GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅩⅥ 伏兵

 

「行かせて良かったのですか?」

 

隣から聞こえてきた女の声に、狩人は猟銃を装填しながら応じる。

 

「ああ。あそこからは白雪姫の匂いしかしない。魔女の気配は近づけばすぐに分かるし……俺にとっちゃむしろ流れ弾で死なれる方が怖いな」

 

「確かに。戦場での死因の大半は流れ弾ですからね」

 

「へえ、よく知ってるなあんた」

 

狩人は感心したあと、眉をひそめて隣を見た。

次の瞬間、そちらに向けて勢い良く銃を構える。「おいちょっと待て、誰だお前は! いつからいた!?」

 

「ずっといましたよ」

 

暗灰色の革服に身を包んだ女は、向けられた銃口をやんわりと手でいなした。

 

「驚かせてしまってすみません。ウォルシンガム卿のご命令で、貴方たちに陰ながらご助力を」

 

「ウォルシンガム卿だと?」

 

誰だっけそいつ、と心の中で呟きながら、狩人は女の顔をじっと見た。彼女がフードを外すと、その特徴的な黒い肌が顕わになる。

月明かりは雲に遮られまばらだが、この距離なら見間違うはずもない。

 

「……あの女にエグい飛び蹴りかましてたヤツだな。思い出した」

 

「恐縮です」

 

密偵の女ははにかむように笑った。

やがて表情を引き締めると、ベルトからリボルバー拳銃を引き抜く。「『怒りんぼう』さんが敵に囲まれているようなので、加勢に参ります」

 

「必要ない。大人しくしてろ」

 

「え? いえ、しかし……」

 

密偵は遠慮がちに言い返そうとした。

だがちょうどそのとき、「ぶえっくしょおおん!!」と向こうで轟いた爆風が、『怒りんぼう』と彼を囲む傭兵たちをもろともに吹き飛ばしてしまう。

 

「あのイカレ野郎、またやりやがった」

 

苦々しげに呟く狩人。密偵の女は先ほどの王子と同様に顔を青くしていたが、少しして狩人の服を強く引いた。「お、落ちてきますよ!」

 

「あ?」

 

訝しげにしながらも、狩人は襟の後ろを引かれるままに噴水から距離を取った。

間を置かずに『怒りんぼう』がそこに落下し、派手な水飛沫を上げる。

 

「おい、気をつけろ。火薬が湿気たらどうするんだ」

 

「俺に言うんじゃねえよ……」

 

呻きながらも何とか水辺から這い上がろうとする『怒りんぼう』。密偵の手を借りて石畳の上に膝をつくと、気怠げな目つきで悪態を吐いた。「くそったれ。敵はまだいんのか? 」

 

「今確認してる」

 

狩人は目を閉じて敵の気配を掴もうとしたが、「全員倒したよー!」という『おとぼけ』の間延びした声が耳に届くと、拍子抜けした顔で呟く。「だ、そうだ」

 

「そいつは何よりだぜ」

 

小人は荒々しく息を吐いてから言った。

よく見れば彼の身体は血まみれで、身につけた兜や鎖帷子はほとんど壊れかけている。

 

「……大丈夫か?」

 

「ああ、どうってことねえよ」

 

『怒りんぼう』は頭を振って起き上がろうとするが、ふらついて倒れかけた。

密偵の女が背中を支えるが、その小柄な身体に見合わぬ重さに彼女までよろめいてしまう。

 

「少し休んでろ」

 

狩人はそう言って猟銃の具合を確かめたあと、後ろを振り返った。

その鋭い目は、渡り廊下から城内に通じる扉を捉えている。「増援が来るとしたらあそこからだ。さっきから微かに音がする」

 

「確認します」

 

密偵の女は身を翻し、音もなしに廊下を滑るように移動した。瞬きする間もなく扉の前までやって来ると、わずかな隙間から中を覗こうとする。

だが何を思ったのか、突然弾かれたように真横に飛び退った。

 

「はあぁんっ!」

 

一瞬遅れて扉が砕け散り、奇声を上げながら白い影が転がり出てくる。

よく見れば、否、よく見るまでもなく、その人影は明らかに彼らがよく知る人物であった。

 

「よう、遅かったなボケナス」

 

狩人が冷たく言うと、槍の騎士は顔を上げてにっこりと笑う。「これはこれは。ご無事で何よりです」

 

「お前のおかげじゃないけどな」

 

なおも冷たく言い放つ狩人だったが、やがて大破した扉の先に目を向けた。「誰と遊んでたんだ。衛兵か?」

 

「いえ、城内の衛兵たちは全て無力化しました。『照れ屋』さんの援護のおかげです」

 

「じゃあ何と戦ってんだよ……」

 

胡乱げに顔をしかめる狩人であったが、木っ端微塵になった扉を跨いで現れた人影を認めたとき、その目が大きく見開かれる。「……!」

 

雲間から洩れる月光に最初に照らされたのは、鮮やかな赤いマントと頭巾だった。目深に被っているせいで顔はよく見えないが、胸元を隠すように下がる長い髪やくびれた腰つきを見るに女性に違いない。

背丈は魔女と比べればやや低いが、肩には狩人のものとよく似た猟銃を担いでいた。

 

「お前ら、伏せろ!」

 

狩人は鋭く叫ぶと同時に、銃口を頭巾の女に向ける。彼女の方もまた猟銃を手元でくるりと回し、片手で狩人に狙いを定めた。

 

轟く二つの銃声。

ほとんど同時に放たれた散弾は、一方は渡り廊下の柱を、もう一方は狩人の頭上の女神像に命中する。胸部を大きく欠損するも、やはり女神は笑みを崩さない。

 

「おら、そんなとこで寝てんな! さっさと立て!」

 

地面に伏せたままの『怒りんぼう』の尻を蹴りつつ、狩人は次弾を発砲した。

頭巾の女は鋭く地を蹴りこれを回避しつつ、廊下から庭園に飛び出す。

 

間髪入れずに『おとぼけ』が放った矢の雨が降り注ぐが、女はまるで矢の落ちる場所が分かっているかのように左右に俊敏に動き、掠ることもなく躱しきった。

 

「旦那が伏せろって言ったんじゃねえかよ……」

 

ぶつくさ文句を言いながら立ち上がる『怒りんぼう』。槍の騎士は彼に肩を貸して遮蔽物の影に座らせると、狩人の元に戻ってきた。

 

「チッ、当たらんな」

 

装填を終えて早々二発とも撃ち尽くし、狩人は舌を打つ。

頭巾の女は人とは思えぬ敏捷さで木々の間を駆け抜け、彼の銃や小人の弓の照準を散らしていた。

 

「お知り合いではないのですか?」

 

おもむろに口を開いた騎士に、狩人はピクリと眉を動かす。いったんは口を開くが、結局何も言わずに閉じた。

 

「感動の再会、とは行きませんか」

 

おそらくは独り言であろう言葉をぼそりと呟く槍の騎士。そのとき初めて、狩人は暗く鋭い瞳を真っ直ぐ彼へと向けた。「お前、一体……」

 

「おっと失礼。聞かれてしまいましたか」

 

苦笑する騎士であったが、不意に口を閉じて横を向くと、差し出すように銀の槍を掲げた。

遅れて頭巾の女が放った二発の弾丸がそれに命中し、軌道が宙へと逸れる。衝撃で槍は彼の手元で数度回転し、月光もまばらな虚空に美しい銀の円を描いた。軋んだ槍身が、夜の大気に澄んだ音色を響かせる。

 

その音が鳴り止まぬうちに、頭巾の女が赤いマントを風に靡かせ襲いかかった。軽やかに跳躍し、手にした鉈を頭上から打ち下ろすも、彼はこれをひらりと躱す。

 

「この国の女性には嫌われてばかりですな」

 

さも悲しげに囁く槍の騎士。

その側頭部めがけ、彼女は鋭い回し蹴りを見舞うが、狩人が力強く振り上げた銃床によって弾かれる。

 

しかし彼女は体勢を崩すどころか反動を利用した宙返りを決めつつ後方に逃れ、着地と同時にブーツに仕込んでいた拳銃を発砲した。

予測し得ない攻撃であったはずだが、騎士は再び槍で無造作にそれをいなす。

 

「女にモテる性格してないだろ」

 

いったん退いた頭巾の女を横目に冷たく返す狩人。「それにしたって狙われすぎだ。一体何して怒らせたんだ?」

 

「人聞きの悪い。好んで女性を怒らせるなど、紳士にあるまじきことです」

 

槍の騎士は心外だと言わんばかりに鼻を鳴らすが、狩人はこれを綺麗に無視した。「魔女を見たか?」

 

彼の短い問いに、騎士は柔和な笑みを浮かべる。「気になりますか?」

 

「そりゃそうだろ。俺たちはアイツを殺しに来たんだぞ」

 

「そういえばそうでしたな」

 

槍の騎士はほんの一瞬、不機嫌そうに眉をひそめたように見えた。「一度城内で交戦しましたが、それきりです」

 

「手傷は負わせたか?」

 

「いいえ。こちらに『照れ屋』さんがいると知るや、すぐに逃げてしまいました」

 

「慎重なこったな」

 

狩人は真顔でそう返した。猟銃を装填しつつも頭巾の女から目を離さない。

彼女は花壇を挟んだ向かいの丘で、密偵と息をつかせぬ白兵戦を繰り広げていた。おそらく双方ともに弾を切らしているのだろう。装填すれば別だろうが、互いにそんな隙を相手に与えたくはないはずだ。

 

狩人は援護するべく銃口を向けるが、彼女たちの動きは激しく位置も目まぐるしく入れ替わるため、照準など合わせようがない。

諦めて銃を下ろすと、横にいる槍の騎士に視線を流した。「お前が何よりも先に気にすべきことがある。何だか分かるか」

 

「はて……?」

 

狩人の問いに、騎士は顎に手を当てて考え込む。

彼は無駄だと思いつつも思わず声を荒げてしまった。「王子の身の安全に決まってんだろこの馬鹿!」

 

「冗談です。分かっておりますとも」

 

クスクスと笑う騎士に、狩人はうんざりした様子で息を吐く。「あの女の相手は任せるぞ。俺は王子を迎えに行く」

 

「あの方は安全な場所にいるのでは?」

 

「そのはずなんだが……」

 

狩人はちらりと礼拝堂の方を一瞥する。

その目は何かを疑うように、鋭く細められていた。

 

 

 

 

 

 暗く埃にまみれた礼拝堂の中を、王子はしばらく手探りで進んでいた。蝋燭の燭台はあちこちにあるが、火は灯されていない。頼りにすべき月明かりも、今は雲の奥に姿を消していた。

 

隠れるにはうってつけの場所だ。魔女が待ち伏せている可能性は高い。だがみすみす飛び込んでしまった以上、こそこそするのは無意味だ。

何か明かりになるものを見つけようと、辺りを探り始めたそのとき。

 

「……あっ」

 

足下の倒れた燭台に目を向けた王子は、懐に入れた黒い蝋燭のことを思い出す。自分の忘れっぽさに呆れながらもそれを取り出し、頭上高く掲げた。

小さくも眩い光は、礼拝堂の朽ちた内部をぼんやりと照らし出す。

 

「白雪姫! いらっしゃいますか?」

 

王子の声が堂内に反響すると、ややあってから、か細くもはっきりした声が返ってきた。「貴方は……王子様?」

 

「ご無事でしたか!」

 

王子は両脇に長椅子が並ぶ絨毯の道を走り、奥の祭壇に向かっていく。そこには重々しい十字架に鎖で繋がれた白雪姫の姿があった。

 

肩に一カ所切り傷があるが、それ以外に目立った外傷はない。彼女は宝石のような青い瞳を見開き、頬は紅潮していた。

よく見れば、涙が伝った跡が微かに光っている。

 

「僕らが不甲斐ないばかりに、怖い思いをさせてしまってすみません」

 

ふつふつと湧き上がる魔女への怒りを自覚しながら、白雪姫を縛る鎖を調べた。錠によって固定されているようだが、鍵を探している余裕はない。

彼はじっと目を凝らし、鎖が錆びつき脆くなった箇所をいくつか見つけると、腰の細剣を静かに抜いた。「どうかそのまま、動かずに」

 

「えっ」

 

「僕を信じて頂けますか?」

 

白雪姫を安心させるため、にっこりと笑う王子。

彼女は躊躇ったが、それはほんの一瞬だけだった。「お願いします」

 

彼女の言葉に王子は頷き、短く息を吐くと、暗闇の中に眩い剣光を煌めかせる。脆い一点を正確に突かれた鎖は容易く千切れ、彼女の拘束は解かれた。

 

「立てますか?」

 

「はい」

 

白雪姫は頷き、王子の手を借りて立ち上がろうとするが、足が痺れていたため少しよろめいてしまう。

王子は慌てて彼女の脇を支え、近くの長椅子に座らせた。

 

「もうじき狩人さんたちが来るはずです。それまで待ちましょう」

 

「……」

 

白雪姫は目を瞠ったあと、気まずそうに俯いた。

しばらく沈黙していたが、やがて小さな声で呟く。「皆さん、ご無事でしょうか。狩人さんも……」

 

「ええ、もちろんです」

 

王子はそう返したあと、微笑んでつけ加えた。「とても強い人たちですよ。心配なんかいりません」

 

「私は……」

 

彼女は何か言いかけたあと口をつぐみ、やがて俯いたまま訊ねる。「お義母様から聞いたんです。私のせいで戦争になるって。本当でしょうか?」

 

「貴女のせいではありません」

 

王子は暗い表情を表に出さぬよう、努めて明るい調子で答える。

 

「確かに都の外には我が国の軍が陣を張っています。しかし目的はあくまで城内の警備を手薄にするための陽動です。まともに交戦する前に撤退する手筈とのことなので、双方の犠牲は少なくて済むでしょう」

 

「街の人々は?」

 

「誰も傷つきませんよ。攻城兵器は用意しましたが、一昔前のものですし……言ってしまえば見せかけのハリボテですから」

 

彼は白雪姫の前に片膝をつき、自身にも言い聞かせるように言葉を紡いだ。

 

「狩人さんや小人さんたちに比べたら頼りないかもしれません。ですが、今は僕が貴女を守ります。命を賭けて」

 

「命なんて賭けないでください」

 

「……え?」

 

白雪姫の予想外の返答に、王子は思わずきょとんとする。

顔を上げた彼女の目は、今までに無く真剣な色を帯びていた。強い意志が光となり、澄んだ青い瞳の奥に満ちている。

 

「私は戦争が嫌いです。皆が命を賭けて戦い、多くの人がそれを失う。……大した理由も意味も無く。命以上に価値のあるものなど、この世のどこにもありはしないのに」

 

「……」

 

王子は何も言うことができなかった。その瞳の美しさに見惚れていたせいもある。

しかし何より、彼女が垣間見せたある種の信念に驚いていた。この方はただ可愛らしいだけではない。胸の内に強い意志を秘めている。

 

今まで会ったなかで一番強い人は誰かという問いが、長らく彼の頭にあった。

それはかつての曇王か、あるいはローリー卿か。間違いなくどちらかだと思っていたが、真に強いというのは、彼女のような人のことを言うのではないか。そんな考えが頭をよぎったのだ。

 

彼女の考えには概ね共感できる。しかしながらただ一点だけ、彼の中の信念と相容れないものがあった。

おそらくそこだけは、どれだけ意見を交わしてもお互いに妥協できる点ではないだろう。そのせいで彼女に嫌われたとしても、それは仕方の無いことだ。

 

「命を賭けるべき瞬間というのは誰にでも必ず訪れます、白雪姫。僕にとっては、それが今というだけです」

 

「そんな……!」

 

王子の抑揚のない声を、姫は遮ろうとした。

しかし彼は黙って首を振ると、言葉を続ける。

 

「僕は守るべき民たちのためなら喜んでこの身を捧げます。それが王族として生まれた者の責務です。もちろん死ぬのは怖いですが、必要に迫られたのならそうしなければならないときもある」

 

「馬鹿げています」

 

彼女は険しい顔でそれだけ言うと、押し黙ってしまった。王子は困ったように微笑み、膝を上げて立ち上がる。

そして少ししてから、付け加えるように言った。

 

「貴女や狩人さんは我が国の民ではありませんが、僕にとっては特別なんです。命を賭けるに足る十分な理由がある」

 

「理由……?」

 

「貴女たちは、多くの人々の希望を背負っている」

 

王子がそう言うと、白雪姫は少し怯んだように視線を泳がせる。「私に何ができるのでしょうか? 私がこの国の人たちにできることなんて、何も……」

 

「あ、いえ、そういう意味ではありません」

 

「?」

 

きょとんとする白雪姫に、王子は少し慌てながら言った。「貴女たちの幸せを願うたくさんの人たちがいる。そういう意味で言ったんです」

 

「……」

 

「この国の未来のことまで憂う必要はありません。貴女はただ、自分が幸せになる道を考えれば良いのです」

 

「そんなこと、許されるのでしょうか」

 

彼女は王子の背後に立つ十字架に、物憂げな視線を向ける。「この国の人々や小人さんたちを見捨てて、私だけが助かるなんて」

 

「この国の民は僕たちが見捨てません」

 

王子は鋭い表情で言い切ったあと、表情を緩める。「頼りないかもしれませんが、差し伸べる手もここにあります」

 

目の前に伸ばされた手を、戸惑った様子で見つめる白雪姫。

女性のように細く繊細ながら、剣の鍛錬で豆だらけになった不思議な形の手だった。

 

「……でも、一体どうやって」

 

「この国のことは、正直に言うと僕にも分かりません。ウォルシンガム卿任せです。しかし、貴女には……」

 

王子はにっこり笑ってから答える。「伯爵の地位を差し上げます」

 

「えっ」

 

呆気に取られた彼女の様子を見て、王子は苦笑してから言った。

 

「貴女が初めてではありません。我が国には僕の独断で貴族になった人間が他にも四人くらいいます」

 

「そ、そうなんですか」

 

「ええ。狩人さんには……断られてしまいましたが」

 

「女性が伯爵になんてなれるのですか?」

 

「なれないことはないと思いますよ……たぶん」

 

少々不安げな口調でごにょごにょと呟いてから、元の声に戻った王子が続ける。

 

「貴女は高貴な血筋のお方です。保護するだけならもっと簡単な方法もいくつかある。いずれにしろ、貴女一人を助けるくらい造作もないことです」

 

「……」

 

白雪姫はじっと王子の手を見て、次に彼と真っ直ぐ視線を合わせた。固い決意の光が、彼女の瞳にありありと宿っている。

 

「私も王の娘です。この国を見捨てることなどできません。でも、今の非力な私にできることは何もない」

 

「僕も似たようなものです」

 

渋い顔で頷く王子。姫はその表情を見上げてクスリと笑うと、ようやく彼の手を取った。冷たく柔らかな白い手が、彼の手の平に重なる。「お任せしても良いでしょうか。私とこの国を」

 

「もちろんです」

 

王子は微笑み、白雪姫の手を握り返した。しかし間近で顔を合わせるのが今さら恥ずかしくなり、目線を脇に逸らす。

その頬に見る見るうちに赤みが差すと、彼女もさすがにそれに気づいてクスクスと笑った。

 

「頼りになるお方なのですね。初対面の時は、そのような印象は受けませんでした」

 

「……よく言われます」

 

王子はもごもごと口の中で呟いたあと、彼女の手を離して一歩後ろに下がった。これ以上手を繋いでいると顔から火が出そうなこともあったが、離れた理由はそれだけではない。

 

彼が顔を向けた先には、見慣れぬ小さな影があった。それはヒタヒタと足音を響かせ、彼らの方にやって来る。

王子が掲げた蝋燭の光に照らされたのは、長いわし鼻が目を引く老婆だった。折れ曲がった背にワイン色の肩掛けを羽織り、手には籠を一つ提げている。

 

「りんごを一ついらんかね?」

 

彼女のしわがれた声に、王子は首を傾げた。

 

「りんごですか? いえ、それよりも貴女は……」

 

「美味しいりんごじゃよ? そう、ほっぺたが落ちるくらいにな。フェッフェッフェッ……」

 

老婆は肩を揺すって笑いながら、おぼつかない足取りで近づいてくる。

だがそのとき、何かを思い出すように目を細めていた白雪姫が突然声を上げた。「気をつけて! お義母様の変装です!」

 

「!?」

 

動揺しつつも、長椅子に立てかけていた細剣を手に取る王子。ぎりぎり間合いに入った老婆の足元に、牽制の一振りを放つ。

もしや人違いということもある。当てるつもりはなかったが、老婆はその姿に見合わぬ敏捷な動きで背後に飛んだ。

 

「フフフ……」

 

若い女の不気味な笑い声が礼拝堂に響く。

老婆が肩掛けを外すと、見る見るうちにその背筋は伸び、肌には艶が戻った。

水色のルージュが塗られた形の良い唇が、鋭い笑みに歪む。「さすがに学習したのね。思っていたよりは賢いじゃない」

 

「……ッ」

 

王子は息を呑んだあと、剣を胸の前に突き出して低く構えを取った。

白雪姫は再び泣きそうな顔になり、王子と魔女の間に立とうとする。彼が腕を広げて止めなければ、間違いなくそうしていただろう。「お義母様、やめてください! この方は……!」

 

「知ってるわよ。貴女を助けに来た隣の国の王子様でしょう?」

 

魔女は妖艶な笑みを浮かべつつ、片手を頭上に伸ばした。青白い霧と冷気が渦を巻いて手の平に集い、氷の剣が形を成す。

それを掴み取るや、彼女は刃先を王子の方へ真っ直ぐ向けた。

 

「でも、だからこそ、その子を野放しにはしておけないの。人質としての価値は貴女以上にあるし」

 

「でも……!」

 

なおも食い下がろうとする白雪姫を、魔女は冷たく見下ろす。氷の刃先がわずかに角度を変え、彼女に狙いを移した。「それにね、やっぱり私は貴女のことが嫌い」

 

「ど、どうして?」

 

彼女の声が震えると、魔女は悪戯っぽく目を細める。「何度言わせたら気が済むのかしら。貴女が私より美しいからよ」

 

「……!」

 

呆然とする白雪姫を背に庇い、王子はさらに腰を落として身構える。「下がってください。僕にお任せを」

 

「フフッ」

 

魔女は笑みを溢しつつ、その手に握った氷の刃を一瞥した。指先で撫でるように触れると、その刀身は見る見るうちに鋭く伸び、長剣へと形を変える。

満足そうに目元を歪め、彼女は王子に向き直った。

 

「貴方に私が止められるかしら。勇敢な王子様?」

 

 

 

 

 

 噴水から離れて木の側に身を潜めていた狩人は、ギョッと身をすくませる。うっすらとだが足元を流れる霧が、微かな月明かりを受けて青白く浮かび上がったからだ。

彼は霧の流れを目で追い、その先に礼拝堂を認めると忌々しげに舌を打つ。「案の定だな。出やがった」

 

狩人は立ち上がると、後方で頭巾の女を相手取る槍の騎士に顔を向けた。「魔女が出た! そいつは任せるぞ!」

 

騎士の返答を待たずに、彼は花壇を雑に跨いでまばらに踏み石が敷かれた礼拝堂への道を急いだ。だがあと少しというところで、扉の前に大きな影が立ち塞がる。

 

それは狩人を上回る長身で屈強な体格が目を引く、一人の男だった。質素な衣服から察するにおそらくは平民で、顔つきは素朴で穏やかそうである。

だがその右手には今宵の月さながらに光る金の斧、左手には鈍くも高貴な輝きを発する銀の斧が握られていた。

 

「何だテメーは! どけ!!」

 

殺気とともに吼える狩人。しかし男は怯む様子はおろか、構える素振りすらない。無言で二振りの斧をだらりと垂らし、やや俯きがちに狩人を迎える。

 

「そうかい。死にたいらしいな」

 

狩人は低く呟くと、足を止めぬまま猟銃の引き金を引いた。放たれた散弾はしかし、男の胸の前で交差した二本の斧によって呆気なく防がれる。

 

「いい加減にしろどいつもこいつも! 銃の弾ってのはな、そんな簡単に防げていいものじゃねえんだよ!」

 

叫びつつ、次弾を発砲する狩人。銀の弾丸で足元を狙うが、男は眉一つ動かさずに金の斧を短く振り、これを叩き落とした。

弾の硬度にも関わらず、その刃が傷ついた様子はない。それどころかいささか輝きが増したようにすら見えた。

 

狩人は悪態をつくと、男が投擲した二本の斧を頭を下げて回避する。そしてニヤリと笑うと、すかさずブーツに隠した拳銃を抜いた。

 

「自分から丸腰になってくれるとは親切な野郎だ」

 

勝ち誇った顔で銃を向けた狩人であったが、すぐにその笑みを崩すことになる。投げ放たれた斧は彼の頭上を過ぎたあと、それぞれ左右に軌道を曲げて大きく弧を描き、主人の元に戻ってきたのだ。

 

それもそのはず、二対の斧は清貧で正直な者を愛する女神からの贈り物である。主人に尽くす慈愛の加護を秘めているので、投げたら戻ってくるのは必然なのだ。

飛んできた刃物を手に取ろうとすれば普通は怪我するが、上記の甲斐あって男は苦も無く斧を掴み取る。

 

「何なんだテメーは!」

 

狩人はわめきながら脇道に外れ、木陰に飛び込んで姿を隠した。敵がこちらを見失っている隙に装填するつもりであったが、その企みは予想だにしない力技で粉砕されてしまう。

 

再び投擲された二対の斧。それらは暗闇の中で煌びやかな光の筋を描き、前方の木を次々に薙ぎ倒す。

そして周囲を切り株だらけの更地に変えたあと、ようやく弧を描いて男の手中に戻った。

 

「ホントに何なんだテメーは!!」

 

倒木と地面の間から何とか這い出し、やけくそ気味に叫ぶ狩人。男は相も変わらず無表情で胸の前に斧を交差させ、ゆっくりと狩人の方へ迫っていった。

 

 

 

 

 

 

 

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