から聞いているわ」

 

 蒼音は、オレンジペコを見たまま頷いている。オレンジペコがなぜ朱那と話をしたいのか、その理由までは話してくれたらしい。だとすれば、幾分話は早い。

 

「隊長車で、ダージリン隊長の指揮を間近で見て、ほかの学校の試合も積極的に観戦し、勉強もしていると自負はしています。けれど、2年生からいきなり隊長というと……正直な話、重圧というものは感じてしまうんです」

「まあ、それは無理もないかな、と……」

 

 緊張がいい塩梅に解れたことで、オレンジペコも自分の心情や置かれている状況を話すことができた。蒼音はそんなオレンジペコに、親身になるような同情の言葉をかけてくれた。

 

「朱那さんは、そういったことはないのですか?」

「緊張したりとか?」

「はい。規模は小さいと仰っていましたが、それでも隊を率いることに変わりはありません。ましてや、戦車道は多くの人と戦車の動きを敵味方問わず把握していなければ、戦うこともままならない……。加えて、仲間を率いる覚悟も要る。戦車隊長とはそういうものだと、私は考えているのです」

 

 ダージリンの姿が脳裏に浮かぶ。

 いかなる時も優雅に、ダージリンは振舞っている。戦車道の時も、オフの時も。他校の生徒と交流するときだって、楽しんでいるように見えるのに「優雅」というイメージは少しも揺るがない。

 しかし、オレンジペコは分かっているのだ。彼女が微笑みを携えていても、優雅に立ち回っていても、戦車道では多くのものを背負い、頭の中で常に移り変わる戦況を把握して思考し続け、ただ一点の「勝利」を目指していることを。

 今まで、オレンジペコはその姿を幾度となく見てきた。もちろん、見るだけで何も考えずにただ弾を装填しているだけでなく、ダージリンが何を思いどう考え、次にどのような行動に移すのかを自分なりに考えていた。もっと言えば、自分が隊長であればどうするかと仮定を立てて、ダージリンの実際の指揮で答え合わせをする。そういうこともしてきた。

 しかし自分には、そこが関の山だ。ダージリンが背負っているもの――信頼、重圧、伝統、聖グロリアーナのモットーなど――の負担までは、どうしても理解しきれない。そしていざ自分がその立場に立てば、押し潰されてしまうであろうことは想像に難くなかった。

 だからこそ、ダージリンだけでない、戦車隊を率いる隊長の心構えや、その在り方を学びたい。まだ隊長になっていない自分にできることは、そうやって自分の骨組みを強くすることだ。

 

「私には、まだ自分が隊長たり得るとは思えません。だから、常に戦車道で鍛錬することに加えて、多くの方が隊長としてどうしているのかをお聞きしたいんです」

「……なるほど」

 

 朱那は頷くと、お冷を一口飲む。

 コップから口を離した彼女は、笑っていた。

 

「参考になるかどうかは分からないけど……そういうことなら、私も話せることは話すわ」

「……ありがとうございます!」

「まぁ、私がこうしているからと言って、オレンジペコさんもそうしなさいなんて強制力はないから、あしからずね」

 

 オレンジペコは、頭を下げる。

 そこでタイミングよく、店員が飲み物を運んできてくれた。蒼音は、テーブルに置かれていた小瓶の砂糖をスプーン一杯分混ぜ、ミルクも同じ量を入れてかき混ぜる。朱那はブラックだった。

 

「どこから話すべきか迷うけど……大前提として、私が隊長でいられる理由を話しておくべきかしら」

 

 オレンジペコは、紅茶を一口飲んで口の中を潤わせてから、話を聞く態勢に入る。蒼音もコーヒーを一口飲んで、視線を朱那に向けていた。

 

「試合中でも、私は『隊長なんだから私がどうにかしなきゃ』って思ったことがないのよ」

 

 朱那の言葉に、オレンジペコは目をパチクリさせる。その隊長としてのスタンスが意外だったからだ。

 そこで声を出したのは、蒼音だった。

 

「自分だけで気負いすぎないってこと?」

「そういうことね。私が隊長なんだから、作戦はああしなきゃ、指示はこうしなきゃ、絶対に勝てる戦いにしなきゃ、って1人で抱え込まないようにしているの」

 

 朱那は蒼音の言葉に頷いて、続ける。

 

「もちろん、隊長としての責任から逃げるつもりはない。作戦は自分だけでなくチームで立てるけど、最終的にどうするかは私が考えて決める。隊員全員の行動を完全に縛りはしないけど把握して、そのうえでどうすべきかを考えて指示を下す」

 

 朱那はコーヒーに視線を落とす。過去を省みているかのような表情を浮かべていた。

 

「私は正直な話、隊長になりたかったわけじゃない。責任が増えるし、やることも増えちゃうから。けど、一隊員として戦車道に励んでいる頃は、与えられた場でやることはきっちりこなしていたし、それに実力が他よりあったからって、先代の隊長に認められて抜擢された」

 

 朱那はどうやら、叩き上げで隊長になったらしい。特別な才能がなくても、役割をきっちりこなす実直さを認められたのだろう。蒼音も口を挟みはしなかった。

 

「けど最初のころは、さっき言ったみたいに『隊長だから』って意気込んでたのよ」

 

 朱那は、またコーヒーを一口飲む。慣れていてもブラックコーヒーの渋さは効くのか、少しだけ唇を真一文字に結んだ。

 

「それで……なかなか上手くいかなくてね。投げ出したくもなった、隊長って役割を」

「……」

「でもそんな時、前の隊長が言ってくれたんだ。『何でもかんでも1人でやろうとしなくていいのよ』って」

 

 朱那は、コーヒーカップを両手で包み込む。その温かさを強く感じたいかのように。きっと、今の朱那の目に映っているのは、その時の隊長の姿だ。

 

「だから私は、まず不得意なところでみんなの力を借りることにした。作戦を考えて細かいところを詰める時に意見を求めたり、全体の動きを把握するのに同じ戦車に乗る仲間と協力したり……」

「……」

「そうしていると、自分の負担はこんなにも軽くなるんだって、目から鱗だったわ」

 

 だから、と言って朱那はオレンジペコを見る。

 

「オレンジペコさんも、これから隊長になるってことで色々と覚悟しているんだと思う。だけど、もし行き詰まったら、周りの仲間を頼ってみるといいんじゃないかしら」

「周りを……」

「隊長は孤高で、孤独で、全てを自分でしなければならない、というわけではないんでしょ? 聖グロリアーナも」

 

 言われてオレンジペコも、思い返す。

 確かに聖グロリアーナは、聖グロリアーナの戦車道は「いかなる時も優雅」だ。だが、朱那の言うように隊長のあり方にまでそういった固定概念は存在しないと思う。オレンジペコにとって聖グロリアーナの隊長はダージリンだけだし、それ以前の隊長がどういう人だったかは把握できない。これについては、ダージリンに直接確認するほかないだろう。

 そしてダージリンは、確かに隊長として隊を率いてまとめている。それでも、作戦をより詳細に考えるのはアッサムが担っている面があるし、マチルダ部隊やクルセイダー部隊の具体的な行動は各部隊長に一任もしている。全てにおいてダージリンが一括りに統べているわけではないのも事実だった。

 

「そう、かもしれませんね……私は少し、気負いすぎていたのかもしれません」

「まぁもちろん、これはあくまで私の意見だからね。一番は、オレンジペコさんがまずできる限りのことをやってみることだと思う。あまりみんなに頼ってばかりの隊長だと、逆に不安にさせちゃうし。だから、どうしてもダメそうだと思ったら、参考にしてみるといいんじゃないかな」

 

 指をくるくると回す朱那。柄にもなくシリアスなことを言っちゃった、と肩を竦めてまたコーヒーを一口飲む。オレンジペコは思うに、隊長としていられる理由のひとつは、今みたいに相手の緊張を解せるような発言や仕草を自然とできる点かもしれない。現にオレンジペコは、朱那と話して緊張感をさほど抱かなくなっていた。

 そこで口を開いたのは、蒼音だ。

 

「戦車道も奥が深いんだね」

「そりゃそうよ。そんな何も考えないでできるほど戦車道も甘くないんだし」

「いや、確かにそうは思っていたよ。けど、姉さんがどんな気持ちで戦車道をやってるのかって初めて知ったし」

 

 それに、と蒼音はオレンジペコを見る。

 

「やっぱりオレンジペコさんって、戦車道にひたむきなんだなと」

「え?」

「1年生で次期隊長に推されるって、やっぱりすごいことじゃないですか。その時点で、自分だったらもうプレッシャーに押しつぶされそうです」

「あんたそういうの苦手そうだしねえ」

 

 朱那の言い方からして、どうも蒼音は人の上に立って指示を下したり、大人数を引っ張ったりするのが得意ではないらしい。オレンジペコも、前に話をした時からそういうタイプではなさそうだとは思っていた。

 

「だから、こうやって積極的に動いて、自分がちゃんとした隊長になれるようにって、やれるだけの努力をちゃんとするのはすごいと思うんですよ。やっぱり」

 

 そう告げる蒼音は、本当に心からそう思っているような感じだ。

 自分にはできないことができる人は、素直に尊敬する。蒼音は以前そう言っていた。どうやら蒼音は、人の長所を把握し、認めたうえで尊敬と称賛の念を忘れないほどに真面目で、誠実な性格のようだ。

 そして、蒼音からそういうことを真正面から言われると、オレンジペコとしても胸の奥がどうにもむず痒くなる。

 

「えっと、ありがとうございます……」

「ダメでしょ、オレンジペコさん困らせたら」

「あ、すみません……」

「い、いえ。謝らないでください、嬉しかったですから」

 

 オレンジペコの照れを困惑と捉えた朱那が蒼音を咎める。蒼音は何も間違ったことは言っていないし、オレンジペコだってそう言われて嬉しかったのは事実だ。だから蒼音が気に病むことはないので、頭を上げてもらう。

 

「でも確かに、オレンジペコさんはすごいわよ。私なんて、今のオレンジペコさんの年ぐらいの頃はそこまで覚悟決めて何かに取り組んでるなんてこと、なかったし。昔は青かったなあ」

「ことあるごとに人の部屋に本を押し付けてくる点は今も青い気も――」

「ああん?」

 

 雰囲気を払拭させるためか、それとも素なのか、気の置けない会話を交わす2人を見て、またしてもオレンジペコは口元を手で隠して笑う。悪意と敵意に満ちたそれではなくて、信頼し合っているからこそのやり取りは、聖グロリアーナでも見ることがそうそうない。見ていて微笑ましい。

 改めて思う。朱那の話を聞けたこと、そしてこうして新鮮な気持ちになれただけ、今日2人に会えてよかったと。

 

◇ ◇ ◆

 

 朱那の話を聞いた後は、お返しというのも変だが、聖グロリアーナのことを主に話すこととなった。2人は聖グロリアーナのことを大まかに知っていても、内部事情に関してはあまり知らなかったらしい。

 

「へえ、隊列を組むこと特化の練習ね……うちのチームにはないなぁ」

「難しそうですね……」

「それでも聖グロリアーナではいつもやっていることですから」 

 

 聖グロリアーナ戦車隊が普段どんな練習メニューを組んでいるのか。

 

「イギリス料理って、あまり美味しくないイメージあるけど……どうなのかしら」

「あ、イングリッシュ・ブレックファーストだっけ。あれ食べてみたいかも」

「そちらは寮のメニューにございますね。美味しいですよ」

 

 寮や学食のイギリス風メニューのこと。

 

「そんなに紅茶飲むのね」

「でも、だからオレンジペコさんって紅茶を飲んでるところがすごい似合ってるんじゃないかな」

「ふふ、ありがとうございます」

 

 紅茶の文化、ティータイム制といった戦車道の外のことも話すと、朱那と蒼音は興味深そうに頷いてくれた。

 聖グロリアーナに属さない、同じ高校生と話をする機会はオレンジペコもあれど、ほとんど戦車道関連だ。だから、大学生と社会人というこの2人に聖グロリアーナの話をして、「知らなかった」とか「そんな文化があるとは」なんて反応をされるのは、実に新鮮味に溢れ、それでいて楽しい。

 それでも理性とは働くもので、同じ戦車隊のメンバーにはこういう人がいるという話はしても、その人たちの赤裸々な一面を話したりはしない。蒼音たちも野次馬根性は持ち合わせていないらしく、根掘り葉掘り聞こうとはしてこなかった。

 そして楽しい時間は早く感じてしまうもので、気づけば店内の時計は16時を示している。

 

「あら、もうこんな時間。それでは、お互い明日もあることだし、そろそろお開きかしら」

「ええ、ですね」

 

 先に気づいた朱那がお開きを告げると、オレンジペコも頷く。確かにオレンジペコも明日は学校があるし、学園艦の門限も存在するため、あまり遅くなるのもいけない。

 席を立ち、最初に言った通り朱那が全額支払う。オレンジペコが「ありがとうございます」とお礼を告げると、朱那は「気にしなくていいのよ」と笑って手を振ってくれた。

 しかし、店を出たところで携帯の着信音が鳴り響く。それはオレンジペコのものでなければ、蒼音のものでもないらしい。

 

「ああ、ごめん。私だ、もしもし?」

 

 謝りながら朱那はポケットから携帯を取り出して、通話を始める。よく見ると、その携帯にはIDのような文字列が書かれていた。誰かから貸し出されたものだろうか。

 

「はい……はい。あー……なる、ほど。わかりました。すぐ向かいます」

 

 納得がいかなそうな、困った笑みを浮かべて電話を切る朱那。そしてオレンジペコに、その笑みを向けた。切る直前の言葉でおよそ見当がつくが、あまりいい話ではないらしい。

 

「ごめんなさい、オレンジペコさん。ちょっと会社に呼び出されちゃって……悪いけど、ここでお別れだわ」

「そうですか……分かりました」

 

 やはり、緊急の呼び出しだった。オレンジペコは、休日だろうが呼び出される社会人の世知辛さを目の当たりにして残念な気持ちになるも、頭を下げる。

 

「本日はありがとうございます。とても貴重なお話を聞くことができました」

「いいえ、こちらこそ。私も聖グロの話を聞けて楽しかったわ」

 

 朱那がオレンジペコに右手を差し出してくる。すぐに意図を理解したオレンジペコは、同じように右手で握手を交わす。

 

「あなたが戦車道でより強くなれるよう、応援しているわね」

 

 朱那は笑って、そう告げる。オレンジペコもまた、笑って頷いた。

 そして朱那は握手を解くと、蒼音の肩をたたく。

 

「じゃ、オレンジペコさんのエスコート任せるわ。駅まで送ってあげなさい」

「分かった」

 

 そして朱那は、小走りにその場を去っていった。

 あとに残されたのは、オレンジペコと蒼音の2人だけだ。

 

「では、駅までお送りします。エスコートなんて初めてですが」

「はい、お願いしますね」

 

 蒼音の冗談めかした言葉に、オレンジペコは笑う。自分も男性にエスコートしてもらうなんて初めてだ。これから行く場所はパーティ会場でも特別な場所でもなんでもない、ただの駅だが。

 蒼音が足を踏み出した方向は、来た道とは逆だった。しかし、こちらの方が駅までの距離が近いとのことだったので、オレンジペコも納得する。

 その道中で、蒼音はオレンジペコに話しかけてきた。

 

「自分からも、今日はありがとうございます。急な申し出だったのに……」

「いえ、私もいろいろお話を聞いたり、お話しできて楽しかったですから」

 

 やはり、話を持ち掛けた経緯のことを蒼音は気にしているらしい。だがオレンジペコは、結果としてこうして楽しい時間を過ごせたし、隊長の心構えとして重要な話も聞けたので、もう後悔やしこりはなかった。

 

「つくづく、戦車道を歩む人って逞しいんだと思いました。姉が戦車道をやっているのは知っていましたが、ああいうことを考えていたとは知らなくて」

「もしかして……朱那さんとは仲が悪いのですか?」

「悪いってわけじゃないんですけど、ことあるごとに自分を顎で使う感じで。自分の中のイメージは『女帝』ですよ」

「じょ、女帝……」

 

 忌憚のない蒼音の評価に、オレンジペコは苦笑する。とはいえ、今日も時折朱那から蒼音に対する言葉の節々からそれは窺えた。

 

「でも、私は一人っ子なので、先ほどのようなやり取りには少しばかり憧れのようなものもありますね」

 

 聖グロリアーナで言うと、ダージリンは妹がいるし、アッサムには兄、クルセイダー部隊長のローズヒップに至っては7人兄弟の末っ子(プラス大家族)である。妹が自分を見習って勉強を頑張っているとか、兄が心配症で困るとか、食卓でおかずを奪い合ったのが懐かしいとか、彼女たちはそんな兄弟姉妹の話をすることがたまにあり、それを聞く度に一人っ子のオレンジペコはどこか羨ましさを抱いたものだ。

 ただ、羨ましさはそのままの方がいいらしく、オレンジペコの話を聞いた蒼音は何とも言えない表情を浮かべている。

 少し歩いたところで角を曲がると、そこはあのショッピングストリートだった。16時を過ぎて、昼のピークを過ぎたからか休日でも人は昼と比べて少ない。それでも、シャッターを閉めたり看板を仕舞ったりといった閉店ムードはまだまだ感じられないし、観光客らしき人は目立つ。

 

「……今日自分はほとんど話を聞いているだけでしたけど、これからはもう少し戦車道についてちゃんと勉強したいなと思います」

 

 オレンジペコは、蒼音の言葉を受けて視線をそちらへと向ける。

 

「改めて姉の話を聞いたのもありますが、ここまで向上心が高く、強くなるために前向きな姿勢でいるオレンジペコさんを見ていると、戦車道について無勉強ではいられませんね」

 

 今回のことで、蒼音も戦車道に興味が湧いたらしい。男女を問わず、自分の取り組んでいることに興味を持ってもらえるのは嬉しいことだ。

 ましてや、その理由の一端に自分の姿勢があるのなら、その嬉しさも一層強まる。

 

「そして自分は、聖グロリアーナを……オレンジペコさんを応援していきたいです」

「え……」

 

 歩きながら、オレンジペコに微笑みかける蒼音。オレンジペコは、歩きながら蒼音の言葉を聞くことはできても、それに対してちゃんとした言葉を返すことができない。

 

「戦車道についてほとんど何も知らずに応援するのは、どうしても自分で納得がいかなくて。だから勉強しようと、思ったんです」

「……そう、ですか」

 

 聖グロリアーナの、自分のことを応援していく。

 そのために、戦車道について勉強する。

 そう言われて悪い気はしない。むしろ、嬉しいに決まっている。誰かのエールを受け取ることは時として重圧になりかねないが、オレンジペコはそういったものは好意的に受け取りたい。

 けれど、オレンジペコ()、と自分だけを見てそう言われて、思考回路が鈍る。

 だか、応援されることの嬉しさを活力に、感情を整えると言葉は自然に頭の中で紡がれた。

 

「……ありがとうございます。ご期待に添えられるよう、頑張りますね」

「まあ、そこまで肩肘張らず、自分のことはあまり気にしないでください。一介のファンですから」

「いえいえ、私のことを応援してくださるのですから」

 

 自分のファンができると、先ほどみたいに心がふわふわしてしまうものなのか。ダージリンも最初はそうだったのだろうか。オレンジペコにはまだ分からない。

 そうして歩いていると、「Graceful」が見えてきた。思えば、オレンジペコはこの1か月毎週この近くを訪れている。そしてそのうちの2度、「Graceful」でアロマを購入していた。

 

「……そういえば、この1か月は毎週のようにオレンジペコさんとお会いしてました」

 

 そして考えることは蒼音も同じだったようだ。オレンジペコはその事実に少し笑いつつ、蒼音の言葉に頷く。

 

「あの、オレンジペコさん」

「はい?」

「先ほど、今日のお礼ということで姉が菓子折りをお渡ししたんですが……自分からも何かお礼がしたくて」

「え、いいえ。もう充分ですよ」

 

 オレンジペコの左手には、最初に自分が持っていたものとは違う紙袋がある。それは喫茶店を去る際に朱那から渡されたもので、今日会ってくれたことへのお礼の菓子折りとのことだ。オレンジペコからすれば、既にこれだけでお礼にはなっているのだが、蒼音はそうもいかないらしい。

 

「けれど、会ってから色々とご迷惑をおかけしておりますし、何かしらお渡ししなければと思うんです」

「そう言われましても……」

 

 確かに会った当初、それから少しの間はかなりギクシャクしていたし、互いを知るステップを数段飛ばしにしていた気がしなくもない。それでもオレンジペコは遠慮するが、このままでは両者一歩も譲らない状態が続いてしまいそうだ。そして律儀かつ真面目な蒼音には、一歩も引く様子が見られない。

 ならばここは、その厚意に甘んじた方がいいのかもしれなかった。

 

「……でしたら、ひとつだけ希望してもよろしいでしょうか?」

「もちろん、自分にできることであれば」

 

 タイミングよく、「Graceful」の前にたどりついた。

 そこでオレンジペコは足の向きを変えて、店へと足を踏み入れる。後ろで蒼音は意外そうな声を上げたが、オレンジペコは足を止めない。

 

「いらっしゃいませ――あれ?」

 

 出迎えてくれたのは、先日も見かけた黒いロングヘアの店員だ。胸のネームプレートには「槐」と書かれており、彼女はオレンジペコと、その後ろに立っている蒼音を見て驚いた顔を浮かべた。

 

「どしたの香戸クン、今日は非番でしょ? オレンジペコさんまで……」

「ちょっとこちらで、またアロマを見たいなと思ったんです。そしたら香戸さんにお会いしまして」

 

 朱那と一緒に戦車道について話をしたことまでは明かさない。蒼音と出会ったのも、近くで偶然という体で行く。今日のことは、ほとんど面識がないこの槐という店員に詳しく話す義理まではなかった。すると、後ろにいた蒼音も意を得たように、「そうなんですよ」と続いてくれる。

 

「先日言っていた『お礼』を、ここで返したくて」

「あら、それはまぁ……。いいのかしら、こちらで」

「はい、こちらのお店はとても信用できますから」

 

 オレンジペコが言うと、槐は心底嬉しそうに、感激したように目を細めた。

 

「……それでしたら、ごゆっくりとどうぞ」

 

 そう言って恭しくお辞儀をし、さらには蒼音に向けて何かしらのアイコンタクトを送る。オレンジペコはそれに気づいたが、何が言いたいのかはある程度分かる気がした。

 そしてオレンジペコは、再び商品の棚を眺める。ラインナップは変わっていないようだが、客が入ったのか在庫の数にはばらつきがあった。

 

「どれにしますか?」

「そうですね……前回は精油を買いましたから、今度は……ディフューザーにしてみたいなと」

 

 興味があるのは、部屋に据え置くタイプのディフューザー。アロマの精油とスティックを使い、部屋の中を香りで満たすタイプだ。

 蒼音はディフューザーが置かれているコーナーに行き、種類を確かめる。

 

「香りはどうします?」

「ええと……」

 

 ディフューザー用のアロマは、これまで使ったマッチアロマや精油よりも種類が少し異なる。ラベンダーやカモミールのほか、ゼラニウムやローズといったものもあるが、その中でオレンジペコはひとつ気になるものを見つけた。

 

「……こんな香りのもあるんですか?」

「ええ」

 

 オレンジペコが指したのは、グレープフルーツのアロマだ。オレンジのアロマは以前聞いたことがあったが、同じ柑橘類でこんな香りまであるとは。

 蒼音はグレープフルーツのアロマを手にし、オレンジペコに見えるよう差し出す。

 

「グレープフルーツのアロマは、緊張や不安を解消してくれたり、集中力をアップするのに加えて、脂肪燃焼効果もあると最近判明したんです」

「脂肪燃焼」

 

 オレンジペコは一考する。

 挙げてくれた効能はどれもありがたいが、最後のは特に興味深い。オレンジペコは戦車乗りの前に年頃の女子高校生であるため、体に余分な脂肪がついてしまうのは望むところではない。

 もちろん、このアロマを使えば何をせずとも理想のスタイルが、なんて上手い話はあるはずもない。だが、ほんのわずかとはいえ副次効果としてそういうものがあるのなら、少し試してみたくもある。

 

「オレンジペコさんも、戦車道や学校の勉強で疲れることはあるかもしれませんが、そういった時にこちらのアロマはよいかもしれません」

 

 そして、今日改めて戦車道や聖グロリアーナの詳しい話を聞いたからか、オレンジペコのそういった部分も蒼音は考えてくれている。その気遣いは実に嬉しかったし、それを無碍にしたくもないと思う。

 

「……でしたら、これにしてみたいです」

「よろしいですか?」

「はい」

 

 オレンジペコがそれにすると決めると、蒼音はそれをそのまま槐の元へと持っていった。

 

「バイトだからで2割引きね」

「いえ、適正料金で……」

 

 レジからそんな会話が聞こえる。

 聞くところによれば、社員や関係者が自社の製品を買うときはある程度割引されることがあるらしい。だが、蒼音はそれを断った。きっと、オレンジペコへのお礼の品で、それも本人の目の前だから、割引で払うのを拒んだのだろう。つくづく義理堅くて真面目だとオレンジペコは理解しながら、言及しないでおく。言わぬが花だ。

 

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 

 紙袋に包まれたアロマを、オレンジペコは受け取る。

 

「またお越しくださいませ」

 

 槐の言葉に、オレンジペコはぺこりと挨拶をして店を出た。

 太陽が傾き、空は茜色に染まり始めている。カラスが鳴いて夕方を告げるにはお誂え向きだ。

 

「ふと気になったのですが、蒼音さんはどうしてアロマのお店でアルバイトを?」

 

 駅までの距離もあと少し、というところでオレンジペコは聞いてみる。学生のアルバイト事情がどういうものかは、お嬢様校のオレンジペコは少しばかり疎い方だった。

 蒼音は、頭の後ろを指で少し掻き、口を開く。

 

「自分、もともと不眠症だったんですよ。夜中何度も目が覚めたり、変な夢ばかり見てよく眠れなかったりって感じで」

「それは……お気の毒に」

「ええ。だからそれを改善するために、できることは何でもやったんです。布団乾燥機とか、寝る前のココアや白湯、風呂はぬるめにしたり。それでも改善されなくて」

 

 そう言って蒼音は、オレンジペコが持っている「Graceful」のロゴが入った紙袋に目をやる。正確には中にあるアロマを。

 

「でも、アロマを使ってみたら睡眠の質が少し改善されたんです。眠れる時間が増えて、心なしか体も軽くなったような気もして」

「ほう……」

「それで、もっとアロマについて知りたいってなって、もっと勉強しようと思いあのお店に」

 

 大学の学科は文系ですけどね、とおどける蒼音。

 オレンジペコも、元々寝付きが悪くてアロマを使ってみようと考えた口だから、同じような悩みを抱いていた蒼音にシンパシーを感じる。

 そして、彼は勉強熱心なところがあるようだ。オレンジペコを応援するために戦車道について学ぶ、と言ったあたりからもそうではないかと察していた。

 

「では、不眠症も治ったんですか?」

「いやー、それは……。前よりかは改善されたんですけど、それでもやっぱり慢性的に寝不足ではありますかね」

「でしたら……」

 

 困ったような蒼音の言葉を受け、オレンジペコは周りを見る。だが、いかに有名なショッピングストリートであっても、紅茶専門店はそういくつもないらしい。コーヒーショップはいくつもあるのが、一層不公平感を強まらせていた。

 仕方なく、スマートフォンを取り出してあるものを調べる。香戸は、オレンジペコの様子を不思議そうに見ていたが、口を挟みはしなかった。

 

「こちら、聖グロリアーナで愛飲されているカフェインレスの紅茶なんですけど……」

「ほうほう」

 

 オレンジペコが見せたのは、通販サイトだ。自分もたまに利用するそのサイトに表示されているのは、聖グロリアーナ学園艦にて製造・販売されているカフェインレス紅茶。オレンジペコも愛飲しているそれを、蒼音は興味深そうに見ていた。

 

「通常のカフェインレス紅茶よりも風味を損なわない仕上がりですし、リラックス効果もあるので是非お試しください」

「なるほど……では、試してみますね」

 

 何だかセールスみたいな物言いになってしまったが、それでも蒼音に気を悪くした様子はない。

 やがてショッピングストリートが終わりを迎え、交差点で赤信号の足止めを食らった。ここから駅までは、もう5分もないだろう。

 

「今更なんですが、駅はこちらで大丈夫でしたか?」

「はい。学園艦が停泊している場所はこちらの方が近いですし」

 

 選択を誤ったかを不安がる蒼音に、オレンジペコが微笑みをもって答える。すると、蒼音は「ああ」と何かを思い出したように息を吐いた。

 

「そういえば、聖グロの学園艦はメンテナンス中でしたね」

「もう明日の昼過ぎには出航ですけどね」

 

 1か月に及んだ学園艦のメンテナンスは滞りなく進み、オレンジペコが言った通り明日の昼に出航する予定だ。作業をしてくれた人たちには感謝の念が尽きないが、生まれ育った町をまた離れるのは少々名残惜しい。それでも、学園艦とは元々そういうものだ。

 

「こう言っては何ですが……少し、寂しい気もしますね」

「へ?」

 

 そんな蒼音の呟きを、オレンジペコは聞き逃さなかった。というより、聞き逃せなかった。

 

「寂しいんですか?」

「ええ、まあ。この1か月は毎週のようにオレンジペコさんとお会いしてましたし、戦車道について改めて知る機会にも恵まれましたから」

 

 信号が青に変わる。周りの人たちに合わせて自分たちも歩き出す。

 けれど、お互いに歩く速さが先程と比べて気持ち遅くなった気がする。先に歩みが遅くなったのは自分の方だと、オレンジペコは理解した。

 

「こうなったのも、オレンジペコさんに会えたからこそです。そんな貴重な出会いと経験をさせてもらったから、明日には発ってしまうというのが、と言いますか……」

「……」

「って、すみません。なんかクサいことを言ってしまって」

 

 クサいとかクサくないとか、そんなことはオレンジペコにとっては今やどうでもよかった。

 自分との出会いを、たとえその形がオレンジペコの中では淑女らしくない恥と後悔に満ちたものであっても、この蒼音は貴重と言ってくれた。

 それが、オレンジペコにとってはとても嬉しかったのだ。自分との出会いがきっかけで、蒼音という一人の男の知見を広げられたことが。蒼音にとっての自分が、決して小さいものではないということが。

 

「さて」

 

 切り替えるように、蒼音が不意に告げる。気づけば、自分たちは駅の前に立っていた。案内板の時刻表では、停泊地の方へ向かう列車は後少しで到着することになっている。

 

「最後になりますが、今日は本当にありがとうございました」

「いえ、こちらこそ……」

「またこちらの方に来る機会がありましたら、是非ウチの店に寄ってください。その時はまた、おすすめのアロマを紹介しますので」

「……それでしたら、是非寄らせていただきますね」

 

 財布を取り出した蒼音は、別れを痛感させる言葉を向けてくる。恐らく蒼音は、行く先がオレンジペコとは逆方向なのだろう。そして、この1か月でオレンジペコと会う機会に恵まれたが故に、学園艦が出航してからは会うことはほとんどないと蒼音は考えている。

 それはオレンジペコにも分かった。

 分かっているのに、オレンジペコは胸の奥にある自分の芯を、揺さぶられている感覚になっていた。平静を装って答えるのが精いっぱいだ。

 

「戦車道、頑張ってくださいね」

「……はい」

「自分も聖グロを、オレンジペコさんのことを、陰ながら応援させていただきますので」

 

 改札を抜けて、蒼音が微笑みながら告げる。

 応援してくれるのは嬉しいのに。自分を名指しして応援すると明言してくれれば尚更なのに。

 どうして今のオレンジペコの中にあるのは、寂しさや不安といったネガティブな気持ちばかりなのだろうか。

 

「じゃあ、自分はこっちですので……」

 

 そして蒼音は、階段を指さす。

 この駅はホームが対面式になっていて、行く方向によってホームが異なる。蒼音が指したのは、やはりオレンジペコとは反対のホームへと続く階段だ。

 だが、蒼音がそちらへ足を向けたのを見て、これで聞くのが最後になりそうな言葉を聞いて、オレンジペコの中の何かの歯車が動いた。

 

「……あのっ」

 

 その自分の中の「何か」に従って、蒼音に声をかけた。多少声量が大きかったかもしれないが、それは今反省すべきではない。

 声をかけられた蒼音は、驚いたようにこちらを見ていた。

その顔を見て、自分がこれから告げることは受け入れられるだろうか、と感情が一度冷やされる。現実というものを、突き付けられそうな気がする。

 

「どうしました?」

 

 だが蒼音は、オレンジペコの中の葛藤には気づいていないのか、不安そうな表情を向けている。

 心配してくれているのであろう。だって蒼音は、オレンジペコと会ってからずっとこちらのことを気にしてくれているし、何より真面目で義理堅い性格だ。

 そんな彼に対して、今浮かんだ自分の願いは負担になってしまわないだろうか。

 しかしもう、後戻りはできない。

 いや、後戻りをしたくない。

 

「……今日はありがとうございます。朱那さんのお話を聞けたことも、こうして蒼音さんから贈り物をいただけたことも……私にとってはとても貴重なことです」

 

 自分が今手に持っている紙袋は2つ。朱那から渡された菓子折りと、蒼音が買ってくれたアロマ。いずれも、今日のことを忘れさせない代物だ。

 だがオレンジペコは、視線を蒼音に戻す。今のお礼の言葉は、自分の気持ちを落ち着かせるため、そして自分の気持ちを整えるためのものだった。

 

「そして、こうして学園艦の外でつながりができるのも、とても貴重なことで……」

「……」

「私は、貴方とこうしてできたつながりを、大事にしていきたいと考えています」

「え?」

 

 困惑した様子の蒼音。だけど、ここまで言った以上撤回という選択肢もない。

 だからオレンジペコは、スマートフォンを取り出して、蒼音に向けた。

 

「なので……時々でも、ご連絡してもよろしいですか?」

 

 友人のように、蒼音とこれから先もつながっていたい。それがオレンジペコの願いだ。

 当の蒼音は、あまりにも予想外の申し出だったようで、しどろもどろに周囲をきょろきょろ見ている。

 

「自分は、何の変哲もないただの大学生ですよ……?」

「お互いがお互いを経て貴重な経験をして、つながりがあるだけで、『ただの』ではありません」

 

 自分の方が年下だというのに、オレンジペコは今だけ、そういった障壁を考慮しない。あるのは、このまま消えてなくなってしまいそうな蒼音とのつながりを失いたくない、という願いだった。

 ただ、その願いを告げたところで、多少強引になってしまったと再確認することができるようになる。

 

「あ、も、もちろん蒼音さんがお嫌でなければですけれど……」

「いや、そういうわけではなくて……急なことに驚いたといいますか……」

 

 ようやく蒼音の意識は動揺から脱したらしく、返事をしてくれた。

 そしてそれを聞いて、オレンジペコも弁明するのを一度止める。

 

「……改めてなんですが、本当に自分でいいんですか?」

「……はい、もちろん」

 

 やはり自信がないようで、蒼音は今一度尋ねる。しかし、オレンジペコの気持ちは同じだ。

 自分たちの周りでは、サラリーマンやら観光客やらカップルやらが、自分たちには目もくれずに行き交っている。海沿いの公園までどれくらいだとか、もうすぐ待ち合わせ場所につくとか、猫カフェが近くにあるみたいだとか、そんなとりとめもない会話が聞こえてくる。

 だが、今オレンジペコが気にしているのは、次の蒼音の言葉だけであり。

 

「……分かりました。自分でよろしければ」

 

 だからこそ、その蒼音の言葉は一層深く身に染みた。

 

 オレンジペコと別れ、蒼音はホームに続く階段を上がる。

 オレンジペコと初めて出会ったのは1か月近く前のことであり、出会ってからも、知り合ってからも何かと不備があって申し訳ない気持ちが多かった。

 だからこそ、つい先ほどのような「時々連絡を取りたい」という申し出が意外であり、嬉しくもあった。自分のような人間とのつながりを大切にしたいと考えてくれるとは思っていなかったし、蒼音にとってもこのつながりが自然に消えてしまうのは寂しく思っていたから。

 ホームに上がると、秋の風が柔らかく身を包んでくる。ほどなくして、向かい側のホームに列車が到着するらしい。

 そして、蒼音がホームに上がったのと同じタイミングで、オレンジペコもまた向かい側のホームに上がってきた。

 

「あっ」

 

 その上、こちらに気づいたらしきオレンジペコが、自分に向けて小さく手を振ってくれた。

 今日初めて出会った時と同じ、可憐だという感想が再び蒼音の中で湧き上がる。容姿と服装を見てそう思ったのは最初で、今は新たにその仕草にも同じ評価を抱いている。

 その姿に、蒼音は恥ずかしさと照れを感じつつも、手を振り返す。

 そこで列車が到着し、オレンジペコの姿は見えなくなった。

 

 オレンジペコと蒼音が別れる、ほんの数分前。

 

「あら~?」

 

 改札で何かを見つけたピーチが声を上げた。そののんびりとした声に、クランベリーも意識が彼女の見る方向へと向けられる。

 

「あちらにいらっしゃるのはオレンジペコ様かしら~?」

 

 ピーチが見据えているのは、改札のその先。ホームへ続く階段の踊り場だ。クランベリーも確かに、そこにはオレンジペコがいるのを確認した。私服姿だから、完全にプライベートと見える。

 

「本当だ……で、向かいの人は誰?」

 

 そのオレンジペコの前には、男の人がいる。年齢的には学生ぐらいだろうが、オレンジペコと何かを話しているようにも見えた。それでいて、ナンパとか難癖をつけられているとかそういう感じではない。

 知り合いか、とクランベリーは適当に結論付けようとしたが。

 

「もしかして、彼氏さんかしら~?」

 

 ピーチの予想に、クランベリーも溜息をつく。

 このゆるふわお嬢様は、同学年で、戦車道でも同じクルセイダー部隊の車長というつながりゆえに、何かと世話をすることが多い。そんな自分たちのことを仲がいいと評価する人もいるが、クランベリー自身からすればそれは大きな間違いだ。実際は犬猿の仲と言っていい。

 そんな自分たちの評価がどうあれ、クランベリーはピーチの性格をよく知っている。のんびり屋だが、たまにとんでもないことを言って周りの度肝を抜くのも理解していた。

 だから今、オレンジペコと話している男が彼氏ではないかと予想するのも、それに該当する。

 

「いや、そんなわけないだろ……多分」

 

 クランベリーは、ピーチの言うことを「一部」否定する。

 否定できたのは、遠くから見ても2人の間にはよそよそしさというものがあったから。

 「一部」と付け足したのは、オレンジペコの様子がどこかお嬢様らしくないというか、普通の女の子らしい感じに見えたから。

 クランベリーは、ピーチと示し合わせたわけではなかったが、2人が離れるまで改札を通らないでおいた。




これにて前編終了でございます。
次回以降もよろしくお願いいたします。
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