GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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自動投稿の日付設定ミスで更新できてませんでした。楽しみにしている方(そんなにいないだろうけど)には申し訳ございません。



ⅩⅩⅤ 殺意

 

 雪の上にぽつんと残されたかかしを睨みつけ、魔女はぷるぷると肩を震わせる。

ややあって、首がもげそうな勢いで狩人の方に振り返った。

 

「ほら見なさい! ちょっと目を離すとすぐコレよ! すぐに始末すべきだったのに、貴方が邪魔をするから……!」

 

「お、俺のせいか?」

 

「貴方のせいでしょ!?」

 

ヒステリックな声を上げて詰め寄ってくる魔女に、狩人は思わず下手に出てしまう。

 

「べ、別に言い訳するつもりはないが、邪魔する意図はなかったぜ。いや、確かに邪魔しようとはしたが、できなかったんだ」

 

「俺から殺せ☆俺から殺せ☆ってうるさかったくせに!」

 

「そんな何回も言ってないだろ! あと、☆も付けてない!」

 

「ムキィーーッ!」

 

魔女は金切り声を上げ、凍りついた雪の上で地団駄を踏んだ。おかげでその場に亀裂が走り、狩人の拘束がいくらか弛まる。

少なくとも猟銃は完全に地面から剥がれたため、彼はすかさず銃口を魔女に向けた。

 

「そんなに邪魔してもらいたいなら、望み通りにしてやる」

 

「やってみなさい。できるものならね!」

 

魔女は両の拳を握りしめ、フーフーと荒い息を繰り返した。肩をいからせ、真正面から狩人を睨みつけてくる。ヴェール越しでない、直接ぶつけられる敵意に、何故か彼は心地良さすら覚えた。

 

ふと脳裏に、あの槍使いの姿が浮かぶ。

 

『貴方の大切なものは何ですか』

 

そう問いかける彼の手には、小さくも煌々とした光を放つ蝋燭があった。

狩人は懐を探り、幾度となくあの男の手から戻ってきた黒い蝋燭を取り出す。

そこに灯る火はちょうどあのときと同じように、小さくも眩い、どこか暖かな光を帯びていた。

 

「そう興奮するな。焦らなくても、誰も俺を助けになんて来ないさ」

 

狩人は魔女に向かって静かに語りかける。

彼自身も不思議に思うほど、穏やかな口調だった。

 

「あんたと俺の二人きりだ。邪魔は入らない」

 

魔女は用心深く周囲を見渡したあと、ジトッとした横目で彼を睨む。「……また何か格好つけたこと言おうとしてるでしょ」

 

「格好つけてるつもりはない。しつこいぞ」

 

狩人は銃口を下げ、魔女を真っ直ぐに見つめた。

彼女は訝しげな目をしていたが、やがて狩人の方に身体ごと向き直る。

 

「命乞いなら聞かないわよ。もう騙し討ちなんてさせてあげない」

 

「そんなつもりはない。確認したいことがあるだけだ」

 

「フン」

 

魔女は不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、両手は腰に当てたままだ。氷針は未だに彼女の周囲を漂っているものの、飛び出してくる気配はない。

 

ひとたびあれに狙われれば、狩人に打つ手はないだろう。『怒りんぼう』ほどの戦士にすら、二度防ぐ自信はないと言わしめた代物である。

だが、今の狩人に恐怖はなかった。

 

戯れに殺されかけたことは何度かあるが、本当に殺す気で襲われたことは一度も無い。彼は魔女を撃つことができないが、もしかするとそれは、彼女も同じなのではないか。

 

狩人は乾いた唇を舐め、自ずと口を開いていた。「あんたは……何故、あのとき……」

 

「あのとき?」

 

魔女が眉をひそめると、狩人は顔をしかめ、いったんは口を閉じる。「……いや、間違えた。気にするな」

 

「何なのよ」

 

「えっと、そうだな」

 

狩人は宙に視線を彷徨わせた。

 

「その……あれだ。あんたは何しにここに来たんだ? 王子様にチューするためだけにわざわざやってきたわけじゃないんだろ」

 

彼の問いに、魔女は口の端を鋭く吊り上げる。

 

「私と、私の野望を阻む者。全てを消し去るため」

 

「そいつは白雪姫のことを言ってるのか?」

 

「貴方達全員よ。白雪姫と、彼女を匿う小人たちはもちろん、『隣の国』の連中なんて全員不法入国者でしょう? 見逃す理由がないわ」

 

「なるほどな」

 

頷きつつも、狩人は片方の眉を上げた。

 

「だが王子を殺す気はないとか言ってたろ。矛盾してないか? あいつも『隣の国』の人間だぞ」

 

「あの子は子どもだし、可愛いからいいのよ」

 

「その理屈なら白雪姫もセーフのはずだよな」

 

狩人の言葉に、魔女は馬鹿にするような笑みを浮かべる。「分かってないわね。彼女は子どもである以前に女なの」

 

「女だったら何なんだ?」

 

「分からない? まったく、これだから犬はしょうがないわね」

 

「何なんだよ……」

 

狩人はぶつくさ呟いたが、すぐに気を取り直して言った。

 

「だが何より、坑山に逃げ込んだ『魔女狩り』を執拗に追っていたな。逃げる敵を自ら追い詰めるなんてあんたらしくない。普段は兵隊に任せるはずだ。俺に懸賞金を懸けたときみたいに」

 

彼の指摘に魔女は表情を険しくしたが、最後の方で少し表情を緩める。

 

「懸賞金の件は建前よ。憲兵の『死人返り』をたくさん作りたいから、彼らを森の沼地に誘い込む必要があったの。忘れた?」

 

「……そうだったな。クソ野郎」

 

狩人は鋭く目元を歪め、吐き捨てた。

「自国の民は資産だろ。統治者としては終わってるぜ、あんた」

 

「歴史に名を残すような名君の器を私に期待しているの? 無駄なことよ」

 

魔女は口元に手を当てて苦笑する。

彼は険しい表情のまま、呟くように言った。

「……名君は死んだ。自分は悪い魔女。そう言いたいのか」

 

「分かってるじゃない」

 

「俺は……」

 

狩人は搾り出すように声を出すが、途中で掠れて消えてしまう。代わりと言わんばかりに、猟銃がおもむろに持ち上がり、照準は魔女を捉えた。

 

彼女はわずかに眉をひそめながらも、余裕の笑みを崩さない。「それはもう試したでしょう? 無駄よ。貴方に撃てるわけがない」

 

「……」

 

狩人は銃を構えながら、それを支える腕の震えを感じていた。彼女の言う通り、このままではたとえ撃ったとしても掠りもしないだろう。

 

「認めてやるよ。あんたは、俺の……」

 

そこまで言いかけたところで、狩人はもう片方の手の中にある、黒い蝋燭の存在を思い出した。視線を移せばその火の様子は、先ほどとはどこか異なっている。

煌々とした光は失せ、代わりにただ大きく、夜の冷たく乾いた空気を燃やして膨れ上がっているだけのものに見えた。何の呪いも、何の神秘もない。ただの趣味の悪い蝋燭だ。

 

大切なものなど、初めから何もありはしない。

今までも、そしてこれからも。決して見つかることはないだろう。

かつてただ一つ例外があった。だがそれも、もはや何の意味も無い。

 

「フン」

 

狩人は鼻を鳴らすと、蝋燭を地面に落とした。

両腕で銃身を支えると、あれほど震えていたはずの照準がピタリと定まる。暗い瞳に、かつて魔女に初めて銃を向けたときのような、強い光が戻っていた。

 

「信念……信念だと? 笑わせるぜ。そんなものは、クソだ」

 

彼の冷たく研ぎ澄まされた殺意に、魔女は思わずたじろいだ。

 

撃ってくる。あの目は獲物を見る目だ。それ以上でもそれ以下でもない。十数年握り続けた猟銃を構えるその姿は、無駄を削がれて洗練された、ある種の美しさすら感じられる。この距離で外すことはまず無いだろう。

 

狩人の無機質な声が、夜の雪原に冷たく響いた。「あんたを殺す」

 

「……!」

 

魔女は足元から青白い火花を散らし、人の目には捉えられない速さで移動する。

しかし、狩人に獲物を逃がす気はなかった。

銃声が轟く。

 

「ぐっ!」

 

発砲する直前、その銃口は魔女の向かう先を予測し、指一本分ほど左にずれていた。

放たれた銀の弾丸は魔女の脇腹に命中したが、角度が悪く、肋骨に軌道を逸らされる。ほとんど掠めただけと言ってもいい。

彼女はくぐもった悲鳴を上げるが、着地とともに少しよろめいただけだった。

 

「心臓を狙ったんだが、大ハズレだな」

 

狩人は肩をすくめ、銃を放り捨てる。

 

「二発目の装填はしていない。一発で仕留められなかった俺の負けだ。ほら、殺していいぞ」

 

「ふざけたことを……!」

 

魔女は顔を真っ赤にして狩人を睨みつけた。

その目が怒りで燃えているのは勿論だが、同時に酷い困惑の色もある。

どうして撃たれたのか。何故撃たれなければならないのか。まるで理解していないような、呆然とした色だ。

 

そしてそれは、狩人も同じであった。

一見すました顔をしているが、瞳の奥では、何故自分は彼女を撃ったのか、何故撃たなければいけなかったのか分からず、ただただ途方に暮れている。

 

にも関わらず、彼の中には不思議と後悔の念はなかった。成すべき事を成したという確かな自信も、その目の光に現れている。それもそのはず、狩人はこの瞬間から、魔女の犬ではなくなったのだ。

 

「ウウウゥ……!」

 

近くで奇妙な唸り声がした。二人は顔を見合わせ、声がした方を見る。

魔女の脇腹を抉った弾丸は後方に抜け、運悪くそこにいた『幸せ』に命中していた。

 

力ずくで雪の拘束を抜けたのか、皮膚が剥がれて血塗れになった足を引きずるようにして立っている。

弾は肩を掠めただけだが、まるで親の仇を見るような目で狩人たちを睨みつけた。「ウガアアァ!」

 

「……やべえ」

 

「ヒトオォォォッ!!」

 

『幸せ』は目を剥き、猛々しく吼える。爆発するような勢いで地を蹴り、狩人たちに迫った。

彼らは血の気の引いた顔で身構えるが、『幸せ』はその脇を通り過ぎていった。

百メートルほど離れた茂みの陰から現れた人影に、一心不乱に向かっていく。

 

「あの野郎、またラリってやがるな。足でも撃っとけば良かったか」

 

狩人はしかめ面で呟くと、声を張り上げた。「おい、誰だか知らんが逃げろ! そいつは……」

 

彼はそこまで言いかけたが、途中で言葉を失う。

その人物は襲ってきた『幸せ』を見ても慌てることなく、その顎めがけて正確に裏拳を振るった。

 

「……っ」

 

的確な打撃で脳を揺らされ、『幸せ』は一声も洩らすことなく地面に崩れ落ちる。

 

人影は自分が倒した怪物に関心がないのか、ろくに見もしなかった。そのどこまでも冷酷な瞳は、真っ直ぐ魔女だけを見据えている。

 

後ろに撫でつけた濃い黒髪と、騎士団の黒い装束。黒革の手袋。

『照れ屋』に負けず劣らず黒ずくめなので、狩人は最初彼かと思ったが、よく見れば違う。

月明かりを受け、赤い十字架とそれを囲う青いリボンの紋章が、胸元で小さくも厳かに輝いていた。

 

「ウォルシンガム……!」

 

魔女は驚きの表情を浮かべるが、やがて鋭い笑みでそれを打ち消す。

 

「好都合だわ。ここで彼を討ち取れば、上手くすれば……『隣の国』は終わる」

 

「やめとけ。とても敵わんぞ」

 

狩人の言葉を無視し、魔女は両手を空に掲げた。

足元から銀色の風が吹き上がると、周囲の青白い霧が吸い込まれるように集ってくる。

 

瞬く間に彼女の頭上には、大小様々な形の氷の武器が形成された。薄く鋭い氷刃や針はもちろん、先ほど小人の家の屋根を裂いた巨大な斧、果ては手に持って振るう氷の長剣まで。

その数はもはや一目見ただけでは数えきれない。数十、いや、百は下らないだろう。

 

狩人の唖然とした顔を一瞥し、魔女は満足そうに笑った。

 

「その目にしかと刻みなさい。ひとたび私が全力を振るえば、かなわぬ敵などいないということをね!」

 

天を覆わんばかりに群れを成す氷の武器が、魔女の号令を受け我先にと飛び出す。

 

ウォルシンガム顧問官は神経質そうに眉をひそめると、真っ先に飛来した氷の針を、首をわずかに傾けて回避した。

続けて迫る巨大な斧も、身体を少しひねるだけで躱しきる。同時に飛んできた二本の長剣は、素手で難なく掴み取ってしまった。

 

彼は眉一つ動かすことなく、早歩きで散歩するように、スタスタと魔女との距離を詰めていく。もちろんその間も氷の武器たちの襲来は止まないが、どれ一つとしてまともに喰らうことはなかった。

 

大きな武器が轟音とともに飛んでいく様は見た目こそ怖ろしいが、速度は矢弾に劣り、軌道を見切りさえすれば対処は容易だ。少なくとも顧問官にとってはそうであるらしい。

 

「チッ」

 

その事実に魔女も気づいたのか、忌々しげに舌を打つ。虚空に浮かんでいた武器たちに向けて指を振ると、それらは砕けて形を変え、氷の刃の戦列と化した。

 

百の武器が砕ければ、千の欠片となったかもしれない。彼女の頭上で規則正しく並び、文字通り天を覆い尽くす氷刃の様は圧巻で、万を超えているようにすら感じる。満点の夜空の下に、もう一つの星空が現れたかのようだった。

透き通るその身に月明かりを受け、各々が宝石のように美しく、また、残酷なほどに鋭い。

 

「終わりよ、顧問官。貴方はしょせんただの人。避けるのが得意みたいだけれど、その動きには限界がある」

 

魔女の口元からは笑みが消えていたが、その瞳は変わらず自信の光に満ちている。

 

「降り注ぐ雨を躱せる人間などいない。そうでしょう?」

 

「……」

 

顧問官は彼女の言葉には答えず、黙々と歩を進めていた。足を遅らせることはせず、かといって早めることもない。

 

「女王を無視するなんて無礼な男ね。別にいいけど」

 

魔女はつまらなそうに鼻を鳴らすと、指をパチンと弾いた。まさにそれらは文字通り、雨霰のように顧問官に降り注ぐ。

天地が傾いたと錯覚を覚える光景だ。近くには身を守れる盾も遮蔽物もない。

数秒後に顧問官の身体は、挽き肉と化すだろう。

 

「くそっ」

 

狩人は彼らから顔を背けた。悪態をつき、荒っぽく足を動かす。そんなことで拘束から抜け出せるとは思っていないが、ただ黙って見ているというのは堪え難かった。

 

「狩人さん」

 

すぐ近くで幼げな少年の声がする。横に視線を移し、狩人はぎょっとした。

頭や肩に枝葉を括り付けた王子が、彼のすぐ傍まで這ってきている。

 

「お前、何だそれ。何のつもりだ」

 

狩人の問いに、王子は少し自慢げに言った。

 

「我が国の長弓部隊伝統の隠密技術です。森に潜伏し、敵に奇襲をかけるのにうってつけで……」

 

「まっさらな雪の上じゃ逆に目立つだろ」

 

「あ……」

 

ショックを受けた様子の王子を尻目に、狩人は魔女の方をちらりと見やる。

彼女は顧問官を細切れにするのに夢中らしく、王子に気づく様子はない。あるいは気づいていても、無害と判断しただけかもしれないが。

 

「お前、どうやって拘束を抜けたんだ。雪に捕まらなかったのか?」

 

狩人の言葉に、王子は我に返って頷く。「ブーツを脱いで下さい」

 

「何だと?」

 

「履物を脱げば、拘束から抜け出せます。足が冷たいですけど」

 

狩人は口をあんぐりと開け、しばらく言葉が出てこなかった。「……マジかよ、おい。天才かよ!」

 

「ふふんっ」

 

王子はさも得意げに鼻を鳴らす。

狩人はさっそくブーツを脱ぎ、雪の拘束から抜け出した。「冷てっ、足が冷てっ」と呟きながら猟銃を拾い、魔女の方に振り返る。

彼女は顧問官を睨みつけ、未だに氷刃を放ち続けていた。

 

「いつまでやってんだあの女」

 

狩人は顧問官に視線を移す。そして、思わず息を呑んだ。

彼はまだ生きており、二本の足で立っている。

それどころか変わらず同じ速さで歩き続けており、すでに魔女とそれほど距離がないところまで来ていた。

 

「なっ、あの野郎、一体どうやって……!?」

 

狩人は呻きながら、月明かりに目を凝らす。ほどなくして、顧問官が無傷でないのは見て取れた。

当然だ。魔女の例えを借りて言うなら、雨を全て躱して歩ける人間などこの世にいるはずがない。だが、果たしてあの男が人間であるかは疑わしかった。

 

少し前に掴み取った氷の剣を巧みに操り、首や胴、手足の動脈など急所に飛んでくる刃の大半を捌き、軌道を逸らしている。

 

それ以外の比較的軽傷で済みそうなものは、全て避けずに受けていた。致死的な攻撃を選んで防ぎ、それ以外のものは気にも留めない。肩や腕の外側には無数の傷が走っているが、そのほとんどは浅いものだった。

 

氷刃の軌道は魔女の意思一つで如何様にも変えられる。見切って躱すことはおろか、剣で捌くなどできるはずがない。

急所に飛んでくるもののみに絞れば、あるいは少しは楽なのかもしれないが、そもそも大量に襲ってくる氷刃の一つ一つを、急所に当たるか否かで選り分けることなどできるだろうか。

 

「化け物め」

 

狩人は頭を振ると、銃の装填に取りかかる。だが途中で王子に肩を掴まれ、邪魔された。

 

「ここから離れましょう。流れ弾……流れ氷? とにかく、巻き添えを喰らうかもしれません。移動しないと」

 

狩人は彼の顔をじろりと見る。「助太刀しないのか? 普段のお前なら、頼まれなくても嬉々として飛び込んでいくだろう」

 

「それは……」

 

王子が歯切れが悪そうに俯いた、そのとき。

 

「ぐあっ!」

 

顧問官の口から悲鳴が洩れる。逆手で握っていた氷の剣がとうとう砕け、捌き損ねた刃が胸に突き刺さっていた。

 

「ウォルシンガム卿!!」

 

王子が腰から剣を抜きつつ前方に飛び出す。今さら助太刀する気なのだろうが、いくら足が速くても間に合うはずがない。

 

魔女は好機と見るや、足元から青白い火花を散らし、顧問官の元まで一瞬で移動した。菫色の瞳に鋭い光を滾らせ、片膝をついたまま動かない彼に向けて腕を伸ばす。

触れて直接仕留める気だ。

 

狩人はその時点で装填を終え、魔女に照準を合わせる。引き金を引こうとしたが、直前でピタリと指を止めた。魔女の角度からでは見えないものであったが、頭を垂れた顧問官の顔はよく見れば、眉を神経質そうにひそめたままだったからだ。

 

その青白い手が首にかかる直前、顧問官は逆に魔女の腕を素早く掴み取った。手首の筋に指を食い込ませて捻ると、彼女はその場で仰け反るように膝をついてしまう。

 

「!?」

 

魔女には何が起きたのか理解する間もなかった。

顧問官は左手で彼女の手首を極めたまま、中指を緩めた右の拳で眉間、鼻の下、顎先の三点を、目にも止まらぬ速さで正確に突く。

 

一瞬で意識を刈り取られ、魔女は仰向けにひっくり返った。ぐるりと白目を剥いたまま、ピクリとも動かない。

 

「……アイツ、やりやがった」

 

狩人は思わずそう呟いていた。

顧問官は懐に手を入れ、やや大振りの短剣を取り出す。柄から刀身に至るまで真っ黒で光を反射しない、用途を考えれば物騒な代物だ。

間違えても果物の皮を剥くためのものではないだろう。

 

「待ってください!」

 

慌てて駆けつけてきた王子が叫ぶが、顧問官は目もくれなかった。

すぐにとどめを刺すかと思いきや、王子に近づかぬよう手で合図し、自身もゆっくりとその場から後ずさる。

何をやってるんだ、と狩人は首を傾げたが、すぐにその行動の意味を理解した。

 

「ひゃああっ?!」

 

王子は甲高い悲鳴を上げ、背後に飛び退る。

尻餅をつかなかっただけ大したものだろう。魔女の体がぐにゃりと歪み、蝿の大群となって宙に飛び出したのだ。

 

耳障りな羽音を響かせて夜空を寒そうに飛び回る蝿たちを見上げ、顧問官は無感情に呟く。「なるほど」

 

「何処へ行きやがった?」

 

狩人は猟銃を構え、周囲を見渡した。

青白い霧は冷たく足元を漂っており、魔女がまだ近くに潜んでいることを示している。

雪原のあちこちに彼女の飛ばした氷の武器が突き刺さり、その周囲を粉雪が風に踊っていた。

 

「こちらにおられましたか。ご無事で何よりです」

 

スタスタと近づいてくる顧問官。

狩人は周囲への警戒を続けながら、わざと聞こえるように舌を打った。

 

「よく言うぜ。そこの茂みの陰から全て見ていたくせに」

 

やや間を空けてから、顧問官は片方の眉を少し上げる。「全てではありません」

 

「俺があの女を撃ったところは見てただろ」

 

「はい」

 

「……ったく」

 

顧問官が素直に頷くと、狩人は悪態をついた。

「なら、答えは出たろ。俺は『信用できる』か?」

 

彼の問いに、顧問官は再び頷く。

 

「そうですね。少なくとも、どこぞの槍を担いだバカ騎士よりはよほど信頼に足るでしょう」

 

「あんなふざけた野郎と比べられてもな……」

 

狩人は複雑そうに眉根を寄せた。

 

「ウォルシンガム卿、胸の傷は? 大丈夫なんですか?」

 

走り寄ってきた王子の言葉に、顧問官は黙って装束の胸元をはだけさせる。

その内側に、分厚い胴当を着込んでいるのが見えた。上着はズタズタに裂けているが、それにはほとんど傷すら付いていない。よほど頑丈な代物のようだ。

 

「……なるほどな。そいつの強度に自信があったから、あえて胸に受けたわけだ。まったく大した役者だぜ」

 

「恐縮です」

 

軽く頭を下げる顧問官。そうして言葉を交わしながらも、狩人は敵の気配を探り続けていた。

 

だが魔女かと思って振り返れば小人だったり、平民の格好をしている謎の男たちだったりする。

王子のアドバイスを受けてか、全員が裸足だった。ブーツだけでは抜け出せなかったのか、ズボンまで脱いでしまっている者も多い。

 

「ダメだ。集中できん」

 

狩人は帽子を脱ぎ、わしゃわしゃと頭を掻き毟った。

 

「何かお手伝いできますか?」

 

王子が訊ねると、狩人は一瞬動きを止める。

我慢しようとはしたが、やがて堪えかねて帽子を地面に叩きつけた。

 

「あの汚えパンツ丸出しでウロウロしてる馬鹿どもを何とかしろ! 気が散ってしょうがねえよ!」

 

「ご、ごめんなさい!」

 

勢いに押されて謝る王子。狩人の怒鳴り声が、静まり返った雪原に反響する。

すると何処からともなく、別の声がやまびこのように加わった。

 

「癇癪を起こすのはやめなさい。いい歳して恥ずかしい」

 

「あの女の声だ! 何処からだ?」

 

狩人は目をギョロつかせるが、雪原に魔女の姿はない。霧は足元にわずかに漂うのみで見晴らしは良く、身を隠せる場所などほとんどないはずだ。小人や男たちが辺りをうろついているこの状況では、尚更である。

 

「何か、聞こえませんか?」

 

不安げな王子の言葉に、狩人も耳をそばたてた。

 

「……蝿の音だろ。まだ空を飛び回ってるはずだから、聞こえて当然だ」

 

言いながら、彼もその音にどこか違和感を覚えていた。蝿の羽音には違いないが、その響きは時が経つごとに徐々に増している気がする。

 

この気温で羽虫がいつまでも活動していられるはずがなく、あまつさえ数が増え続けているのだとしたら、それはもはや魔法という他ないだろう。

頭上に大きな影が差してから、ようやく彼らは気づいた。

 

「くそったれが」

 

狩人は、今日で何度目になるか分からない悪態を吐いた。

月の光を遮るほどの蝿の群れが、雲のように雪原の上空に漂っている。

どうして今まで気づかなかったのか。耳障りなどという言葉すら生温い、気が狂いそうなほどの羽音が周囲に反響していた。

 

 

 

 

 

 

 

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