GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅩⅡ 蝿の王

 

 黒雲が空で蠢き、分厚い渦を巻く。

 

絶えず耳に響く蝿の羽音は不快だが、それ以上にひどく身体が重かった。口の中が乾き、肌に感じる空気は生暖かいが、身体の内は冷たい。少しでも気を抜けば、たちまち足が震えてしまう。怯えを隠せていたのは最初だけだった。

 

だが、それも仕方の無いことだろう。何せ彼は今、この世で最も古く強力な悪魔の一人と相対しているのだ。

仮にも王族という立場であれ、醜態を晒しても誰も責めはしまい。

 

空を覆う蝿の群れだけではない。森を包む灰色の霧も、生暖かい風も、木々のざわめく音すらも、全てがかの者を中心に回っている。

 

三メートルを超えるであろう痩躯に、背中には二対の大きな羽。血のような赤い光を発する目。鋭く長い口吻。

魔の力を計るすべなどなくとも分かる。彼こそ蝿の王。彼こそ魔の森の支配者なのだ。王族の権威など、果たしてどれほどの意味があるだろう。

 

王子は反射的に一歩後ろに下がった。そしてその後すぐ、己の臆病さを恥じる。

負けてたまるか、と心の内で呟き、今度は逆に一歩前へ出た。敵を真っ直ぐに見据え、剣を低く構える。

銀の刀身を悪魔に向けたその刹那、左手の黒い蝋燭が再び強く輝いた。白く眩い光が空に湧く蝿たちを怯ませ、狭間から月の光を覗かせる。

 

「君は本当に勇敢だな」

 

一条の月の光を背に受け、蝿の王が呟くように言った。幻で聞いた声と同じ、静かで温和なものだ。

その目も不気味な光こそ帯びていたが、穏やかな知性が感じられる。

 

「だが無謀だ。私が暴食の王と知りながら呼び寄せ、あまつさえ剣を向けるとは」

 

「僕を殺す気がないことは分かっているぞ」

 

「何故そう言い切れる?」

 

蝿の王の問いに、王子は唇を舐めてから答える。

 

「貴方に殺す気があるなら、とっくにやっているはずだ」

 

「その通り。簡潔で模範的な回答だ」

 

蝿の王はまるで教師のように言った。

口元があんな形なのに、どうやって発声しているのかは定かではない。

王子は用心深く悪魔の出方を窺いながらも話を続ける。

 

「加えて……ソロモン王の書によれば、貴方は贄や対価なしに人に知識を授けてくれる、良心的な悪魔だという」

 

「……」

 

「またアイルランドに残る伝承では、基本的に争いを好まず、慎重で保身的な面があり……」

 

「分かった。もういい」

 

蝿の王は片手を前に出し、王子の言葉を遮った。

 

「少ない知見から私の正体に迫るだけはある。どうやら知識欲が旺盛なようだな。冒涜的なほどに」

 

「……え」

 

「古代イスラエル王の手記にドルイドの伝承。どちらも我らが父の教えに背く異端、魔術に関するものだ」

 

「あ、い、いえ、その……!」

 

例によって無駄に慌てふためく王子。蝿の王は目を細め、彼のことをじっと見た。

 

「魔術に興味があるのか?」

 

「違う! 僕は魔道に堕ちるつもりはない! ただ、その、知識として!」

 

「勉学が好きということか」

 

「そうです……いや、そうだ」

 

どうにか平静を取り戻し、済ました顔で答える王子。蝿の王は頷き、「素晴らしいことだ」と讃えた。

王子は咳払いをすると、再び悪魔を睨みつける。

 

「とにかく……貴方が普段は温厚で、しかし強い力を内に秘めていることは知っている。一説には魔力だけなら、かの地獄の王すらも凌ぐとか」

 

彼の言葉に、蝿の王はただ「その通り」とだけ返した。ややあって、補足するように続ける。

 

「もっと言えば、才はあるがそれを生かす器に欠ける臆病な小心者。自分より力の劣る相手にも、強く迫られると思わず下手に出てしまう。上下関係を入れ替えられ尻に敷かれても、そこに歪んだ悦びを見出す。倒錯的な癖を持つ男だ」

 

「ぼ、僕はそこまで言ってません! 文献にもそんな記述は……」

 

またもや王子が慌てふためくと、彼は小さく肩をすくめた。「分かっている。今のは単なる自己評価だ」

 

「そこまでご自分を卑下しなくても……」

 

王子はそこまで言いかけたが、はっと我に返ると、頭をブンブン横に振った。「違う! 慰めてどうする? とにかく、とにかくだ……!」

 

パニくっている王子から、悪魔はゆっくりと視線をそらす。黄金色の月を見上げ、静かに息を吐いた。

 

「落ち着け。いくら戦いを好まぬとはいえ、王妃様と主従関係にある私が何故君を殺さないのか。最初に訊きたいのはそれだろう」

 

「あう……」

 

王子は馬鹿みたいに口をパクパク動かしたあと、恥ずかしそうに俯く。「そ、そうだ。それが訊きたい」

 

「良いだろう。答えよう」

 

蝿の王は振り返り、王子に視線を戻した。

 

「正確に言うならば、殺さないのではなく殺せないのだ。もしできるのなら私は、とっくにこの手を汚している」

 

「っ!」

 

その瞬間、王子は弾かれたように飛び退った。

その赤い目から、鋭い殺気が迸るのを感じたからだ。低く身構えたまま警戒するが、悪魔にこれといった動きはない。

俯きがちにこちらを見つめ、今までと同じようにただ立ちつくしていた。

 

「確かに私は他の者より多少は温厚だ。だが、それは私の人格の一つの側面に過ぎない。……良心的な悪魔だと? 見当違いも甚だしい。聖書で学んでいるはずだ。悪魔は皆、狡猾で残忍。私とて例外ではない。魔術の師としては紳士に振る舞うが、必要に迫られればたとえ赤子だろうが躊躇いなく喰らう。口吻を突き刺し、毒液で内側から溶かしつつ、その血肉を一滴残さず啜るだろう」

 

「だ、だったら何故!?」

 

王子の叫ぶような問いに、蝿の王は微動だにせず答える。

 

「王妃様との契約が切れたからだ。もはやこの地に私の力はほとんど残されていない。森の浄化が始まっているのは、道すがら気づいていただろう?」

 

「……確かに」

 

王子が頷くと、彼は話を続けた。

 

「かつて神の御子は人類の原罪を背負って死んだ。それゆえ力ある古き悪魔は、おいそれと地上に出てくることができない。せいぜい使い魔を送り込むか、契約者に力を貸すか、魔鏡を通して覗き見るのが関の山だ。私のこの身体も蝿たちを寄せ集め、姿形だけ真似ただけの虚仮威し。君を攻撃する能力はない。残る蝿の群れを全てけしかけ、窒息死させることも頭に浮かんだが、成功する未来が見えなかった。おそらくはそれのせいだろう」

 

そう言って悪魔が指さしたのは、王子の左手にある蝋燭だった。夜空に浮かぶ星のような光を発するそれを、王子は慎重に懐に収める。

 

「どうやら貴方を買い被っていたようだ。僕のような無力な子どもに、そこまで殺意を向けるなんて」

 

あまり大きくはない王子の声に、蝿の王は喉を膨らませ、くぐもった奇妙な音を出す。どうやら笑われたらしいと気づいたのは、少し後になってからだった。

 

「無力なものか。現状、私が最も危険視しているのは君だ、エドワード」

 

「何だって?」

 

王子が聞き返すと、悪魔は躊躇うように沈黙する。しかしそれほど間を空けずに、低く呟くような声で言った。

 

「未来が見えるのだ。君がその剣で王妃様の心臓を貫き、白雪姫を救う未来が」

 

「……っ」

 

王子は思わず目を見開く。愕然とした表情で、右手に握る細剣を見下ろした。蝿の王も視線を落とし、静かに言葉を紡ぐ。

 

「いくつか浮かぶ未来の中で、最も強いものがそれだ。故に君には王妃様と狩人の過去を見せた。彼らに同情し、その剣が鈍ることを期待したのだ。君自身も彼らの過去を知りたいと望んでいたようだからな。簡単なことだった」

 

「それはどういう……」

 

「『魔の森』の霧には、魔鏡と似通った性質がある。人の見たいと望む情景を映し、心を惑わせるのだ」

 

「僕は惑わされていたのか」

 

王子の呆けた口調に、蝿の王は「その通り」と返した。王子はごくりと唾を飲み込むと、やや上擦った声で訊ねる。

 

「それで……未来は変わったのか?」

 

「いいや。何一つ変化はなかった。どうやら君の心と剣は、切り離されたものであるらしい。軍人としては理想的だな。最後の賭けだったのだが、どうやら徒労に終わったようだ」

 

そう言って首を振る悪魔の表情は、どこか悲しげに見えた。

いや、見えるのではない。実際に悲しいに違いない。考えてみれば当然である。狩人と魔女の二人を長く見守っていたのは、他でもない彼なのだから。

 

「……」

 

王子は口元をぎゅっと引き結ぶと、剣を鞘に収めた。そして俯くままの蝿の王に、一歩ずつ近づいていく。

 

その異形に気を取られてばかりいたが、よく見ればその赤い目はずっと悲しみを湛えていた。今ごろになって気づいた自分を叱ってやりたい。

霧が出始めた頃、狩人も口にしていたではないか。こちらに向けてくる感情は殺意ではなく、哀れみであると。

 

「揺るがぬ未来が見えるのは、全智全能の主だけです。貴方の見た未来を、僕は信じない」

 

王子は蝿の王を真っ直ぐ見上げ、凛とした声で宣った。もはや両者の距離は数メートルもなく、手を伸ばせば届く距離にある。

 

「惑わされようが脅されようが、僕は自身に誓った言葉は曲げません。白雪姫を助け、魔女は生け捕りにする。すでに決めたことです」

 

蝿の王は目を細め、王子の小柄な身体を見下ろした。「王妃様を生け捕りにして、お前たちに何の得がある?」

 

「狩人さんのためです!」

 

間を置かずに答える王子の声は、強い決意に満ちていた。悪魔は口吻から笛の音に似た長い溜息を洩らす。

 

「君の妄言を信じるしかない、私の現状が口惜しい」

 

「妄言などではありません。必ずお二人を救います」

 

「……」

 

彼は沈黙し、それから長いこと俯いていた。

しばらくして顔を上げると、霧が漂う虚空に腕を伸ばす。

 

「君が今、一番に気にしているのは狩人のことではあるまい」

 

「……え」

 

王子はドキッと心臓が跳ね上がるのを感じた。

蝿の王が細長い指で空気をかき回すと、そこに霧の集う丸い空間が現れる。ちょうどボールくらいの大きさで、そのままの形をきれいに保ち、宙に留まっていた。

 

「今一度覗き見るがいい。君が本当に望むものを」

 

「……」

 

王子は霧の塊と悪魔の顔を交互に見つめ、困った顔をした。彼の言わんとしていることが分からない。分からないが、ここで尻込みしていては王族の名が廃る。

王子はおっかなびっくり霧が象る玉に近づき、じっと目を凝らした。すると程なくして、その表面にぼんやりとだが、色鮮やかな情景が浮かび上がる。

 

おそらく何処かの城の中庭だろう。大きな噴水のある庭園で、アーチに絡みついた赤い薔薇や、磨き抜かれたタイルが美しい。燦々と降り注ぐ日の光の下で、全てが色鮮やかに輝いている。

 

眩しさに目を細めていた王子は、ふと大理石に縁取られた花壇に視線を向けた。その隅に腰かけ花を摘む、一人の少女が見えたからだ。

美しい黒髪に、空を映したような青い瞳。血のように赤い唇。

 

「白雪姫……?」

 

王子は目を瞠るが、すぐに首を傾げた。

記憶に残る彼女より、少し幼く見えたからだ。簡素な白いドレスに身を包んだ姿は、妖精のように可愛らしい。

 

「おそらく数年ほど前の光景だな」

 

蝿の王は霧の玉を見つめつつ、ちらりと横目で王子を見やる。

 

「優先すべきは白雪姫の現在の安否だろうに。何故過去を映したのだ?」

 

「え……え?」

 

再びしどろもどろになる王子。「ぼ、僕の見たいものが映せるんですか?」

 

「そう言わなかったか?」

 

「言われたような……」

 

彼が自信なさげに言うと、蝿の王は溜息をついた。

 

「私の説明不足は謝ろう。だが……分からないなら訊けば良いだろうに」

 

悪魔のこの言葉に、王子は少しだけ顔を赤くする。

 

「わ、分かりました。じゃあ訊きますけど、幻や霧なんてどうやって操るんです? 僕は魔法使いじゃありません」

 

彼が訊ねると、悪魔はわずかに首を傾げた。

 

「これは魔法と呼べるほどのものではない。故に何も難しいことはないはずだ。己の心を定め、強く念じれば良い」

 

「強く念じる……」

 

彼の言葉をオウム返しに呟いたあと、王子は霧の塊に向き直る。そこで集中するべく瞼を閉じようとしたが、不意に映った別の人影に目を奪われた。

噴水の前を横切るように歩く、狩人と魔女の二人だ。二人とも今とほとんど姿が変わらず、それゆえ一目で気づくことができた。

 

白雪姫はふと顔を上げ、狩人の姿を不思議そうに見つめる。近くに数羽の小鳥たちが舞い降り鳴き声をかわすが、そちらに気づく様子はない。

白雪姫の視線に気づいて顔を向ける狩人。

眉をひそめて彼女を見返すが、すぐに顔を背けた。

 

「こっちにガン飛ばしてるあのガキは何だ?」

 

狩人の問いに、魔女はそちらを見もせずに答える。

 

「先代の女王の娘よ」

 

「あの小娘が?」

 

「そうよ。待ち望まれた王の子、可愛い可愛い白雪姫」

 

魔女は唇を歪めて歌うように言った。

狩人は眉間に皺を寄せ、彼女の横顔を見つめる。

 

「まさか義理の娘に嫉妬してるのか?」

 

「……してないわよ」

 

「ならいいが」

 

狩人は肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。渡り廊下から城内へと消える二人の背中を、白雪姫は瞬きもせずに見つめている。

 

王子はそこで頭を振ると、集中するべく目を閉じた。

過去の光景など見ても仕方がない。今性急に知るべきは白雪姫の安否。囚われている場所。近くにいる敵の数。そんなところだろう。

ここでそれらの情報が得られれば、作戦の遂行に大いに役立つはずだ。利用しない手はない。

 

「……頼む」

 

王子は呟き、集う霧に手をかざした。するとその中に光と影が踊り、先ほどとは別の景色が映る。

 

おそらくは城内の一室。窓際に座る一人の女性が、鳥の骨で作られた大きな針を器用に操り、毛皮のマントのようなものを縫っていた。

窓の外にはしんしんと雪が積もり、日の光は分厚い灰色の雲に阻まれている。蝋燭の明かりだけが、女性の手元を照らす唯一の光だった。

彼女は線が細く、目鼻立ちも整っていて美しいが、あまり顔色が良くないように見える。

 

「何をなさっているのです?」

 

廊下の暗がりから、別の人影が姿を現した。

灰色のローブを身に纏い、黒いヴェールを顔に垂らした魔女だ。女性は振り返って彼女の姿を認めると、柔らかく微笑む。

 

「あの人に贈る外套がもうすぐできそうなの。鎧の上からでも羽織れるような大きなものよ。もうすぐ戦争が始まるから、急がないと」

 

「お身体に障ります。ベッドにお戻りください。ただでさえ今朝は冷えるのです」

 

魔女の言葉に、女性は申し訳なさそうな顔をした。

 

「ごめんなさい。でも、何かしていたいの。私だけ寝ているだけのお荷物なんて嫌ですもの」

 

「……」

 

魔女は沈黙していたが、少ししてから溜息を吐く。片手を上げて指をパチンと鳴らすと、壁際にある暖炉の火が独りでに燃え上がった。

パチパチと薪が爆ぜ、部屋が暖かな緋色に染まる。

 

「侍従たちは一体何をしているのかしら。暖炉の火ぐらい見る時間はあるでしょうに」

 

魔女のネチネチした文句に、女性は口元に手を当ててくすくすと笑う。

 

「責めないであげて。みんな戦争の準備で忙しいのだと思うわ」

 

「そうでもありませんよ。大雪のせいで、両軍ともに膠着しているのですから」

 

「あら、そうなの?」

 

「ええ、皆退屈しているくらいです」

 

魔女が肩をすくめると、女性は物憂げな視線を窓の外に向けた。

白くか細い息が、ガラスをうっすらと曇らせる。

 

「一時でも戦いが止むのなら、雪もそう悪くはないわね」

 

「そうでしょうか」

 

「そうよ。きっと神様の計らいだわ」

 

「……」

 

魔女は何か言いたそうに口を開けたが、結局何も言わずに閉じた。

 

「あっ」

 

女性が突然声を洩らし、針を冷たい床の上に落とす。その指先から真っ赤な血が垂れ、床の絨毯にポツポツと染みを作った。

 

「何をなさっているのですか! まったくもう……」

 

魔女は呆れつつも、ベッドの横のテーブルまで早足に歩いていく。置かれた薬箱を取るためだろう。

しかし女性は「大丈夫」と一言呟くと、側にあった布きれを自分で指に巻いた。

 

「すぐに止まるわ。私うっかりさんだから、こういうケガは慣れっこなのよ」

 

「もっと気をつけてください」

 

「ごめんなさいね」

 

彼女は困ったように笑いつつ、再び窓の外を見る。一面の雪景色と、窓縁のくっきりした黒とのコントラストに目を細め、何かを小さく呟いた。

 

「……雪のような白い肌」

 

「は?」

 

聞き返す魔女に、女性ははにかむような笑みを見せる。お腹にかけた毛布の小さな膨らみを、愛しげに撫でてから言った。

 

「この子への願いを込めていたの。肌は雪のように白く、髪はこの窓枠のような黒で、唇は……この血のように、綺麗な赤になりますようにって」

 

「あれ??」

 

霧の映す幻を黙って見ていた王子は、思わず間抜けな声を出す。

違う。これは現在の光景ではない。また過去だ。しかも、さっきより遡っている。なにせここの白雪姫は、まだ母親のお腹の中にいるのだ。

……なんとなくそんな気はしていたのだが、ついつい見入ってしまっていた。

 

様子を見守っていた蝿の王は、ぼそりと呟くように訊ねる。「もしかしてわざとやっているのか?」

 

「ち、違います」

 

「なら、やり直した方がいい。あまり悠長にやっていると時間がなくなるぞ」

 

「分かってますよ、そんなこと! 言われなくたって!!」

 

意味もなく逆ギレしながら、王子は再び霧に手をかざした。「今度こそ……!」と口の中で呟き、瞼をぎゅっと閉じる。

三度目の正直と言うべきか。このとき現れた光景こそ、白雪姫の現在だった。石壁に囲まれた独房で、床にはうっすらと藁が敷かれている。盛り上がった藁束の山の上で、彼女は子鹿と一緒に眠りについていた。

 

「良かった。元気そうだ。ケガもしていない」

 

ほっと息をつく王子に、蝿の王は頷く。「ああ。そのうえ、可愛らしい友人も一緒のようだ」

 

「場所は地下ですか?」

 

「そのようだな。しかし月の光が差しているから、地上に近い場所だろう。おそらく城の中央付近、中庭の下辺りだ」

 

月明かりを映した石畳の冷たげな光に、王子は表情を引き締める。「きっとものすごく冷えるでしょう。すぐ助けに行きます!」

 

素早く踵を返す王子に、悪魔は「待て」と呼び止める。振り向いた王子に彼が何かを伝えようとした、そのとき。

 

霧の渦巻く大気を銃声と、銀の弾丸が貫いた。

 

「あ……」

 

呆気に取られる王子の前で、脳天を撃ち抜かれた蝿の王の身体が崩れ落ちる。

地面に着くや否やというところで、黒い塵を思わせる蝿の群れとなり、宙へと舞い上がった。

 

「おい、無事か?!」

 

駆けつけてきた狩人が、王子の肩をわし掴む。

焦って力加減を間違えているのか、骨の軋む感覚を覚えた。「狩人さん、痛いです」

 

「あ、すまん」

 

あっさり手を離した狩人と入れ替わりに、今度は『おとぼけ』が王子の前にやって来る。

彼の瞳を正面からまじまじと見つめ、ホッとしたように言った。「魔法もかけられてないよ。大丈夫」

 

「ならいいが。何もされてないのは逆に怖えな」

 

手早く銃の装填を終え、周囲を睨みつける狩人。まだ悪魔が近くにいると信じて疑っていないようだ。

だが彼の警戒とは裏腹に、蝿の群れが成す黒雲も灰色の霧も消え、金色の月明かりが美しく夜の森を彩っていた。

 

「ゼエ、ゼエ……」

 

苦しげな息を吐きながら、『怒りんぼう』と『くしゃみ』が遅れて現れる。狩人は一言「走り込みが足りんな」と呟いた。

 

「……」

 

王子は気まずそうに黙っていたが、ふと肩に止まった一匹の蝿に気づく。彼は狩人たちに聞こえぬよう口を近づけ、小さな声で囁いた。

 

「ありがとうございました。……どうか、お元気で」

 

蝿は軽く頭を揺すると、弱々しい羽音を立てて飛び去っていく。

 

「今、誰に喋ってたの?」

 

『おとぼけ』が王子に訊ねたが、彼は困ったように微笑むだけで、何も言わなかった。

 

 

 

 

 かつての遠い記憶。

どんよりとした曇天の城の中庭で、魔女は狩人と向かい合っていた。

 

「今度、王に貴方を紹介しようと思うのだけど」

 

身体は大きいが、まだまだ肉付きは良くない狩人に、魔女は微笑みながら告げる。

 

「貴方みたいなのは気に入られると思うわよ。先月の熊退治も上手くやってくれたしね」

 

かの曇王に謁見という栄誉ある機会にも、狩人は特に表情を変えなかった。むすっとした顔で、黙って魔女を見返している。

彼女は首を傾げると、狩人の頭を軽く小突いた。

 

「喜ぶ素振りくらい見せたらどうなの? そんな仏頂面しちゃって。何が気に入らないわけ?」

 

「あの毛皮をどうする気だ?」

 

ようやく口を開いた狩人に、魔女は眉をひそめる。

 

「貴方が献上した熊の毛皮のこと? あれは随分見事な品で、みんな驚いていたわよ。王妃様が喜んで引き取っていったわ」

 

「王妃が? 何に使うんだ?」

 

「知らないわよ。何でも王様のために服か何かを仕立てるつもりらしいわ」

 

「王妃がそんなことするのか?!」

 

目を丸くする狩人に、魔女は事もなげに頷いた。

 

「この辺りの貴族はそういうことができる連中が多いのよ。身体が弱い人だから、何年かかるか分からないけれど」

 

「そうか。まあ、無駄にしないならいい」

 

狩人は頷き、いくらか表情を柔らかくした。

魔女は気を取り直し、再び謁見の話を持ち出す。

 

「疑問が解けてすっきりしたところで……さっきの話、もちろん受けるわよね?」

 

「それは断る」

 

「何でよ!」

 

ほとんど怒鳴るような声で魔女が言った。

狩人は素早く周囲に視線を走らせたあと、彼女に顔を近づける。

 

「どうせあんたは気にしてないんだろうが……王宮内での評判を考えろ」

 

「ハア?」

 

魔女は顔をしかめ、片手をひらひらと振ってみせる。「貴方を王様に会わせたから何だって言うの。 私は魔女よ? 王宮での悪評なんて慣れっこだわ」

 

「そこが問題なんだろうが」

 

狩人はそう前置きし、真剣そうに話を始める。

 

「ただでさえ肩身の狭いあんたが、素性も分からんガキを公然と王に会わせてみろ。貴族連中はこぞってあんたを馬鹿にするぞ。互いの弱味を握ったり揚げ足を取ることしか頭にない奴らだ。そんなアホどもの玩具にされるのは嫌だろ」

 

「別に構わないけど? さっきも言ったけど、慣れてるの」

 

けろっとした顔で宣う魔女を、狩人は鋭い目で見た。おもむろに腕を伸ばし、その顔を覆うヴェールを取り去る。

冷たく光る菫色の瞳が、狩人をじっと見据えた。

 

「……何するのよ。顔に日の光が当たると、皺とかシミが増えちゃうじゃない」

 

「歳相応になっていいだろ」

 

「何ですって? 今何て言ったの? ちょっともう一度言ってみなさいよ??」

 

喧嘩腰で迫る魔女の顔面に、ヴェールを投げてぶつける狩人。舌を打つ魔女を横目に、狩人は言い放った。

 

「俺に嘘が通じると思うな。特に、あんたは嘘が下手くそだ」

 

「何なのよ……」

 

魔女はぶつぶつ悪態をつきながらヴェールを付け直す。狩人はそっぽを向くと、気怠げに壁に背中を預けた。

 

「耳を澄ましていなくても聞こえてくる。貴族どもってのは本当に馬鹿ばかりだ。有能な連中の足をこぞって引っ張りたがる。聞くに堪えない嘘八百や誇張話を並びたててな」

 

「嘘でも誇張でもないわ。私は古き悪魔と契約を交わした悪い魔女。それ以上でも以下でもない」

 

「この国にはもっと得体の知れない連中なんていくらでもいるだろ。カトリックだの何だのだって、大して力を持ってないじゃないか。この国で信じられてるのは、神じゃなくて王だろう?」

 

「それが何よ。文句言っても仕方ないじゃない。政治ってのはそういうものなの」

 

魔女が不愉快そうに鼻を鳴らすのを、狩人は横目でじっと見ていた。「殺してやろうか?」

 

「何ですって?」

 

一瞬たじろいだように見えた魔女に、狩人は鋭い笑みを向ける。「あんたの敵を、殺してやる」

 

「……やめなさいよ。くだらない」

 

「皆殺しにしてやるよ」

 

狩人は魔女に正面から向き直った。飢えた狼のような獰猛な笑みが、彼の口元を深く歪める。

 

「狐狩りだの何だので、連中が森に出る機会なんていくらでもある。そうなりゃこっちのもんだ。簡単に殺せる。護衛なんて何人いようが関係ない。むしろ数が多けりゃ、事故に見せかけることだって……」

 

「やめなさいって言ってるでしょう!」

 

魔女の平手が狩人の頬を打った。彼はよろめきかけたが、何でもないかのように静かに魔女を見返す。

 

「俺に学はないが、森の獣を狩り続けて分かったことがある。人も獣だ。違いなんてない。華美な衣装も詩人の賛美も、剥ぎ取っちまえば醜悪な肉の塊だ。むしろ人は数が多い分、狩り過ぎる心配をしなくて済む。そうだろ?」

 

魔女はぷるぷると肩を震わせ、狩人を睨みつけていた。ヴェールの下に見える唇は歪み、歯軋りまでしている。

 

「まったく、親の顔が見てみたいわね!」

 

「……」

 

狩人は珍しく神妙な顔で、ぼそりと呟いた。「役に立ちたいんだ」

 

「しつこいわよ。そんな汚れ仕事、貴方みたいな痩せこけたガキに期待してない」

 

魔女はフンと鼻を鳴らし、煩わしげにそっぽを向いた。狩人は彼女の背中をじっと見つめ、ぼそりと呟く。

 

「そう言って、また俺を捨てるのか」

 

「え?」

 

魔女ははっと息を呑んで振り返る。狩人の顔からは表情が失せ、その目はただ冷たく、ギラギラとした光を放っていた。

 

「なってやるよ。あんたの犬に」

 

 

 

 

 街が見渡せる城の外壁に面した部屋で、魔女は短い仮眠から目を覚ました。眉間の皺を指で伸ばしつつ、大きなベッドから上体を起こす。

 

「……最悪な夢」

 

呻き、天幕を横に払ってベッドから抜け出した。

窓の外に目を向けると、地平の向こうから迫る黒々とした積乱雲が見える。

 

「ちょうど一週間。予定通りね」

 

ニヤリと笑う魔女。ふと視線を落とし、ベッドの縁に止まった一匹の蝿に気づいた。しきりに羽を擦りながら、じっと彼女を見返している。

魔女は顔をしかめ、シッシッと腕を振って追い払った。蝿は慌てて飛び立つと、わずかに開いた窓の隙間から外に出ていく。

 

「フン」

 

彼女は煩わしげに鼻を鳴らすと、窓をぴしゃりと閉め切った。

 

 

 

 

 

 

 

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