GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅣ 幸せ

 

「アアアアアアッ!!?」

 

悍ましい雄叫びを上げ、『幸せ』は魔女に向かって突進した。

黒く変色し、捩れるように伸びた長い足で地を蹴り、馬よりも速く雪原を駆ける。

 

「なに! 何なのコイツ! なに?! 」

 

動揺しながらも、魔女は素早く薄氷の刃を放った。

しかし『幸せ』は飛んできた氷刃に食らいついて歯で受け止め、怯むことなく突進する。砕けた歯と血肉が飛び散るが、気にする様子はない。

 

獣か蟲のように四つん這いで地を走り、魔女が次の氷刃を放つより前に、目にも止まらぬ速さで彼女の背後に回り込む。

 

そして血まみれの口を開き、よだれを飛ばしながら叫んだ。「おま、おま、お前ぇ、魔女だろ。クスリ持ってるだろ、なあ! くれよぉ! アレくれよぉ!」

 

「はあ?」

 

「とぼけるなよ、なあ、アレくれよ、頼むよ。ハア、ハア。もう我慢できねえんだよ、頼むよ、アレくれよぉ!」

 

「アレじゃ分からないわよ……!」

 

魔女は後ろ手に氷の剣を作り出すと、くるりと舞うように斬りつけた。

だが先ほどと同じように『幸せ』はそのボロボロの歯で氷の刃を受け、噛み砕く。

 

「氷じゃねえよ、アレだよ、アレくれって言ってんだよ。なあ、頼むよ、いっぱい持ってんだろォオオオォオオオオオオ?!!」

 

辛うじて人の言葉を発していたと思いきや、再び獣のような咆哮を上げる『幸せ』。

突然魔女の足首をわし掴み、逆さまに持ち上げた。

 

「キャア! ちょっと、何するの?! 放しなさい、この、無礼者!」

 

魔女は黒いスカートを手で抑え、あられもない姿になるのを辛うじて防ぐ。

彼女のわめき声など気にせず、『幸せ』はその身体をゆさゆさと揺さぶった。手ぶらと知るや、耳障りな金切り声を上げる。

 

「何で何も持ってねぇんだよぉぉぉぉ!!?」

 

「キャアアアァ!」

 

『幸せ』は魔女の身体を大きく振りかぶって投擲した。枯れ木を何本も突き破りながら、彼女の姿は森の奥へと消え、見えなくなる。

 

「オイオイオイオイ、死んだわアイツ」

 

狩人が呟くと、『幸せ』の血走った目が彼の方を向いた。狩人はぎょっとして身構えたが、『幸せ』は両の手足で地を蹴り、一瞬で距離を詰めてくる。

しかし『幸せ』が目を付けたのは、狩人ではなかった。

 

「お前でもいい。なあ、くれよぉ。堪んねえよ。なあ、持ってるはずだろ! おかしくなりそうなんだよ!!」

 

『幸せ』は顎をカタカタ鳴らしながら、槍の騎士を地面に引きずり倒す。

騎士は「イヤアァン!」と甲高い悲鳴を上げたが、『幸せ』は止まらない。彼の身体をまさぐり、上着の裏から白い粉の入った袋を引っ張り出すと、用済みとばかりに放り投げた。

 

枯れ木を突き破りながら、騎士の姿も森の奥へ消える。

「アイツも死んだな」と、狩人が他人事のように呟いた。

 

「ハア、ハア、ハアハアハア……」

 

徐々に荒くなる息遣いを抑え、『幸せ』はマッチに火をつけると、袋の下から白い粉を炙った。

ふんわりと立ち上る桃色の煙を、鼻から一気に吸い込む。

 

「ア、アアア! ア~~~。ア、ア、ア……」

 

満点の夜空を仰ぎ、白目を剥いてガンギマる『幸せ』。まさに幸せの絶頂である。

 

「誰かアイツ止めろよ。放置しとくと不味いだろ。色んな意味で」

 

「俺が行く」

 

狩人の言葉に、『怒りんぼう』が重々しく頷いた。お楽しみの真っ最中の『幸せ』を刺激しないよう、静かに歩み寄る。

 

「『幸せ』! もう満足しただろ? 小屋に戻る時間だぜ」

 

彼の声に、『幸せ』はぴくりと尖った耳を動かし、顔を上げる。「……『怒りんぼう』?」

 

「そう、俺だよ! 久しぶりだな、『幸せ』」

 

「『怒りんぼう』!」

 

駆け寄ってきた彼を、『幸せ』は優しく抱きしめる。穏やかな笑みを浮かべていたが、不意にその顔に、深い憎悪の皺が刻まれた。

 

「ぐ、あ、あぁ……?!」

 

剥き出しの腕に黒々とした筋を浮かべ、力いっぱい締め上げる。

『怒りんぼう』は掠れた悲鳴をあげ、逃れようともがくが、『幸せ』の怪力には敵わなかった。

ミシミシと軋んだ音を立てていた肋骨が、やがてパキン、ポキンと高い音を響かせる。

 

「があああっ!!」

 

口から悲鳴とともに血の泡を吐き出す『怒りんぼう』。『幸せ』はぐったりと動かなくなった彼を地面に振り落とし、侮蔑の視線を向けた。「うるせえんだよ、この髭は」

 

「な、仲間を殺したぞ……」

 

狩人の周囲にいる男たちが青い顔で囁くが、狩人は首を横に振る。

 

「あいつはあの程度じゃ死なん。たぶん」

 

「たぶんって……」

 

男はそこまで言いかけ、途中で口をつぐんだ。『怒りんぼう』を冷たく見下ろしていた『幸せ』が、突如金切り声を上げたからだ。

 

「アアァーーッ!?」

 

彼は濁った黄色い目に涙を浮かべ、倒れたままの彼にすがる。

 

「そんな! 死ぬな『怒りんぼう』! 酷いよ! 血が出てるよ!! 一体誰がこんなことを……!」

 

子どものように泣きじゃくったあと、静かに背中を震わせる『幸せ』。やがて頭を上げると、狩人たちの方に振り返った。

その顔は見る見るうちにどす黒い赤に染まり、滾らんばかりの憎悪に爛々と瞳を燃やす。

 

「お前ら……お前らだな? よくも『怒りんぼう』を! 許さん! ぶっ殺してやる! 人間どもめ!!」

 

拳を握り締め、仲間の仇をとるべく狩人たちに迫る『幸せ』。その精悍な顔つきは、まさに怒れる戦士そのものであった。

 

狩人は苦笑しつつ、銃を構える。「もう笑うしかねえなこりゃ」

 

「……そうですね」

 

力強く地を踏みしめ、彼らに肉薄する『幸せ』だったが、不意に横から飛んできた数本の矢に歩みを阻まれる。

 

「狩人さんたち、逃げて!」

 

『おとぼけ』は少し離れた倒木の上に立ち、次の矢を弓に番えていた。

その小動物を思わせる目は恐怖に揺らいでいたが、『幸せ』から視線を逸らすことなく、真っ直ぐに見据えている。

 

「ウウウゥ……!」

 

憎悪の矛先を変え、歯を剥き出す『幸せ』。一息に飛びかかろうと四つん這いで低く身構えた、そのとき。

 

「へぇっくしょい!!! ちくしょうっ」

 

爆風が雪原を貫き、『幸せ』を上空に吹き飛ばした。舞い上がる雪と土くれに、狩人の視界は白と灰色に染まる。

 

「ぶわっ?! ゴホッゲホッ! 『くしゃみ』お前、加減しろ馬鹿! 俺らまで巻き込むなよ!」

 

狩人は王子を抱き寄せ、降り注ぐ雪や礫から庇った。

彼らの周囲を囲んでいた男たちは突風に巻き込まれたらしく、いつの間にかいなくなっている。

探そうにも、漂う粉雪と塵で視界はほとんど利かず、鼻も当てにならない。パラパラと小石が降ってくる音がやかましく、聴覚などもってのほかだ。

 

誰がどこにいるかも分からないこの状況では、応援も期待できないだろう。

 

「使えねえ連中ばっかだな」

 

狩人は忌々しげに悪態をついた。

王子はふと顔を上げ、焦点の定まらない目で彼の横顔を見上げる。「この場で本当に使えないのは僕だけです」

 

「いや、お前はよくやってる」

 

少し黙ったあと、狩人は自嘲気味に笑った。「悪いな。肝心なときに頼りにならん大人ばっかりで」

 

「……」

 

王子はしばらくの間、神妙な面持ちで狩人を見つめていた。やがて頭を振ると、手にした金柄の細剣を強く握りしめる。

 

「おい、大人しくしてろよ。余計なことは……」

 

そこまで言いかけ、狩人は絶句した。

王子は軽く深呼吸したあと、一息に剣を振り下ろし、自身の膝を深く刺したのだ。

 

「ば、馬鹿! やめろお前! 何やってんだ?! ご乱心やめろ!」

 

狩人が止めなければ、反対側の膝も迷わず刺していただろう。

王子は痛みに顔をしかめつつ、ゆっくりと立ち上がる。

 

「太い血管は外しました。思いつきですが、瀉血を試してみたんです。魔に冒された血を抜き、四体液の調和を促す医療法で……」

 

「そういうのは専門知識を持った医者が、専用の道具を使ってこなすもんだろ! 素人が滅茶苦茶なことするな!」

 

「で、でも、効いたみたいですよ? ほら!」

 

王子はけろっとした表情で、その場でぴょんぴょん飛び跳ねて見せる。

元気になった彼とは対照的に、狩人は額に手を当ててその場に座り込んだ。

 

「……お前らのお守りをさせられる誰かさんの苦労が分かった気がする」

 

「顧問官のことですか?」

 

「誰でもいい。もう一回座れ。止血する」

 

腰に付けた鞄から包帯を取り出そうとした矢先、狩人の肩に誰かの手が触れる。

びくっとして振り返ると、そこには『寝ぼすけ』が立っていた。「旦那と王子、生きてる?」

 

「危うく殺されるとこだぜ。くしゃみが自慢のお友達にな」

 

「他の人たちは?」

 

「さあね。死んだんじゃねえの」

 

「立ち上がれるなら、すぐ逃げて」

 

「?」

 

彼の言葉に、狩人は眉をひそめる。

耳を澄ませると、微かな荒い息遣いが、徐々に近づいてきているのが分かった。

 

「止血は後だ。走れ」

 

狩人は王子を立たせると、引きずるようにして他所へ引っ張っていく。

何処へ進んでいるのかも分からないが、とにかく遠くへ。あの怪物から距離を置くのが最優先だ。

 

「『寝ぼすけ』さんが来てません!」

 

「なに?」

 

王子の声に、狩人は驚いて後ろを向いた。

草刈り鎌を担いだ小人はいつもと同じ、眠たげな目つきでさっきの場所に留まっている。

 

「おい、お前も来るんだよ!」

 

狩人が声を荒げると、『寝ぼすけ』は振り返らずに言った。「放っておけないよ。友達だし」

 

「……っ」

 

思わず「お前そんなキャラじゃねえだろ」と叫びそうになったが、口に出す前に呑み込んだ。

 

王子を連れて少し走ったあと、身を隠すのにうってつけな倒木を見つける。

王子をその影に押し込んでから、自身は猟銃の具合を確かめた。やや遅れて、小さく舌を打つ。

 

「土が詰まってやがる。このまま撃つと暴発するか、不発になるかのどっちかだな」

 

「『寝ぼすけ』さんを一人にはできません。戻らないと!」

 

「黙ってろ」

 

狩人は銃を逆さまにし、土くれと一緒に火薬と弾をほじくり出した。念入りに中身を空にすると、懐から紙の薬莢を引っ張り出し、歯で破く。

そして片方の銃身のみ手早く装填すると、倒木の枝を支えにして構えた。

 

「砂埃でほとんど見えないのに、当てられるんですか?」

 

「さあな」

 

不安げな王子の問いに、狩人は適当に答えた。

粉塵が未だ地面に落ちきらぬなか、目を細めて標的を見据えようとする。

 

だが彼の言うとおり見通しは悪く、灰色の大気は物の輪郭すら掴ませない。おぼろげながら『寝ぼすけ』の背中が見えるだけである。

 

「帰ろうよ、『幸せ』」

 

穏やかな『寝ぼすけ』の言葉が響く。

やや間があってから、『幸せ』の嘲笑が聞こえてきた。

 

「仲間のことなんかどうでもいいはずだろ、『寝ぼすけ』。お前は恥知らずの臆病者だ。『怒りんぼう』もそう言ってたぜ」

 

「……」

 

『寝ぼすけ』は何も返さない。そればかりかその背中は、微動だにすることもなかった。

次の瞬間、彼の正面にのしかかるような大きな影が広がる。

 

「見えたぜ」

 

狩人は鋭く笑い、迷わず引き金を引いた。

放たれた弾丸は淀んだ空気の向こうに消え、『幸せ』の影が大きく歪む。くぐもった悲鳴が聞こえたかと思うと、その輪郭はさっと揺らいで見えなくなった。

狩人は歯をぎりりと噛みしめて音を鳴らす。

 

「あの化物め、弾を躱しやがった。いいとこ掠めた程度ってところか」

 

悔しがるのもそこそこに、次弾の装填を始める。ふと、背筋に何か寒いものを感じ、何ともなしに横を見た。

 

「……あ?」

 

王子が消えている。その事実を彼が認識するより先に、粉塵の向こうで銀色の閃光が煌めいた。

 

「やあっ!」

 

続けて聞こえてくる、短い気合いの声。眩い剣光が三度、濁った大気に影を映した。

 

「クソガキが……」

 

狩人は額に青筋を浮かべつつ、口元を鋭く歪める。「後で泣かす。絶対泣かす」

 

彼は手早く装填を終えると、倒木に片膝をつき、身を乗り出すようにして構えた。敵に姿を晒すことになるが、より開けた視界を確保するための苦渋の策だ。

だが淀んだ大気は相変わらず光を遮り、王子の影こそチラつくが、『幸せ』の姿ははっきりしない。

 

「くそっ」

 

狩人は悪態をついた。このままでは命中しない。また外すことになるだろうと、彼の直勘が告げている。

獲物の位置を正確に定めるべく、前方に意識を集中させた。気配、音、匂い。あらゆる情報を洩らすまいと、より感覚を鋭く尖らせる。

 

その集中力が、今度ばかりは仇となった。

背後から近づいてくる人影に、まったく反応できなかったのだ。

 

否、たとえどんなに周囲を警戒していたとしても、彼の接近に気づける者はいないだろう。元々妖精の気配というのは人間にとって捉えづらいものだが、その小人の隠密は、もはや『隠れる』という次元を超えていた。

 

「撃つな」

 

小さいが、不思議とよく通る低い声が耳に届く。

狩人はびくっと背中を震わせ、肩越しに後ろを見た。

 

黒い装束に身を包んだ小人が、静かにそこに立っている。

フードを目深に被って顔を隠しており、剃っているのか、それともまだ生えていないのか、髭のない口元と顎だけが見えた。

 

彼は指先の皮膚をがりっと噛むと、滲んだ血で手元の紙に文字を書き始める。

ものの数秒で指を止め、紙を裏返して狩人に見せた。

 

『身内の不祥事だ。我々の手でカタをつけたい』

 

「誰だお前は。失せろ」

 

狩人の鋭い目に睨まれても、小人に怯む様子はない。どうやら書き込んだ紙は一枚ではなかったようで、すかさず一枚目の紙を捲ると、二枚目の紙が現れる。

 

『じきに視界が良くなる。せめてそれまで待て』

 

「何だと? そりゃどういう……」

 

そこまで言いかけた彼の言葉を、凄まじいくしゃみが遮った。「えっきしょーーいっ!!! ぶーっ」

 

『くしゃみ』の放った爆風は雪原を真横に薙ぎ、大気の塵を森まで押し流す。満点の星空が、再び彼らの頭上に顔を覗かせた。

 

「無闇やたらに撃たせるんじゃねえよ! 味方に当たるだろーが」

 

地面に伏せて衝撃を凌いだ狩人が怒鳴る。

黒ずくめの小人は特に顔色を変えず、次の紙を掲げた。

 

『巻き込まない角度で撃たせた。付近の人間たちの位置は把握している。彼らは気配を消すのがとても上手いが、俺には関係ない』

 

「ああ、そうかい」

 

狩人はそれだけ言うと、静かに上体を起こした 。

王子たちを見失い、血眼になって辺りを見回す『幸せ』に銃の照準を合わせる。

そのまま撃つかと思いきや、わなわなと肩を震わせると、銃床を荒っぽく地面に突いた。

 

「また撃鉄のところに砂が詰まってるぞ。どうしてくれんだ?」

 

小人はすかさず紙の切れ端に短く血文字を書き、裏返す。『不運だな』

 

「やかましい。いや、やかましくはないか。筆談だもんな。っていうか、今分かったぞ。お前『照れ屋』だろ」

 

黒ずくめの小人、『照れ屋』は黙って頷く。

狩人は口をへの字に曲げ、皮肉を言った。「人見知りは克服したのかい、照れ屋さんよ」

 

『照れ屋』は少し考えたあと、切れ端に再び指を走らせ、彼に見せる。

 

『顔を隠しているし、声も出さないから平気だ』

 

「……」

 

狩人は何も言えず、再び倒木の影に身を隠し、装填作業に移る。

 

「王子は『寝ぼすけ』と一緒か? どこかに隠れさせたのか」

 

『そうだ』

 

「そりゃ結構。自分たちでカタをつけるとか言ってたが、勝算はあるんだろうな?」

 

彼の問いに『照れ屋』は間を置かず、無言で頷いて見せた。

 

「ほう。それならお手並み拝見だな」

 

狩人は装填を終えてから微かに笑うと、猟銃を肩に担いだ。『照れ屋』が狩人に背を向けるや否や、その姿は霞のように消える。

気づいたときには、『幸せ』の背後に音もなく移動していた。

 

「グウゥ……!」

 

おそらく匂いで察したのだろう。短く唸り声を上げ、背後に拳を振るう『幸せ』。

長い手足によるリーチはもちろん、銃の弾を避けるほどの素早さを持つ彼である。だがそれでも、『照れ屋』を捉えるには至らない。

 

拳が当たる直前、彼の身体は幻のように消え去り、『幸せ』の死角となる位置に現れた。『幸せ』は続けて攻撃するが、その姿はまたもや消え、いつの間にか背後に立っている。

 

消えては現れ、現れてはまた消えを繰り返す『照れ屋』に苛立ち、わめき散らす『幸せ』。攻撃はより速く、激しくなるが、彼には掠りもしなかった。

 

「やるじゃないか。確かに援護は必要ないな」

 

こっそり猟銃を向けていた狩人であったが、そう呟くや腕を下ろす。

 

『幸せ』が当たらぬ攻撃を繰り返すこと数分。その目には怒りだけでなく、疲れも見え始めていた。

肉体の疲労とともに頭に登った血が降りたのだろう。怒りに醜く歪むその顔が、不意にはっとした表情になる。

 

「お前……『照れ屋』か?」

 

彼が頷くと、『幸せ』の目に一瞬、穏やかな光が灯った。口の中に溜まった血や歯の欠片を飲み込むと、掠れた声で呟く。「大きくなったな」

 

「……」

 

『照れ屋』は無言で『幸せ』を見つめ返した。

鯖折りで倒された『怒りんぼう』を見ているためか、正気に戻ったと油断して近づくことはしない。

 

『幸せ』はだらりと腕を下げ、弱々しく背中を丸めた。顔には皺が深く刻まれ、まるで一気に数十年歳を取ったように見える。『先生』ほどではないにしろ、人には想像も及ばない長い年月を生きてきたのだろう。あまりに多くのものを失い続け、疲れ果てた一人の男の姿がそこにあった。

 

「あんたはこれからも、たくさんのものを失う」

 

小さいがよく響く低い声で、『照れ屋』が語りかける。「だがそれでも、生きていかなくてはならない。俺たちのために。何より、自分自身のために」

 

「……」

 

『幸せ』は目を細め、彼の立ち姿を眩しそうに見た。やがて視線を落とすと、腹の中に溜まった瘧を吐き出すように、長い溜息をつく。

 

「何だこの茶番。早く終わんねーかな」

 

狩人はぼそっと呟き、尻を掻いた。ブーツの踵で脛も掻こうとしたとき、はたと気づく。

 

「……?」

 

足が上がらない。ブーツの裏が、まるで地面に縫いつけられているかのようだ。注意を欠いていたわけではない。だがいつの間にか彼の周囲に、冷たく残酷な青白い霧が漂っていたのだ。

 

狩人は悪態を吐き、銃床を地面に叩きつける。

案の定、足元の雪は彼のブーツを呑み込んだまま岩のように硬くなっており、ヒビ一つ入らない。

 

「坑道のときのように、気配を消しておくべきだったわね」

 

狩人の肩にぽん、と冷たい手が置かれた。身体の芯から力が抜ける嫌な感覚に、思わず顔をしかめる。

何か汚い言葉をぶつけてやろうと口を開くが、直後に思い直し、辺りに隠れているはずの味方たちに向けて力の限り叫ぶ。

 

「魔女の魔法だ! 気をつけろ!!」

 

「もう遅いわ」

 

魔女はフフンと鼻で笑うと、片手を上げ、指をパチンと鳴らした。彼女を中心とした周囲の雪が、波打つように揺らぐ。

次の瞬間、迸る冷気が瞬く間に円形に広がり、雪原を呑み込んだ。そして雪を踏みしめていた者たちの足首を捕らえ、動きを封じてしまう。

 

雪原のあちこちから、悲鳴や動揺の声が聞こえてきた。あの『幸せ』ですら脱出に難儀しているようで、顔をしかめて身じろぎしているが、足元の雪はびくともしない。

 

魔女はクックック、と悪そうな笑みを溢した。

狩人は舌を打ち、彼女を睨みつける。

 

「らしくないな。王妃様ともあろうお方が、不意打ちで生け捕りなんて卑劣な手段を取りなさるとは」

 

彼の言葉に魔女は振り返り、じろりと菫色の目を向けた。

 

「生け捕りにするなんて誰が言ったの? 心配しなくても、後で全員殺してあげるわよ」

 

「……!」

 

「今は、厄介者の始末を優先するだけ」

 

そう呟く魔女の周囲には、いつの間にか針のような氷刃が数本浮かんでいた。鉱道で『怒りんぼう』を狙ったときと同じものだろう。

 

「『照れ屋』を殺る気か?」

 

「そうよ。あの手の輩は、殺せるときに殺しておくに限るわ」

 

狩人の問いに、魔女は間を置かずに答える。

彼は銃を構えようとしたが、雪に触れていた銃床が凍って地面に貼り付き、持ち上げられなくなっていた。

 

「くそったれ。 おい、何度も言ってることだが、誰か殺る気なら、まず俺から先にやれ!」

 

「うるさいわね。貴方なんていつでも殺せるわ。後回しにするに決まってるでしょう?」

 

魔女は煩わしげに鼻を鳴らすと、『照れ屋』の方に視線を戻した。そして、短く間の抜けた声を洩らす。「……あ」

 

「どうした?」

 

狩人もそちらを見ようとしたが、魔女の背中が邪魔だった。足が地面に固定されているものの、身をよじって何とか『照れ屋』たちを視界に収める。

 

「……おお」

 

狩人は思わず感嘆の声を上げた。

『照れ屋』が立っていたはずの場所に、すでに彼の姿はない。代わりに黒ずくめの装束を被せられたかかしが、ぽつんと雪の上に刺さっていた。

 

 

 

 

 

 

 




もしかして:リンダキューブアゲイン

正直この話だけは書いてて素直に楽しかった。
この話を書きたくてここまで続けてきたと言っても過言ではない。
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