33話がさすがに長すぎたんで分割しました。
鎖が手首に食い込む冷たい感触に、白雪姫は目を覚ました。
はっと目を開けると、透き通るように磨かれた黒い石の床が視界に映る。
「……?」
彼女は目を瞬き、わずかに首を傾げた。重苦しい身体に鞭打って上体を起こし、辺りを見回す。
暗くてよく見えないが、両の手首に巻きついた鎖は錠で繋がれ、背後にある何か大きなものに括られているようだった。
ぼやけた視界を何とかしようと、ぐっと目を細める。さっきまでいたはずの牢屋とは明らかに様相が異なっていた。
暗さでは良い勝負だが、空気に独特の湿り気がない。おまけに床の石材は多少の埃こそ被っているものの、牢のそれのような粗雑な造りではなかった。
暗闇に紛れているが天井は高くドーム状に広がっており、それを支える柱が均等に並んでいるのが辛うじて見える。それなりに広い場所のようだ。城の大広間ほどではないが、その半分くらいはあるかもしれない。
目覚めたばかりの白雪姫は視覚同様、その思考にも靄がかかっていたが、それでもこの光景にはどこか既視感を覚えた。
彼女は必死に頭を回し、周囲の景色と自分の記憶とを重ねようとする。
ちょうどそのとき、雲から抜けたばかりの眩い月が、建物に青白い光を投げかけた。
壁や天井に張られたステンドグラスを通し、月光は屋内に七色の虹のような彩りを与える。
「!!」
闇の中に浮かび上がった内装に、白雪姫は目を見開いた。
ここは城の中庭にある礼拝堂だ。幼いときに何度か忍び込んだことがあるが、ここ数年は近寄ることすらなかったため記憶が薄れていた。
倒れた燭台や規則正しく並ぶ長椅子、柱に彫られた天使の像にすら埃が積もっていたが、壮麗な造りはかつてのままだった。
しかし、彼女が驚いたのはその美しさのせいではない。眼前にある、台座と同じ黒い石で作られた寝台に横たわる、一人の人物のためであった。
重々しく古びた甲冑に身を包み、豊かな髭をたくわえたその顔は巌のように厳しく精悍であるが、灰色ののっぺりとした肌には生気が感じられない。瞼は穏やかに閉じられ、眠っているように見える。
「お父様!」
ガシャン、と鎖が大きく音を鳴らした。白雪姫は彼に駆け寄ろうとしたが、拘束が邪魔をする。
振り返った彼女が見たのは、ステンドグラスを背に厳かに佇む十字架だった。彼女の両手首を縛る鎖はそこから伸び、氷の剣で楔が打たれている。
十字架は重厚な石材で造られた大きなもので、根元から台座に固定されていた。間違っても気軽に抜いたり担いだりできる代物ではない。
それができそうな小人を一人知っているが、あいにく彼は今この場にはいなかった。
「歯痒いでしょうけど、貴女には何もできないわ」
冷笑を含んだ声に、白雪姫の顔がさっと青ざめた。しかし怯えは一瞬、すぐに表情を引き締めて声のした方に振り返る。
十字架や寝台に面して並ぶ長椅子の一つに、優雅に腰かける魔女の姿があった。水色の唇の端を意地悪く吊り上げ、余裕の笑みを浮かべている。
「その男は私のものなの。私の人形よ。動くも壊すも、眠らせるのだって、私の意のまま」
歌うように言葉を紡ぐ魔女に、白雪姫は敵意のある目を向けた。
そんな視線を誰かに向けたのは初めてだったかもしれない。魔女は彼女の怒りに気づくと目を細め、おもむろに立ち上がる。
「少なくとも貴女のものではないわ。それだけは確かよ」
「どうしてそんなことが言えるのですか?」
白雪姫の問いに、魔女はただ長い溜め息をついた。奇妙なことに、その表情からは嘲りの調子が消えている。
魔女は大股に足を上げて台座に上ると、彼女の元に近づいてきた。白雪姫は身構えるが、魔女の用は曇王の方にあったらしい。寝台の前までやって来ると、愛おしげな手つきで彼の生気のない頬に触れる。
「貴女がいくら酷い目にあっても、この人の目は醒めないからよ」
「そんなこと……」
「嘘だと思う? 私だってそう思うわ。今でもね」
魔女は軽く肩をすくめ、彼女の方に顔を向けた。
その菫色の瞳を間近で見たとき、白雪姫は気づいた。今この瞬間、彼女が自分に向けている感情は嫉妬でも怒りでも、蔑みですらない。それはただ純粋に、哀れみであった。
「貴女を革紐で宙吊りにしたこと、覚えてる?」
「え……」
突然の魔女の問いに、白雪姫はきょとんとした。
魔女は眉をひそめ、「まさか忘れてはいないわよね。アイツじゃあるまいし」と呟いたあとに言葉を続ける。
「あのときこの人も一緒だったのよ。小人どもが邪魔してくるのは予想していたから、護衛役にと思ってね。予想外だったのは、痛めつけられる貴女を見ても、何の反応も示さなかったこと」
「……っ」
白雪姫の息を呑む音が、やけに大きく礼拝堂に響いた。魔女はしばらく沈黙し、再び王の寝顔に視線を向ける。
先ほどと違うのは、その目に情愛の色が窺えないことだ。
「櫛を頭に刺したときも、毒りんごを食べさせたときも、彼は一切動かなかった。動揺すらしなかった。アイツに……狩人に喧嘩を売られたときくらいよ。自分から動いたのなんて」
「そ、そんなのっ!」
「嘘だと思うのは貴女の勝手よ。でも、本当は気づいていたでしょう?」
「……」
膝から力が抜けていくのを、彼女ははっきりと感じた。身体は重苦しく、顔を上げていることすらできなくなり、俯いて台座の床を見つめることになる。
「私はお父様から……愛されていなかった?」
絶望しきった白雪姫の自問に、意外にも魔女は「違うわ」と一言返した。彼女が顔を上げると、魔女は肩をすくめてみせる。
「男はね、女と違って大切なものに優先順位がつけられないの。だから滅茶苦茶なことばかりするし、傍からは馬鹿にしか見えない」
「……」
白雪姫はぼんやりと魔女の顔を見上げていた。
不思議な感覚だ。自分たちは義理とはいえ母と娘のはずだが、こうして本音を交わしたことなど一度もなかった気がする。
「そう、貴女は愛されていた。だからこそ私は、貴女が憎くて仕方が無い」
次の瞬間、ぞっとするような寒気を覚え、白雪姫は思わず身体を縮こまらせた。見れば魔女を中心に青白い霧が渦巻き、底冷えするような冷たい空気が漂ってくる。
否、最初の寒気は気温によるものではなく、彼女の殺気だろう。白雪姫を見下ろす彼女の瞳には暗い光が宿っている。奇しくもそれは、狩人のものによく似ていた。
「貴女の存在が気に入らないの。貴女が私の国でこうして息をしているという事実だけでも、耐えられそうにない」
「私が何をしたと言うんですか!」
寒さと恐怖で震えが止まらないが、負けじと声を張り上げる白雪姫。
魔女は残酷な笑みを浮かべ、寝台の横を過ぎて彼女に一歩ずつ近づいていった。距離が縮まるたびに、異常な冷気が容赦なく彼女の肌を刺す。
「そんなの決まっているでしょう? 貴女が私より美しいからよ」
「こ……こ……」
喉は渇き、唇はひび割れ、肺は呼吸を拒んだ。
文字通り呼吸すら容易ではないが、それでも白雪姫は気合いで叫び声を出す。
「この顔を潰せば、私や小人さんたち、みんなを生かしてくれるんですか?!!」
お姫様が口にするにはいささか物騒な言葉が、まさに雷鳴のように礼拝堂に轟いた。魔女は閉口し、奇妙なものを見るような目を白雪姫に向ける。
彼女の周囲を取り巻く冷気は、何事もなかったかのように静まっていた。
「そういう啖呵を聞くと、やっぱりあの人の子どもなんだなあって思うわよ」
魔女はしみじみとした口調で言うが、彼女を見下ろすその目にはまだ殺気があった。
「でも、だからこそやらなきゃいけないの。まだ試していない最後の一手をね」
言うが早いか、魔女は虚空に片手を上げる。すると彼女の頭上に霧と冷気が集い、一振りの氷の剣が形作られた。
その切っ先は寸分違わず白雪姫の胸に向いている。
「今までとは違うわ。もう回りくどいことはしない。遊んでいる時間がないもの」
「一体何を?」
「何をするかって? 見れば分かるでしょう」
魔女は馬鹿にするように鼻を鳴らした。「貴女の命を奪う」
「!」
白雪姫は目を見開き、虚空に浮かぶ透明な剣を見た。ステンドグラスから溢れる光に透かされたそれは、虹を帯びたように美しい。
あの剣が今から一直線に飛び、私の心臓を貫く。
その光景を頭に描くが、不思議と恐怖は感じなかった。いずれは自分の番だと、常々覚悟していたからかもしれない。
寒さで死ぬのは苦しいしお腹も減るだろう。だが剣による苦痛なら、運が良ければ一瞬で過ぎる。そう思えば尚更だった。
「お父様の心を取り戻すために、私を殺すのですか?」
白雪姫が静かな声で訊ねると、魔女はピクリと眉間を動かす。「まあ、そうね。その解釈で概ね正しいわ」
魔女の返答に、彼女は静かに頷いた。漠然とではあるが、ようやく継母のやりたかったこと、そしてこれからやらねばならぬことが理解できた気がした。
思えば遅すぎたのかもしれない。もっと早く彼女を理解しようとしていれば、こんなに大勢の人に迷惑をかけることもなかったのだ。
「私は死を拒みません」
両腕を広げ、穏やかな口調で宣う白雪姫。
魔女が不機嫌そうに眉をひそめたのにも気づかず、己の信念のままに言葉を紡ぐ。
「父が蘇れば、少なくともこの国の民たちは救われる。私の命一つでそれが叶うなら、悔いはありません」
「殺されても構わないということね」
魔女の冷たい声に、白雪姫は思わず身震いした。
しかし彼女の目を真っ直ぐに見返し、無言で頷いてみせる。
「……」
魔女は一言も発することなく、上げた腕を振り下ろした。白雪姫はぎゅっと瞼を閉じ、己の死を覚悟する。
氷の剣が風を切る音を聞いた気がした。続いて、左肩にじわりと熱が広がるのを感じる。
「……?」
おそるおそる片目を開けた白雪姫は、自分の命がまだあることに気づいた。肩にできた浅い切り傷、そして背後の十字架に突き刺さった剣を見て、どうやら攻撃が外れたようだと悟る。
「死んだら、そこでおしまいなのよ」
魔女は白雪姫に背を向けた。その肩が小さく震えているのを、彼女は見逃さない。「お義母様……」
「お黙り! 私は貴女の母親じゃない! 私にそんなもの務まらない!」
魔女の取り乱した叫びは、城の中での彼女しか知らない白雪姫には想像もつかないものだった。彼女は氷のように冷たく情けのない、残酷な女王だったのだ。
少なくとも、ついさっきまでは。
「納得できるわけないでしょう! どいつもこいつも何やら悟ったような顔をして遠くへ行ってしまう! 私を……私は……!!」
慟哭にも似た声を洩らす魔女に、白雪姫は呟くように言う。自分でも驚くほどに穏やかな声だった。
「やはり、父は病で死んだのですね。貴女が殺したわけではなかった」
「……」
魔女は一言も発さぬまま、彼女にしばらく背を向けていた。振り返ったときには普段の冷酷な顔つきに戻っていたが、彼女の宝石のような青い瞳を見て、微かに眉を上げる。「……父親似なのね、貴女」
「え?」
思わず聞き返す白雪姫に、魔女はうっすらと微笑んだ。「お妃様には似ても似つかないと思っていたけど、今分かったわ。目の輝きが、昔のあの人にそっくり」
魔女は白雪姫の前まで来ると、その頬に優しく触れる。細く白い手は冷たかったが、同時にどこか暖かく感じた。矛盾しているが、そうとしか形容できない。
白雪姫が口を開こうとした矢先、建物の外で兵士たちの罵声が微かに響いた。
「奴らが来たわね」
にやりと笑い、彼女の傍から離れる魔女。
十字架に突き立った剣を力任せに引き抜くと、出口に向かって颯爽と歩いていく。
「待ってください!」
白雪姫が叫ぶと魔女は一度だけ足を止めるが、発する声は冷たかった。「いいえ、待つのは貴女よ。ここにいなさい。奴らを誘き出す餌になってもらうわ」
「……ッ」
白雪姫は悔しげに歯を食いしばる。魔女は彼女に背を向けたままだったが、再び歩き出す前に言った。
「お妃様が命を賭してまで、貴女をこの世に残す意味が分からなかった。正直に言うと、今でも分からない。私は人間じゃないし、母親にもなれなかったから」
「それは……」
白雪姫は言葉を続けようとするが、魔女は首を振るとそのまま歩を進める。再び月が陰り、闇が満ちていく礼拝堂を過ぎ、分厚い黒雲が立ち込める夜空の下へと出ていってしまった。
おそらく全ては覚悟のうえなのだろう。だが彼女が行く道の先に何が待つのか。想像するだけで、白雪姫は心の臓に重い枷をかけられたような心地がした。
手首に巻かれた鎖など、その重さの前には大したことではなかった。