魔女は風呂から上がると、手早く身だしなみを整えた。灰色のローブは暖炉に放り込んで燃やし、代わりに肩口が大きく開いた、漆黒のドレスを身に纏う。水色のルージュを唇に引き、聖銀で斬りつけられた頬と首の傷は、適当に白粉で誤魔化した。
最後に毛皮をあしらった紺色のマントを羽織ると、彼女は繋がった腕の調子を確かめるように軽く回しながら、大股で『鏡』に歩み寄る。
「鏡よ鏡。この国で一番美しいのはだあれ?」
『鏡』はしばらく黙っていたが、少ししてから呟く。「それは、森に住む白雪姫です」
「……本当にしぶといわね、あの子」
魔女は呆れたように肩をすくめた。『鏡』にそっと手を伸ばし、ひびの跡を指で優しくなぞる。
「返答が少し遅れていたけど、まだ少し調子が悪い?」
「そのようです」
『鏡』の返答に彼女は微笑むが、その直後、訝しげに眉をひそめた。「……それとも、またあいつのこと庇おうとしてる?」
「調子が悪いのは本当です」
「ふーん」
魔女はじろりと『鏡』を見るが、鼻を鳴らし、顔を背ける。
「まあいいわ。それより、貴方が前に言ってたアドバイスに従おうと思うのだけれど」
「どのアドバイスですか?」
「リスクを考えて、気づかれない距離から攻撃しろって話よ。忘れた?」
「いいえ。しかし私からは多くの忠言がありますが、どれも流されてしまうことが多いので」
『鏡』の言葉に、魔女は眉間に皺を寄せる。「それって嫌味?」
「はい」
「ほんっと口の減らない奴……」
魔女はぶつくさ呟いたが、やがて頭を振った。
「まあ、認めるわ。戦は銃が主流になりつつあるけど、未だ武人は健在で、そういう連中に近づくのは危険ってことね」
「その通り」
「私も昔、どこぞの馬鹿な王様にしごかれたから自信はあったんだけど……自惚れは捨てるわ」
「それがよろしいでしょう」
「……」
魔女は振り返り、ギロリと鏡を睨みつける。「なんかムカつくから黙ってなさい」
「はい」
白雪姫の体調を確かめ、ベッドまで運んで寝かせたあと、狩人は王子とその従者とともにテーブルを囲んでいた。小人たちが出した簡単な料理を平らげてから、王子が話を切り出す。
「魔女を生け捕りにするだと?」
狩人が聞き返すと、王子は「はい」と頷いた。手ぶりを交え、真剣な様子で語り始める。
「表向きは暗殺したことにして、本国に連行します。当然魔女裁判もありません。女王は寛大な方なので、慈悲をかけてくださるかと」
狩人は腕を組み、少し考えてからぼそりと呟いた。「お前、やっぱり馬鹿なんだな」
「えっ」
ショックを受けた様子の王子を冷ややかに一瞥し、狩人は言葉を続ける。
「小規模とは言え、お前らは立派な軍隊だろ。統率者である裏拳野郎に背く行動は取れないはずだ。女王がどんなに慈悲深かろうが、現場には現場の責任者がいる。あの処刑台が服着て歩いてるみたいな男が、魔女の生け捕りを望むと思うか?」
「ぼ、僕が説得します」
苦し紛れに王子が言うと、狩人は苦笑した。「やめとけ。どうなるかは自分が一番よく分かってるだろ」
「うう……」
王子は小さく唸って俯く。隣で黙って話を聞いていた槍の騎士が、軽く片手を上げた。「一つよろしいでしょうか」
「何だよ」
露骨に顔をしかめる狩人に、騎士はにやりと笑う。「煙草を吸っても?」
「ざっけんな! 駄目に決まってるだろ!」
額に青筋を浮かべ、椅子から立ち上がる狩人。
槍の騎士は「まあまあ」と手で制し、胸元からパイプを取り出す。
「混ぜ物はなしですよ。こう見えて、少しは反省しているのです」
「少しと言わず思いっきり反省しろ。つーか、死ね」
「ふふ、ずいぶん嫌われたものですな」
肩をすくめる槍の騎士に、王子は溜息を吐いて、もっともなことを言った。「嫌われるようなことをするからでしょう」
「では、好かれることでもしましょうか」
槍の騎士はマッチでパイプに火をつけ、狩人に差し出す。「試してみませんか?」
「いらん」
「まあまあ。騙されたと思って」
「ちっ」
狩人は舌を打つと、手を伸ばしてパイプを受け取った。「本当に騙してたら殺すからな」
「きっと気に入ると思いますよ」
「どうだか」
狩人は吸い口を袖の先で執拗に拭ってから、口に咥える。
最初こそむせ返ったが、数回繰り返すと、落ち着いて吸えるようになった。天井に煙を吐き出し、とろんとした目つきで呟く。「……これ、いいな」
「でしょう?」
槍の騎士は嬉しそうに笑った。「これは欧州全土で流行りますよ。いえ、私が流行らせます。命を懸けて」
「もっと有意義なことに命を懸けてください。……ゴホッ」
流れてきた煙が口に入り、王子は少し咳をする。「これ絶対身体に悪いですよ。僕はおすすめしません」
「煙草は万能薬ですよ。ニコラス・モナルデスの『薬草誌』はご覧になりましたか?」
「最近出たやつですよね。読みましたけど、あれは研究と言うより、ただの所見……ゴホッゴホッ」
苦しげに咳き込む王子を見て、槍の騎士は眉尻を下げた。「確かに、貴方には少々刺激が強いかもしれません」
「外で吸ってくる」
狩人は椅子から立ち上がる。扉を開けようとしたところで、ふと思い出したように言った。「白雪姫を任せていいな」
「お安い御用です」
「用心しろよ。魔女は変装できる。昨日の今日で殺されることがないようにな」
彼の言葉に、王子は目をぱちくりさせる。「え……亡くなっていたんですか?」
「少なくとも俺たちは死んだと思っていた。ご大層な葬式してただろ? まあ正確には仮死状態だったらしいが」
「お葬式だったんですか?!」
王子の素っ頓狂な声に、狩人は振り返って眉をひそめた。「硝子の棺に遺体を入れて、お庭で摘んだ花まで敷き詰めてたんだぞ。他にどんな解釈ができるんだ?」
「何か、小人族に伝わるそういう儀式かと……」
「やっぱお前馬鹿だわ」
「だ、だって、まさか遺体だと思わないじゃないですか! あんなに顔色も良くて、その……」
王子の声は、途中でごにょごにょと聞き取りづらくなる。引き継ぐように、狩人が肩をすくめて言った。「綺麗だったか?」
「え、えぇっと……」
「安心しろよ。お前に限らず、男なら……いや、まともな美意識を持つ奴なら男女問わず、同じ意見だろうさ」
彼の言葉に、王子は頬を染めて俯いてから、小さく頷いた。前髪で目元が隠れたため、表情はいまいち読めない。わざわざ読む必要もないだろう。
「一目惚れだそうです」
槍の騎士が茶化して言うと、王子は顔を真っ赤にした。「そそ、そんな、そそそそそんなこと……!」
「いやはや、王子にもとうとう春が来ましたか。色恋より剣ばかりの貴方様が見惚れる姫の御寝顔、是非とも拝見しておきたかったですな」
「見てなかったのか?」
狩人の問いに、残念そうな顔をする槍の騎士。「恥ずかしながら、ラリっておりましたので」
「そういやそうだった。お前……次キメてたらマジで殺すからな」
彼の脅し文句に、騎士は大真面目に頷いた。
「誓いましょう。次ラリるのは、本国に帰ってからにいたします!」
槍の騎士の高らかな宣言を聞いてから、狩人は家の外に出る。騎士のからかうような口調と、王子の怒った声が扉越しに微かに聞こえた。
「騒がしい連中だ」
狩人は戸口から離れ、壁に背中を預ける。手にしてたった数分だが、すっかり慣れた手つきでパイプをつまむように持ち、煙草の煙で肺を満たした。
「吸わせて」
足元から声がし、下を見ると、『寝ぼすけ』がこちらに向かって手を差し出している。
「やらん。これは俺のだ」
狩人が煙を吐きながら言うと、小人は眉根を寄せた。「旦那だって借りてるくせに」
「うるせーな。やらんって言ってるだろ」
「ケチ」
「何とでも言え」
『寝ぼすけ』が飛び跳ねてパイプに触ろうとしたので、届かない位置まで腕を高く上げる。
「そんなに吸いたいなら、あのキモ髭から借りればいいだろ。予備のパイプくらい持ってるはずだ」
『寝ぼすけ』は跳ねるのを止め、のそのそと家の中に入っていった。
狩人は軽く舌を打ってから、パイプを再び口に咥える。煙をゆっくりと吸い込み、全身に溶けるように広がる余韻に浸った。
「狩人様!!」
爆発するように扉が開き、白雪姫が飛び出してくる。狩人は驚いてむせ返り、激しく咳き込んだ。
ぶち撒けた煙草の灰を、頭からかぶってしまう。
「何だよ、お前、おどかすな!」
「ご、ごめんなさい。また何も言わずに出て行ってしまったとばかり……」
「扉は静かに開けろって親父に教わらなかったのか? まああの親父は教えないかもな! ……とにかく、次から気をつけろ」
「はい……」
「ったく」
狩人は帽子を脱ぎ、灰をはたき落としてから、再び被りなおす。「……で、何の用だ」
「貴方に見てもらいたいものがあるんです。他の方には、内密に」
「小人たちにもか?」
「はい」
頷く白雪姫。狩人は、露骨に面倒くさそうな顔をする。
「ダメですか……?」
「いや、いいよ。分かった」
白雪姫の透き通った瞳に見つめられ、狩人は観念したように溜息を吐いた。「俺の貴重な時間を割いてやる。高貴で可憐なお姫様のためにな」
白雪姫に案内され、狩人は数ある廃屋のうち、小人の家から最も離れた場所にある物置の扉をくぐった。
うち捨てられた廃村であるため空き家には事欠かず、小人たちは普段それらを倉庫として活用している。念入りに掃除して客間として利用する時もあるが、そもそも客人が少ないため、そうしたことは稀であった。
「想像してたのより三倍は面倒臭い状況だな。誰なんだこいつら」
狩人は思わず呟く。後ろ手に縛られ、分厚い布を猿轡代わりに噛まされた男女が数人、壁際で一列に座らされていた。
服装は様々で、この国の庶民風のみすぼらしい格好をしているが、おそらくただの庶民ではないのだろう。そうでなければ、こんなところにぞろぞろと並ばされているはずがない。
「これ以上変な連中を増やすのは勘弁しろ。そろそろ覚えきれないぞ」
「何の話ですか?」
「何でもない。こっちの話だ」
狩人は舌を打って続ける。「で、こいつらは誰だ。お前が捕まえたのか?」
「まさか! 違いますっ」
白雪姫は首をぶんぶん横に振った。
狩人は呆れ顔で肩をすくめる。
「じゃあ何だ。お前の薄汚い欲望を満足させるための奴隷か? スペインから買ったのか?」
白雪姫はしばらくきょとんとした顔で狩人を見つめた。「……どういう意味です?」
「いや、何でもない。つまらん冗談だ」
「薄汚い、欲望?」
「冗談だっつってんだろ。追求するな」
狩人は気怠げに足を動かし、一番左側にいる痩せた男に近づいた。
口元に噛まされた布を外してやると、耳元で囁く。「お前に直接訊いた方が早そうだ。俺が質問する。お前が答える。分かったな」
「分かった」
痩せた男は唇を舐めてから短く応えた。
狩人は「よし」と頷き、最初の質問をする。
「じゃあまず一つ目。お前は誰だ?」
「密偵だ。サー・ウォルシンガムの命の元、この国で活動している」
狩人は腕を組み、男の頬の痩けた顔をじろりと見た。
「……つまり、スパイってことか?」
「そうだ」
「スパイがそんな饒舌で良いのか?」
狩人の言葉に、男はにこりともせずに言う。「貴方は証人保護の対象だ」
「しょうにんほ……何だって?」
狩人が聞き返すと、男は補足を加えた。
「貴方は重要な情報提供者として、大ブリテン王国から保護すべき対象と見なされている。我々には貴方の安全を守る責務と、こちらの持ち得る情報を共有する義務がある。……国家機密に当たらない限りは」
「……」
狩人は首を捻ったあと、思い出したように呟く。「そういえば最初に会ったとき、裏拳野郎がやたら俺に質問してきたが……」
「証人保護対象としての条件をクリアするためだ。貴方は王子の恩人だが、我々が敵地で民間人を護衛するには、何か理屈が必要だからな」
狩人は不機嫌そうに腕を組んだ。「余計なお世話だ。俺に護衛なんて必要ない」
「正確には護衛と言うより、監視の意味合いが強い」
「だと思ったよ。初めからそう言え。小難しい話で誤魔化そうとしやがって」
チッと舌を打ち、狩人は男から視線を逸らす。
両者の顔を交互に見比べていた白雪姫が、恐る恐る手を挙げた。「……あの、私が質問してもよろしいでしょうか」
「勝手にしろよ。そもそもお前の奴隷だろ」
狩人の返答に、白雪姫は捻じ切れそうなくらい首を激しく横に振る。「私のじゃないですっ」
「じゃあ誰のだよ」
「それは……」
少し考えたあと、白雪姫は困った顔で言った。「敵国の侵入者だから、裁く権利は貴方にあるって……『先生』が」
「じゃあお前のだろ」
「私のじゃないです!」
彼女は語気を荒げて反論する。「私は奴隷なんて要りません。だからこの人たちは奴隷じゃなくて、お客様です」
「お前は客人を縛って物置に閉じ込めるのか?」
狩人がこう問うと、白雪姫は言葉に詰まった。「それは……その人たちが悪い人だと思ったから」
「まあ、敵国のスパイだからな。悪人には違いない」
狩人は意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「別に良いんじゃないか? お前の奴隷で。存分にしゃぶらせてやれよ」
「……しゃぶらせる?」
白雪姫が聞き返すと、狩人はばつが悪そうに顔をしかめた。「いや、忘れろ。考えてみれば、しゃぶらせるところ付いてなかったな」
「??」
彼女は首を傾げたが、ひとまず狩人のことは無視し、密偵の男に向き直る。「狩人様のご友人、ということで良いんですよね」
「少なくとも味方のつもりだ」
『味方』という言葉に、白雪姫は安堵したようだ。ほっと息をつくと、少し明るい表情を見せる。
「ナイフはお持ちですか?」
「武器は全て奪われた」
男が短く答えると、白雪姫は狩人の方に振り返った。「貴方は?」
「鉈ならあるぞ」
狩人から鉈を受け取ると、彼女は男の後ろに回り、手足を縛るロープを多少手間取りながらも切断する。「他の人のも解いてあげてください」
男は頷き、隣にいる黒い肌の女に近づき、ロープを外しにかかった。
「いいのか? せっかく捕まえたお前の奴隷を」
「だから私の奴隷じゃないし、そもそも捕まえてませんっ」
頬を膨らませて怒る白雪姫。
狩人は密偵たちを一瞥してから、彼女に顔を近づけて囁いた。「あいつらは少なくともお前の味方じゃない。連中を解放したこと、いずれ後悔するかもしれないぜ」
「しませんよ。だって私、命を狙われるのは慣れていますから」
「ククッ。なるほど確かにな」
すっかり肝の座った白雪姫を見下ろし、狩人は苦笑する。
その直後、思い出したように表情を変え、密偵たちの方を向いた。「そう言えばお前ら、誰に捕まったんだ? 間抜けな小人どもにやられるはずないよな」
密偵たちは互いに顔を見合わせたあと、狩人の方に向き直る。「分からない。気づいたときには、すでに無力化されていた」
「情けねえな。それでも密偵かよ」
狩人がつまらなそうに言うと、白雪姫が少し迷いながら答えた。「『先生』は、『照れ屋』が勝手にやったことだって……」
「またアイツか」
狩人は若干頬を引きつらせる。「働き者なのは結構だが、つくづく不気味な奴だな。俺は一度も姿を見たことがないぞ」
「私もです」
白雪姫がそう返すと、狩人も頷いた。「お前の葬式にもいなかったしな。薄情なヤツなのは間違いない」
「そうでしょうか。でも……」
白雪姫が何か言おうとしたとき、不意に近くの窓からコンコンと音がした。
狩人はとっさに白雪姫を背に庇って猟銃を向けたが、硝子の向こうには誰もいない。ただ窓枠が少し開き、そこに一枚の紙が挟まっていた。
「……?」
狩人は紙を手に取り、薄明かりの中で目を凝らして見る。そこには血を使って文字が書かれており、乱暴な走り書きだが、人の文字であったため何とか読むことができた。
『魔女がここに来る』