GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅠ 斥候

 

 まだ昼前のはずだが、天幕の外は夜のように暗く、しとしとと雨が降り始めていた。

狩人は顔をしかめ、猟銃の撃鉄を革のカバーで覆う。火薬が湿気るのを防ぐための代物だが、確実性はない。

 

「狩人さん!」

 

天幕から飛び出してきた王子が、勢い余って狩人の腰に激突した。狩人は振り返り、彼を睨みつける。

 

「痛いんだけど」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「何の用だ?」

 

彼の問いに、王子は表情を引き締めて言った。

「顧問官の協力は得られませんでしたが、僕の従者はお貸しできます」

 

「いらん」

 

「でも、すごく強いんですよ? 僕よりも強いです」

 

狩人は何とも言えない表情で王子を見つめる。

 

「……そりゃお前よりは強いだろうよ」

 

「本当ですよ! 本当に強いんですから!」

 

「気持ちだけ受け取っておく」

 

狩人は王子の肩にポンと手を置いた。

 

「じゃあな。せいぜい沼には気をつけて歩け」

 

悲しげな顔をする王子に背を向け、狩人は野営地を後にする。

だがそれほど距離を置かぬ所で、彼はおもむろに足を止めた。

 

耳元で羽音がする。この耳障りな音は、おそらく蝿のものだ。湿潤で死骸に溢れる魔の森では珍しくもないが、雨足が強くなる中、蝿が飛び回っているというのは妙であった。

 

狩人は音の方へ視線を移す。

降りしきる雨をくぐるようにふらふら飛んでいた蝿が、彼の肩にぴたりと止まった。

蝿は前足をこすり合わせたあと、飛ぶためではなく、ただ音を立てるためだけに羽を動かす。耳障りな音は徐々に高くなり、やがて人の耳には届かぬ域に至った。

 

この世のあらゆる事象は、観測者たる人の認識の外で神秘となり、あるいは魔となる。

狩人の聴覚に捉えられる範囲に『音』が戻ってきたとき、それはまったく別の性質のものに変わっていた。

 

「猟犬、話がある」

 

狩人は周囲に視線を走らせたあと、蝿に向かって囁いた。「久しぶりだな、蝿。……いや、『鏡』か?」

 

「その通り」

 

『鏡』が使役する蝿は忙しなく羽を動かし、耳を澄ませばぎりぎり聴き取れる範囲の声音を発する。

 

「ちょうどさっき、あんたのことを思い出してたところだ」

 

狩人は小さな声で話しながら、野営地からは死角となった木の陰に移動する。

 

「……今思ったんだが、あんた鏡の要素薄いよな。『蝿』に改名したらどうだ?」

 

「私の名前などどうでもいい。今すぐそこから逃げなさい。王妃様が来る」

 

『鏡』の言葉に、狩人は真顔で訊ねる。「魔女が、俺を殺しにか?」

 

「お前と、その場にいる者全てをだ」

 

「……クッククク」

 

狩人は不気味な忍び笑いをもらした。「そう来なくちゃな。ようやく面白くなってきたってわけだ」

 

「逃げろ。お前では敵わない」

 

「どうかな。やってみなければ分からんぜ」

 

「この天候では銃の不発が多くなる。王妃様に有利だ」

 

狩人は腕を組み、じろりと蝿を睨む。

 

「どうせお前が教えたんだろ。『隣の国』の兵士たちを襲うなら、このタイミングがいいって」

 

「その通り」

 

「余計な悪知恵つけさせやがって……」

 

狩人は苦々しげに舌を打つ。

 

「じゃあ俺はついでってことか。気分悪いぜ。どうしてくれんだ?」

 

「今すぐ逃げろ。私にはそれしか言えない」

 

狩人は小さく唸ると、黒雲が立ち込める雨空を見上げた。

 

「せめて雨が止めばな。あんた、天気は変えられないのか?」

 

「私には無理だ。天は御父の……神の領域。魔の力の及ぶ場所ではない」

 

少し間を空けてから、再び『鏡』が言葉を発する。今までの静かで穏やかな声色ではない。有無を言わせぬ、命じるような声だった。「伏せろ」

 

思わず言うとおりにしてしまう狩人。

茂みの陰に身を潜め、じっと耳を澄ませる。

彼の動物並の聴覚は、雨音に混じる何者かの足音を聞き取っていた。微かに鎖帷子の鳴る音もする。

 

「兵士の足音だな。だが野営地とは逆方向から来ている。敵か?」

 

「曇王が生前頼りにしていた近衛兵たちだ。今は王妃様に従っている」

 

『鏡』の言葉に、狩人はフンと鼻を鳴らす。

 

「魔女がここに来るまでの時間稼ぎってところか?」

 

「その通り」

 

「足止めに使われるんなら、しょせんはその程度なんだろ」

 

「甘く見るな。手強いぞ。彼らは顧問官ウォルシンガムの命を狙っている」

 

「俺はついでどころか、眼中にもない感じだな」

 

「僥倖と考えろ。茂みに隠れたまま右手に移動し、やり過ごせ。……その尻についた火は消せないのか?」

 

『鏡』は狩人を逃がすべく助言をするが、彼はそこまで素直ではない。無言で銃のカバーを外すと、撃鉄を起こした。

 

「近場にいるのは三人だな。一番近いのは十時の方向か。続いて二時、十一時。合ってるよな?」

 

「その通りだが……」

 

「チッ。ハンドルを回す音が聞こえた。一人クロスボウを持ってるな」

 

「……何を考えている?」

 

「さあな。自分の目で確かめろ」

 

狩人の暗い瞳に、鋭い光が宿る。「お手並み拝見だ」

 

「やめろ!」

 

『鏡』の制止もむなしく、狩人は素早く立ち上がった。猟銃を構え、最も離れた位置の敵に向かって引き金を引く。

運の良いことに火薬は正常に点火し、弾丸を胸に受けた兵士は仰向けにひっくり返った。

その手からクロスボウが落ちるのを見て、狩人はにやりと笑う。「やっぱりお前が持ってたな」

 

「敵だ! 茂みに潜んでいたぞ!」

 

最も近くにいた兵士が叫び、長剣を振りかざして突進する。狩人は首を軽く鳴らすと、迫りくる剣撃を身を屈めて回避した。

そのまま足先で地を滑り、敵の懐に潜り込む。

 

「ぐっ?!」

 

突き出された銃床を顎に受け、兵士はくぐもった声を洩らした。次の瞬間、その側頭部に狩人の蹴りがめり込む。

兵士は兜を被っていたが、鉄板仕込みのブーツによる鋭い打撃は脳を揺らし、彼は無言で地面に倒れ伏した。

 

「貴様!」

 

間髪入れずに残る一人が飛びかかってきたが、狩人は慌てず猟銃を構え、二発目を撃つ。放たれた散弾は甲高い金属音とともに、兵士の利き腕から長剣を弾き飛ばした。

兵士は手首を抑えて蹲ったが、歯を食いしばって痛みをこらえ、ベルトの短剣を抜き放つ。しかしその切っ先が狩人に向く前に、兵士の頭に大振りの鉈が突き立っていた。

頭蓋を二つに割られた兵士はぐるりと白目を剥き、地面に倒れ伏す。

 

「まあ、弱くはないが。それほど強くもないな」

 

兵士の頭頂部から鉈を引き抜き、狩人は肩をすくめる。彼の肩にしがみついていた蝿が再び羽音を鳴らすと、『鏡』の沈んだ声が響いた。「何故人は人を傷つける?」

 

「さあな。気分が良いからじゃないか?」

 

狩人が平然と答えると、『鏡』の声の調子がまた少し変わる。

 

「……お前に質問しても正しい答えは得られんらしい」

 

「かもな」

 

狩人は肩をすくめた。鉈にこびりついた血と肉片を振り落としてから、腰の後ろの鞘に納める。

 

「こいつらは斥候か?」

 

「その通り」

 

「一人しか飛び道具を持ってないとは、斥候が聞いて呆れる」

 

敵兵の死体を間近で見つめ、溜息を吐く狩人。

 

「よく見たら装備も酷いな。この鎖帷子を見ろよ。ケチな婆さんの財布みたいにボロボロだ。新調する金もないと見える」

 

「連中の懐具合を心配している場合ではないぞ。銃声を聞かれた。じきに本隊がここに駆けつける」

 

「何人だ?」

 

「四十は超える」

 

しばらく間を空けてから、狩人はすまし顔で猟銃を担いだ。「じゃあ、逃げた方がいいな」

 

「……だからそう言ってるだろう」

 

呆れた様子の『鏡』をよそに、狩人はすたすたと来た道を戻り始める。

 

「おい、何処へ行く気だ」

 

「『隣の国』の連中と合流し、魔女の兵どもを迎え撃つ」

 

「止めておけ。もう彼らに関わるな」

 

「何故だ?」

 

「『隣の国』と関われば、お前は死ぬ。お前も王妃様も……二人とも死んでしまう」

 

「……」

 

狩人は眉をひそめ、眼前に広がる闇を見つめた。

木々の間から、野営地の松明の光がちらちらと見える。

 

「あんた、未来が見えるのか」

 

「未来も、現在も、過去も。全て見える。この国のことに限ればな」

 

事も無げに答える『鏡』。狩人は沈黙したあと、下唇を舐めてから言った。

 

「その未来、他の連中はどうなんだ? 白雪姫は? 小人どもは? 隣の国の王子は?」

 

「生きている」

 

『鏡』の短い返答に、狩人は乾いた笑みを浮かべる。

 

「なら、それほど悪い未来じゃないな。むしろ理想的と言っていい」

 

「死ぬのが怖くないのか?」

 

「俺に質問しても正しい答えは得られないんだろ? 口を閉じてろよ」

 

「……」

 

誰にも聞かれないような小さな声で、『鏡』は呟いた。「……私は、お前たちの死が怖い」

 

 

 

 

 

 

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