野営地に降りしきる雨は、いつの間にか止んでいた。凍てつく霧は晴れ、暗く湿った空気を押し流すように、清涼な風が吹いている。
「何があったか説明してもらいましょう」
野営地中央にある天幕の傍らで、顧問官は槍の騎士と向かい合っていた。
騎士は顔の泥をハンカチで拭きながら、あっけらかんと答える。
「魔女に逃げられました。曇王は狩人様が仕留めましたが、死体はいつの間にか消えており、恐らくは持ち去られたかと。全ては私の責任です」
顧問官は神経質そうに眉をひそめる。「わざと逃がした、の間違いでは?」
「フフフ」
槍の騎士は苦笑し、ハンカチを懐にしまった。
「信用して頂けないのは悲しいですな。しかし、女王は死刑を忌避していらっしゃる。魔女にも慈悲をお示しになるはずだ。生け捕りを狙うのもアリでは?」
騎士の言葉に目を鋭く細める顧問官。
彼に顔を近づけると、囁くように言う。
「なら貴様に慈悲を示すのは誰だ? ヴァージニアへの入植では成果を残せず、インカの黄金郷の探索にも
「ほほ、よくご存知で」
「女王が貴様を庇うのにも限度がある。魔女の首を取れずに本国に帰還したとき、貴様に待つのは黄色い声援ではない。冷たい断頭台だ。私自ら首を落としてやる。出来るだけ長く苦痛を与えてな。ありがたく思うがいい」
槍の騎士は面白そうに片方の眉を上げる。「素晴らしい。そのときは是非ともお願いしたい」
顧問官は眉間に深い皺を寄せ、じっと槍の騎士を見ていた。やがてくるりと背を向けると、乱暴に天幕の入口を開け、奥へと引っ込む。
入れ違いで外に出てきた王子が、おっかなびっくり騎士に声をかけた。「……大丈夫でしたか?」
「ええ、問題ありませんよ。ああ見えてお優しい方です。ご心配なく」
槍の騎士はにっこり笑ってそう返す。「ときに、狩人様はどちらへ?」
「もう帰っちゃいました」
「それは残念。色々と訊きたいことがあったのですが」
彼の言葉に、王子は少し狼狽えた。
少しの間躊躇っていたが、やがて訊ねる。
「貴方は……見ましたか? 魔女が、狩人さんを……」
そこまで言いかけたところで、王子は慌てて自分の口を塞いだ。槍の騎士が口元に指を当て、シーッと息を洩らしたからだ。
「何処で誰が聞いているか分かりません。サー・ウォルシンガムの密偵は、とにかく数が多いことで有名ですから」
「……やっぱり彼には言わない方が?」
抑えた声で言う王子に、槍の騎士も小声で返す。「賢明でしょうな。ただでさえ狩人様は疑われている」
「分かりました。では、僕らだけの秘密ということで」
「そうしましょう」
槍の騎士は頷いた。
王子はほっと息をつくと、天幕に背中を預けて空を見上げる。「乳母のことを思い出していたんです」
「ほう?」
「姉上たちの王位継承権が剥奪されたままの頃、僕はほんの幼い頃から次期国王として政務に関わっていました。四六時中貴族の重鎮たちに囲まれ、気の休まる暇もなかった」
話を聞きながら、槍の騎士は目元を微かに歪ませた。笑みで歪んだものではない。
「滑稽ですな。囲まれる方も囲む方も、滑稽でしかない」
「ええ、本当に」
王子は苦笑して肩をすくめる。
「望まれるままに、努めて統治者然と振る舞っていました。真面目で険しい顔をして。けど本当は……胸の中では、誰かに助けを求めてずっと泣いていたんです」
「……」
槍の騎士は黙って王子の横顔を見つめる。
王子は空を仰いだまま、言葉を続けた。
「本当に泣くことができるのは、屋敷に帰って、乳母に抱きしめられたときだけ。そのとき初めて、自分がずっと泣いていたことに気づくことができた。僕自身が分からないことも、乳母にはお見通しだったんですよ」
「確か、貴方の乳母様は……」
槍の騎士が言葉を濁すと、王子が後を継いだ。「他界しています。僕が七歳のときに」
「惜しい方を亡くしましたな」
「はい。優しくて強くて……大好きな人でした」
王子は視線を落とし、その綺麗な顔に似合わぬ、豆だらけの手の平を見つめる。
「あの方は……狩人さんは、これ以上戦ってはいけないと思うんです。ましてや、魔女と殺し合わせるなんて」
「そうですな。まあ、それは……」
槍の騎士は言葉を選ぼうとしたが、結局途中で笑い出してしまった。
「フフフフ、失礼。しかし、あの方は立派な大人ですよ。七歳ではありません」
彼の言葉に、王子は頬を膨らませる。
「歳なんて関係ないでしょう。だって狩人さんは文字通り狩人で、市井の人ですよ。僕たちのような軍人じゃない」
「私があの方なら、貴方に過保護に扱われるのは屈辱でしょうな」
「……」
槍の騎士の言葉に、王子は不機嫌そうに押し黙った。騎士は苦笑しつつ、大げさに肩をすくめてみせる。
「誤解の無いよう言っておきますが、私もあの方のことは気に入っていますよ。特に命名センスが素晴らしい。『裏拳野郎』。フフ、クククク」
気色の悪い思い出し笑いをする槍の騎士。
王子は腰に手を当て、彼を睨みつけた。「じゃあ僕はどうすればいいんですか?」
「貴方が決めることです。今回、私は貴方の従者ですので」
王子は槍の騎士を恨めしげに見上げ、溜息をつくと、小さいがはっきりした声で言う。「魔女を生かしたまま捕らえる」
「仰せのままに」
騎士は恭しく頭を下げた。
王宮の地下に広がる隠し通路の、分厚い鉄の扉が開いた。
片腕をだらりと下げ、足を引きずる魔女の顔には、いつにも増して生気がない。肩口が引き裂かれたローブを辛うじて纏い、乱れた白髪もそのままな彼女の姿は、仮にもこの国の王妃とは思えない惨めなものだった。
「はあ……重い!」
背負っていた曇王の死体を、無造作に床に振り落とす。
「本当に世話の焼ける! また生き返らせなきゃいけないじゃない!」
魔女は美しい顔を醜く歪め、曇王を思いきり蹴りつけた。「ってゆーか、生き返るのこれ? どうなの『鏡』!」
魔女は奥の部屋に向かって声を張り上げる。
しかし『鏡』からの返事はなかった。声の届かぬ距離なら、蝿の一匹くらい寄越してきそうなものだが、そういった気配もない。
「……?」
魔女は胡散臭げに首を傾げた。回廊の闇から闇へ蠢く、悪霊たちの気配が消えている。
代わりに微かな血の匂いが、石畳のそこかしこから漂っていた。
「……」
魔女は眉をひそめ、一歩後ろに下がる。そのとき柱の陰から伸びた腕が、彼女の肩を鷲掴んだ。「おかえり♡」
「!」
魔女は目を見開く。草臥れた黒いコートを着た男が、音もなく横に立っていた。
シルクハットのつばの下から覗く口元に、にちゃあっと不気味な笑みが浮かぶ。男は痩躯に見合わぬ怪力で魔女をぐいと引き寄せ、血錆に塗れた大振りの鉈を振り抜いた。
とっさに足元から火花を散らし、高速移動で逃れる魔女。距離を取って床の上に降り立つや否や、虚空に薄氷の刃を数本作り出し、男めがけて一斉に飛ばした。
薄氷は銃弾より遅いが、魔女の意思を纏い、ある程度は標的を追尾する。だが男は悠々と柱の陰に身を運び、これを盾にしてやり過ごした。
「お初にお目にかかる。森の魔女よ」
男の慇懃な挨拶に、魔女は顔をしかめる。
先ほどの鉈を完全には躱せず、首筋に焼けるような痛みが残っていた。彼女は次の攻撃のために、再び氷刃を空中に生み出す。
「貴方、『魔女狩り』ね?」
「ご名答。さすが年月を重ねた魔女は洞察も鋭い」
「歳食ってるってこと? それって失礼じゃない? レディに向かって」
魔女の言葉に、男は意外そうな声を出す。
「失礼などとんでもない。年月を重ねるとは素敵なことだ。特に魔女にとっては。魔道に身を置く時が長ければ長いほど、その力も強くなる」
「……」
沈黙する魔女の気配を察してか、男はクククッ、と笑みを溢す。「そしてそれを喰らう我々にも、箔がつく」
「やれるものならやってみなさい。その汚らわしい刃を私に向けたこと、後悔するがいい!」
魔女は啖呵を切って立ち上がった。魔女狩りが飛び出す瞬間を逃すまいと、柱の陰を睨みつける。
満身創痍の肉体に殺気を漲らせ、周囲には魔力の霧を渦巻かせた。虚空に浮かぶ氷刃が一つ二つと増えていき、やがては数えるのも億劫なほどの『群れ』へと変わる。それらは空中で兵隊のように陣形を取り、主人の号令を待っていた。
足元から吹き上げる風が、彼女の長い白髪を弄ぶ。
「王妃様」
いつの間にか、魔女の肩に一匹の蝿が止まっていた。彼女は横目でそれを一瞥し、再び視線を柱に移す。「見て分からない? 今忙しいの!」
「申し訳ありません。しかし、すでに敵は撤退しました」
「へ?」
思わず間抜けな声を出す魔女。柱を指さし、声を上擦らせる。「で、でもだって、ついさっきまで、あそこで声がしてたわよ?」
「響きや抑揚を変えて距離感を誤認させ、さもそこに留まっていると思わせる声術です」
「……何それ。ズルくない? 魔法使いでもないのに、魔法みたいなことができるなんて」
「人間は技術を精錬させる生き物です。いずれは星をも超えるようになるでしょう」
「……」
魔女は無表情に肩口の蝿を見た。「あんた、ちょっと様子を見てきなさいよ」
「お疑いですか?」
「そういうわけじゃないけど、ほら、用心のためよ」
「なるほど。単純に怖いと」
「は?? 叩きつぶすわよ?」
魔女が拳を振り上げると、蝿は逃げるように飛び立った。柱の方に真っ直ぐ飛んでいき、陰に紛れて見えなくなる。
ほどなくして蝿は戻ってきたが、響く『鏡』の声は、少し消沈しているように聞こえた。「まんまとしてやられました」
「どういう意味よ」
「直接ご覧になった方がよろしいかと」
魔女は怪訝そうに眉をひそめたが、言われたとおり柱に近づいていく。
「!!」
彼女が柱の陰で見たのは、石畳の上に無造作に転がる、首のない曇王の死体だった。
「……何これ。どういうこと?」
「頭部を持ち去られたようです」
「それは見れば分かるわよ。何で持ち去ったの?」
魔女の問いに、『鏡』は低い声で答える。
「曇王の死体を使役させないためです。死してなお強い生命力を保つ彼でも、頭部がなければ『死人返り』にするのは難しい。少なくとも、戦士としては期待できないでしょう」
「なるほど、理解したわ。嫌がらせが趣味ってわけね」
魔女は苦々しげに呟いた。堪えようとしたが我慢できず、頭を乱暴に掻きむしる。「あー、むかつく! むかつくむかつくむかつく!」
「おやめ下さい。頭皮を傷めます」
「うるさいわね! だってむかつくでしょ? あれだけ格好つけておいて、実はこっそり逃げてるなんて!」
魔女は自身の頭上に並ぶ、氷の刃を指さした。「見なさいよこれ! こんなにたくさん作ったのに、全部無駄よ?! 腹立つでしょ!」
「お言葉ですが、貴女の方が格好つけていたような気も……」
「はあ? これ全部貴方にぶつけましょうか?!」
「申し訳ありません」
即座に謝る『鏡』に、魔女は荒っぽく鼻を鳴らす。「大体何よ。どうして貴方、すぐに返事してくれなかったの? 侵入者がいるなら、すぐに知らせなさいよ!」
「そのことなのですが……」
「なに!?」
魔女の剣幕に怯みつつも、『鏡』は言った。
「魔女狩りが破壊したのは、曇王の死体だけではありません」
彼の言葉に、魔女は間を開けたあと、微かに息を呑んだ。早足に廊下を抜け、部屋の一つに飛び込む。
そこで彼女が見たのは、酷たらしく割られた『鏡』だった。壁から落ち、破片とともに床に散らばっている。
「……大丈夫なの?」
「何とも言えません」
『鏡』を慎重に拾い上げる魔女に、彼は少し疲れたように答える。
「先ほどの鉈で攻撃されました。そうは見えませんが、刀身は聖別された銀だったようです。破損箇所が上手く修復できません」
魔女は自分の首の傷に手をやり、顔をしかめた。
「私のこの傷も自然には治癒しないわ。魔力と時間が必要。でも決して不治じゃない。貴方のもそうでしょ?」
「そうであることを願います」
「私に任せて。生き物と違って、物を治すのは簡単なの」
魔女は懐に『鏡』を抱き、長い溜息をつく。「まったく、厄介な相手だわ」
「厄介な相手だらけです。皆が貴女の命を狙っている」
「どうやらもう、遊んでいる時間はなさそうね」
魔女は『鏡』を抱いたまま、不敵な笑みを浮かべる。
「連中は思い知るでしょう。本気になった私が、どれだけ怖ろしいかを」