愛しい香り   作:プロッター

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第6話:優しい声

 見慣れた天井を、オレンジペコは熱が籠もった目で見上げる。

 身体全体を覆う熱に押されて息を吐くと、喉の奥から棘のような痛みがせり上がってきた。

 

「……こほっ、こほっ」

 

 そして漏れる咳。オレンジペコは、咳が落ち着いてからもう一度息を吐き、ナイトテーブルに置いていた水を一口飲む。

 ダージリンから「宿題」を出されて3日。蒼音の励ましもあり、日々の勉強と戦車道に張り切って取り組んでいたのだが、ここにきてオレンジペコは風邪をひいてしまった。こう体調を崩すことは今まであまりなかったのに、このタイミングでひいてしまうとは、不甲斐なさを痛感する。

 とはいえオレンジペコは、期待されているのだから体に鞭打ってでも頑張らないと、と向こう見ずな行動に出る性格をしていない。この状態で十分なパフォーマンスなどできるはずもないと、冷静に判断できた。なので学校には休む旨を連絡し、ダージリンとアッサムにもそれは伝えてある。オレンジペコはチャーチルの装填手を務めている故に、自分がいなければ誰も弾を装填できない、つまりチャーチルは戦えない。それが本当に申し訳なく、2人には今度何かお詫びをしなければならないだろう。

 水を飲んで、喉が潤んだところでさらに一息つく。幸いなことに、もしものための風邪薬を買っていたので、それは既に服用している。あとは目を閉じて睡眠を取り、少しでも早く快復するよう努めるに限る。

 ただ、目を閉じても熱が眠るのを妨げてきた。グレープフルーツのアロマも、まだ香り続けているはずなのに、今はその香りがあまり感じられない。熱のせいで嗅覚が鈍ってしまっているのだろうか。

 そして、病気の時特有の、不安などのネガティブな感情が消えてなくならない。

 ダージリンたちへの申し訳なさもそうだが、蒼音に対しても同じ気持ちを抱いている。自分のことを応援してくれると言ってくれたのに、そんな自分にとっても初めての人ができたのに、こんな体たらくではがっかりだろう。

 寝返りを打つ。ナイトテーブルに置かれているスマートフォンが目に入った。

 蒼音に初めてメールを送った日、一番最後に返信してもらったメールは、オレンジペコの活力となっている。それを見れば、戦車道も頑張れると、OG会が来ても立ち向かえると、自分で思っていた。けれど、病気にはそれが通用しなかったらしい。

 蒼音には、自分が風邪をひいてしまったことを伝えていない。下手に蒼音に心配をさせてしまうのは本意でないし、「精進する」と自分で言った手前この有様では示しがつかない。

 まったくもって不甲斐ないと思い、オレンジペコは瞳を閉じる。願わくば、次に目が覚めた時に少しでも病状が良くなっていることを。

 

◆ ◇ ◇ ◇

 

 今日は大学の講義が午後からだったので、蒼音は大学へ向かう道すがら、書店に寄って次の資格試験に向けての教材を購入する。

 その教材の表紙には『戦車道検定公式テキスト』とゴシック体で書かれ、載っている写真の戦車はティーガーⅠというらしい。

 敬語力の検定を受験した当初は、次に何の資格を取るかはまだ決めていなかった。

 だが、オレンジペコと出会い、戦車道がより身近なものとなった。そして、勉強する、応援するとオレンジペコに誓ったために、この戦車道検定の受験を決意した。ちなみに第二候補は、やはり紅茶について知識のあるオレンジペコの話を聞いたのもあって、紅茶の検定だ。

 

「結構したな……」

 

 レシートを確認する。この手の教材は大体小銭だけでは買えないが、今回は今までより出費がかさんだ。それで金欠になることはないし、それにこの教材は先ほど目を通した限り内容がかなり充実しているため、必要経費と割り切る。

 他にも値が少し控えめのものはあったが、それでもこの高価な教材を選んだ理由は、自分が戦車道の知識に疎いことにある。知識を詰め込むためにあれもこれもと買い求めれば、本棚と財布を圧迫してしまう。だから、多少高くても内容が充実している1冊を選んだわけだ。

 

「……さむ」

 

 書店から出ると、冷たい風が身を裂くように吹く。

 昨日おとといと、暖かさと冷たさの中間、過ごしやすい温度だった。なのに今日はかなり寒気が厳しく、注意しなければ体調を崩してしまいかねないほどである。実際、朝のニュースでも「体調管理に気を付けて」とキャスターは告げていた。

 本土でこんな状態なら、学園艦はどうなんだろう。陸の天候にあまり左右されないとはいえ、海上であればそれ相応の天候の変化もあるはずだ。というか、蒼音が学園艦で暮らしていた頃も、陸と天候があまり変わらないことがあった。だとすれば、そこで暮らす人たちにも何かしらの不調が身体に出てもおかしくない。

 蒼音はテキストをバックパックに仕舞い、携帯をポケットから取り出すとメールを打ち始める。自分と相手の立場・年齢をわきまえて、文章はちゃんと選び、それでも心配である要点は欠かさずに。

 5分程度でメールを打ち終えて、蒼音は大学へと歩を進めた。

 メールの相手は……オレンジペコは、如何に戦車道を歩む逞しい人とはいえ、一人の人間に変わりはない。だから、この急な気温の変化にやられてしまうという可能性も、決してゼロではない。

 前にメールを交わしたことで、蒼音はオレンジペコとの距離感がほんの少し縮まったと思う。オレンジペコも、プレッシャーを感じて不安になっていると素直に告白してくれた。

 だからあの日、オレンジペコからメールを受け取った後、自分なりにできることをすぐ行動に移した。それがどう作用するかは分からないが、静観するよりマシなはずだ。

 そして今日も、蒼音はせめてもの気持ちで体調を気遣うメールを送った。

 応援する立場にいる、という意味では自分もファンでしかないのだが、これぐらいは許してほしい。

 

◇ ◆ ◇ ◇

 

 特に何かの拍子でもなく、オレンジペコは目を覚ました。

 布団の中は自分の発する熱で暑苦しく重かったが、上体を起こしてみてもさほど苦しさは感じず、若干だるさがある程度だ。試しに自分の手を額に当ててみるが、よく分からなかったので結局体温計を脇の下に差す。

 体温を測っている間、カーテンを閉めきった窓を振り返る。自分が眠りにつく前よりも、若干陽の光が明るくなっているようだが、自分がどれだけ眠っていたのかは分からない。部屋の時計も、明かりを消しているためよく見えなかった。

 そこで体温計が電子音を発したので取り出すと、「高熱」が「微熱」に下がっている。

 

「ふぅ……」

 

 ひとまず、山場は乗り越えたようだ。安心して一息つく。やはり睡眠と風邪薬は偉大なものだ。

 そこで、口の中が妙にいがらっぽかったため、洗面所へ行ってうがいをする。こうして起き上がって行動できるだけ、かなり体調はよくなっていた。何せ今朝は、起き上がるのすらとてもつらかったのだから。

 すると、部屋の扉がノックされた。

 

「はい」

『アッサムよ。大丈夫かしら?』

 

 扉の向こうから返ってきた声に、オレンジペコは少しばかり緊張する。何せ、自分の体調管理がなっていないせいでアッサムをはじめ先輩たちに迷惑をかけたのだから。しかしこのままでいるわけにもいかず、マスクを取り出して装着し、扉を開けた。

 

「こんにちは、オレンジペコ。お加減いかがかしら?」

 

 だが、扉の外で微笑む人を見て、腰を抜かしそうになった。

 そこにいたのはアッサムではなく、ダージリンだったのだから。

 

「だ、ダージリン様、どうしてこちらに……」

「もちろん、オレンジペコのお見舞いよ」

 

 動揺が隠し切れないままに聞くが、ダージリンは普段と変わらない調子でさも当然とばかりに答える。そして、そんなダージリンの背後から、苦笑しているアッサムが姿を見せた。その表情だけで、アッサムはダージリンと来るつもりはなかったのだと、アッサムは1人で見舞いに来るつもりだったのを察する。オレンジペコがひどく委縮してしまうから(今まさにそうなっている)。

 そしてオレンジペコは気付く。ついさっきまで自分は寝ていたので、髪は解いているし、何なら少し寝ぐせもついている。しかも着ているのは寝間着だし、この状態で応対するなどお嬢様どころか女性として如何なものか。風邪とは別の熱が顔に上ってくる。

 

「気にしなくて大丈夫よ」

「……すみません、お見苦しいものを」

 

 そんな不安を感じ取ったのか、アッサムが優しく話しかける。いたたまれなくて、消え入るような声しかオレンジペコには出せない。

 だが、玄関で立ち話をするのも何だったし、2人の厚意をここで突っぱねられるはずもない。だからやむを得ず、2人は部屋に上げるほかなかった。普段から誰が訪ねてきても大丈夫なように掃除をこまめにしていたことが、不幸中の幸いと言えるだろう。

 

「お邪魔するわね」

 

 ダージリンが、なぜか嬉しそうに上がってくる。よく考えれば、他人を招いたことはあったものの、ダージリンやアッサムと言った先輩を上げることはなかった。そしてダージリンが部屋の明かりをつけたところで時計が明らかになり、今は17時過ぎと理解する。普通なら、戦車道の訓練が終わっている時間だ。つまり、ほぼ1日眠っていたことになる。

 

「……何か香りがするかしら? 柑橘系の」

 

 アッサムが部屋の中を見回して、疑問を呈す。その疑問にはすぐに答えられるので、オレンジペコは机の上のディフューザーを手で示す。

 

「多分、このグレープフルーツのアロマの香りかと」

「あら、部屋にもアロマを置いているのね。大分気に入ったのかしら」

「……ええ、それはもう」

 

 ダージリンが、ころころ笑う。オレンジペコはかなりアロマを気に入っており、おかげで最近は調子もよくなっているのだ。まったくもってその通りだと、オレンジペコは微笑む。

 一方でアッサムは、持っていたビニール袋を机の上に置くと、オレンジペコを見た。

 

「私たちが来たからと言って、遠慮なんてしなくていいのよ。あなたは病人なんだから、ゆっくり休んでいて頂戴」

「……では、遠慮なく」

 

 やはり尊敬する先輩2人が来たのもあって、すぐに寝転がるのも正直気が引けたものだ。だが、アッサムの言う通りオレンジペコはいまだに体調が万全とは言えないので、ここは大人しくベッドに戻ることにする。

 

「アッサムったらひどいのよ? 私が見舞いに行くと言っても『オレンジペコが緊張するから』って止めたの」

「実際緊張していたでしょう」

 

 やはりそういう事情があったらしい。

 ダージリンとアッサムはどちらも頼りになる先輩だが、オレンジペコはどちらかといえばアッサムの方が緊張感をあまり持たずに接することができる。ダージリンは基本優雅で完璧だが、それでいてたまに周りを振り回す言動――主に格言の引用――をしがちだ。それについてオレンジペコはアッサムともども巻き込まれるため、仲間意識のようなものがあった。

 

「私だって、大切な後輩が苦しんでいる時は力になりたいもの。それにこういう時でないと、近くで接することはできないものだし。特に()()()

 

 横になるオレンジペコの近くへ、机の椅子を引いてダージリンが枕元で腰を下ろす。

 そのダージリンの言葉には、建前は薄く本音が色濃く感じられた。優雅でほぼ完全無欠のダージリンだからこそ、伝統とマナーと建前を常に纏う聖グロリアーナの生徒だからこそ、こうして病人を見舞う時ぐらいは少しだけでも本心を明かしたいし、素直な自分で接したい。

 ダージリンは、オレンジペコという後輩を心から案じてくれている。それは微熱を帯びる頭でも理解できた。

 

「そこまで風邪は悪化していないようね」

「……はい。今朝は少々お熱があったのですが、1日眠っていたおかげか微熱にまで下がりました」

「食事はどうしたの?」

「今朝、ゼリー飲料を飲んだぐらいで……」

 

 微笑ながら気遣うダージリンは、オレンジペコからすれば看護婦のようにも見える。普段から優雅で、自分には到底辿り着けないほどの高みにいる人なのに、今はこうして自分を労わってくれている。何というか、母親のような安心感まで抱いてしまいそうだ。

 

「レトルトだけれど、お粥は食べられるかしら?」

「はい」

「それじゃ、準備するわね」

 

 一方のアッサムは、持っていたビニール袋からレトルトのお粥を取り出すと、ミニキッチンで準備を始める。病人だから仕方ないとはいえ、こうして手間をかけさせてしまうのは本当に心苦しい。

 

「あ、今日の戦車道の訓練は……」

「チャーチルは動かさず、マチルダとクルセイダー部隊の統率訓練に変えたわ」

「……すみません。私が風邪を引いたばかりに」

「いいのよ、オレンジペコ。後進を育てていく時間も必要だもの」

 

 今日の戦車道は模擬戦のはずだった。しかしながら、やはり装填手のオレンジペコ不在ではチャーチルもまともに戦えなかったようで、訓練内容は変更されたという。その事実に一層の申し訳なさを感じるが、それでもダージリンは気にしてはいない風だ。

 オレンジペコも、ダージリンからすれば「後進」にあたる。だが当然、聖グロリアーナ戦車隊には、他にもオレンジペコと同じ「後進」は大勢いるのだ。

 そんな彼女たちを指導するのは3年生にしてみても一苦労だし、時間も要る。普段の訓練や模擬戦、練習試合で一緒に戦うことも実戦教育だが、やはり隊長のダージリンがちゃんと指導する機会は貴重と言えよう。

 

「さて、できたわ」

 

 するとアッサムが、温めたお粥を皿に盛ってオレンジペコの下へと持ってくる。オレンジペコは半身を起こして受け取ろうとするが、皿を先んじてダージリンが手にする。

 

「さあオレンジペコ、あ~ん」

 

 そして、オレンジペコが「もしや」と思っていたことをそのまま実行に移してきた。自分の中で引いてきていた熱が、再び再燃し始める。

 とはいえ、ダージリンは少しも笑みを崩さず、お粥を掬ったレンゲをオレンジペコへ向けるまま、一向に態度を変える気配はない。アッサムもこればかりはどうしようもないのか、肩を竦めてオレンジペコを見ている。

 オレンジペコには、恥を忍んであーんを受け入れる以外の選択肢はなかった。

 

「……あーん」

 

 一口目だけだと思ったが、それは結局お粥がなくなるまで続いた。その間オレンジペコは、やはり恥ずかしさが尽きなかったし、ここまでされることに恐縮もする。普段なら数分で食べ終わるはずの量なのに、10分以上はかかってしまった。

 そうして食べ終えたところで、体が熱を帯び始める。食事を摂ったのもあるが、恥ずかしさ由来でもあるに決まっていた。

 

「汗をかいたでしょう、拭いてあげるわ」

「い、いえ! 流石にそこまではっ」

 

 手拭いを取り出したダージリンだが、オレンジペコはそれを断固拒否する。いかに自分が病人といえど、そこまでされるのは畏れ多すぎた。

 そこで、皿をシンクに片付けたアッサムが振り返る。

 

「でも汗をかいたままだと蒸れるでしょ? それに、熱がぶり返すかもしれないし」

「それは、確かにそうですけど……」

「でしょう? だからやってあげるわ」

 

 アッサムはタオルで手を拭くと、ダージリンから手拭いを流れるように取り上げてオレンジペコの背中側に回ろうとする。ほんの少しだけ、ダージリンは不満げだったが、アッサムは素知らぬ顔だ。

 

「私としても、大事な後輩は労わりたいの。ダージリンだけにはさせられないわ」

 

 にこっと笑うアッサム。そう言われては、そんな笑顔を向けられてしまっては、断り切れない。病人で後輩とはいえ、こうして厚意に甘んじてばかりなのは少し直したいな、と思いつつ、オレンジペコは寝間着の上を脱ぎ始める。

 同性しかこの部屋にはいないといえど、人に見られながら服を脱ぐというのは何とも恥ずかしいが、ダージリンもアッサムも気にしていない風だった。上だけ脱ぐと、アッサムは水を絞った手拭いで静かに背中を拭き始める。実に優しい手つきなもので、ともすれば眠ってしまいそうなほどだった。

 

「あら、オレンジペコ。メールが届いているみたいよ?」

「へ?」

 

 手持無沙汰になったダージリンが、枕元に置いてあったスマートフォンを指さす。オレンジペコが手を伸ばす前にダージリンが取ってくれたので、お礼を言ってから画面を点ける。確かに、メールが届いていた。

 

『新着メール:香戸蒼音』

 

 瞬間、ダージリンがすぐそばにいることも、アッサムが背中を拭いているのも忘れて、意識が完全にスマートフォンへと向けられる。焦らず、慎重にメールを読もうとする。

 だが、最初の数行を読み始めたところで、なぜだか身体の芯がむず痒くなってきた。これまで蒼音とメールのやり取りは何度も交わしたし、その度に嬉しさや昂ぶりは覚えたものの、この感覚は初めてである。

 なぜだろうと思ったが、その理由は割と早く自分で気づいた。自分が今、上半身に何も着けていない状態で、蒼音という(異性)のメールを読むことに、妙な背徳感があるからだ。

 

「あら、もう読んだのかしら?」

「……ええと、落ち着いてから読もうかと」

 

 スマートフォンをベッドに置いたのをダージリンが不思議そうに眺めるが、オレンジペコは極力ダージリンと視線を合わせないでおく。後ろにいるアッサムにも、おそらくメールは見られていないだろう。

 それから数分ほど、アッサムに背中を拭いてもらい、ほかの部分はオレンジペコが自分で拭く。自分ではそこまで気にしていなかったが、汗を拭いたことでほんの少し居心地がよくなった気がした。

 

「今日は色々とありがとうございます……」

「礼には及ばないわ。これで少しは、先輩らしいことができたかしら」

「そんな……」

 

 ベッドに寝転び、ダージリンとアッサムに改めてお礼を告げる。だが、ダージリンはやはり微笑みを崩さずにそう答えた。

 オレンジペコからすれば、ダージリンから学んだことは今まで数多くある。それでも、隊長と次期隊長という間柄の意味合いが強く、純粋な先輩と後輩という意味での付き合いは、今思うとあまりなかったような気もした。

 

「あまり長居するわけにもいかないし、そろそろ帰りましょうか」

「そうね。じゃあオレンジペコ、お大事に」

 

 アッサムが促すと、ダージリンも立ち上がる。オレンジペコは見送ろうとしたが、手で制されてしまったので、ベッドの上で手を振るにとどまる。

 玄関の扉が閉まる音を皮切りに、部屋はしんと静まり返った。別に騒いでいたわけでもないのだが、改めてひとりになると静けさがより際立つ。

 オレンジペコは一息つき、枕元に置いていたスマートフォンを手に取る。見るものはもちろん、先ほど読みかけた蒼音からのメールだ。

 

『こんにちは。気温の変化が激しくなりましたが、いかがお過ごしでしょうか。

 大学では友人が体調を崩し、姉もまた調子が悪い日が続いているらしく、こちらも気をつけねばと思います。オレンジペコさんもどうかお気を付けてください。

 こちらの近況としましては、近々戦車道検定を受験しようかと考えております。オレンジペコさんを応援するといった手前、無学ではいられず、何かしらの指標を立てるべきと思いました。戦車道の世界は、非常に奥が深く、複雑でとても難しいものですが、合格を目指し頑張ってまいります。

 先にも述べました通り、季節柄気温の変化が著しいため、オレンジペコさんも体調管理にはお気を付けください』

 

 メールを読み終えて、オレンジペコはすぐさま返事をしたい衝動に駆られた。

 だが、メール画面を開いて、文字を打っていくうちに、指の速度が遅くなっていく。文章では伝えきれないことが多いうえ、病み上がりの故か小さい画面に集中して文字を入力するのが少しつらい。

 なのでオレンジペコはメールを破棄し、アドレス帳を起動する。

 そこに表示されている蒼音の電話番号を見て、一度オレンジペコは深呼吸をした。他人に電話をかけるなど初めてなわけもないのに、相手が相手なだけに緊張は免れない。

 

「……っ」

 

 意を決し、「発信」をタップする。

 1コール目。繋がらなかったらどうしよう。

 2コール目。明日お詫びの言葉を添えてメールを返信するべきか。

 3コール目。もし繋がったら。

 

『はい、香戸です』

「あっ……オレンジペコです」

『ああ、はい。どうも』

 

 あっけなく繋がったことで、オレンジペコの中の不安は消えた。蒼音も、電話がかかってきたことについてはあまり気にしていないらしい。

 

「今はお時間、大丈夫ですか?」

『はい、大丈夫ですけど……どうされましたか?』

 

 誰に対してでも、オレンジペコは最低限の礼儀を欠かさない。そして蒼音は、「何があった」を問うてきた。蒼音に電話をかけたことは一度もなかったから、当然の疑問である。

 その質問に、オレンジペコはどう答えるか少し悩んだが、一度天を仰ぎ見てから、答える。気持ち少しだけ声量を抑えて。

 

「……蒼音さんとお話がしたくて」

 

 それ以外に答えようがなかった。病み上がりにメールを送るのがしんどいのは確かだったが、そのメールを返すという行為にも、「蒼音と繋がっていたい」という気持ちを基とした「蒼音と話がしたい」という願望がある。その代わりの行為として電話を選んだわけだから、本当にそういう理由だ。

 一方で、そんなオレンジペコの本音を受けた蒼音は、面食らっているのが顔を見なくてもわかるほどに、沈黙している。

 

『……そう、でしたか』

 

 やがて再起動した蒼音が、言葉を紡ぐ。このままオレンジペコが黙っていたら、沈黙したまま通話時間が伸びていくだけだと悟り、すぐに次の話題を探すことにする。

 

「あの、メールありがとうございます。すみません、お返事ができなくて」

『いえいえ。オレンジペコさんも学校とか戦車道で忙しいでしょうし、お気になさらないでください』

 

 さっき読んだメールだが、受信時刻は大体11時過ぎぐらいだ。オレンジペコが学校に行けていたとしても、その後の昼休みの時間で返す余裕はあった。それに、あまり重要でなければ「学校だったから」という理由で返事を遅らせても嘘にはならない。

 だがオレンジペコは、言うか言うまいか悩んだ果てに「実は」と切り出す。

 

「私、ちょっと風邪をひいてしまって……今日は学校を休んでいたんです」

『え、大丈夫ですか?』

「はい、1日眠っていたので少し楽になりました……。それで、蒼音さんからメールが届いていた時間も寝ていたので……」

 

 病欠していた事実を伝えると、明らかに蒼音の声音に心配の色が混ざった。

 

『戦車道や学校の疲れと、気温の変化のせいでしょうかね……』

「かも、しれません……」

『そうでしたか……いや、今日自分が送ったメールなんですけどね、ニュースでも体調管理に気を付けてって言ってたものですから、オレンジペコさんにも注意を、と思ってのものでした』

「あはは……実際私はこんなことになっちゃいましたからね……」

 

 普段の調子を取り戻してきたところで、オレンジペコは一番気になっていたことを尋ねる。

 

「メールに書いてあったこと、本当なんですか? その……戦車道の検定を受けるって」

『ええ、本当です。テキストも買いました』

 

 嘘をつく理由も見つからなかったが、やはり蒼音は本気だった。オレンジペコは小さく、驚愕と感嘆の息を吐く。

 

「……すごいですね」

『いやいや。テキストを少し読みましたけど、内容がてんこ盛りで手強さを感じてます』

 

 謙遜する蒼音だが、そんな内容の試験に男の蒼音が挑もうとしているだけで、もうオレンジペコは称賛に価すると思っている。

 

『パッと見ただけですけど、戦車道の歴史とか一般知識だけじゃなくて、あらゆる状況における最適な行動とか、起きうる可能性とかまで問われて、本格的だなって』

「それ、もう戦車に乗っている人が受験するの前提の問題ですよね……」

 

 聞いただけでオレンジペコは、もし自分が同じ問題を出されたらと不安になる。ダージリンの下について戦車に乗っていても、そういった問題に100%の答えが出せるかと聞かれると、自信をもって首を縦には振れない。

 

「本当に、大丈夫なんですか……?」

『まぁ、何とかなるかなと。勉強すること自体は嫌いじゃないですし』

 

 それだけの理由で、男にとっては非常に難しい検定を受験するとは見上げたものだ。オレンジペコでさえ、聞いただけでげんなりしてしまう内容なのに。

 だが、そこでふと今更ながらに気づくことがある。

 

「えっと……もしかして、勉強中でしたか? それでしたら――」

『いやいや、大丈夫です。丁度息抜きしたいなって思っていたところでしたから』

 

 そんな大事な試験の勉強を邪魔したのではないかと不安になるが、やはり蒼音はオレンジペコのことを優しく気遣ってくれている。

 最初に会った時から、ずっとそうだ。今のオレンジペコが病人でなくても、同じ風に話してくれるのだろう。

 オレンジペコは、自然とほほ笑む。

 

『それに、自分としてもこうしてオレンジペコさんとお話しするのは楽しいですし』

 

 続けて告げられた蒼音の言葉に、オレンジペコの考えが停止する。

 視点は、何の変哲もない壁に固定される。

 呼吸すらも、止まってしまった感覚だ。

 そして喉が熱を帯び始める。

 

「こほっ、こほっ。けほっ……」

『あ、大丈夫ですか? やっぱりまだ……』

「ええ……そうかも、しれません」

 

 咳き込むと、心配してくれる蒼音。オレンジペコが少しだけ咳を堪えつつ答えると、蒼音は「でしたら」と続ける。

 

『今日はもうお休みになった方がいいかもしれませんね。すみません、長々と』

「いいえ、私も蒼音さんと話して、少し気持ちが落ち着きましたから……勉強、頑張ってくださいね」

『ありがとうございます。オレンジペコさんも、早く良くなってくださいね』

 

 別れの挨拶も手短に、蒼音は電話を切った。こちらをの体を考えてのことだろう。

 オレンジペコは、電話が切れた後も、しばしの間スマートフォンを手に持ったままだった。やがて、ゆっくりとスマートフォンをナイトテーブルに置くと、糸が切れた人形のようにベッドに仰向けに倒れこむ。

 見慣れた天井を見上げて、息を吐く。もう今朝のような熱に満ちたそれではないが、今のオレンジペコの顔は熱かった。ともすれば、今朝熱を出していた時以上だろうか。

 自分と話すことが楽しいだなんて言われたのは、そんなことを異性から言われたのは、初めてだった。思わず何も答えられなくなって、咳き込んでしまったほどに驚いて、何よりも嬉しかった。

 それに、蒼音が難関(仮定)戦車道検定を受験するのも、やはりオレンジペコを応援するため。

 こうも自分が、蒼音という男の根幹になれていることが、どうしようもなく嬉しい。その人の行動の基になっているのは、それだけ自分のことを蒼音が意識しているということでもあるのだから。

 オレンジペコは、瞳を閉じて眠りに就くことにする。

 元気になったら、また蒼音と話がしたい。

 蒼音の声は、オレンジペコにとってはとても優しく耳に入ってきて、それでいて心を温めてくれる。

 

 最初に電話が鳴った時は、正直驚いたものだ。何せ、おそらく向こうからかけてくるとは思わなかった人物からの電話だったのだから。

 蒼音は、スマートフォンをテーブルに置き、手元に置いていたコーヒーを一口飲む。ほろ苦い味が、口内と脳を刺激して思考回路を整えにかかってくる。

 ローテーブルには、戦車道検定のテキストと、勉強用のノートが開かれていた。既に読み進めた部分の、試験に出そうな重要な部分には付箋とマーカーで印がつけてある。オレンジペコに話した通り、つい最近まで戦車道に関する知識がほとんどなかった自分からすれば、無理難題もいいところな難易度である。

 それでもこれは、自分から決めたことだ。オレンジペコを応援すると誓った以上、自分で指標を立てた以上、受験するのは確定している。

 

「……はー」

 

 だが、後ろにあるベッドに背中を預けて、天井を見上げる。白いLEDライトの光がまぶしいが、目を閉じると思い出すのは先ほどのオレンジペコとの会話だ。

 

――蒼音さんとお話がしたくて

 

 多分、オレンジペコに他意はなかったのだろう。あったとしても、風邪をひいて気弱になってしまい話し相手が欲しかったからとか、その辺りだ。

 そうと頭で理解していても、あのオレンジペコの言葉は蒼音に相当響いた。

 実に、嬉しいことを言ってくれたのだから。

 

「……あ、忘れてた」

 

 だが、オレンジペコの電話で、言い忘れていたことがった。先の言葉の衝撃が強すぎたり、オレンジペコの容体が少し悪くなって言いそびれたというのもあるが。

 ひとつ、贈り物をしたのだった。

 

◇ ◇ ◇ ◆

 

 翌日、オレンジペコは体感で体調がよくなったのを確認し、体温計でも平熱となっていたため、登校を決意した。昨日病欠していた際の座学については、クラスメイトがノートを見せてくれたので、ありがたく活用させてもらう。

 そして戦車道の時間になると、まず最初にメンバーたちに心配をかけさせてしまったこと、並びに自分が休んだことで訓練が変更されたことを詫びた。だが、自分が「ノーブルシスターズ」の一角ということを抜きにしても、仲間の病気は皆も心配していたらしく、謝罪を受け入れてくれた上に心配だったと言ってくれた。ただ、オレンジペコが病み上がりという点を考慮し、この日も訓練はマチルダ部隊・クルセイダー部隊の統率訓練になったが。

 

「ダージリン様~、お届け物でございますわ~」

 

 そして戦車道が終わり、紅茶の園で振り返りの時間。

 聖グロリアーナらしからぬ、優雅さがどこか足りていない感じのお嬢様言葉の主は、クルセイダー部隊の隊長であるローズヒップ。これでも、オレンジペコと同じ1年生で、部隊長を任されているのだから素質はある方なのだ。

 とはいえ、先ほどのような若干怪しいお嬢様言葉や、今みたいにお届け物を運ぶ時の忙しなさは、聖グロリアーナの規範である「いかなる時も優雅」というイメージからは若干かけ離れている。

 

「まあ、かわいらしい郵便屋さんね」

「お届け物?」

「はい、あとはお郵便物も一緒に」

 

 ローズヒップのそんな仕草にダージリンは気を悪くした様子もなく、一方のアッサムは目で「もっとちゃんとしなさい」と忠告しつつ、ローズヒップが差し出した包みと封筒を受け取る。包みはアッサム自身の膝に置き、封筒は差出人だけを見ると懐にしまった。

 

「どなたからの贈り物かしら?」

「ええと……」

 

 ダージリンが聞くと、アッサムは包みに貼られている伝票を確認する。

 オレンジペコも気になったので、紅茶を机に置き、席を立ってアッサムやローズヒップとともに送り主を確かめる。

 そしてオレンジペコは、すぐに気づいた。

 送り主の欄に書かれているのは、聖グロリアーナでは()()()()()聞いたことがないであろう企業名。中身の説明は「インテリア雑貨」。

 

「何かしら、これ?」

「え、危険物ですの? 処理班呼びますの?」

「いえ、大丈夫だと思いますよ」

 

 アッサムが首を傾げ、ローズヒップが慌て始める。ほかのメンバーたちも、謎の贈り物に不信感を抱いているらしいが、オレンジペコだけは笑って大丈夫だと告げる。

 アッサムとローズヒップは、オレンジペコがどうしてそこまで落ち着いているのか、この包みを信頼しているのか不思議そうだが、ダージリンだけは事の成り行きを見届けるつもりらしく、紅茶を片手に微笑んだまま言葉を発さない。

 一方のオレンジペコは、伝票を剥してから段ボールカッターでテープを切り、箱を開ける。

 中に納まっていたのは、白い箱と「聖グロリアーナの皆様へ」と書かれた封筒だ。箱の大きさは、以前オレンジペコが買ったアロマのディフューザーとほぼ同じ。封筒を横に置き、白い箱を取り出して中を開けてみる。そこに収まっていたのは、オレンジペコからしても少し意外なものだった。

 

「バラの花ですわ!」

「でも色がついてないわね」

 

 同じく箱を覗き込んだローズヒップが、同じ「ローズ」だからか嬉しそうに告げる。

 中に入っていたのは、液体が入った小瓶と、いくつものバラの花で、それぞれ袋に入っている。しかしバラの花はアッサムの言う通り真っ白で、茎の部分がない。しかも、花弁が厚紙あるいは薄い木の板のようだった。

 だが、オレンジペコは同じく中に入っていた紙片を広げて、それが何なのかを理解する。

 

「これはアロマですね……バラの花の形で、精油を染み込ませると色が付いて香りが楽しめるみたいです」

「はぇ~……すごいんですのね……」

 

 オレンジペコの説明に、ローズヒップは感心したように呟いてバラの花型アロマをまじまじと見ている。

 するとそこで、カップをソーサーに置く音が響く。その音の主は、ダージリンだった。音が鳴ること自体は問題なく、その大きさもお嬢様らしいものだったのだが、その音はオレンジペコの耳にだけは少し強く聞こえた。

 

「オレンジペコ」

「はい」

「あなた、箱を開ける前から中身が何か分かっていたみたいね」

 

 オレンジペコはその質問に、頷く。

 

「中身がこういうものだとまでは思いませんでしたが、アロマの類であることは分かりました」

「それはなぜかしら」

「贈り主が、私がよく使わせていただいているアロマの販売店でしたので」

 

 言いながらオレンジペコは手の中のものを、包みからはがした伝票を見る。送り主の欄には、「アロマショップGraceful」の文字があり、しかもその下には「香戸蒼音」の名前まで記されている。

 だから、オレンジペコには中身が何なのかをほぼ理解していた。

 オレンジペコの答えに、アッサムは「そういうこと」と納得して頷く。ローズヒップは頭に疑問符を浮かべていた。ダージリンは満足そうに頷いて紅茶を一口飲むと「なるほど」と前置き。

 

「そちらのお店が、オレンジペコが執心のアロマのお店ということね」

「執心だなんて……」

 

 確かにアロマには興味を持っているし、送り主の蒼音とは懇意ではあるものの、「執心」は言いすぎな気がしなくもない。

 苦笑しながらオレンジペコは、同封されていた手紙と思しき封筒を拾い上げる。ペーパーナイフで封を切り、中に入っていた便箋数枚を取り出して広げ、読んでみる。

 

『突然贈り物をお送りすること、大変失礼いたします。

 此の度、聖グロリアーナ女学院に在籍していらっしゃる方と交流の機会があり、戦車隊が格式と伝統を重んじる大変素晴らしいものと伺い、とても感銘を受けました。

 地元を同じとする者として応援したいと思い、僭越ながら応援の品をお送りした次第でございます。同梱されたアロマに関しましては、皆様のお疲れを少しでも軽減できるよう、疲労回復の効果があるものです。

 これからも無理のないよう、お疲れの出ませんように』

 

 オレンジペコではなく、聖グロリアーナ戦車隊に宛てたものだ。オレンジペコ宛のメールとは違ってかなり文体は丁寧かつ距離感を保っている。贈り物がアロマとは、蒼音らしいと言えた。

 手紙を読み終えると、オレンジペコはそれをアッサムに手渡す。

 だが、手渡したオレンジペコは、どこか物足りない気分だった。手紙は蒼音直筆と見受けられるし、『地元を同じとする者として』の応援のメッセージも、オレンジペコにとっては嬉しいものである。

 それでもオレンジペコは、寂しさにも似た感情を抱いている。アッサムもまた、蒼音からの手紙を読んで頷いており、ローズヒップは傍らからそれを覗き込んでふんふんと嬉しそうに頷く。それを見ていると、オレンジペコの中のその感情が助長していく。

 ダージリンの視線にも気づけないほどに、オレンジペコの視線はその手紙へと向けられていた。

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