大学がない日の蒼音の過ごし方は基本的に、アルバイトか家で勉強の2つだ。
生活費の仕送りは親から受け取っているもののそれは最小限度で、しかもそれだけで健康な生活を送ることは少々難しい。なので、大学進学を機に蒼音はアルバイトを始めた。その勤め先に「Graceful」を選んだ理由はオレンジペコに話したように、不眠症を改善できたアロマについてもっと知ろうと考えたからである。
ただ、蒼音も大学に通いつつアルバイトをするとなると体力が少々心許なくなるため、月に数日はアルバイトもない完全な休日を設けていた。そういう日は大体、家で勉強をすることが多い。
資格マニアになる前から、蒼音は勉強することがそこまで苦ではなかった。その上で資格にハマった理由は、自分の力が明確に数値として現れるうえ、優秀な成績を修めれば正当な評価と証明までもらえるからだ。勉強できるうえに、学校のようにただ褒められたり内申点が上がるだけでなく、社会に通用するスキルとして(ものにもよるが)身につくのがとても心地よかった。
「よし、と」
この日も、蒼音は家でローテーブルに教材とノートを広げて、勉強に勤しんでいた。内容はもちろん、戦車道検定である。
今勉強しているのは戦車道の概要と歴史の総括にあたる部分で、試験はこういった範囲から出題される傾向にあるらしい。なので今、教材には付箋とマーカーで印がいくつもつけられており、古本屋でも買取拒否されそうな出来栄えに仕上がっている。
その切のいいところで、蒼音は一旦視線を上にあげて、スピーカーで流していたオーケストラを止めた。部屋が一気に静かになる。
だが、そこで強い風が家の窓を叩いた。
今日勉強を選んだ理由だが、戦車道検定の試験勉強をするというものがある。だが、今日は天気が荒れているため、外へ出てどこかへ、なんて危険だと判断したからでもあった。
蒼音は勉強好きとはいえ、出不精というわけでもない。気が向いた時には友人と、或いは1人で外へ出かけるし、以前オレンジペコに話したように地元を歩くこともある。それでも頻度はあまり多くないため、ああしてオレンジペコと偶然会えたことは本当に奇跡的なレベルだろう。
「オレンジペコさんか……」
立ち上がって、コーヒーブレイクの準備をしながら考える。豆を挽く道具は持っていないので、インスタントで我慢だ。
先日、蒼音は聖グロリアーナ学園艦に宛ててアロマを送った。それは手紙に書いたように、オレンジペコと知り合ったことで聖グロリアーナ女学院がより身近に感じられるようになったため、地元が同じという縁もあり、応援の気持ちを改めて形として示したものだ。
だが、応援するという意味には、以前メールでオレンジペコが話していたこともある。
――近日OG会の先輩方が訪問する予定となっています。先輩方とお会いするのはとても緊張するため、少しばかり弱気になっていたのも事実でございます
以前、朱那を交えてオレンジペコと話をした際に、OG会の話題が出た覚えがある。オレンジペコが言う「先輩」とは、そのことだろう。
ただ、部外者の立場でなんとなく思うのだが、あまり良い印象はしない。聖グロリアーナ女学院のホームページにもOG会に関するページはあったし、書かれている内容も「卒業生の有志が結成した団体であり、聖グロリアーナ戦車道の後援組織として活動しています」といった具合にまとめられている。
しかし、オレンジペコの話によれば「悩みの種」であるらしい。具体的にどういう意味でそう言ったのかは、流石に聞けなかった。けれど、冗談でも謙遜でもない言い方だったし、どんな形であっても悩みと言うほどであれば厄介なのは確かだろう。
そんな人たちと会うのに緊張する、と聞いた蒼音は、何かできないかといの一番に考えた。だが、如何せん陸と学園艦では距離が離れているため、できることは限られる。
その中で浮かんだのが、やはりというべきかアロマだった。
ただしこれまでとは違い、オレンジペコ個人にではなく聖グロリアーナ戦車隊に向けて贈った。そういう会合の場に参加するのはオレンジペコだけではないだろうし、もしかしたらオレンジペコ以外にもその先輩方と話すのが苦手な人もいるかもしれない。だから、そういった人たちの緊張を少しでも和らげようと、雰囲気を壊さない形であのアロマを送ったのだ。幸いにも、聖グロリアーナは贈り物に慣れているらしく、ホームページに送り先の住所が記載されていた。
そして、あのアロマを「Graceful」名義で送るにあたり、店長の槐にも話はしてある。
――そういうのは初めてなんだけど……今後の何かに役立ちそうだしいいかな
あくまでも、蒼音個人として聖グロリアーナを応援するために贈り物がしたいという話をしたところ、槐は承諾してくれた。個人名義にしなかったのは、一組織に個人の名義で送ってしまうのが少し怖かったからだ。
「……届いたかな」
そう呟くと、電気ケトルがお湯が沸いたことを知らせる。カップに入れておいた粉末状のカフェオレにお湯を注ぐ。部屋に置いているローズマリーのアロマの香りが、コーヒーの香りで上書きされた。
一口啜って、蒼音はローテーブルに戻る。
オレンジペコのメールを受けた翌日に、蒼音はアロマを聖グロリアーナに宛てて送った。普通なら3~4日で届くだろうが、相手は海の上だ。今日のように天候が悪かったりしたら、まだ届いていないかもしれない。
テーブルの上を見る。教科書やノートの傍らに携帯が置いてあった。だが、勉強中にいじったりしないよう、今は電源を切っている。ただ、今は自分で決めた休憩時間なので、もしかしたら何か連絡が来ているかもしれないと思い、電源をつけた。
すぐさま、メールが届く。
身構えて、それから慎重に開いたが、ただのメールマガジンだったので嘆息する。
他にメールや電話は、来ていなかった。
「なんだ……」
そうぼやいたところで、気付いた。何かに落胆しているという事実に。
何に落胆しているのかと言われれば、それはここ最近で親しくなった人・オレンジペコからの連絡がないことに、だ。
蒼音は携帯の画面に再び視線を落とす。
前回はオレンジペコの方からメールが来たし、彼女が風邪を引いた日にも電話が来た。その翌日には快復したとのメールが届いたので、蒼音は安心した旨をメールで伝えている。
そして今日は、オレンジペコが体調が元に戻ってから最初の日曜であり、朱那とともに話をしてから1週間が経った日だ。
しかしながら、ここ1か月オレンジペコと会う機会がほぼ週1の頻度だったために、妙な寂しさを覚えているのも事実である。自分は大学生で、年下である高校生の少女に会わないことについてそわそわしている、というのは客観的に見るといただけないのかもしれない。だが、それは確かだった。
――蒼音さんとお話がしたくて
またしても、オレンジペコが風邪に罹った日の電話で告げられた言葉が頭を過る。
あの言葉は、蒼音にとっても嬉しい言葉だった。蒼音にも同じ大学の友達や、高校時代の親友はいるものの、「話がしたいから」という理由で電話を受けたことは皆無だ。朱那はかなりの頻度で自宅に上がってくるし、親との電話も近況報告でしかない。
だからこそ、オレンジペコのあの言葉は新鮮で、それでいて胸が温まる言葉だった。
とはいえ、
改めて、蒼音は手の中の携帯を見る。
当たり前だが、ただ持っているだけでは携帯は何の音も発さないし、勝手に電話をかけたりもしない。
つながるもつながらないも、全ては蒼音が決めることだった。
オレンジペコは、やや不満な気持ちだった。
今日は、本土へ行こうと考えていたのだ。戦車道の訓練は休みだし、学校から出された課題も既に終えて、学園感にいなければならない必要もなかったから。そして、来週いよいよ例のOG会が来るため、もてなすためのお茶菓子を
だが、昨日から本土沿岸の天候が不安定なため、連絡船は昨日から今日まで終日欠航となってしまった。なので本土へ行くにはヘリなどを使うしかなく、そこまでするほど急ぎでなければ重要度も高くないので、結局学園艦に留まらざるを得なくなった。
しかし、ただお茶菓子を買いに行けないだけで、オレンジペコも落ち込んでいるわけではない。
より気にしているのは、自分の中にある「蒼音と面と向かって話がしたい」という願いが叶えられなかったことにある。
先日、聖グロリアーナ戦車隊宛にアロマが送られてきた時、応援されること自体嬉しいのに、なぜかそれがほんの少しだけ寂しく思うという、矛盾が生じた。
どうしてそういう気持ちになってしまったのかは分からない。本当に理由が全く思いつかないのだ。
だから、蒼音と直に会えば何か分かるのではないか、と思って今日は本土に行こうとしていた。それがこの通り学園艦に足止めなので、不完全燃焼感が否めない。
さらに言えば、オレンジペコはその時感じた矛盾する気持ちが引っかかって、蒼音にまだお礼の返事を送ることができていなかった。本来なら、お礼を受け取ったその日かその翌日には連絡しなければならないのに。それでも、何かメールを書こうとすれば、何か電話で言おうとすれば、余計なことまで零してしまいそうな気がしたから。
机の上には、スマートフォンがある。蒼音とは何度もメールのやり取りをしているし、1度とはいえ電話だって交わした。今更メールを送ったり電話を掛けたりすることに、何を躊躇うことがあるのか。
だがオレンジペコは、自分の中にある引っかかりを、得体のしれない気持ちを考えると、どうしてもその行動に出られない。
だからスマートフォンを見つめることしかできないのだが、そこで不意にそれが震える。パターンからして電話だったし、何よりも画面に表示された名前を見て、すぐさま電話に出る以外なかった。
「もしもし?」
『あ、もしもし。どうも、香戸です……』
「こんにちは、蒼音さん」
電話越しであっても、その声を聞くとオンレジペコの中の蟠りなどどこかへ消え去ってしまう。実に不思議だ。
『今お時間少々よろしいですか?』
「はい、大丈夫ですよ」
『すみません、ちょっと気になるところがありまして……』
今日は休日だし、予定はほとんどないから時間には何の問題もない。オレンジペコの答えに、蒼音は安心したように少し息を吐いてから続ける。
『先日、聖グロ宛に贈り物を送ったんですが…』
「ええ、はい。届いていますよ、アロマ」
『あ、そうでしたか。よかった……』
伝票と手紙で分かっていたが、あれはやはり蒼音が送ってくれたものだった。
それについては色々と言いたいことがある。
「すみません、送られてきた日にお礼を伝えるべきだったんですが……」
『いえいえ、自分もお礼を言われたくてああしたわけじゃないですし』
なぜ連絡できなかったのか、それを伝えるのは難しかったけれど、蒼音はそれについて深く切り込んでは来なかった。それはとてもオレンジペコとしてもありがたい。その気遣いと誠実さに感謝しつつ、オレンジペコは尋ねる。
「でも、急にどうされたんですか? あの、アロマを……」
『あー……オレンジペコさん、今度先輩の人たちと会うって言ってたじゃないですか。それって、OG会の方だったりします?』
「ええ、その通りですけど……」
蒼音に送ったメールには、蒼音が言った通り『先輩方に会う』としか書いていない。だが、前に直に話をした際にOG会については触れていたので、蒼音もそれで気づいたようだ。
しかし、それとアロマを送ることになんの繋がりがあるのだろうか。
『それでまあ……不安で緊張するってメールに書いてあったので。少しでもそれが軽くなるようにって、あのアロマを送ったんです。何の足しにもならないかもしれないですけど、よければ使ってください』
項垂れかけていた頭が前を向く。
聖グロリアーナを応援する、と同封された手紙には記されていた。
けれど蒼音は、オレンジペコが緊張し、不安になっているという言葉から、それをどうにかしたいと考えて送ったのだ。その事実に、オレンジペコの心臓がひと際強く脈打つ。
「……ありがとう、ございます。大切に使わせていただきますね」
『ええ、是非とも』
それでもどうにか、昂ぶりを感じつつも言葉は冷静に紡いでいく。蒼音にそれは伝わらなかったようで、相槌を打ってくれた。
そこで間が生じる。
だが、このままではすぐに電話が切れてしまうのではないか、と感じたオレンジペコは、即座に次の話題を引き出した。この時の頭の回転の速さは、今までの人生で五指に入るかもしれない。
「今日、蒼音さんはアルバイトですか?」
『いや、今日は休みを貰ってるんです。なので、部屋で勉強しつつのんびりまったりしていますよ』
「そうでしたか」
どうやら、たとえ連絡船が欠航にならなくとも、オレンジペコが「Graceful」に行ったところで蒼音に会うことはできなかったようだ。少しホッとする。
『オレンジペコさんは何を?』
「私も、同じですね。連絡船が欠航になってなければ、本土に行こうと思ってました」
『ああ……天気が悪いせいですかね? だとしたら、お気の毒に……』
「それでもやることがないわけではないので、ちょっと残念ぐらいです」
少しだけ、嘘をついた。さっきまでは不貞腐れていたのに、何が「ちょっと残念」だ。
「勉強、というと戦車道検定ですか?」
『まぁ主にそれですかね』
「どんな感じですか……って聞くのも何ですが」
『いやいや。まあかなり難しいですよ、これから入るのなんてもう戦術論とかですし』
素人が勉強するには何とも難しそうな区切りに差し掛かろうとしていた。聞けば、蒼音が少し読んだ範囲ではフラッグ戦と殲滅戦の各場面において最善の行動や、起こりうる状況などまで掘り下げられているらしい。聞いているだけで簡単ではないのがオレンジペコにも分かった。
「試験って、いつ頃なんですか?」
『11月の……末ですね。なので後1か月ちょっとというか』
「間に合いそうですか?」
『どうにか。でもちょっと微妙かもしれないです』
やはり蒼音も、頑張っていても知識不足なのは自覚しているらしい。それにオレンジペコも、聞くだけで期限までに勉強が追いつくかどうかは若干怪しいと思った。
それでもオレンジペコは、スマートフォンを握る手にわずかながら力を籠める。頑張って勉強している人に当たって砕けろなんて言えないし、気休め程度の応援もしたくない。
「私も、蒼音さんが試験に合格できるように応援します。と言っても、言葉でこうして伝えるぐらいしかできないんですが……」
『え……』
「本当なら、もし直接お会いできたら、戦車道履修者の一人として、何か手伝えることがあるのかもしれません。でも、それはできないので……」
蒼音が息をのんだのが伝わってくる。
だが、オレンジペコは止められなくて、続けた。
「蒼音さんが、私を応援すると言ってくれたことが、私はとても嬉しかったんです。だから私も、あなたのことを応援したい」
ぎゅっと目を閉じる。
拒絶されるのが怖いのではない。自分の気持ちを、嘘偽りなく、全て伝えたいから。
「私もあなたのことを……尊敬していますから」
自分にはできないことをできる人を尊敬すると、蒼音はそう言ってくれた。
だがオレンジペコからしてみれば、そうして真っ直ぐに人を尊敬し、またオレンジペコを応援するために自分から戦車道のことを学ぶことを選んだ蒼音のことも、十分尊敬している。
だからこそ、オレンジペコはその気持ちを伝えた。
『……ありがとうございます』
わずかに時を置いてそう返した蒼音の声には、温かさが感じられた。その言葉には、熱が籠っているように感じる。
『勉強、頑張ります。オレンジペコさんにここまで応援されたんですから、不合格なんて不甲斐ない結果で終わらせたくありません』
「……」
『オレンジペコさんの応援を、無駄にはしません』
その言葉を聞いた自分は、多分笑っている。唇の感覚で、それは分かった。
「……頑張ってくださいね」
『はい、頑張ります』
そうして、一言二言交わして、電話は切れた。
通話時間が表示される画面を見て、オレンジペコは微笑みを抑えきれない。
ついさっきまで感じていた不安なんて、まるで何かが憑りついていたかのようだった。今となってはそんな気持ちは少しもないし、むしろ清々しい気分だ。蒼音と会って話をする、という願いは叶わなかった(叶うはずもなかった)けれど、今の電話でだいぶオレンジペコの中の不安も無念も軽くなった。むしろ、会えなかったからこそこんな気持ちになれている。
とはいえ、それらの不満や不安がすべてなくなったわけでもない。あくまで軽減されただけで、会って話がしたいという気持ちは残っている。
スケジュール表を開く。次に会えるとすれば、本土に行けるとすれば来週の連休だろうか。けれどその前に、OG会と会うのが避けられない。現状、それだけが唯一の気がかりだった。
そこでオレンジペコは、スマートフォンの画面を閉じて再び考える。
オレンジペコは、確かに蒼音のことを尊敬している。それは事実に変わりはない。
だが、蒼音のことを尊敬し、信頼しているからと言って、どうしてこうも「会いたい」と願う気持ちは尽きないのだろうか。校外の友人や家族なら、電話なり何なりで話せばしばらくは大丈夫だったのに、蒼音に限ってはそうもいかない。
であれば、本当に自分は蒼音のことをただ尊敬し、信頼しているだけなのだろうか。
するとその時、戸がノックされた。
「はい」
『私よ』
声だけで、誰が訪ねてきたのかは分かった。
オレンジペコは、衣服と髪を手早く整えて戸を開ける。
「どうされたんですか、ダージリン様?」
「ちょっと、お誘いにね」
ダージリンは、制服でもタンクジャケットでもない。白のドロストスリーブのプルオーバーに、ロング丈の黒のプリーツスカートだ。手にはブラウンのミニトートバッグがある。明らかに外行きの服だった。
そんなダージリンが、「お誘い」ときた。
「少しショッピングに行こうと思うのだけれど、よければどうかしら?」
「それは……はい、よろしければ」
断る理由もなかったし、それにオレンジペコも気分を少し変えたいところだった。その誘いには乗らせてもらうことにする。
「それでは、少し準備をしますのでお待ちいただければ……」
「ええ、待ってるわ」
オレンジペコも今は私服だが、外へ出るには色々と準備が必要だ。なのでダージリンを待たせないように、極力急ぎで準備を始める。
電話を終えて、蒼音はカフェオレを一息に飲み切る。オレンジペコとの電話で、いい感じの温かさになっていた。
迷った末に、蒼音は電話を掛けた。送ったアロマがちゃんと届いているかの確認、という大義名分のもとでだが。オレンジペコのように「話がしたかったから」という理由だけで電話をかけるのは、まだハードルが高い。
ただ、いいニュースは聞けた。贈り物はちゃんと届いたし、オレンジペコも気を悪くした様子はない。それだけでもう十分だ。
しかしながら、オレンジペコから「尊敬している」と言われたのは予想外だった。
「……よし」
自分の頬を軽く叩き、再び勉強に入る。休憩時間もいい塩梅だ。
オレンジペコから、女性から、あんな風に応援されて気合の入らない男など、そういないだろう。どうやら自分も、そういう男の1人だったらしい。
戦車道の戦術論は難しいが、頑張ろう。そうして気合を入れてオーケストラの音楽を流そうとしたが、直後に玄関の鍵が開く音が響いた。溜息をつき、リモコンを置く。
「邪魔するわよ〜」
「邪魔するなら帰ってー」
「はーい……って何言わせてんのよ」
「ノリツッコミする時点で――いえ、何でもないです」
訪問者・朱那に、以前テレビで見た関西系の漫才の鉄板フレーズを送ったところ、満点の答えが帰ってきた。同じものを見ていたのであろう、こういうところは似ている。
すると、また戦車道の本が詰まっていると思しき紙袋を持った朱那は、蒼音の顔を見て。
「何、なんかいいことあったの?」
顔を指差してそんなことを尋ねてくる。蒼音がどういうことかと眉を顰めると。
「そんな嬉しそうな顔して」
自分の頬に手をやるが、顔が少し熱いだけだ。
思えば、さっき朱那が勝手に鍵を開けた時も、溜息こそ吐いたが表情筋がそれ以上動いた記憶はない。
となると、さっきオレンジペコと電話をしていた時から、相手は嬉しそうにしていた、ということになる。
まさかここまで、他人にわかるほど、表情に出るほどに、オレンジペコの言葉が嬉しかったというのか。
だが、それを朱那に馬鹿正直に話せば何と言われるか分かったものではない。
「……姉さんがノリツッコミしてくれたのが笑えて」
誤魔化したら、古き良きツッコミのチョップを返された。
◆ ◇
ショッピング、とダージリンはは言ったが、要はOG会との会合に向けて茶菓子を買いに行くところだったそうだ。オレンジペコも、どこかのタイミングでそうしようと思っていたので、いいタイミングだと言える。同時に、早めに行動を起こしておけばダージリンに手間を掛けさせることもなかったかな、と後悔もした。
ただし、その買い物自体は別に時間もかからず、学園艦にある有名かつそこそこ値が張るチェーン店で購入することができた。
「気に入ってもらえるといいのだけれど」
「多分、大丈夫だと思います……」
ダージリンがお菓子の入った紙袋を見下ろして告げるが、オレンジペコとしてはそうであってほしいと願う。前回は本土まで買いに行ったのだが、その際は特に何のコメントもなかった。というより、茶菓子を学園艦内で調達したぐらいでいちいち文句をつけられては、それこそより面倒になる。
兎に角、買い出しを終えた今、時刻は12時を回っていた。
「さて、ランチにちょうどいい時間ね。せっかくだから、ご一緒しない?」
「私でよろしければ」
ダージリンから昼食のお誘い。休日にオレンジペコは大体1人、もしくは最初からダージリンだけでなくアッサムやローズヒップたちと出かけたりする。学校がある日も「ノーブルシスターズ」として一緒の席で食べるのがほとんどだった。だからこうして、改めてダージリンから一対一で「昼食を」と誘われるのは少し珍しかったりもする。
さて、聖グロリアーナ学園艦についてを他人に聞く際、お嬢様校ゆえに店はあっても敷居が高くて、格式も高い店が多いという印象を抱かれる。だが、実際そういうことはなく、確かにそういった店もあることにはあるが、それ以外のお店――個人経営の小さな店や大手チェーン店――も普通にある。というか、そういった店の方が割合は多い。
そんな中でダージリンとオレンジペコが選んだのは、学園艦の甲板のほぼ中央を縦に貫く大通りに面したオープンカフェだ。学園館内でもカジュアル寄りなその店に、知り合いの姿は見えない。
「ここは私が出すから、好きなものを頼んでいいわよ?」
「流石にそれは……自分の分は払います」
そう言って、似たようなやり取りを少し前に交わしたっけと記憶が逆流してくる。
すぐに思い出した。蒼音・朱那と一緒に話をした先週のことだった。
「オレンジペコ?」
「……あ、すみません。ですがやっぱり、支払いは個別にしましょう」
何か気になったのか、ダージリンが尋ねてきてもオレンジペコは首を横に振るう。先週のことはさておいても、尊敬するダージリンに自分の食事代まで出させるのは忍びない。オレンジペコの提案に、ダージリンは少し肩を竦めてメニューを開く。
オレンジペコは、次期隊長として確かに期待されているものの、この聖グロリアーナ学園艦の人間となってからまだ1年も経っていない。なのでまだ行ったことがない区画は多く、この店も入ったことがなかった。故に、メニューを見てどれにするか迷う。過去に来たことがあればそれを基に選べるのだが。
「あ……」
そんな中に、自分が好きな食べ物があった。迷わずにそれを注文することにする。ダージリンも決まったところで、店員への注文は率先してオレンジペコが担当した。
「ミートパイとダージリンティーのセット、それとホットクロスバンとアイスティーのセットを1つずつ」
オレンジペコは紅茶は紅茶でもアイスティーの気分だったのでそちらを注文した。ダージリンの前で、「ダージリン」の名を冠する紅茶を飲むのは少し恥ずかしい、という面もあるが。
「さて、オレンジペコ。料理が来るまでの間、お話と洒落込みましょうか」
含ませるようにダージリンが切り出してくる。ダージリンに限らず、こういう時に出てくる話と言えば雑談程度のものでないのが基本だ。
「私がこの間出した『宿題』、どんな感じかしら?」
「おおよその答えは出ている、と言う感じでしょうか。それが正しいかどうかは少し自信がありませんが」
「なるほど、いい感じね」
ダージリンの「宿題」に関して、オレンジペコはほぼほぼ答えを見出せている。ただ、あの問題に対する答えは正直な話、100%のものが存在しないだろう。言うなれば、現代文などでよくある「作者の気持ちを答えよ」と同じだと思っている。
それでもダージリンは、オレンジペコがこうして考えて答えを導きだそうとしていることに、価値を見出しているらしい。
「答え合わせの時が楽しみだわ」
実に楽しそうに笑うダージリン。そこで、お互いの飲み物が先に届いた。メインディッシュはあと少しかかるらしい。
オレンジペコは、アイスティーを一口啜る。聖グロリアーナでは温かい紅茶の方が飲む機会が多いが、冷たい紅茶も乙なものだ。ダージリンも、自分の名を冠する紅茶を静かに飲んでいる。
「オレンジペコも、最近は戦車道で頑張っているわね。ほかの子たちも、あなたが次期隊長という点を賛成しているし……」
「いいえ、私などダージリン様と比べればまだまだで……」
以前、寮の朝食でバニラから称賛されたことを思い出す。それに限らず、アッサムやルクリリからも褒められることはあった。皆から評価されるのは、それは勿論嬉しいことだ。
それでもダージリンほどの人から褒められるというのは相当に照れ臭く、そして恐れ多い。多分、自分でなくとも同じことを言われれば誰でも謙遜してしまうだろう。
「特にここ最近の活躍はとても目覚ましいわ。もしかしたら、私を越えてしまうかも」
「ダージリン様を越えるお方などそういないかと……」
「あら、嬉しい」
称賛半分、期待半分で答えると、ダージリンはにこりと笑う。ただ、本当にダージリンを越えられる人は多くないと思っている。未だ戦車道で勝てない学校もあるにはあるが。
ダージリンは紅茶を一口飲んで続ける。
「けれど、今のオレンジペコからは、本当にそうなりうる可能性を感じるの」
「……本当ですか?」
「ええ」
「……ありがとうございます」
ダージリンは、真っ直ぐにオレンジペコを見つめる。真っ直ぐな言葉を向けてくる。
照れくさくて、嬉しくて、オレンジペコはアイスティーを一口飲む。けれど、嬉しさによる体の熱は、収まるところを知らない。
「これで安心して、ここを離れられるわ」
紅茶を一口飲み、目を閉じてそう告げるダージリン。
そこでオレンジペコは、再認識する。
ダージリンがこの聖グロリアーナにいられる時間は、短くなければ長くもない。卒業の時は、聖グロリアーナを去る時は刻一刻と迫っている。それをすっかり忘れていた訳では無いが、色々なことが多くあったせいで、それについて考えるのが二の次になってしまっていた。
「そして、新しい始まりでもある」
「……始まり、ですか」
何かが終われば、また何かが始まる。よくあるセリフだが、そのセリフが似つかわしい状況など、春のある時期に決まっていた。
「実は私、イギリスへの留学が決まったのよ」
何でもないように、ダージリンがそんなことを宣った。思わず、啜ったアイスティーで噎せそうになる。
「ほ、本当ですか……?」
「ええ」
「お、おめでとうございます!」
「ありがとう」
ニコリと笑うダージリン。
オレンジペコは、急な事態に驚く反面、ダージリンならやり遂げそうだな、と納得もする。バニラと話した時に出た「いつか」の目標を、このダージリンは容易く為してしまう。何のために、とは聞かない。
「聖グロリアーナを卒業して、日本を発つからこそ、不安だったのよ。この先の聖グロリアーナが」
「……」
「でも、オレンジペコのここ最近の成長を見ると、それも不要だったと気付けたわ」
そう言って、ダージリンはテーブルに紅茶のカップを戻す。ただならない空気になったので、オレンジペコはアイスティーのグラスをソーサーに置いた。
「オレンジペコ」
「はい」
「あなたに、一つ言葉を送りましょう」
「?」
一拍置いて、ダージリンは口を開く
「『正直とか親切とか友情とか、そんな普通の道徳を堅固に守る人こそ、真の偉大な人間というべきである』」
「アナトール・フランスですね」
ダージリンの引用に、オレンジペコは即座に答える。ダージリンは満足げに頷いて微笑む。
「あなたは私の目から見ても誠実で、正直であり、親切でもあり、そして友情を大切にする。それを忘れないでいれば、仲間はついてきて、支えてくれるわ」
「……肝に銘じます」
今、オレンジペコは改めてダージリンからどう思われているのかを伝えられた気がする。
ルクリリやローズヒップ、バニラたち来年度も自分と戦う仲間の顔が頭に浮かび上がる。
そんな皆を引っ張るのは自分だ。もう、ダージリンの役目ではなくなる。寂しさはどうしても拭えないが、それはダージリンたちが卒業してからいくらでも感じればいい。寂しくて泣くのは後で十分だ。
だからこそ、オレンジペコは先の言葉を心に留めておこうと思った。
◇ ◆
休み明けの戦車道の日、少々意外なことが起こった。
「ダージリン」
戦車道の訓練後、いつものように「紅茶の園」でティータイムを過ごしていると、デザインが西洋風の古き良きダイヤル式電話機を、アッサムがダージリンに差し出してきた。ダージリンはカップをテーブルに置き、受話器を耳に当てる。オレンジペコも一旦紅茶を飲むのを止めたが、アッサムの表情に緊張が見て取れたのは果たして気のせいだろうか。
「もしもし……あら、お久しぶりですわね。それでご用件は?」
電話の相手の声は、オレンジペコには聞こえない。
だが、言葉を何度か交わしていくうちにダージリンの目が細くなっていく。喜ばしい話ではない、むしろその逆らしい。
「承知いたしましたわ。では、詳細はまた後程」
『――』
「構いませんことよ。受けた勝負は断らない、それが私たちのやり方ですので」
勝負、と聞いてオレンジペコは凡その要件を把握する。
受話器を電話機に戻したダージリンは、オレンジペコとアッサムを視界に収めて口を開く。
「練習試合の申し込みよ」
「相手は……?」
「黒森峰」
ダージリンが告げたその相手に、オレンジペコは唾を飲み込む。
「最強」と称される黒森峰女学園。聖グロリアーナ女学院は、未だ一度も勝ち星を挙げたことがない。当然、ダージリンでも勝ったことがない相手だ。先の全国大会でも聖グロリアーナは準決勝で戦い、そして敗れた。その時の悔しさは、オレンジペコも忘れられるはずがない。
そしてその黒森峰女学園は、全国大会の決勝戦でかの大洗女子学園に僅差で敗北した。
そんな相手が、練習試合を申し込んでくるとは。
「試合の日程と場所は、こちらに任せるとのことよ」
「車両の内訳は?」
「試合会場が決まり次第、すぐに連絡するって」
ただしアッサムは、冷静にダージリンと話を進めていく。先ほど緊張していたのは、見間違いではなかったのかもしれない。けれど、アッサムだって緊張しているだろうに、冷静に試合の詳細を詰め始めた。
ダージリンも言った通り、受けた勝負は誰であろうと断らない。それも、聖グロリアーナのスタイルだ。かの大洗女子学園が、戦車道を復活させたばかりの頃にいきなり練習試合を申し込んできた時もそうだった。
だから、相手があの黒森峰であっても、辛酸を嘗めた相手でも、勝負は確定している。
「アッサム。来月頭の土日、本土で試合ができる会場を押さえてもらえるかしら。地形は……なるべく整っていない場所がいいわ」
「こちらの学園艦で行わなくてもよいのですか?」
大洗女子学園と練習試合をした際は、あちらの希望で母港・大洗町で試合を行った。だが、聖グロリアーナ学園艦は艦上で練習試合ができるほどの規模がある。その上学園艦内であれば自分たちは知り尽くしているので、黒森峰相手に少しは有利になるかと思ったのだが、ダージリンは本土の試合会場を指定してきた。
「大洗との試合で、黒森峰も市街戦については対策しているでしょうし、あまり効果はないでしょう」
紅茶を飲むダージリンの言葉に、オレンジペコも頷く。
あの全国大会の決勝で、黒森峰側の戦車は市街地の戦いで大洗の戦車に翻弄され、思うように戦果を挙げられなかったし、奇策を弄されて重戦車を全て行動不能にされている。おまけに、最後にはフラッグ車同士の戦いに持ち込まれてしまって敗北した。そして、聖グロリアーナ学園艦にある訓練場は市街地がメインだ。決勝戦のことも含め、あちらがその対策をしていないはずもないし、ホームであっても五分に持っていけるかは怪しい。
「分かりました、手配します」
アッサムがノートパソコンを開き、早速試合会場を探し始める。
一方のオレンジペコは、紅茶を一口飲んで息を吐いた。
もうこの先、年度内に大会の類は開催されない。だからおそらく、これがダージリンにとって……いや、今いる3年生にとっては黒森峰と戦う最後の機会だ。
自分は確かに、力をつけていると思う。だからこそ、最後の試合で先輩たちが勝利できるように努力したい。
OG会との会合はもう1週間足らずだが、まさに一難去ってまた一難という感じだ。