慌ただしく動く兵たちの間を、狩人は器用にすり抜けた。並び立つ大きな天幕のうちの一つに、身を屈めて入っていく。
「外の連中が騒がしいが、何か聞いてるか?」
狩人の問いに、椅子に座っていた王子は首を傾げた。
「いえ……まだ何も。敵軍が攻めてきたなら櫓の鐘が鳴るはずですし、陣形配置の指示が出ただけだと思います」
「その割には随分と殺気立ってるけどな」
狩人がこう返すと、隣に腰掛けていた槍の騎士が口を挟む。
「お言葉ですが、我々が気にすることではありません。白雪姫を救出し、魔女を捕らえることのみに専念すべきです」
「お、おお。そうだな」
思わぬ正論に面食らいつつ、狩人は騎士に視線を移した。そしてその顔つきが、普段とまるで違うことに気づく。
「お前、どうした?」
「はい?」
「何か嫌なことでもあったか?」
槍の騎士はじっと狩人を見返し、やがて不機嫌そうに顔を背けた。「別に何も」
「いやいやいや、いつもと全然キャラが違うぞ。絶対何かあったろ」
「何もありません」
「おい……」
狩人はかける言葉が思いつかず、諦めて王子の方を見た。彼も困り顔で狩人を見返し、溜息をつく。
「さっきからずっとこんな調子なんです。僕が訊いても、何も教えてくれなくて」
「放っとけ。こんなヤツどうでもいい」
騎士の頭を小突いたあと、向かいの椅子に腰を下ろす狩人。
「口数が少ない分には結構じゃないか。どうせ大した理由じゃないんだろ」
彼の言葉に、騎士はピクリと肩を揺らした。鋭い目つきで顔を上げ、狩人を睨みつける。
「大した理由じゃない? 言ってくれますね」
「ああ?」
狩人は口元を歪め、馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「大した理由なら話してみろよ。聞いたあとで遠慮なく笑ってやる」
「喧嘩はやめてください」
王子が諫めるように二人の間に割って入る。槍の騎士は彼に視線を移すと、ぼそりと低い声で呟いた。
「お言葉ですが……私にこうさせているのは王子、貴方ですよ」
「え?」
きょとんとする王子。槍の騎士は突然目をカッと見開き、勢い良く立ち上がった。
「ああああぁいいいいぃん!!」
奇声を張り上げ、机に頭を叩きつける。加減を知らぬ勢いの頭突きに、木材はあっさりと真っ二つに裂けた。
「ろ、ローリー卿! 何をしているんです?!」
「ぬああああぁ!!」
「落ち着いてください!」
組み伏せようと飛びついてきた王子を、槍の騎士は苦も無くはねのける。そして先ほどまで自分が座っていた椅子を、鋭い頭突きで破壊した。
「うきいいいぃぃ!!」
狩人は冷たい目で騎士の奇行を眺めていたが、やがて静かに猟銃を構える。
「警告したはずだ。次ラリってたら命はないと」
「はあ……はあ……」
槍の騎士は荒い息をなんとか抑え、狩人の方に向き直る。その瞳の奥には未だ激しい炎が燻っていた。額からは一筋の血が流れ、頬を涙のように伝っている。
「私は正気です」
「正気らしい振る舞いをしてから言え」
狩人のもっともな言葉に、騎士はにこりともせずに返した。「貴方に私の気持ちなど分かるはずもない」
「分かってたまるかよ」
銃の撃鉄が跳ね上がると、王子が再び二人の間に割って入る。「か、狩人さん。ちょっと待ってください」
「あ?」
「僕が何とかしますから……」
「フン」
狩人は鼻を鳴らし、銃口を天井に向けた。
「良い上司を持ったもんだなぁ、クソ髭野郎。もし俺が王様だったらお前なんて『俺の視界に入った罪』で即死刑だぜ」
王子は狩人を横目で睨みつつ、槍の騎士の手を取った。両の手で優しく包み込み、彼の目を真っ直ぐに見つめる。
「一体何があったんです? 貴方ほどの人がこれほど取り乱すなんて。仮に僕のせいだと言うのなら、なおさら話してもらわなくては困ります」
「……」
王子の心配そうな表情に、気まずそうに目を伏せる槍の騎士。「……貴方のせいではありません」
「さっきと言ってることが全然違うぞ」
「頭ではそう理解しています。しかし、心がそれを拒否するのです」
「なるほど。じゃあその心を吹っ飛ばせば問題解決だな」
狩人は騎士の胸に照準を合わせるが、王子にすかさず銃口を掴まれた。
槍の騎士は苦しげに俯くと、掠れた声で呟く。一言一言を口にするたび、喉に激痛が走るように見えた。
「先ほど、密偵の方から聞いてしまったのです。王子、貴方が……」
「はい」
「魔女様にキスされていたと」
「……はい?」
王子の表情がはたと凍りつく。
狩人は呆れ顔で猟銃を床に放り、椅子に背中を預けた。
「何かと思えばそのことか。くっだらねえ」
「くっだらねえですと?!」
槍の騎士は狩人に早足で詰め寄る。「あのように美しく! 神秘的な女性の唇を! 貴方はくっだらねえの一言で切り捨てるのですか!?」
「テメエがどう思おうが勝手だが、アレはババアだぞ。俺がガキの頃からあの姿のままだ」
「歳など関係ないでしょう!」
槍の騎士は芝居めいた調子で仰々しく腕を広げた。天井を見上げて瞳を潤ませ、高らかな声色で宣う。
「 あの方の美しさが私の胸に嫉妬の炎を灯し、狂わせるのです!!」
「テメエは元からどっかおかしいだろ!」
狩人は猟銃を掴もうと腕を伸ばすが、先に王子に拾われてしまった。
「ダメです。これは僕が預かります」
銃を抱えたまま軽やかな動きで離れていく王子。
狩人は恨めしげに彼を睨みつけていたが、不意に怪訝そうな顔をする。
「……なあ、王子様よ。気づいてないようだから教えてやるが」
「はい?」
「唇にな、まだ付いてるんだよ。青いのが」
「!?」
王子は仰天し、慌てて口元を袖で拭った。
今ごろ恥ずかしくなってきたのか、頬を赤らめ、次第に耳まで真っ赤になっていく。
「何で、何で……何で誰も教えてくれないんですか?!」
「俺も今気づいたんだ。大丈夫。よく見ないと分からなかったから」
「ほぎゃあああぁぁ!!」
再び理性を喪失したように振る舞う槍の騎士。
耳障りな金切り声を上げながら、天幕を支える支柱に向かって突進する。
「ま、待て馬鹿! やめろ!」
「あああああ羨ましうおおおぉぉぉ!!!」
「そこだけはやめろ! 崩れる!」
狩人は寸手のところで騎士の首に腕を回し、柱に頭突きが届く前に動きを封じた。そのまま絞め落とそうとするが、見た目以上に頑強な首の筋肉に阻まれてしまう。
「旦那。そのまま抑えてろ」
突然聞こえてきた低い声に、狩人は目元を緩ませる。「よし、頼むぜ『怒りんぼう』」
「おうよ」
いつの間にか彼らの前に、黒々とした髪と髭を結わえた小人が立っていた。彼は拳を握りしめ、自慢の腕力に任せた一撃を騎士の腹部に叩き込む。
「おっ……ふ♡」
鈍くも重い痛みと快感に身を委ね、その場で崩れ落ちる槍の騎士。
狩人は荒っぽく息を吐くと、彼の屍を踏み越え『怒りんぼう』の側までやって来た。
「この死に損ないめ。来てたならツラくらい見せろよ」
「悪いな。来たのはついさっきだ。俺たちゃ旦那ほど足が速くねえもんでよ」
不敵な笑みを浮かべる小人を見て、狩人もつられたように笑う。だが直後、騎士の洩らしたあえぎ声が耳に届き、思わず顔をしかめた。
「このクズ野郎。マジで生きてて恥ずかしくないのか」
騎士を再び足蹴にする狩人に、王子は悲しげな表情で言う。「ローリー卿は……いちおう結婚されているんです」
「マジか。こんな奴が?」
「はい。ですからご家族のためにも、命までは取らないでいただけると助かります」
「……」
狩人は苦虫を噛みつぶしたような顔をすると、ブーツを槍の騎士の頭から退けた。
「少なくとも奥さんには同情してやるよ。こいつ表向きは紳士だし、顔も無駄に良いからな。世間知らずのお嬢様は騙されるだろ」
「ありがとうございます」
王子は頭を下げたあと、しばらく狩人の顔を不思議そうに見ていた。
「……狩人さんはご結婚なさらないんですか?」
王子のこの言葉に、狩人の顔から表情が消える。
しかし次の瞬間には、張り裂けそうなほど大きく歪んだ笑みを浮かべた。
「何だぁこの野郎? へっへっへっへ」
「え、あれ?」
王子の純粋な目に、焦りと怯えの色が混じる。「ぼ、僕、何か失礼なこと訊いちゃいましたか?」
「さあ、どうだろうなぁ。うっへっへっへ♨」
怒っているのか喜んでいるのか、よく分からない笑い方をしながらにじり寄る狩人。
王子は半分べそをかきながら、逃げるように後退していく。「ご、ごめんなさい……」
「何を謝ることがある? お前はただ不思議に思って訊いただけだろうが。へっへっへっへ」
「か、狩人さん……怖いです」
「怖くないだろ別に。えへぇうへへへへ♨」
真っ赤な顔でしゃくりあげる王子の様子に、『怒りんぼう』はいたたれなくなって声をかけた。
「旦那、それぐらいにしといてやれよ。これから正念場だよな? そんなことしてる場合じゃねえだろ」
「そうだな、確かに。お前が正しい」
狩人は急に真顔に戻ると、くるりと向きを変え、自分が座っていた椅子へ戻っていく。
ちょうどそのとき、タイミングを合わせたかのように天幕の入口が開いた。
「お取り込み中でしたか」
顔を覗かせた顧問官に、狩人は片手を振って応じる。「今全て終わったところだ。何も問題ない」
「なるほど」
地に伏して身悶えしている槍の騎士と、天幕の隅で泣きべそをかく王子を交互に見てから、顧問官は無表情に頷いた。
それから一刻と経たぬうちに、狩人と小人たちは野営地を出立し、首都に向かって移動していた。この国の軍隊と鉢合わせる事態を避けるため、北側から大きく迂回し、森の中の道なき道を進んでいる。
黄金色の満月は煌々とした光を地上に投げかけ、枯れ葉を落とした木々から芽吹いた瑞々しい若葉に宝石のような彩りを与えていた。
「見通しが良すぎる。隠れて動くには最悪の夜だぜ」
『怒りんぼう』が呟くと、狩人はフンと鼻を鳴らす。羽根つき帽子のつばをわずかに上げ、木々の狭間から見える遠方の闇に目を細めた。
「敵に見つかる前に、こっちが敵を見つければいいだけだ。注意を怠るな」
彼の言葉に、『怒りんぼう』は鼻を膨らませる。
「任せろ、と言いたいが……俺は『照れ屋』じゃない。隠れんぼは苦手なんだ。旦那に任せるぜ」
「仕方ないな」
狩人は肩をすくめたが、ふと気になって後ろを振り返る。
泣きべそ王子と変態を除き、追従しているのは三人の小人だけだ。『怒りんぼう』に『おとぼけ』、そして『くしゃみ』。
「その肝心の『照れ屋』がいないぞ。あと『先生』とか『寝ぼすけ』も」
狩人が最後に口にした小人の名に、『怒りんぼう』は露骨に顔をしかめた。
「知っての通り、『照れ屋』は一匹狼だ。たぶん先行して安全を確保してくれてるだろうぜ」
「相変わらず有能だな」
狩人の言葉に彼は頷き、しかめ面のまま話し続ける。
「『先生』は知っての通り体調が悪いし、そもそも魔女と正面から争う気がない。『寝ぼすけ』は……どうでもいいだろ、あんなヤツ」
吐き捨てる『怒りんぼう』の背中を、狩人は眉をひそめて見た。口を開きかけたが、結局何も言わずに閉じる。
代わりにもう一度後ろを振り返ると、『おとぼけ』と『くしゃみ』に声をかけた。
「お前ら、死人ども相手に戦ってたんだって? 意外と根性あるんだな」
「えっへん」
得意げに胸を張る『くしゃみ』。反対に『おとぼけ』はただ頬を赤くして俯いていた。
「なに照れてんだ。お前は『おとぼけ』だろ。『照れ屋』のお株を奪ってどうするんだよ」
「て、照れてないよ」
「嘘つけ。もういいよ、お前が照れ屋で。本物の『照れ屋』は……あいつ名前どうしようかな。ゴキブリ?」
割と真剣に考え始めた狩人を横目に、『怒りんぼう』は溜息を吐く。
「旦那、もう少し緊張感を持とうぜ。そろそろ魔女の隠れ家の入口が近いんだろ」
「お前に言われなくても分かってるさ」
狩人は肩をすくめると、仲間たちを先導すべく進み出た。「さっき目印の岩が見えたから、ここからそう遠くないはずなんだ」
「正確な場所は旦那も知らねえのか?」
『怒りんぼう』の問いに、狩人はむっとした表情で振り返る。
「こちとらガキの頃の記憶を必死に辿って来てるんだぞ。そもそも沼地が干上がったり枯れ木が生き返ったりして、景色もだいぶ変わってるんだ。そう簡単に案内できるかよ」
狩人の低い声に、黙って後列を歩いていた王子が首を傾げる。「『目を瞑ってても分かる』っておっしゃってましたよね?」
「嘘に決まってるだろ」
「ええ? どうしてそんな……」
驚く王子の横で、すっと目を細める槍の騎士。
「そうでも言わないと置き去りにされるかもしれない、と考えたわけですな」
「まあな」
騎士の言葉に、狩人はどこか面白くなさそうに返した。
「置いていくわけないじゃないですか。貴方のような有能な人を」
眉尻を下げて王子が言うと、狩人は小さく舌を打つ。
「……もういいだろ。この話は終いだ」
狩人は先へ進もうとしたが、ニヤニヤとほくそ笑む槍の騎士に気づいた。肩越しに振り返り、彼に鋭い視線を向ける。
「なんだそのツラは」
「いえ、別に」
「また腹にキツいのをもらいたいか?」
狩人の脅し文句に、槍の騎士は目を輝かせた。「ぜひとも!!」
「……」
狩人だけでなく、『怒りんぼう』や王子までが渋い顔で沈黙する。他の小人たちは顔を見合わせ、ただ首を傾げていた。
「もういい。気持ち悪いからさっさと行くぞ」
足を速める狩人の背中を、仲間たちが追いかける。
敵に見つかる可能性を少しでも減らすため、彼らは獣道や藪の中などを選んで進んだ。狭い木々の間は鉈を振るって枝を落とし、文字通り道を切り開く。
背の低い小人たちは人間の歩幅に合わせるため、必死に足を動かしていた。
「止まれ」
短く呟いた狩人に、一同は驚いて顔を上げる。
「何か見つかりましたか?」
槍の騎士が訊ねると、狩人は小さく頷いた。「そこの木だ。近づきすぎるなよ。もしかしたら罠かもしれん」
「どれどれ」
のしのしと近づいていく『怒りんぼう』。
ある程度まで距離を詰めると立ち止まり、木の幹に刻まれた文字とおぼしきものをじっと見る。
「ルーンだな。少なくとも罠じゃないぜ。『照れ屋』からの伝言だ」
「そういえば前にも見たな。お前らの使う文字か?」
言ってから、難しげな顔で首をひねる狩人。
「どうしてわざわざ木になんか刻むんだ。血で書くのも痛そうだが、ナイフで文字を彫り込むなんて結構な手間だろうに」
「それがそうでもないんだぜ」
「そうなのか?」
「ああ」
狩人の問いに、『怒りんぼう』は振り返らずに返した。
「元々ルーンってのは、木片とか岩に刻みやすい形になってるんだ。アルファベットよりなんかカクカクしてるだろ?」
「ああ、確かに。用途に合わせて作られた文字ってことか」
「そういうことらしい。俺は『先生』じゃないから詳しくはねえがな」
「人間様の言葉に訳せるか?」
「まあな。文法はさほど違わねえ」
『怒りんぼう』は幹の前に立つと、文字を指でなぞり始めた。そして数秒後に、真顔になってこう呟く。「『急いで引き返せ』」
「……?」
狩人たちは訝しげに互いの顔を見た。
『おとぼけ』は少しの間首を捻ったあと、思いついたように言う。「帰った方がいいってことかな?」
「お前『寝ぼすけ』のお株まで奪う気か? 欲張りなヤツだな。ここまで来て帰れるわけないだろ」
肩をすくめる狩人の後ろで、『怒りんぼう』は険しい表情で文字を睨みつけていた。
「……こいつは思ったより不味い状況かもしれねえ」
「どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だ。『照れ屋』の野郎、珍しく焦ってやがる」
彼は踵を返し、早足に狩人たちの元まで戻ってくる。「旦那たちはここから離れてくれ。できるだけ早くな」
「話が見えてきません。どういうことなんです?」
「説明してる時間がねえんだ!」
槍の騎士の問いに、声を荒げる『怒りんぼう』。
視線を左右に泳がせ、やがて眉間にぎゅっと皺を作る。「クソ、もう遅えか」
「……!」
狩人は彼の目線の先を追い、猟銃の撃鉄を跳ね上げた。見通し良く透き通った夜の森に、どんよりとした灰色の霧が漂い始めていたのだ。
それらは木々の間をゆっくり縫うようにして、狩人たちに向かってくる。
「魔女の襲撃ですか?!」
腰の剣に手をかける王子の横で、狩人は眉をひそめた。「いや、あいつの気配じゃない。別人だ」
「じゃあ誰が……?」
「知るか。憶測で言えることじゃない」
狩人は吐き捨て、正面に猟銃を向ける。敵のものと思われる気配をそこかしこから感じるが、適当に撃っても当たりはしないだろう。
肌に粘り着くような濃い霧は見る見るうちに周囲を覆い尽くし、隣にいる仲間たちの顔すら見えなくなっていく。
「『魔の森』の主のお怒りに触れたんだ。僕たちは、あの方に殺されるんだ」
『おとぼけ』の震えた声を聞き、肩をすくめる狩人。
「お怒りなんてとんでもない。殺気なんて欠片も感じないからな。これはたぶん……『哀れみ』だ」
「哀れみ。それは厄介ですな。何をしてくるか分からない」
槍の騎士は鋭い笑みを浮かべ、背中の槍を迷いなく抜いた。「相手が何者なのか、本当に見当もつかないのですか?」
「確信はできない」
狩人は目を瞑り、視覚を遮断した。そして頭を数度傾け、聴覚からわずかでも情報を拾おうとする。
彼の耳に届いたのは、本来人の耳には捉えられぬ域にある、甲高い羽音だった。
「とうとうどちらに付くか決めたわけだな……『鏡』の野郎」
飢えた狼のような、獰猛な笑みを浮かべる狩人。「いいぜ。かかってこいよ。害虫退治の時間だ」
頬をくすぐられるこそばゆい感触に、白雪姫は目を覚ました。冷たい石畳と、足元に敷かれた藁の山が視界に映る。
「んんっ……」
溝のような窓から差し込む月の光に、彼女は思わず顔をしかめた。月の光を眩しいと感じるなど、一体いつ以来だろうか。
湿り気の残る頬に手を当て、横を見れば、そこには子鹿のつぶらな瞳があった。斑点模様のある背中に腕を回し、頭を撫でてやると、目を細めて身体を寄せてくる。
彼女はしばらく温かい毛並みに顔を埋めていたが、やがて顔を上げ、周囲を見渡した。
頑丈そうな石造りの壁に三方を囲まれ、正面には鉄格子がある。どうやら独房の一室だと分かったとき、階段を降りてくる誰かの足音が聞こえてきた。
カツン、カツン、とヒールが石畳を打つ高い音に、自ずと顔が強張るのを感じる。二、三度深く息を吐き、呼吸を整えると、廊下の曲がり角に見えた人影をじっと睨みつけた。
「お目覚めかしら。この国で一番美しいお姫様?」
暗がりから姿を現した魔女は、鋭い笑みを浮かべている。
白雪姫は怯えを彼女に見せまいと、努めて険しい表情をして言った。「他の方たちは何処です?」
「知らないわ。ここに連れてきたのは貴女だけだもの」
どうでも良さそうに返した魔女の言葉に、白雪姫はほっと息をついた。安堵も束の間、今度は逆に不安になってくる。自分はここに一人きりで、魔女と対峙しているという事実に。
しかし震えて縮こまるという選択肢は彼女の中になかった。『武器じゃなく、言葉をぶつけろ』。狩人の声が、絶えず頭の中に響いていたからだ。
「狩人様は……みんなは無事なのですか?」
「さあ、どうかしらね」
白雪姫の問いに、魔女は残忍に口元を歪める。
「今、都の外に『隣の国』の軍隊が集結しているわ。彼らはどうあっても戦争をお望みのようね」
「……戦争」
白雪姫の表情に影が差したのを、魔女は見逃さなかった。鉄格子に近づき、彼女の可愛らしい顔を冷酷に見下す。
「そうよ、戦争になるの。大勢が死ぬわ。貴女のせいでね」
「そんな……」
白雪姫の顔色が目に見えて悪くなると、魔女は満足そうに鼻を鳴らした。
「猟犬が……狩人と王子様が貴方を助けにここに来るわ。王族だけが知る秘密の抜け道を使うつもりのようだから、特別な歓迎の用意をしたの」
「な、何をする気ですか!」
「フフッ」
彼女が顔を歪めると、魔女は小さく笑みを洩らす。腰に提げた包みに手を入れ、水晶玉を取り出した。
人の頭ほどの大きさがあるそれは、薄明かりの中で青白い光を放っている。
「貴方に見る勇気があるかしら? 彼らが今ごろ、どんな目に遭っているのか」
「……!」
息を呑む白雪姫の前で、魔女は片手で掲げた水晶に魔力を注ぎ込んだ。すると水晶は淡い光を帯び、灰色の霧を映し出す。
どんな恐ろしい光景を見せられるのか。白雪姫は内心震えたが、水晶が映すのはそれだけだった。のっぺりと濃い灰色の霧以外、何も見えない。
「ちょっと、何なのよこの霧! これじゃ何も分からないじゃない!」
魔女は水晶をガンガン叩いた。二、三度拳を叩きつけたとき、その透き通った表面に亀裂が走る。
「……あ」
間の抜けた声を洩らす魔女。割れ目から噴き出した青白い霧が、彼女の足元にふわふわと流れ落ちた。
水晶はその輝きを失い、暗く透明な色に戻ってしまう。
「……」
しばらくの間、気まずい沈黙がその場を支配していた。