「鏡? ちょっと、聞いてるの? 鏡よ鏡ィ?」
待ちくたびれた魔女が『魔法の鏡』をガンガン叩く。
それから間を置かずに、うっすらと黒い影がその中に映った。
「……大変お待たせいたしました」
「本当よ。私を待たせるなんて、ずいぶん偉くなったのね?」
魔女がフンと鼻を鳴らすと、鏡に映る黒い影は頭を下げる。「申し訳ありません」
「まあいいわ。それよりコレ、見てちょうだい」
魔女は鏡から少し距離を取ると、手に持ったワイン色の肩掛けを羽織った。すると見る見るうちに彼女の背骨が折れ曲がり、顔には皺が増えていく。
あっという間に魔女は、わし鼻の醜い老婆へと姿を変えた。
「どうかしら。完璧な変装だと思わない?」
無邪気な調子で笑う老婆を見て、『鏡』は静かな口調で訊ねる。「それが貴方の真の姿ですか」
「……は??」
老婆はバサッと音を立てて肩掛けを脱いだ。するとその背筋は伸び、青白い肌には若々しい艶が戻る。
魔女は美しい顔を怒りに歪め、鏡に詰め寄った。
「真の姿って何? かち割ってあげましょうか?」
「冗談です」
「貴方、最近調子に乗ってるんじゃない? 次にそういう類いの冗談を言ったら……」
「もう二度と言いません」
「そう。ならいいわ」
魔女は鏡に背を向け、指で眉間の皺を伸ばす。
『鏡』は無言でその後ろ姿を見つめてから、言葉を発した。「変装して近づく必要はあるのですか?」
「どういう意味?」
「回りくどいのでは、と申したのです。気づかれぬ距離から一方的に魔術で攻撃すれば良い」
『鏡』の言葉に魔女は振り返り、苦笑した。
「実に悪魔的な発想ね」
「リスクを考えれば当然の選択です」
「もっともな意見だけど、それじゃ芸がないわ」
「……」
「貴方、もしかしてちょっとイライラしてる?」
「さあ……どうでしょうか」
『鏡』の適当な返事に、魔女は面白そうに笑う。
「してるわよ、絶対。意外だわ。貴方にもそういう気分のときがあるのね」
「……」
「まあ、落ち着きなさい。こういうのはね、楽しむことが肝心なのよ」
魔女はそう言って、机の上に乗った手提げの籠を手に取る。そしてその中に入った長い革紐を見て、にやりと笑った。
「久しぶりに美しいお義母様に会えるのよ。嬉しいでしょう、白雪姫。……フフフ、ホホホホ!」
高らかに笑う魔女を一瞥し、『鏡』は短い溜息を吐いた。
狩人が小人たちの住む廃村に着いたのは、『鏡』の来訪があってからわずか数時間後のことだった。
幼少より『魔の森』で過ごしてきた彼は、この森のことを誰よりも熟知している。避けるべき場所はどこか。どの道が最短か。どこをどう通れば馬よりも速く走れるか。全て手に取るように分かっていた。
廃村の近くには鉱山がある。落盤事故のため今は使われていないが、鉱山とは当然だが山であるため、遠目にもよく目立つ。
おかげで方角を見失うことは一度もなかったが、それは魔女にとっても同じだろう。ここは身を隠すのに適した場所ではない。
狩人は廃村の入り口にある倒れかけたアーチに寄りかかり、呼吸を整える。彼は帽子を脱ぎ、額の汗を拭ってからまた被りなおした。
「動くんじゃねえ」
突然、ドスの利いた低い声が響く。
狩人はぎょっとして仰け反った。重厚な鉄の刃が、彼の首筋に突きつけられている。
視線を落とすと、戦斧の柄を握りしめる一人の小人の姿が見えた。黒々とした髭を長く伸ばし、目つきは鋭く、身体は小さいが、重労働で培われた筋肉が服の上からでもはっきり窺える。
狩人は両手を上げ、少し掠れた声で言った。
「久しぶりだな、『怒りんぼう』」
「何だ、あんたか。見違えたぜ、旦那」
『怒りんぼう』と呼ばれた小人は、すっと斧の刃を引いた。狩人は溜息を吐くと、襟元を指でなぞって正す。
「白雪姫は無事か?」
「ああ、もちろんだ」
『怒りんぼう』はそう答えてから、訝しげに眉をひそめる。「ちょっと待て。何で旦那があの娘を知ってる?」
「多少の縁があってな」
「……」
『怒りんぼう』はじっと狩人を睨みつけた。浅黒い肌に赤みが差し、額には筋が浮かぶ。彼は再び戦斧を持ち上げると、狩人の首に押しつけた。
狩人は舌を打ち、刃を掴んで押し戻そうとする。
「やめろ! 俺は敵じゃない」
「どうかな。そいつは旦那が決めることじゃねえ」
「警告しにきたんだ! 魔女が白雪姫の命を狙ってる! この場所もバレた!」
狩人が全身の力を込めても、斧の刃はぴくりとも動かない。それどころか、刃はだんだんと彼の首筋に食い込んでいく。
頭に血が上った小人は、歯を剥き出しにして笑った。
「俺に力で勝てると思ってるのかい、旦那?」
狩人はぐぐっと唾を呑み込んだ。真後ろにはアーチがあるため、退くこともできない。
刃が食い込んだ首の皮膚がぷつっと裂け、一筋の血が流れる。「……っ」
「俺が思うにな、この場所はバレたんじゃねえ。あんたが教えたんだ。で、魔女はあの娘を殺すためにあんたをここに遣わした。そうだろ? あんたと魔女の濃密な関係は、この森に生きる者ならみんな知ってる」
「……じゃねえ」
「ああ?」
「妖精の分際で、調子に乗るんじゃねえ!」
怒りの声を上げ、狩人は『怒りんぼう』の鳩尾めがけて蹴りを打ち込んだ。鉄板仕込みのブーツのつま先が急所にめり込み、よろめく『怒りんぼう』。
狩人は戦斧を押しのけると、続けてその顔面に猟銃の銃床を叩きつける。
「がっ……?!」
『怒りんぼう』は鼻血を噴き出し、もんどりうって地面に倒れる。吐き出すように悲鳴を洩らした彼の口に、間髪いれずに銃口がねじ込まれた。
「しゃぶれよ」
「……っ!」
呼吸もままならずにもがく小人を、狩人は鋭く冷たい目で見下ろす。逃げられないよう胴体と手首を踏みつけてから、銃を押し込む腕に力を込めた。
「黙ってしゃぶれ。その存外よく回る舌で、俺の銃をイカせてみせろ」
「……!……!!」
「勝手なことばかり言いやがって。確かに俺は魔女の犬だ。だが……濃密な関係だと? 何だよ濃密な関係って! 考えただけで吐き気がするわ! テメエら寄ってたかって気持ち悪い妄想してんじゃねえ!!」
「……!!!」
声にならない悲鳴を上げる『怒りんぼう』。
狩人はチッと舌を打つと、銃身を小人の口から引っこ抜き、後ろに下がった。地面に手をつき、ゲホゲホと咳き込む小人から数歩距離を取り、銃で狙いをつける。
「お前じゃ話にならん。『先生』はどこだ?」
「ここです、旦那様」
「……!」
狩人はびくっとして振り返った。
彼の真後ろ、手の届くような位置に、真っ白な髪と髭を伸ばした小人が立っている。顔は皺だらけで、瞳は白く濁っていた。節くれだった手で白木の杖をつき、もう片方の手は腰を庇うように後ろにまわしている。
狩人は一歩後ろに下がり、油断なく身構えた。
「いつからそこにいた? おたくら妖精ってのは、気配が掴めないから怖いんだよ」
「申し訳ありません。驚かせるつもりは毛頭なく……」
『先生』と呼ばれた高齢の小人は、そう言って頭を下げる。狩人は溜息をつき、銃を上げて肩に担いだ。
「……で、いつからそこにいた?」
「旦那様が『怒りんぼう』に銃をしゃぶらせていたときからです」
「……」
「見てたんなら助けろよ!!」
狩人は無言で『先生』を見つめ、『怒りんぼう』は顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
『先生』は村の通りから離れてぽつりと立つ、藁葺き屋根の家を手で示した。
「白雪姫はあちらです。ご案内いたします」
「いや、待て。俺は危険を知らせに来ただけだ」
狩人の言葉に、『先生』は頷く。
「そうでしょうとも。しかし白雪姫は貴方に会いたがっている。あの娘の身のことなら、あの娘に直接知らせてあげなさい」
「……」
狩人は『先生』を睨みつけるが、彼は静かに見返すだけだ。目がほとんど見えていないため、声を出さない威圧は無意味なのである。
狩人はやがて溜息を吐くと、無言で先導する『先生』の後に続いた。