GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅥ 賢者

 

 上空で渦を巻く蝿の大群に、その場に居合わせた者たちは皆、一様に息を呑んでいた。

湧き上がる黒雲を思わせる異様な光景に、誰もが圧倒され、動くことができないでいる。

数人の例外を除いて。

 

「魔女はあの中ですか」

 

「ああ。たぶんな」

 

顧問官の言葉に、狩人は頷いた。

辺りを見回し、遠目に『くしゃみ』の姿を認めると声を張りあげる。

 

「おい、大先生! 出番だぜ。あの蝿どもを吹き飛ばせ!」

 

狩人の指示は届いたはずだが、『くしゃみ』はなかなか撃とうとしなかった。

それもそのはず、くしゃみを爆風にして放つには『溜め』が必要で、今の彼にはその溜めを作る余裕がなかったのである。

 

「へくしっ、くしゅっ、ぶしゅっ、へくしゅっ、えきしゅっ」

 

『くしゃみ』の鼻先を、数匹の蝿が絶え間なく飛び交っていた。むず痒さに堪えきれず、彼は小刻みにくしゃみを連発してしまう。

腕を振って追い払おうとするが、蝿たちもなかなかにしつこい。『くしゃみ』の鼻先から離れようとせず、運悪く潰されても、すぐに代わりの蝿がどこからともなく飛んでくる。

 

「『鏡』の奴め……。嫌がらせに関しちゃ間違いなく一級だな」

 

苦虫を噛み潰したような顔で狩人が呟いた。

と、横にいた顧問官が眉間に皺を寄せる。「『鏡』とは?」

 

「言ってなかったか? そういう奴がいるんだよ。魔女の手先だ」

 

「なるほど」

 

無表情に頷く彼の横で、狩人は二本の銃身にそれぞれ火薬を流し込み、銀の弾丸を詰めた。

 

「惜しげも無く使いすぎたな。もう銀は品切れだ」

 

「私もあと数発だけです」

 

顧問官はそう返しつつ懐に手を入れ、リボルバー拳銃を取り出す。弾倉を横にずらして装弾をちらりと見やると、すぐに手首のスナップで元の位置に戻した。

 

「ご命令を」

 

彼の傍に音もなく現れる、手足の長い痩せた男。

背後には黒い肌の女や、平民を装った男たちも控えている。

顧問官は彼らの方を見もせず、冷たく言い放った。「ズボンを探してこい」

 

「は、はい」

 

すごすごと引き下がる男たちを尻目に、狩人は訊ねる。「あのパンツ丸出しの連中はお前の部下か?」

 

「はい。この国の内情を探らせていた密偵です。とはいえこの状況では、丸腰の彼らは役に立ちません」

 

彼は肩越しに背後の森に視線を送り、微かに頷く。「付近にはすでに長弓部隊を待機させています。魔女が姿を現したと同時に、攻撃を仕掛ける手筈です」

 

「ほう、『隣の国』の長弓隊か。有名だよな」

 

「近年は銃の台頭により使い手は少なくなっておりますが……」

 

そこまで言いかけ、顧問官は唐突に口を閉じた。

顔を上げ、頭上の黒雲のような蝿の群れを見つめる。

 

「どうした?」

 

「何かがおかしい」

 

呟き、じっと黒雲を睨みつける顧問官。「本当に魔女はあそこにいるのですか?」

 

「確信はないが、声はあそこから聞こえたぞ。今もうっすらとだが気配がある」

 

「……」

 

顧問官は神経質そうに眉をひそめた。ややあってから、小さな声で言う。「これは魔女の気配ではありません」

 

「なに?」

 

狩人が訊き返した、そのときだった。

黒雲がさっと引き、銀を散らしたような星空が露わになる。そして天から地へ、何かとてつもなく重い影がドスンと落下した。

 

「……!!」

 

狩人は思わず息を呑み、数歩後ろに下がる。

黒い霧のような蝿の群れを纏ったその人影は、物々しい甲冑に身を包んでいた。長大な両手剣を肩に担ぎ、毛皮をあしらった紺色の外套が、その背中ではためいている。

 

「クソが! 何回生き返る気だ、ふざけるな!!」

 

銃を構えるのも忘れ、わめきちらす狩人。

その横で顧問官はいつも通り、冷たく暗い瞳で敵を見据えていた。「なるほど。あの方が『曇王』ですか」

 

「落ち着いてる場合か!」

 

「取り乱す理由を教えてください」

 

顧問官の問いに、狩人はやけになって叫ぶ。

「奴は野営地で俺が仕留めた! 銀の弾を撃ち込んだんだ! 心臓に一発、首の後ろに一発。それでまた動き出すのはおかしいだろ?!」

 

「ちょっと何言ってるか分からないです」

 

「何で分からねえんだよ!!」

 

彼はわめきつつ、曇王に視線を戻す。彼は片膝をついた姿勢から、ゆっくりと立ち上がるところだった。

顎髭を蓄えた精悍な顔には、変わらず生気がない。瞳も虚ろで目の焦点が定まらず、さながら夢遊病のようであった。

 

顧問官は彼の鎧の隙間から蝿たちがしきりに出入りしているのを見て取り、無感情に頷く。「虫を用いた魔術で無理やり動かしているようです」

 

「『鏡』の仕業だ。あのこうもり野郎……」

 

狩人は悔しげに歯軋りするが、曇王が歩を進めるとさらにその場から後ずさる。そしてそのときになってようやく、思い出したように銃を構えた。

 

「おい、何とかしろ。あんたご自慢のお散歩攻撃で吹っ飛ばしてやれよ」

 

「努力します」

 

呟くように返す顧問官。

狩人は続けて何か言おうとしたが、深く地を踏む曇王の動作に気づき、警告の声を上げた。「気をつけろ! 」

 

彼が言い終わらぬ内に、轟音とともに地面が揺れ、曇王の姿が掻き消える。

再び現れたのは、顧問官の目と鼻の先の場所だった。数十秒はかかるであろう距離を一瞬で移動し、剣を高々と頭上に振り上げる。

 

顧問官は迫り来る死をぼんやりと見ていたが、その顔は恐怖ではなく、困惑したような表情で固まっていた。

 

「何やってるんだ? 逃げろよ!」

 

狩人が鋭い声を上げるが、彼は微動だにしない。曇王の剣が目前に迫ってから、ようやく身体を動かした。

衝撃が地を鳴らす。

振り下ろされた長大な剣は獲物を捉えることはなく、ただ凍りついた地面を叩き割った。一瞬遅れ、その使い手である曇王自身も、無様に雪の上に叩きつけられる。

 

「……確かにおかしい」

 

地面にうつ伏せで転がる曇王の手首を極めたまま、顧問官は合点のいかぬ表情で呟いた。「陸戦無敗と称される曇王の剣が、こうも容易く見切れるはずがない」

 

「バカお前、んなことどうでもいいんだよ! さっさとトドメを刺せ!」

 

狩人がわめき散らすが、顧問官は意に介さず思考に没頭している。曇王が腕を壊す覚悟で身体を起こそうとしても、変わらず反応を示さなかった。

 

「はあっ!」

 

気合いの声と共に王子が飛び出す。

先ほどまで蝿たちに怯えていたとは思えない、軽快かつ鋭い踏み込みで剣に速さを乗せた。

繰り出された細い銀の刃は、瞬く間に曇王の両腕、両足の関節を貫く。王はもはや身動きすら叶わず、ぐったりと四肢を投げ出した。

 

「お前……何だかんだで頼りになるよな」

 

「えへへ」

 

狩人に素直に褒められ、照れ笑いを浮かべる王子。顧問官はといえば、地に伏したままの曇王の首筋に触れていた。

切断された首を雑に縫い留めた金具と、それに纏わり付く黒い霧を凝視する。

 

「蘇生が完全ではない。時間稼ぎの捨て駒か。何のために?」

 

「知るかよ。あの蝿の群れに飛び込んでいって、魔女に直接訊いてみろ」

 

苛立たしげに返す狩人であったが、顧問官はやはり彼の言葉など耳に入れていなかった。ブツブツと独り言を呟いていたが、不意に顔を上げる。

その視線の先には、屋根が二つに割れた小人たちの家があった。

 

「……人質か」

 

「は?」

 

狩人が眉をひそめた直後。空に僅かに残っていた黒い霧が晴れ、魔女の姿が現れる。

鉄靴から噴き出す青い火で宙に浮かび、周囲を取り巻く蝿の群れを使って姿勢を制御しているようだ。

 

「ようやくお出ましだな」

 

狩人は嬉々として銃を向けたが、やがてその顔が悔しげに歪んだ。

彼女の腕の中に、白雪姫が囚われていたからである。目を閉じてぐったりとしており、意識があるかどうかも分からない。

何故か懐に毛皮で包んだ子鹿を抱いており、そちらは元気に首を回し、辺りをキョロキョロと見回している。

 

「オホホホホ! 撃てるものなら撃ってみなさい!」

 

勝ち誇った顔で彼らを見下ろす魔女。

狩人は内心罵りたかったが、代わりに不敵に笑ってみせた。

 

「良いのか? そういう手を使うってことは、いよいよ負けを認めているようなもんだぜ」

 

魔女は眉根を寄せ、白雪姫の首筋に鋭い爪を突きつける。「くだらない挑発には乗らないわ」

 

「この短い間に賢くなったじゃないか」

 

「まるで私が馬鹿だったみたいな言い方するのやめてくれる?」

 

「ほう、ますます賢いな。そう言ったんだ」

 

「…………」

 

魔女は努めて平静を装うが、目があからさまに血走っていた。

王子は狩人の上着の袖を引っ張り、注意深く囁く。「あまり刺激しないで下さい。姫の身の安全が最優先です」

 

狩人は気怠げに王子を一瞥した。そして彼の肩越しに視線を移すと、不意に顔を歪める。

 

「……そいつはお前のお友達にも言ってやった方がいいな」

 

「?」

 

王子は振り返り、顧問官を見た。彼は後方の森に向けて片手を上げ、何らかの合図を送ろうとしている。

腕の上げ方と冷酷な表情から、仮にも軍属である王子はその意図を察した。

 

「だ、ダメです! 姫に当たります!!」

 

慌てて顧問官の腕に組み付いたが、既に遅い。

森のあちこちから矢が一斉に放たれ、それらは弓なりの軌道を描き、魔女と白雪姫に降り注いだ。

 

かつて『隣の国』の代名詞とも言われた長弓は、使い手次第で下手な銃より遥かに優れた射程と威力を発揮する。

しかし完璧に使いこなすには幼少からの訓練が必要で、練兵の手軽さでは銃に劣った。そのため近世に入ってから数は激減したが、今でも険しい山岳や森に潜み、銃の射程外から敵を強襲する長弓部隊の脅威は健在である。

 

普通、遠方への射撃は夜間に行うべきではないが、今この状況においては問題ない。

魔女が飛行のために操る青い炎は、格好の的である。

 

「ちっ」

 

飛来する矢の雨を見た魔女は、煩わしげに舌を打った。

片手を頭上に掲げ、亀の甲羅のように分厚い氷の盾を作り出す。

だがそれでも強度が足りず、矢はやがて甲羅を貫き、彼女の身体を次々に掠めた。

 

「っ!」

 

魔女は重力が乗った矢の威力と数を完全に見くびっていたらしく、思わず身をすくませる。しかし冷静さまで欠くことはなく、空中を高速で飛行して矢の雨の範囲から逃れた。

 

「これ以上撃つな!!」

 

王子の甲高くも凛とした声が、凍てついた森に反響する。生まれながらの統治者としての威厳が、ここぞとばかりに発揮された瞬間だった。

 

「ここから先弓を引く者は、イングランド王家そのものに弓引く覚悟を持つがいい! 我が名にかけて、この国の姫を攻撃することは許さぬ!!」

 

辺りはしんと静まり返り、矢が新たに放たれる気配もない。狩人はほっと息をついたが、やがて皮肉混じりの笑みを浮かべた。

白雪姫は無事なようだが、状況は何一つ好転していないからだ。むしろ、悪化したと言っていい。

 

狩人と同様にそのことをよく分かっている顧問官は、王子に蔑みの目を向ける。

 

「折れるのは両足の骨だけでは済みませんよ、エドワード様。少しの力を込めて貴方を転ばせれば、貴方は一生椅子から立ち上がることすらできなくなる。それで宜しいのですね?」

 

「脅しなど無意味だ。白雪姫を攻撃することは、この私が許さない!」

 

「……」

 

顧問官は暗く、冷たい瞳で王子を見下ろした。

王子も燃えるような目で彼の視線を受け止め、一歩も退く様子がない。

 

「おいおいお前ら、イチャついてる場合か? 頼むからそういうのは後にしてくれ」

 

狩人が肩をすくめて言うと、顧問官は気まずそうに目を伏せた。

 

「そいつの言うとおりよ。まずは黙ってこちらの要求を聞くべきじゃないかしら」

 

「……何が望みです?」

 

魔女の言葉に、王子が不機嫌そうに訊ねる。

彼女は再び勝ち誇ったように笑うと、冷酷な言葉を放った。「全員、その場から一歩も動かないことね。少しでも楽に死にたいでしょう?」

 

魔女の頭上には、すでに数え切れないほどの氷の刃が浮かんでいる。それらはさらに形を変え、針のような鋭い形状になりつつあった。

森に潜む長弓部隊はともかく、雪原に身を晒す者たちにあの魔術から逃れる術はない。

 

狩人は彼女を睨みつけていたが、やがて鋭い笑みを浮かべると王子と顧問官の前に立った。

 

「……どきなさい、猟犬。一番殺したいのは、そこにいる顧問官なんだけど?」

 

「知ってるさ」

 

言いながら、狩人は素早く銃を構える。魔女は目を細めると、彼が引き金に指をかけるより先に、腕を軽く横に振った。

 

「ぐっ?!」

 

狩人のくぐもった悲鳴が洩れる。

魔女の頭上から飛び出した一本の氷針が、彼の猟銃を暴発させることなく正確に貫いた。

弾け飛んだ撃鉄が宙を舞い、銃身の後ろから漏れ出た火薬はサラサラと雪の上に落ちる。

 

「玩具を壊せば、もう粗相はできないでしょう」

 

「クソ!」

 

狩人は怒りに身を任せ、銃を地面に叩きつけた。

魔女は冷めた目で彼を見下ろしたまま、曇王に低い声で命じる。「そいつを退かしなさい」

 

「!」

 

狩人が振り返ると、背後にはいつの間にか曇王が立っていた。もはや素早く動くことは叶わなそうだが、あの長大な剣さえ持たなければ、立って歩くぐらいのことはできるらしい。

彼は狩人の肩を掴むなり、無造作に脇へと放り投げる。

 

「ぶわっ! ゲホッ! くそったれが!」

 

わめきながら地面を転がる狩人。

自身の体で巻き上げた雪を吸い込んでしまい、激しく咳き込む。

 

「ゲホッゲホッ、おい、話が違うだろ! 王子は殺さないんじゃなかったのか!」

 

狩人の怒鳴り声を、魔女はきれいに無視した。

細剣を握りしめたままの王子に、猫撫で声で語りかける。

 

「ごめんなさいね。私の嫌味っぽい助言者が、貴方を殺すべきだって五月蝿いのよ」

 

「……」

 

王子は何も返さず、ただ魔女を睨みつけた。

彼女はクスリと笑うと、腕に抱えた白雪姫を一瞥する。

 

「この娘が大事なら剣を捨てなさい。命までは取らないわ。代わりに、その利き腕を壊させてもらう。構わないわね?」

 

「……!」

 

王子の瞳に、一瞬だが恐怖の色が浮かんだ。

だが迷ったのはほんの数秒で、あっさりと細剣を手放してしまう。

 

「良い子ね」

 

魔女は妖しく微笑むと、片手を空に掲げた。

彼女の頭上で待機する氷の針たちが一斉に向きを変え、王子と顧問官に狙いを定める。

そのときになって、市民に扮した男たちや黒い女が王子を守るように前方を固めたが、魔女は馬鹿にするように鼻を鳴らしただけだった。

 

「探す手間が省けたわ。まとめて蜂の巣になりたいのなら、望み通りにしてあげる」

 

「クソ女が……調子に乗るんじゃねえ!!」

 

狩人は夜空を仰ぎ、力の限り吼えた。

腰の後ろに留めた大振りの鉈を引き抜くと、行く手を塞ぐ曇王に襲いかかる。「どけ!」

 

鉈を振りかぶり、その頭部に叩きつけた。

だが曇王は片腕で難なくこれを防ぎ、もう片方の腕で狩人の顔面を殴りつける。

 

「……っ」

 

関節の壊れた腕だ。それほど速さはないし、正確でもない。だが腕力は健在なため、掠めるだけで頬の肉を持っていかれるような錯覚を覚える。

否、それは錯覚ではなかった。頬の皮が抉れ、血が滴り、熱がじわりじわりと広がっていくのを感じる。

 

狩人はいったん飛び退き距離を置くが、どっしりと構える曇王には隙がなく、攻め手が見つからない。

彼の身に纏う分厚い甲冑は、鉈の刃など通しはしないだろう。

 

「娘に乱暴するクソ女のケツを持つのか。お似合いの夫婦だな。テメエはクソ親父だ。え? 曇王さんよ」

 

仕方なく口での攻撃に切り替えるが、彼は何の反応も示さなかった。

巌のような威厳ある顔立ちには表情らしきものがなく、目も虚ろなままで、果たして聞こえているかも怪しい。

 

……いや、聞こえているだろう。聞こえているはずなのだ。狩人は歯を食いしばり、ぎりりと音を鳴らす。

 

「あんたも人の親なら、娘以上に大事なものなんてないはずだろ。今目覚めずにいつ目覚めるんだ? さっさと正気に戻ってあの女を止めろ! でないと……!」

 

「その者に言葉は通じません、旦那様」

 

低くしわがれた声が響き、狩人は肩越しに背後を見やる。黒ずくめの小人の肩を借り、『先生』が丘を下ってきていた。

彼は狩人の元までやって来ると、おぼつかない足取りで白木の杖をつき、曇王に向かってよろよろと歩いていく。

 

「貴方と同じ、とんだ頑固者です。一度死んだくらいでは治らぬのでしょう」

 

「一人で挑む気か? 無茶だろ! っつうかそんな薄着で外出て大丈夫か!」

 

珍しく老人を労る狩人を横目に、『照れ屋』は黙って『先生』を見送っていた。

 

「何で黙って見てるんだ! 助太刀してやれよ!」

 

狩人が怒鳴りつけると、『照れ屋』は血文字で自身の手の平に文字を書く。『もう済んだ』

 

「ああ?!」

 

狩人が苛立たしげに正面を向くと、そこには四肢を切り落とされ、達磨になって地面に転がる曇王の姿があった。

 

「あ。お……おお、うん…………え??」

 

彼が事態を飲み込む間もなく、『先生』は魔女が空飛ぶ上空をぼんやりと見つめる。

そしてすぐさま俯き、首の角度を数度変えたあと、手にした杖を両手で握りしめる。

 

「……!!」

 

そのときになって魔女は彼の存在に気づいたが、すでに遅かった。長く伸びた銀の閃光が幾重にも虚空を奔り、彼女の頭上に浮かぶ氷針を全て粉々にしてしまう。

 

好機と見るや、顧問官の行動は素早かった。動揺を隠せず慌てる魔女に向け、拳銃を構える。

だが次の瞬間、彼の目の前で銀色の光が煌めいたかと思うと、銃はその手からあっけなく弾き飛ばされた。

 

「これ以上の争いは無意味です。双方、どうかお引き下さい」

 

俯きがちに杖を握ったまま、『先生』は弱々しい声で言った。声だけでなく、肩は小刻みに震え、背中は情けなく丸まっている。今にも倒れてしまいそうだが、この場を支配しているのは間違いなく彼であった。

 

魔女は胸に手を当てて動悸を治めたあと、意外にも穏やかな表情を見せる。「『魔の森の賢者』は健在なようね。安心したわ」

 

「ご冗談を。この通り、死にかけの老体に鞭打っておるのです」

 

魔女の言葉に『先生』は顔を上げて返したあと、再び弱々しく俯いた。

魔女は目を細めたまま彼を見下ろしていたが、やがて視線を逸らす。

 

「せいぜい身体は大事になさい。望み通り、ここから去るわ。……ただし、白雪姫は返さない」

 

「何だと?!」

 

王子の怒声に魔女は振り返り、水色の唇を鋭く歪めた。

 

「当然でしょう? 長弓の射程を考えれば、上空高く飛んでも逃げ切れるとは限らない。どうしたって人質は必要よ」

 

「なら僕が……!」

 

「貴方は駄目よ。勇敢すぎる」

 

魔女は呆れたように首を振ったあと、白雪姫を抱えなおし、徐々に高度を上げていく。

絶望に顔を歪める王子を見下ろし、高らかな声で宣った。

 

「彼女を返して欲しければ、城まで来なさい! 歓迎するわ。そこで貴方達の首と、白雪姫を交換よ!」

 

魔女の鉄靴から炎が一際強く噴き上がると、彼女たちの姿は瞬く間に東の空へと消えていく。辺りに渦巻いていた黒い霧のような蝿たちも、いつの間にかいなくなっていた。

 

「そんな……」

 

王子は真っ青な顔で膝をつき、力なくうなだれる。狩人も呆然と空を見上げていたが、「まあ、しょうがない」と開き直った。

王子に歩み寄ると、肩にぽんと手を置く。

 

「気にするな。お前はよくやった方さ」

 

「でも……白雪姫が」

 

「あいつのことは心配するな」

 

なおも不安げな表情の王子に、彼はにやりと笑ってみせた。

 

「奴は常軌を逸したタフだ。あの女にはどうしたって殺せない。そもそも人質なら、それなりに丁重に扱うだろうさ」

 

二人の様子を黙って見ていた顧問官は、おもむろに視線を移し、辺りを見回してから訊ねる。「曇王の遺体はどちらに?」

 

「ああ、確かその辺に……」

 

狩人が指し示す方には、黒く濁った血がわずかに残るのみであった。狩人が首を傾げていると、『先生』が呟くように言う。

 

「蝿の群れが何処かへと運んでいってしまいました」

 

「バラけた分、さぞかし運びやすかっただろうな」

 

狩人は皮肉交じりに呟くと、横目を流して彼を睨む。「あんたなら殺せたはずだろう。何故逃がした?」

 

「……」

 

「そもそも加勢するならもっと早くに来いよ。一瞬で片付けやがって。今までの全部茶番になっちまっただろうが」

 

狩人のねちねちした文句に『先生』は何も返さない。ただ地面に蹲り、寒そうに背中を丸めるだけだ。

狩人は舌を打つと上着を脱いで彼の背中にかけてやると、黙ってその場を去ろうとする。

 

「どちらへ?」

 

顧問官の問いに、狩人は振り返らずに言った。

 

「銃は壊れたし、弾ももうない。いったん家に帰る。……俺はどうあっても、あの女とケリをつけなきゃならん」

 

「ぼ、僕たちも手伝います!」

 

王子が慌てて叫ぶと、狩人は振り返り、優しげな笑みを見せる。「頼りにしてるぜ、王子様」

 

「はい!!」

 

王子が元気よく返事をすると、横にいた顧問官も無言で頷く。狩人は頷き返し、猟銃とその部品を回収しつつ、森へと入っていった。ぞろぞろと木陰から現れた長弓部隊の面々と鉢合わせてびくっとしながらも、獣道を下って帰路を急ぐ。

 

道中、魔女の残酷な笑みと、途方に暮れた顔の両方とが交互に浮かび、決して頭から離れることがなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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