「なあに、それ。何かの
魔女が鼻を鳴らすが、王子は額に剣を当てたまま微動だにしなかった。やがて瞼を上げると、左手に握る黒い蝋燭を真横に放り、それに向けて銀の刃を奔らせる。
「!」
蝋燭の光は二つに裂けて潰えたが、魔女が息を呑んだのはそのことではなかった。彼の剣の刀身を瞬く間に包む、黄金色の炎を目にしたからである。
放たれる眩い光は、さながら蝋燭の火が乗り移ったかのようであった。
「大道芸でも始める気?」
彼女が呆けた顔で訊くと、王子は少し微笑んでから表情を引き締め、今までと同様に低く構えを取る。
「見栄えが良いのは結構だけど、何か意味があるとは思えないわね」
そう呟くが早いか、魔女の頭上で煌めく無数の氷の矢のうちの数本が、王子の足元に向けて飛び出した。
しかし彼はこれを跳んで躱し、魔女に肉薄して細剣を振るう。
「……っ」
魔女は高速で移動して距離を取るが、頬に走った鋭い熱と痛みに顔をしかめた。火の刃は暗闇の中で揺らいだ光を放つため、間合いを計り違えたのである。
「派手な見た目で随分セコい真似してくれるじゃない!」
魔女が氷の両手剣を振りかざすと、その刀身はさらに長く、鋭さを増した。すかさず距離を詰めてくる王子に向け、倍は伸びたであろう刃を力任せに薙ぐ。
「はあっ!」
王子は気合いの呼吸とともに剣を一閃する。
長く伸びた刀身の最も脆くなった一点を見抜き、鋭い踏みこみとともに突きを放った。火の粉と熱に縁取られた剣筋は、闇の中で一直線の軌跡を描く。
「くっ……!」
薄氷のように砕け散る自身の剣を見て、魔女は悔しげに唇を歪めた。手元に残った柄を手放すと、靴先から青い炎を噴き出して宙を舞い、十字架の上に軽やかに降り立つ。
「なかなかやるじゃない」
面白くなさそうにしながらも、いちおう賛辞の言葉を送る魔女。再び虚空から氷の剣を生み出し、利き手に握りしめた。
「攻めに迷いがなくなったわね。ようやく貴方の本気が見れるのかしら」
「僕はいつだって本気です」
王子はそう返しつつ、魔女の一挙一動を見逃すまいと目を細める。
そして突然、あることに気づいた。
「これは躱せる?」
余裕の笑みを浮かべながら、魔女は王子に向かって氷の矢を複数飛ばした。だが彼が身体をわずかに傾けただけで回避すると、その目元がわずかに歪む。
「少々見くびりすぎていたようね」
彼女は低く呟くと片手を掲げ、王子に向かって勢い良く振り下ろした。主人の意思を汲み取った矢は彼女の頭上から放たれ、標的に次から次へと襲いかかる。
しかし彼はこれらも同様、最低限の動きで無駄なく躱し、避けきれぬ分は細剣で弾いて対処していた。そうしてゆっくりとだが確実に魔女に近づいていき、間合いに入るや剣を振り上げる。
「チッ」
忌々しげに舌を打ち、再び上空に舞い上がる魔女。燃える剣によってスカートの端が焼き切られ、青白い素足が顕わになる。
彼女は王子からそれほど距離のない位置に降り立つと、即座に彼に斬りかかった。
「調子に乗りすぎよ、坊や!」
魔女の怒気に呼応するように、周囲の霧も刃の形を成し、側面から王子に襲いかかる。
だが彼は魔女の剣はもちろん、上空から襲いかかる氷の刃にも冷静に対処していた。先ほどと同様に無駄のない動作で躱し切り、魔女自身が振るう剣と打ち合う。
やがて燃える刃の熱によって氷の剣が溶け崩れると、彼女は慌てて後ろに飛んだ。
「おのれ……!」
魔女の食いしばった歯からギリギリと音が鳴る。
彼女はその手に槍を生み出すが、今度はすぐには飛びかからなかった。頭上に浮かぶ氷刃も数こそ増えてはいるが、その場に留まったままだ。
「……」
王子は鋭く目を細めたまま、魔女の出方を窺っていた。彼の動きが別人のように様変わりしたのは、ある事実に気づいたからである。
それは魔女が冷気を操る際の、ある種の規則性だった。
蝿の王に目をかけられるだけあり、彼女の魔力は並大抵ではない。
しかし彼女自身は戦いへの興味が薄いのだろう。
攻め方は大雑把であり、何より敵の裏をかいてやろうという悪意に欠ける。現にこちらの視界の左側は血で霞んでいるというのに、その死角を利用しようともしない。それゆえ彼女の攻撃は極めて読みやすいのだ。
剣術はもちろん、魔術にも起点となる動きがある。腕の振り方や視線の向き、そして殺気を発する瞬間を掴むことで、こちらのどこをいつ撃つのかが手に取るように分かってしまうのだ。
狙われる位置もタイミングも事前に知れたなら、必要なときに必要な動作を行うだけで事が済むのは道理だろう。飛んでくる氷は彼女の意思で多少は軌道を変えられるようだが、先読みするのは軌道ではなく狙う場所なので大した問題ではない。
ここに来て、王子は顧問官の秘密の一端を掴んだ気がした。彼が正面から魔女とやり合えた理由の大半はこれだったのだ。
彼の動きを真似るのはあまり良い気分ではないが、贅沢は言っていられまい。
「どうして? どうして急に当たらなくなったの!?」
もはや焦りも隠す余裕もないのか、魔女は必死な形相で立て続けに氷刃を放つ。その数あるうちの一つが、王子の肩を掠めた。
「ッ」
冷たい刃に肉を裂かれる感触に顔をしかめる王子。幸い傷は深くないが、やはり数を撃たれると全てを避けるのは無理だ。
だがこのとき彼が考えていたのは回避のことだけではない。魔女の狙いが手に取るように分かった今、見えてきた別の事実である。
彼女はさも冷酷であるかのように振る舞っているがその実、情を捨てきれていない。無意識にかもしれないが、ずっとこちらの急所を避けて攻撃している。
悪意どころか、殺意すら欠けているのだ。
この人はきっと、どこまでも戦いに向いていない、普通の人なのだろう。ただ比類無き力を持つ魔女として生まれ、その血と力に人生を狂わされただけだ。
王子は牽制のために燃える剣を振るいつつ、眉間に深い皺を寄せていた。
この剣は悪意も殺意もないものを傷つけるためのものではない。僕自身したくないし、騎士団の誓いにも反することだ。だが戦争が始まってしまった以上、何らかの落としどころは必要になる。
当初の予定通り生け捕りにできればそれが一番なのだが、残念ながら彼女の命を奪わず無力化するには僕の力が足りない。
殺気のない剣など彼女には届かないし、かといって殺す気で振るえば本当に殺してしまう。そうして悠長に迷っていれば、今度はこちらの命が危ない。
王子の躊躇いが剣筋に現れたのだろう。魔女は苛立たしげに顔を歪め、氷の槍を鋭く突き出した。
回避はもはや容易いが、それでもその先端は彼の腕をわずかに掠める。
「まさか本気で情けをかけているの? この私に? ……ありえないわ、屈辱よ!!」
魔女の綺麗な顔が悍ましい形相に歪むと、王子は思わず一歩身を引いた。気圧されてしまったものの構えだけは崩さず、用心深く彼女の動きを観察する。
そしてそのときになって、彼はさらなる事実に気づいた。破れたスカートの端から覗く素足に、陶器がひび割れたような不思議な傷が幾重にも走っていたのだ。彼の剣による傷ではない。
「それは?」
王子が指をさすと、魔女は胡乱げに視線を落とす。「ああ、これね。別に何でもないわよ」
「何でもないって……」
「うるさいわね。少し考えれば分かるでしょう」
魔女はうんざりした顔で片手を振った。
「鉄靴にかけられた魔法で、私は見えないほど速く動ける。でもそんな勢いで何度も加速したり止まったりしていたらどうなるか。言わずとも知れたことよね。人は鳥でも馬でもないの。風になれるよう作られてはいない」
「そ、それは……」
上擦った声で呟く王子。「てっきり魔法でどうにかしているものかと……」
「お生憎ね。そんな都合の良い代物じゃないわよ」
魔女は溜め息を吐きつつ言葉を続ける。
「私は魔女だから普通の傷はすぐ塞がるわ。けど何度も何度も受けた怪我は跡になって残るし、そのうち治ることすらなくなる」
「そ、そんな!」
王子は思わず目を見開いた。「では、そのうち貴女の足は……」
「使い物にならなくなるでしょうね。実を言うと、もうあまり感覚もないのよ」
彼女は自嘲気味に笑ってから、その手の槍を再び長大な両手剣へと変える。「でも些細なことよ。私の野望を果たすためなら、足の二本や三本」
「……!」
王子は呆然と彼女を見つめるしかなかった。
魔女はその顔を真顔で見返し、やがて静かに苦笑する。
「今さら同情なんていらないわ。私はただ、踊り続けるだけよ。死ぬまでね!」
言うが早いか、彼女の姿は青い火花とともに一瞬で王子の視界から消えた。
「くっ……!」
彼は歯を食いしばり、左右に視線を走らせる。
そして背後に鉄靴の鳴る音を聞き、素早く振り返った。長く分厚い氷の刀身が目の前に迫るが、軽く身をひねって回避する。
そして反撃のために細剣を振るうが、今度はあっさり躱されてしまった。
「あら、どうしたのかしら。また動きが鈍いわよ?」
クスクスと笑う声を残し、彼女の姿は再び跡形もなく消える。
「お義母様、もうやめ、やめてください! 何が貴女をそこまでさせるのですか!」
白雪姫の叫びが何処からか響くが、返事をする者は誰もいなかった。
再び死角から現れた魔女の攻撃を、王子はぎりぎりのところで防ぐ。勢いと激しさを増した彼女の剣に、もはや情など感じられない。
……いや、そう簡単に捨てることなどできないだろう。王子は冷や汗をかきつつも、変わらず魔女の動きと心を読んでいた。
初めは痛みと恐怖で屈服させるつもりだったようだが、今は腕の一本くらいは落としても構わぬという考えらしい。いずれにしろ、こちらの命まで取る気は無いようだ。
この期に及んで甘い。半端な手加減が、せっかくの力と速さの利を潰しているのが分からないのだろうか。
もし僕が彼女なら、仮に見切ったとしても避けきれない、防げないほどの質量のある攻撃を選んでいるだろう。力任せに天井でも崩してしまえばいいのだ。そんな余力がないのなら、せめて白雪姫を狙うとか……。
魔女の振るった氷の刃が肩を掠め、王子は身震いした。その痛みのせいではなく、自身の残酷な思考に悍ましさを感じたのである。
これではまるで顧問官と同じではないか。なまじ頭を回しすぎているせいで、考え方まで彼に近くなっている気がする。
王子は歯を食いしばり、力任せながら素早い魔女の猛攻に耐え続けていた。顔や腕に無数の傷を負いながらも、剣を引いた構えを崩さない。
いや、本当は分かっている。僕は元々、今は亡き父と同じ冷酷な男だ。蝿の王も言っていたではないか。僕の感情と剣は切り離されたものであると。
現に今握っているこの剣は、魔女の隙が最も大きくなる瞬間を狙っている。そのときがいつ来てもいいよう、常に刃先は彼女の心臓を捉えているのだ。出血が増えて朦朧とした今、感情や迷いよりそうした本能が表に現れつつある。
やりたくはない。だがそのときが来たら、この剣は躊躇いなく彼女を殺すだろう。
そしてその瞬間は、予想よりも早く訪れた。
彼の意識が弱まったのを見て取り、魔女は背後からとどめとばかりに大振りを放つ。だが王子は彼女の現れる位置と動きを予測しており、容易く氷の剣をくぐり、彼女の懐に飛び込んだ。
黄金色に揺らぐ剣の切っ先が魔女の心臓に向けられた、ちょうどそのとき。
「悪いな、王子様。そいつは俺の獲物だ」
王子の膝下をすり抜ける二発の銀の弾丸。
それらはまるで吸い込まれるように、彼女の両足の芯を貫いていた。
「ぐっ……あぁッ!」
抑えきれない痛みに悲鳴を漏らし、倒れ伏す魔女。その手から離れた氷の剣は床の上を滑り、やがて崩れて消え去ってしまう。
後に残ったのは石の床に残った湿りと、微かにたなびく青白い霧だけだ。
「この日を待ってたぜ。お前に引導を渡す、このときをな」
手早く銃の装填を終えると、狩人はゆったりとした足取りで聖堂の入り口からやってくる。ニヤニヤと下卑な笑みを浮かべ、地を這う魔女を見下ろした。
「あぁ~、スカッとするぜ。最高の気分だ。芋虫をいたぶる猫の気分だな」
「この……薄汚い犬め!!」
「黙れ」
立ち上がろうともがく魔女の額に銃口を向ける狩人。先ほどまでのご機嫌な様子はどこへやら、冷たい目つきで彼女を睨みつけた。
「さんざん情けをかけられておいて、なおもつけあがったお前の自業自得だ。こいつらが最初から本気を出してたらな、お前なんてとっくに終わってたんだよ」
「……チッ!」
魔女は悔しげに舌を打ち、なおも立ち上がろうともがき続ける。だが銀によって骨を壊された足はもはやまともに動かすことができず、狩人の侮蔑の言葉通り、芋虫のようにのたうつことしかできない。
それでも狩人に油断はなく、魔女に銃を向け続けた。掴まれることを警戒し、一歩離れた位置から彼女の頭に照準を合わせている。
しかし緊張の糸が切れた王子が力なく膝をつくと、肩越しにそちらに視線をやった。「大丈夫か?」
「はい……少し疲れただけです」
「面倒をかけたな」
「いえ、おかげで助かりました」
王子が微笑むと、狩人は鼻を鳴らしてから魔女に向き直る。
「殺してやりたいのは山々なんだがな。それをやるとこの状況をお膳立てしてくれた誰かさんたちのツラに泥を塗ることになる。不本意だが、生け捕りで手を打ってやるよ」
「……」
魔女はなんとか顔を上げると、彼に鋭い視線を向けた。「貴方はどうする気?」
「ククッ、今さら俺の心配か?」
苦笑気味に呟いたあと、狩人は彼女の問いに答える。
「やったことの責任を取るだけさ。あんたの指示で、多くの人間を殺した。年端もいかないお姫様すら手にかけるところだったんだ。通すべき筋は通さなきゃな」
「それは、つまり……」
魔女が言い淀むと、狩人は苛立たしげに返した。「前にも言わなかったか? あんたの罪は、俺の罪だ」
「ッ!」
彼女はハッと息を呑んだ。菫色の瞳が揺らいだのにも気づかず、狩人は言葉を続ける。
「あんた一人に全てをなすりつけるつもりはない。地獄への旅路が一人じゃ寂しいだろ。俺も付き合ってやるよ」
「……」
魔女はしばらく呆然と、魂の抜けたような顔で彼を見ていた。やがて頭を振り、ぎゅっと表情を歪める。「そんなの……納得できるわけないでしょう!!」
「お前の納得なんて必要ないんだよ」
冷たく言い放つ狩人だったが、にわかに眉をひそめた。魔女が黒い石の台を目指してずるずると這い始めたからだ。
「おい、誰が動いていいと言った」
「貴方の許可なんて必要ない……!」
彼女は搾り出すようにそれだけ言うと、台座を両手でわし掴み、上体をどうにかその上に引き上げた。
眠ったままの曇王の頬を撫で、愛しげな視線を投げかける。「全て返すわ。だから、お願い。あなた……」
「お義母様! ダメ!!」
白雪姫の泣き叫ぶ声が響く。
狩人は慌てて引き金に指をかけるが、すでに遅かった。魔女の両手が王の胸に触れた瞬間、眩い光が辺りを包み込む。
それは間違いなく彼女の魔法だが、今までのものと違い熱を奪われるような感覚はない。ただ春の陽射しのような、穏やかな温もりだけがあった。
「よせ、お袋!!」
訳も分からぬうちに、狩人は思わずそう叫んでいた。彼の言葉が、果たして最後に魔女の耳に届いたのか。仮に届いていたとしても、すでに全ては手遅れだった。
光が失せ、礼拝堂は再び夜の闇に包まれる。
眩い光の後では、ランプや蝋燭の灯火はどうしようもなくか細く見えた。微かな雲間から抜ける一筋の月光がステンドグラスを通じて堂内に届いたとき、お伽話の結末が明らかとなる。
鉄靴を履き踊り続けた哀れな魔女は、無惨にもその屍を晒していた。王の眠る台座の前に崩れ落ち、苦悶に満ちた表情のまま事切れている。
今まで置き去りにしてきた年月に追いつかれたかのように、その顔には深い皺が幾重にも刻まれていた。唇は縮れてひび割れ、目は落ちくぼみ、白く美しかった肌も今や土気色に染まっている。
「お義母様ッ!!」
白雪姫の絶叫が木霊した。
それほど時間が経たぬうちに、入り口の扉が勢い良く開かれる。
駆けつけた槍の騎士は、まるで見る前から何が起きたのかを悟っていたかのようだった。
唇を引き結び、静かな足取りで埃の溜まった絨毯の道を半ばほど歩くと、王子の背中に声をかける。「エドワード様」
振り返った王子は無表情に見えた。
しかし彼の姿を認めるや、金の睫毛に縁取られた目元から、大粒の涙をポロポロと溢す。
「ご、ごめんなさい。失敗しました……僕は、や、約束、約束したのにっ……!」
「貴方のせいではありません」
優しく王子を抱きしめる槍の騎士。視界の端にすすり泣く白雪姫の姿を捉えると、ほっと息を吐いた。「誰のせいでもありませんよ」
「ハハハハハッ!」
突然、場違いなほど底抜けな狩人の笑い声が響く。彼は騎士に背を向けたまま、魔女の遺体を見下ろして叫んだ。
「そうとも、誰のせいでもない! 手を抜いて相手したそいつのせいでも、両足をブチ抜いた俺のせいでも、ましてやお外で暢気に遊んでたテメエのせいでもない! こいつは、この女はな、勝手に魔法で自滅したんだ! 笑えるよな? 最高だろ! さんざん偉そうにふんぞり返っておいて、最期がこのザマか! ハハハハハハハッ!」
「狩人様……」
槍の騎士は今までになく鋭い目つきで彼を見た。
だが狩人の背中から何かを察したか、力なく視線を落とす。
「不細工な面だな。お似合いだぜ」
狩人はにやけ顔を作るが、やがて目元を隠すように帽子の位置を下げた。
「あんたを腹の底から笑ってやれるのは、世界中で俺一人だ。たぶんな」
それだけ呟いた後、彼は呆気なく魔女に背を向けて歩き去っていく。白雪姫の肩を掴んで立ち上がらせると、その場の全員に向けて言った。
「お姫様は保護したんだから、目的は概ね達成だろう。とっとと引き揚げるぞ」
「で、でも……」
「もたついてたって良いことないだろ」
狩人は一瞬振り返るが、それは魔女ではなく曇王を見やるためだった。片膝をつき、俯いたままの白雪姫に視線を合わせて語りかける。
「お姫様。悪いが王様の死体はここに置いていく。あの図体を担いでとんずらこくのは今の俺たちには無理だ。『怒りんぼう』は満身創痍な上、どっかに飛んでっちまったままだし」
「『怒りんぼう』さんが?」
彼女の虚ろな瞳に一時光が戻ると、狩人はニヤリと笑った。
「心配はいらんさ。全身骨折しても数日で動けるようになるヤツだ。お前とは別の意味で……」
「私は繊細です」
「だよな。知ってる」
彼は苦笑したあと、白雪姫の背を押して台座に向かって歩かせる。
「別れの言葉くらいは言っておけ。誰かさんたちが暴れ回ってくれたおかげで、その程度の時間はある」
「……」
姫は無言で狩人を見返したあと、小さく頷いた。
王の傍まで来ると何事かを囁き、その頬に口づけをする。
「もういいのか?」
一分とかからず戻ってきた白雪姫に訊ねる狩人。
彼女が頷くと「そうか」と呟き、踵を返した。
ぽつんと一人立ち尽くす王子を目に留めると、近づいて声をかける。「おい、大丈夫か?」
「僕は……平気です」
王子は泣き腫らした目を狩人に向けた。「それより、狩人さんは……」
「あー、いい。それ以上喋るな」
狩人はしかめ面で王子の言葉を遮る。
「言いたいことは分かってる。だがな、余計なお世話なんだよ。何もかもな」
「……っ」
王子は小さく息を呑み、やがて悲しげに俯いた。
「そんな顔するな。こう見えて感謝はしてるんだ」
狩人は彼の頭をわしゃわしゃと撫でると、そのまま二人を連れて外に出ようとする。しかし思い出したように足を止め、振り返った。「おい、何してる?」
「……」
槍の騎士は石造りの十字架を背に、魔女の亡骸を見下ろしている。
狩人は眉をひそめ、彼の手先にじっと目をこらした。ほんの一瞬だけ、小さく細長い何かを握っているように見えたからだ。
だがそれは結局気のせいだったようで、彼は初めから手ぶらだった。
「ダメ……か。だが、何故?」
険しげな顔つきで魔女を見つめる槍の騎士。
痺れを切らした狩人は、怒鳴るような口調で彼を急かす。
「おい! そいつの首を持っていくつもりならさっさとしろ!」
騎士はきょとんとした顔で狩人を見返すが、すぐにその場に片膝をついた。魔女の顔に手をやり、瞼を閉じさせてやってから立ち上がる。
「……いいのか?」
戻ってきた槍の騎士に、狩人は怪訝そうに訊ねた。彼は「ええ」と小さく頷き、続けて口を開こうとするが、結局何も言うことはなかった。
「そうかい。まあどうでも好きにしな」
肩をすくめた後、出口の扉に向き直る狩人。銀細工の取っ手を掴もうと腕を伸ばした、そのとき。
ひりつくような空気がうなじを掠め、彼は全身の毛が逆立つのを感じた。とっさに身を翻し、王子と白雪姫を床に伏せさせる。
一瞬遅れ、叩きつけるような音の壁と閃光が彼らを襲った。全身を突き抜ける衝撃に、鉄の味が口の中に広がる。
次いで、ゴツゴツした拳大の何かが狩人の背中を数度打った。おそらくは崩れた天井か壁の一部だろう。幸いそれほどの重さも勢いもなかったため、彼はうめき声一つあげずに済んだ。
「狩人様、大丈夫ですか?」
「ああ、どうってことはない」
白雪姫の声にぶっきらぼうな調子で答える狩人。
顔を上げると、崩れ落ちた天井とそこから覗く夜空が見えた。湧き立つほどに濃い黒雲は星々はおろか、月光の一筋すら地上に洩らさない。
その真下に鎮座する十字架は、根元から真っ二つに裂けていた。露出した分厚い断面は熱で溶け、奇妙な光と硫黄に似た臭気を放っている。
「落雷、か?」
「そのようですね……」
狩人の脇の下にいる王子が呟いた。その後すぐにハッとし、槍の騎士の名を叫ぶ。「ローリー卿! ご無事ですか!?」
「ええ、今のところは」
彼の返事が聞こえると、王子は安心して溜め息をついた。狩人は念のため、もう一度二人にケガがないか確認してから立ち上がる。
どうやら彼らはそれなりに運が良かったらしい。彼らのいた入り口付近以外の場所は大きな瓦礫や崩落したアーチ状の梁が横たわり、長椅子や燭台は無惨にもそれらに押し潰されている。
槍の騎士は存外彼らのすぐ傍にいた。手にはいつの間にか、自慢の銀の槍を携えている。
「何でそんなもの抜いて……」
狩人は言いかけてから、彼の視線を追って再び正面を向いた。そして先ほどは気づかなかった、ある光景を目に留める。
曇天の覗く天井の穴と、真下の二つに割れた十字架。そのさらに下、黒い石の台座の前に、一人の男が立っていた。
吹き下ろす風に靡く紺色の外套。武骨な甲冑に包まれた、見上げるような長身。蓄えた髭に、厳かで精悍な顔立ち。生気に満ちた肌に、活力溢れる青い瞳。
「お父……様?」
白雪姫の掠れた声が、小さく響いた。