GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅩⅠ 霧と影

 

 灰色の霧は瞬く間に森へ広がり、(ことごと)くを覆い尽くしていった。

あれだけ明るかった月の光ももはや地上には届かず、霧の発する微かな光が草木をのっぺりとした不気味な乳白色に染め上げている。

 

「おい、どうなってんだこの霧! 誰か何とかしろよ!」

 

狩人の怒鳴り声が霧の中に空しく響いた。

少し間を置き、隣で戦斧を構えた『怒りんぼう』が慎重に囁く。

 

「冷静になれよ旦那。怒るのは俺のお株だぜ」

 

「おい、『くしゃみ』大先生! 一発頼む!」

 

狩人の呼びかけに、くしゃみがお株の小人は応じなかった。聞こえるのは彼らの正気を奪うように絶えず響く羽音のみである。

 

「……何やってんだあいつは。聞こえてないのか?」

 

「いや、聞こえててもたぶん撃てねえだろうな」

 

「どういう意味だ?」

 

狩人の問いに、彼は心なしか小さな声で答える。

 

「あの野郎、行きがけにな……くしゃみ止めの薬を飲んじまったんだよ」

 

「なん……だと……」

 

呆然と呟く狩人。『怒りんぼう』は苦笑し、気まずそうに頬を掻く。

 

「普段はあんまり飲まないんだけどな。あいつ苦いの嫌いだからよ」

 

「何で今日に限って飲むんだよ?!」

 

「責めてやるな。最近森はどこも穏やかで霧なんて出なかったし……どの道、地下や城の中じゃ敵に出くわしても爆風は撃てねえ。壁で衝撃があちこち跳ね返って、俺たち全員木っ端微塵になっちまう」

 

「くしゃみの撃てない『くしゃみ』なんて『くしゃみ』じゃないだろ。俺に改名させろ」

 

狩人は苛立ち紛れに近くの木を蹴りつけたが、思い出したように周囲を見渡す。

 

「他の連中は何処にいる? 気配がしないぞ」

 

「はぐれたのかもしれねえな」

 

『怒りんぼう』が冷静に返すと、狩人はチッと舌を打った。「こういうときはその場を動かないのが定石だろ。ものを知らん奴らめ」

 

「責めてやるなって。どうせそう遠くへは行けねえよ。少なくとも俺の仲間たちは、俺以外全員ビビりで……」

 

そこまで言いかけ、『怒りんぼう』は目を見開いた。彼の視線の先、木の影がぼんやりと揺らめく場所に、一人の小人が現れたからだ。

結って束ねた灰色の髪を背中で揺らし、肩には見覚えのある大きな鎌を担いでいる。

 

「『寝ぼすけ』?! 何でこんなところにいるんだ!」

 

声を上げて前に出る彼の腕を、狩人は強く掴んだ。「目を覚ませ。あれはお前の仲間じゃない」

 

「けどよ、確かにあの姿は……」

 

声を上擦らせる『怒りんぼう』に、狩人は険しい表情で返す。

 

「この辺りには俺たちの気配しかない。あれは幻か、もっと得体の知れん何かだ」

 

「……」

 

『怒りんぼう』はぼんやりした目つきで視線を戻した。『寝ぼすけ』の姿はすでに消え、影も形もない。

彼は歯を食いしばり、ギリギリと音を鳴らした。

その顔はどす黒い赤に染まり、目には爛々とした光を宿している。

 

「……舐めたマネしやがって。誰だか知らねえが、この俺を騙そうとした罪は重いぜ」

 

「だろうな」

 

『怒りんぼう』がキレ始めた分、狩人は逆に冷静になっていた。地面を調べ、仲間たちの足跡をさっと指でなぞる。

 

「どうやら俺たちは散り散りになったらしい。ご丁寧に、全員バラバラの方向に誘導されてるな」

 

「他の奴らも幻にしてやられたってことか。ふざけやがって……!」

 

『怒りんぼう』の握りしめた斧の柄が軋み、キリキリと甲高い音を立てる。

狩人は立ち上がって顔を上げると、今度は空気の匂いを嗅いだ。

 

「そうイキるな。少なくともまだ誰も殺されちゃいない。殺気も感じないしな」

 

「今はそうでも、この先は分かんねえだろ!!」

 

鼻息を荒くする小人の肩に、軽く手を置く狩人。

 

「落ち着けって。仮に気が変わったとして、俺ならくしゃみ止めを飲んだ小人なんて後回しにするさ。まずは一番厄介な奴から先に殺る。あの変態髭親父とか」

 

「いや、あのな……」

 

狩人の推理に呆れたのか、『怒りんぼう』の猛りが鎮まっていく。「そりゃ旦那個人の感情だろ。敵の立場に立って考えねえと」

 

「いや、実際あいつは手強いぞ。そうは見えないかもしれんが……」

 

そこまで言ったところで、狩人は口を閉じた。

軽快な足音を響かせ、何者かが近づいてくるのに気づいたからだ。

彼はそちらに銃口を向け、声を張り上げる。

 

「誰だ! 俺たちの仲間なら、合い言葉を言え!」

 

小さな足音がぴたりと止まり、辺りに沈黙が訪れた。少しして、素っ頓狂な小人の声が聞こえてくる。

 

「合い言葉なんて決めてたっけ? ごめん、忘れちゃった!」

 

「『おとぼけ』だな。間違いない」

 

彼らは顔を見合わせ、互いに頷いた。「出てきていいぞ」と『怒りんぼう』が促すと、霧の向こうからひょこひょこと二人の小人が姿を現す。

弓を構えて先導する『おとぼけ』と、その後ろをのんびり歩く『くしゃみ』。

 

「合い言葉って何だっけ?」

 

『おとぼけ』の問いに、彼はフンと鼻を鳴らした。「安心しろ。そんなもんはねえ」

 

「え、ないの?」

 

「旦那お得意の口からでまかせだよ。気にすんな」

 

「誰がでまかせが得意だって? ……いや、そんなことより王子と変態は何処だ?」

 

「見てないよ」

 

『おとぼけ』が即答すると、狩人の表情が歪む。

魔女が廃村にて言い放った言葉が、彼の頭の中で反響していた。『私の助言者が、貴方を殺すべきだって五月蝿いのよ』

 

「……まずいな」

 

狩人は逸る気持ちを抑えて一度だけ深呼吸した後、王子の足跡を慎重に辿り始めた。

 

 

 

 

 

 王子は古い大木を背に、周囲に不安げな視線を向けていた。仲間たちの姿はすでになく、辺りには霧が重苦しく立ち込めている。

不気味な乳白色の光に染められた木々以外、目に映るものは何もなかった。

 

何処からともなく響く蝿の羽音が、心を恐怖で塗りつぶす。思い起こされるのは今と同じく霧に囚われ、魔女にいいようにされてしまった無力な自分だった。

 

「……負けてたまるか」

 

彼は目を閉じ、細剣を胸の前に掲げる。刀身に額を当て、口の中で神の御子の名を唱えた。

周りに仲間はいないが、敵の姿もない。この場にいるのは自分だけ。つまり今戦うべき敵は、己自身に他ならない。

 

しょせん自分は剣術を多少囓っただけの子どもだ。軍人として持つべき能力も経験もない。敵に負けるのは仕方が無いだろう。だが自分自身にだけは、決して負けるわけにはいかぬのだ。それが王族に生まれた者の義務であり、矜持である。

 

己の内に秘めた言葉が、湧き立つ脆い心を鎮めていくのを感じる。王子は剣を下ろし、うっすら目を開けた。

霧に覆われた森は静寂に包まれ、小さな生き物の気配すら感じない。だがそのとき視界の隅で、突然人の影が立ち上がったように見えた。

 

「ひゃああっ!?」

 

情けない悲鳴を上げつつ、そちらに素早く剣先を向ける。気のせいではない。影は確かにそこにあった。

揺らめく霧の向こうに立ち、背丈は彼より一回りほど大きい。長身を折り曲げ、低く身構えているように見える。

 

「……?」

 

しばらくその影と睨み合っていた王子は、やがて小さく首を傾げた。そしてそれが自分自身の影だと気づいたとき、怒りの混じった溜息を吐く。

己の馬鹿さと臆病さに、つくづく幻滅していた。

 

後ろを振り返ると、彼の影を伸ばした光源の正体があっさり見つかった。それは地面に落ちて半ば泥の中に埋もれた、黒い蝋燭だった。

小さく弱々しいが、美しい金色の火を灯している。

 

「これは確か……狩人さんの」

 

王子はそれを拾い上げると、優しく胸に押し当てた。穏やかな温もりを身体の内に感じつつ、祈るように目を閉じる。

実際、彼は狩人の無事を心から祈っていた。

優しくて頼もしく、ときどき何だかおっかない。出会って間もないが、かけがえのない友人だ。

 

王子は彼の顔を胸に描こうとするが、最初に浮かんだのは白雪姫の美しい寝顔だった。

いったんそれを脇に退け、狩人の姿を心に描く。野営地で見せた涙。そして小人の家で一度だけ洩らした本音。あの弱りきった姿を。

 

「どうか、彼の物語に救いをお与えください」

 

何の打算もない、純粋な祈りを天に捧げた、そのときだった。胸に抱いた蝋燭の火が、その光を強くした。

激しく燃えたわけではない。火の勢いこそ変わらないが、まさしく星の輝きのような白く眩い煌めきを放つ。それはもはや火ではなく、一つの光。一つの星であった。

 

「……っ」

 

そのあまりの美しさに、王子は思わず息を呑む。

眩い光に目を細めつつ、蝋燭を頭上高く掲げた。霧の向こうを見通せやしないかと期待してのことだが、残念ながら視界はほとんど開けない。

 

だが、一つ奇妙なことが起きた。頭上の光によって複数に別たれた影が、急に形を変え始めたのだ。

 

「へあっ?!」

 

またしても変な声を上げる王子。彼の目の前で影が踊り、一つになったり別れたりを繰り返しながら、灰色の霧と混じり合う。

これは幻か。それとも現実なのか。影たちは光を受け、各々がかつての色を取り戻していく。

 

長く続くかと思われた光と影の舞踏は、突如幕を引いた。しつこい羽音は止み、代わりに一人の女性の姿が浮かび上がる。

 

赤い頭巾を深く被っており、顔はよく見えない。

体格や足運びから察するに、歳はおそらく狩人と同じくらいだろう。白い布が被せられた手提げの籠を胸に抱え、ゆっくりと近づいてくる。

 

王子はじっと彼女の姿を観察し、その足元に影がないことに気づいた。試しに蝋燭を左右に揺らしてみたが、女性の顔や衣服の陰影に変化はない。

これは幻だ。王子はそう結論づけた。

 

赤い頭巾の女性は、おもむろに足を止める。

今や王子の目の前に彼女の顔があった。その目つきは虚ろで、肌には生気がない。かつて美しかったであろう長い髪は色褪せ、くすみがかっている。

 

特徴からして『死人返り』だろう。その濁った瞳は、恐らく何も映していないはずだ。そもそも幻なのだから、そこに実際にいるわけではない。

にも関わらず、彼女にじっと見つめられているような気がして、王子は思わず身をすくませた。

 

「そこに誰かいるの?」

 

突然響いた煩わしげな声に、はっと目を瞠る王子。女性にしては少し低い、落ち着いた声色。聞き違えるはずもない。

 

「魔女め! 白雪姫を返してもらうぞ!」

 

高らかに叫び、声のした先へ剣を向ける。

灰色の霧の向こうから現れたのは、確かに『魔の森の魔女』だった。銀色の髪に、水色の唇。額から目元までを隠した黒いヴェールに、灰色のローブ。

その姿は紛れもなくあの魔女のものだ。

 

しかし彼女を睨みつけていた王子は、はたと気づく。そのローブに隠れた足元にも、やはりと言うべきか、影がない。

 

「……」

 

幻だからといって油断はできない。王子は警戒を緩めず、構えを崩さなかった。しかしずんずん歩いて近づいてくる魔女を見て、思わず脇に退いてしまう。

 

頭巾の女性とは違い、彼女は王子のことなど気にも留めていなかった。否、気にも留めないというより、見えていないという言い方が正しいかもしれない。

 

「また貴女ね。いい加減にしてくれる? 毎度毎度、迷子の子どもばかり連れてきて……」

 

魔女はうんざりしたように肩をすくめる。

その視線の先に、すでに頭巾の女性はいなかった。彼女の立っていた場所には、手提げの籠だけがぽつんと残されている。

 

「『魔の森』の主たる私への捧げ物かしら。フン、殊勝な心がけね」

 

魔女は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、少し屈んで布をつまみ上げ、籠の中身を覗いた。そして、ぎょっとして後ろに仰け反る。ひるがえったヴェールの奥に見えた菫色の瞳は、驚きに揺れていた。

一瞬遅れ、赤子の小さな鳴き声が森の中に響く。

 

「まさか……」

 

彼女は明らかに狼狽えながらも、再び布をめくり、籠の中を覗き見る。そして先ほどよりも大きく仰け反り、よろめいて後ずさった。

 

「勘弁してよ、赤ん坊なんて。お世話の仕方も分からないし」

 

魔女は途方に暮れて肩を落としたが、籠の中から小さな手が飛び出しているのに気づき、恐る恐る腕を伸ばす。その可愛らしい手は彼女の指を躊躇いなく掴むと、キャッキャと無垢な笑い声をあげた。

 

「まあ、アイツに聞けばいっか」

 

魔女はぼそりと呟くと、籠を優しく抱え上げる。

赤子をあやすためだろう。不慣れな鼻歌を歌いながら、来た道を戻っていった。

抱えたものを落とさぬよう、ぎこちなく丸まったその背中は、やがて霧の向こうへと消えてしまう。

 

「今のは一体……?」

 

王子は首を傾げたが、その一方で、己の直感があることを告げていた。だが確信がない以上、そうと決めつけるのは論理的ではない。

彼は険しい顔で周囲を睨み、高らかに叫ぶ。

 

「こんな幻で僕を惑わそうとしても無駄だ! 姿を見せろ!」

 

王族としての威厳を存分に発揮した声であったが、灰色の霧は揺らぎもしなかった。代わりに再び影が踊り、目の前に別の幻が現れる。

 

今度のそれは人ではない。暖炉の側の壁にかけられた、小さな丸い鏡だった。

どこぞの城の一室だろうか。石造りの天井や床に敷かれた紫色の絨毯までが、森の中に浮かび上がっている。

 

暖炉の火の暖かさまで肌身に感じられる気がして、王子は思わず手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めた。よく見れば鏡の前に、小さな人影が立っていたからだ。

 

四、五歳くらいの幼い少年で、切れ長の目が凛々しくも可愛らしい。魔女と同様、彼も王子には目もくれず、真剣な表情で鏡と向かい合っていた。

 

「底なし沼と普通の地面は、どうやって見分ける?」

 

丸い鏡が少年に問いかける。鏡が喋るというのはいささか珍しいが、王子はそれほど驚かなかった。

ここは魔女の国だ。地獄と交信できるといわれる魔鏡の一つや二つ、あってもおかしくない。彼女に『鏡』という名の腹心がいることも、狩人の口から聞いていた。

 

鏡にぼんやりと映る黒い影は悪魔だろうか。教会が人々に伝えるイメージと違い、その声は知的で穏やかだ。

彼の問いに少年は少し迷ったが、すぐ得意げに答える。

 

「ニオイ!」

 

「その通り。『魔の森』の底なし沼には、常に死の臭いが伴う」

 

鏡はしばらく間を空けたあと、少し緊張させるような声を出す。

 

「……しかし、気をつけていても落ちてしまうかもしれない。そんなときはどうする?」

 

「何かに掴まる!」

 

「周りに何もないときは?」

 

鏡の意地悪な問いに、少年はものすごく困った顔をした。うーんと首をひねったあと、自信がなさそうに答える。

 

「……お母さんに助けてもらう?」

 

少年の言葉に、鏡の中の黒い影は肩を揺らしたように見えた。ぼんやりと映っているため分かりにくいが、おそらく笑ったのだろう。

 

「間違いではない。では、お母さんがやって来るまで、どうやって自身の命を繋ぐ?」

 

「うーん……」

 

一生懸命首を捻る少年。やがて「あっ!」と声を上げると、急につま先立ちになり、両腕を水平に広げる。

 

「そうだ。よく思い出したな。両腕を沼の上で広げ、浮かぶのが正解だ。闇雲に動かなければ、それ以上下に沈むことはない。焦って手足をばたつかせれば、たちまち深みに飲み込まれてしまうだろう」

 

鏡は優しげな声で少年を讃えた。少年が得意げに笑うと、彼は続けて問いを投げかける。

 

「誰かが沼に落ちたのを見たときは? どうやって助ける?」

 

「掴まれるものを投げる! 木に結んだロープとか!」

 

「直接手を伸ばしてはいけない理由は?」

 

「引きずり込まれちゃうから!」

 

「その通り」

 

「その通り!」

 

鏡の言葉を真似し、キャッキャと楽しげに笑う少年。そんな彼の姿を、鏡の中の悪魔はじっと見つめていた。

やがて部屋の奥にある扉が開き、黒いドレスに身を包んだ魔女の姿が現れる。

 

「お母さん!」

 

少年は魔女に駆け寄り、その腰に勢い良く抱きついた。彼女は目を白黒させたあと、怖ろしげな表情を作る。

 

「危ないから家で待ってなさいと言ったでしょう。どうして約束を守れないの?」

 

「危なくないよ。来れたもん!」

 

「困った子ね……」

 

魔女は少年の頭を撫でたあと、屈んで目を合わせ、扉の奥を指さす。

 

「あっちに悪霊たちがいるから、遊んでもらいなさい」

 

「うん!」

 

パタパタと大きめの服をなびかせ、少年は扉の向こうの廊下に飛び出した。その先は幻で映されていないため、彼の姿は見えなくなってしまう。

 

「あの子に何を教えていたの?」

 

鏡に向き直った魔女の目は冷たく、険しいものだった。悪魔は少し間を置いたあと、静かな声で答える。

 

「底なし沼に足を滑らせたときの対処法です。魔術に関することは何も」

 

「そう、ならいいわ」

 

魔女は溜息を吐き、廊下の方に視線を移した。

開けっぱなしの扉の向こうからは、ケタケタと楽しげな笑い声が聞こえてくる。

 

「……あの子のことで話したいことがあるって、以前に言っていたわよね」

 

「はい」

 

「今はヒマだし、機嫌もそこそこ良いから聞いてあげるわ。何かしら」

 

魔女の言葉に、鏡は何も返さなかった。

沈黙が続き、彼女はしびれを切らしたように舌を打つ。

 

「普段は余計なことばかり喋るくせに、話すよう促すと押し黙るってどういうこと? 貴方と契約したのは失敗だったのかしら」

 

「私との契約を後悔はさせません」

 

「じゃあ話しなさいよ」

 

魔女は数歩前に進むと、鏡の横の壁に手をついた。間近で睨まれ、鏡の悪魔は諦めたように口を開く。

 

「あの子は少し痩せています」

 

「は?」

 

「それに同年の子と比べると身体が小さい」

 

「……ちゃんと食べさせてるわよ」

 

魔女が唇を尖らせると、鏡は控えめな声で言った。

 

「貴女の子育てを非難しているわけではありません。むしろ、そちらは完璧に近い。この時代では理想的と呼べるほどです」

 

「じゃあ何が問題なのよ! 言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」

 

魔女の怒鳴り声が石の壁に反響する。

すると扉の向こうの廊下から、少年がひょっこり顔を出した。「お母さん、どうしたの?」

 

「何でもないわ。あっち行ってなさい」

 

しっしっと少年を追い払ったあと、彼女は不機嫌そうな表情で鏡に向き直る。「ムカついたから、貴方とはしばらく口をきいてあげなーい」

 

「……だから話したくなかったのです」

 

早足に去っていく魔女の後ろ姿を、鏡に映る悪魔はただ肩を落として見ていた。

やがてそれらの幻は風に吹かれた霧のように消え、辺りは再び沈黙に包まれる。

 

堪え難い息苦しさを覚え、王子は大きく咳き込んだ。そのときになって初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づく。

まるで本当に彼らがそこにいるかのような錯覚を覚え、無意識のうちに気づかれまいとしていたのだろう。

様々なことが頭に浮かんだが、とりあえず『沼に落ちたときの対処法』を忘れないうちに紙か何かに残しておきたかった。

 

ぼんやりしている王子の前に、またもや幻が現れる。先ほどの石造りの部屋とは別の、どこかの小屋の中。

藁を敷き詰めたベッドと、そこで眠る幼い少年が見える。先ほどとは異なり、少年は明らかに弱っていた。顔色は悪く、苦しげに目を閉じ、ときどき咳き込んでいる。

 

病弱であった昔の自分の姿が思い起こされ、王子は胸に手を当てた。物心こそついていなかったが、あの息苦しさだけは鮮明に覚えている。

 

「……貴方が言いたかったのって、もしかしてこれのこと?」

 

枕元の椅子に座る魔女が、力のない声で訊ねた。

誰に訊ねたのだろう。そう思っていた矢先、彼女の肩口に止まっていた蝿が突然「申し訳ありません」と声を発した。

『鏡』の蝿を使役する魔術だ。これも狩人からの情報と一致する。

魔女はゆっくりと顔を上げ、蝿を横目で流し見た。

 

「何で貴方が謝るのよ。これは私の落ち度でしょうに」

 

「いえ、私の責任です」

 

鏡は低く悲しげな声で呟く。このような情緒を見ると、やはり彼のことを悪魔とは思えない。

 

「私にはこの未来が見えていました。しかし、見間違いだと思ったのです。その……大変元気な様子だったので」

 

「そうよね。身体が弱る前兆なんてなかったわ。子どもって難しいわね」

 

魔女は首を振り、美しい銀色の髪を肩の後ろに流した。髪に薙がれて飛び立った蝿は反対側の肩に止まり直し、再び言葉を発する。

 

「彼が衰弱した原因は、私の『力』にあります」

 

少年の身体の汗を拭いてあげていた魔女は、ぴたりと動きを止めた。布きれを水を張った桶に浸したあと、肩口の蝿を鋭く睨む。

 

「さっきから回りくどいわね。私のせいだって素直に言いなさいよ」

 

「いえ……」

 

「私が貴方の権能を使いこなせていない。だから触れるもの全てから意図せず生命力やらを奪ってしまう。この子はずっと私の側にいるから、触れ合う機会が多い。だから衰弱した。そういうことでしょ?」

 

「はい」

 

「まったく……」

 

魔女は呆れたように首を振り、少年の布団をかけ直した。彼の身体に直接触れぬよう、慎重に指先を動かす。

 

「この子は強いわ。他の子どもだったらとっくに死んでいたかもね。それだけ悪魔の力は強く、抑えが利かない。今回はただの風邪だったけど、この先もっと重い病気に罹ることもあり得るでしょう」

 

「返却をお望みですか?」

 

悪魔の問いに、魔女はにやりと鋭い笑みを浮かべる。

 

「まさか。とんでもない。こんな強い力、誰が返してやるもんですか。ましてやこんな子ども一人のために? ありえないわね」

 

「……そうですか」

 

少し間を置いてから、鏡の悪魔は今までと打って変わり、はっきりとした口調で言った。

 

「ならば、彼は街の孤児院に預けるべきでしょう。私の力が貴女の身体に馴染むのは、当分先の話です。それまでに彼が衰弱死しない保証はありません」

 

「そうね。今すぐ手配するわ」

 

魔女が立ち上がって踵を返すと、振り落とされそうになった蝿は慌てて彼女にしがみつく。

 

「私が言い出したことで恐縮ですが、可能なのですか? 戸籍のない子どもを孤児院に預けるには、手続きや街での信用が……」

 

「問題ないわ。王様に頼めば何とでもなることよ。ましてやこの子は、あの女の……」

 

魔女が棚から紙と羽ペンを手に取り、そこまで言いかけたときだった。

扉をノックする音が響き、彼女は煩わしげに顔をしかめる。

 

「誰かしらこんなときに。貴方、ちょっと見てきなさいよ」

 

「見るまでもありません。死人の臭いです」

 

「……ああそう」

 

魔女は大股で玄関に歩み寄り、扉を乱暴に開け放つ。戸口に立っていたのは、赤い頭巾を被った女性だった。

最初に見たときは丸腰だったが、今は銃を背負っている。銃身が横に二本並んだ、見覚えのある猟銃だ。

 

「私はお役ご免ってわけね。期待を裏切ってしまったかしら?」

 

皮肉っぽく口元を歪める魔女に、頭巾の女性は何も答えない。ただ彼女の目を見つめ、微かに首を横に振った。そして横をすり抜けて中に入ると、少年の側に膝をつく。

 

「今さら母親面をするつもり? 物も言えない『死人返り』に、親が務まるのかしら?」

 

一言一言口にするたび、魔女の表情は鋭くなっていった。しかし女性の虚ろな瞳に灯る優しげな光を見て、何も言えなくなってしまう。

 

「……この小屋は貴女にあげるわ。好きに使いなさい」

 

魔女はそれだけ言うと、いくつかの本と薬瓶だけを手に取り、早足に小屋から出ていった。

そのまま一度も振り返ることなく、彼女の後ろ姿は霧の向こうに消えてしまう。

 

「……」

 

程なく幻は消え去ったが、王子はじっと虚空を見つめていた。どうやら己の直感をもう少し信じてやるべきだったかもしれない。

この霧に映される光景は、おそらく実際にあった過去の出来事だ。ただの幻にしてはあまりに鮮明で、真に迫っている。

 

そして魔女と『鏡』に育てられた、あの幼い少年は……。

 

王子が思考に没頭しかけたとき、次の幻が姿を現した。深緑色の上着を着た青年の背中が見える。

羽根つき帽子を目深に被り、肩に担ぐのは、あの見慣れた猟銃。

 

「狩人さん!」

 

王子は声を上げて駆け寄ってしまったが、その背に触れる寸前で足を止めた。

よく見れば記憶している狩人よりも一回りほど小さい。特に肩幅は、王子とそれほど変わらなかった。

 

こちらに背を向けたまま歩いていたが、不意に振り返り、彼を真っ直ぐに見る。飢えた狼を思わせる、鋭く暗い瞳。

 

「……っ」

 

王子は息を呑み、数歩後ろに下がった。

これは過去の光景が幻として現れたもの。こちらを認識できるはずがない。頭では分かっていても、その殺気に気圧されてしまった。

 

だがその幼さが残る顔立ちを見る限り、歳は王子とそう変わらないらしい。

一回り小さいのも当然だ。むしろ歳が近いのに、これだけ身長差をつけられていることの方が納得いかない。

彼が人知れずもやもやしていると、若き狩人が口を開いた。

 

「姿を見せろ。尾けてきているのは分かってるぞ」

 

その言葉に、王子もつられて後ろを振り返る。幻によって新たに生まれた木の影から、魔女がゆるりと姿を現した。

 

「噂通り、随分鼻が利くようね」

 

彼女は満足そうに笑ったが、狩人はにこりともしなかった。猟銃の撃鉄を指で跳ね上げ、腰だめに狙いをつける。

 

「お前……『魔の森の魔女』だな」

 

「あら、物知りじゃない」

 

「馬鹿にするな。この国でその名を知らない奴はいない」

 

油断なく銃を構えていた狩人だったが、ふと訝しげに眉をひそめた。「何処かで会ったか?」

 

彼の問いに、魔女の口元から笑みが消える。「憶えてないの?」

 

「何処で会った?」

 

狩人は続けて問うが、魔女は何も答えなかった。

ちょうど顔にかかった影とヴェールのせいもあり、表情は読み取れない。

 

「……以前、街中で少しすれ違っただけよ。忘れていても無理はないわね」

 

彼女の冷たい声を聞き、狩人はとりあえず頷いた。「そうか。まあどうでもいい。俺に何の用だ?」

 

「特に用はないわ。すれ違うのは二度目だから、少し気になっただけ」

 

答えるや否や、魔女は目を細めると、狩人の頭のてっぺんからつま先までジロジロと見た。

 

「……貴方、痩せすぎよ。ちゃんとご飯食べてる?」

 

気の抜けるような台詞であったが、狩人は鋭い表情のまま構えを崩さない。

 

「街のおせっかいなジジババどもにもよく言われる。だが、仕方ないだろ。今は不景気で仕事も少ない。絶え間なく続く戦争のせいで、森の獣もさっぱり獲れないしな」

 

「それはまずいわね。育ち盛りなのに」

 

魔女はヴェール越しでも分かるくらい、深く眉根を寄せた。「もうすぐお昼時だし、奢ってあげましょうか?」

 

「なんだって?」

 

「だから、奢ってあげましょうかって」

 

「何で俺があんたに奢られなきゃいけないんだ?!」

 

声を荒げる狩人の様子に、首を傾げる魔女。「どうしてそんなに怒るのよ」

 

「……別に怒ってはいない」

 

狩人は疲れたように肩を落とした。魔女の心臓を狙っていた銃口が、だらりと地面に向けられる。

彼女は首を捻っていたが、やがて合点がいったように呟いた。「分かった。要は施しを受けるのが嫌ということね」

 

「そういうわけじゃないが……」

 

「いいえ、最近分かってきたわ。男の子って、変なところでプライドがあるものなのよ」

 

「……」

 

狩人は何も答えなかったが、魔女は勝手に納得して話を続ける。「それなら……ちょうどいい。あなたに仕事をあげましょう」

 

「何だと?」

 

「前金でこれだけ用意するわ」

 

訝しがる狩人に、魔女はいきなり袋を投げてよこした。おそらく金貨が入っているのだろう。大きさの割にずっしりと重い袋を両手で受け止め、彼は思わずよろめいた。

 

「取りあえずその金でお腹をいっぱいにしなさい。その程度でよろめくようでは、私の仕事は務まらないわ」

 

言い方が癪に障ったのだろう。狩人は舌を打ったが、袋から溢れた金貨の輝きに見入られ、開きかけていた口を閉じる。

黙って懐に収めると、肩をすくめて訊いた。「いいだろう。誰を殺せばいい?」

 

「……何ですって?」

 

魔女の身体がぴくりと揺れる。口元に浮かんでいた楽しげな笑みが、再び消えた瞬間だった。

 

「二度も言わせるな。獲物は誰だ? これだけの金だ。よほどの大物なんだろう」

 

「貴方の言ってた、仕事って……」

 

理解の遅い魔女に苛立ち、狩人は舌を打つ。

 

「人殺しだ。当然だろう。他所様から頼まれる仕事と言ったらそれしかない。森で獣を殺す技術は、そのまま人にも使えるからな」

 

「あの女……!!」

 

魔女の形の良い唇が醜く歪んだ。彼女の怒りに呼応するように、足元から霧がもうもうと湧き立つ。

ヴェールの奥の瞳が、ギラギラと殺気を放っていた。過去と現在という仕切りを挟む王子すら、顔を青くしてたじろぐほどに。森の木々は風もないのにざわめき、パキパキと乾いた音を立て始める。

 

「落ち着けよ。何か気に障ったんなら謝罪する」

 

さすがの胆力と言うべきか。狩人は焦る様子も見せずに両腕を広げて言った。魔女は首を振り、長い溜息を吐く。すると湧き立つ霧は消え、森も何事も無かったかのように静まり返った。

 

「ごめんなさい。少し取り乱したわ」

 

長髪を指で梳いて整える魔女に、狩人はフンと鼻を鳴らす。「少しどころじゃないと思うが……なんかこの辺、急に寒くないか?」

 

「じきに暖かくなるわよ」

 

彼女は疲れた表情で俯いていたが、少ししてから狩人を見た。「頼みたいのは人殺しじゃない。熊狩りよ。この辺りの街道沿いで行商を襲っているらしくてね」

 

魔女の言葉に、狩人は訝しげに眉をひそめる。

彼の思考を先読みするように、魔女は小さく笑って付け加えた。

 

「『たかが熊ごときに金貨をこんなに?』って思ってるんでしょうけど……とんでもない。憲兵隊どもがいくら集まっても話にならなかったわ。手強い相手よ」

 

「素人が舐めてかかるからだ。そういうことは、始めからプロに任せておけばいい」

 

そう言って肩を鳴らす狩人を見て、魔女は微笑ましげに笑った。しかしまたもや唐突に笑みを消し、険しい顔で訊ねる。「貴方のお母様は何処に?」

 

「俺に親はいない」

 

「え、そうなの?」

 

「ああ。育ててくれた人はいるけどな。人というか何というか……まあ、とにかく、そいつも半年前に突然いなくなってそれきりだ」

 

「……そう」

 

魔女は再び俯いたが、今度はすぐに顔を上げる。「貴方、やっぱり私に奢られなさい」

 

「は?」

 

「いいから」

 

魔女は素早く狩人の腕を掴むと、街の方へずんずん引っ張っていった。

 

「おい、放せ! 何のつもりだ!」

 

「だから、奢ってあげるって言ってるの」

 

「いらねえよ! 放せ!」

 

狩人は訳も分からず引き剥がそうとするが、力ではまるで敵わない。

 

「まあまあ、いいじゃない」

 

「良くない! テメエ、何だこの力! 化け物か?!」

 

「当然でしょう? 魔女だもの」

 

雲間から差した日の光を受け、彼女のヴェールが一瞬だけ透けた。その悪戯っぽい菫色の瞳を見て、狩人は目を見開く。「……あ」

 

「どうしたの?」

 

足を止めた魔女に、彼はしばらく呆けていたが、やがてぼそりと呟いた。「いや、何でもない」

 

「そう。まあいいわ」

 

早足に森の向こうへ消えていく二つの人影。

 

王子は神妙な面持ちで二人の背中を見つめていたが、幻が消えるや否や、森中に響くような大声で叫ぶ。

 

「もう十分だ! 姿を現したらどうだ、『蝿の王』!!」

 

声変わりを終えていない彼の声は、ねばつくような霧の中でも遠くまではっきりと響いた。それは木々の狭間を飛び交い、木霊となって余韻を残す。

 

そして静寂が戻ったのも束の間、今まで止んでいたはずの蝿の羽音が再び鳴り始めた。より強く、より大きく、不快なほどに音が満ち、耐えきれなくなった王子は耳を塞いだ。

敵陣で両手を封じることがいかに無防備で危険なことかは理解していたが、そうでもしないと頭が破裂しそうだった。

 

涙でぼやけた視界の隅に、ざわざわと蠢く黒い影が映る。小人の村で見たものと同じだ。何処からともなく現れた蝿の群れが彼の前に集い、一つの形を成していく。

 

それは大ざっぱに人の形をしているが、人よりも大きく、また、背中には二対の羽が生えていた。

つるりとした肌は真っ黒で目は赤く、鼻と口はない。代わりに甲冑も通せそうな鋭い口吻が、地に触れそうなところまで長く伸びている。

 

「貴方が……『鏡』の正体か」

 

臆する様子を見せない王子に、『鏡』はそのぎらついた赤い目を細めた。

 

「その通り。気安く私の名を呼ぶとは、勇敢な少年だ」

 

 

 

 

 

 

 

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