GRIM WOOD   作:無職のプーさん

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ⅩⅩⅩⅨ 軍神

 

 娘の声に、曇王はこれといった反応を示さなかった。変わり果てた魔女の傍に跪くと、その遺体を優しく抱き上げる。

 

「哀れな女だ。そなたの賢さ、美しさを以てすれば、他に生き方などいくらでもあったはずなのに……」

 

低い声で呟く曇王。しかしやがて頭を振ると、自嘲の笑みを溢した。

 

「いや……これも余のせいか。余の生き方、余の理想が、そなたの氷の心に火を灯してしまったのだな」

 

王は彼女を台座の上に寝かせ、今は瑞々しさを喪った銀色の髪を愛しげに撫でる。

 

「お前は何も諦められなかった。何一つ、捨てることができなかったのだ」

 

「ヴァルデック王……」

 

王子の掠れた声が響くと、曇王の視線が初めて彼らの方へ動いた。巌のような険しい顔に、親しげな笑みが混じる。

 

「エドワードか? カリーでの講和会議以来だな。息災であったか」

 

「その、お久しぶりです」

 

王子が戸惑いながら会釈をすると、彼は微笑んで応じた。「少しは大きくなったか。何故そなたがここにいるのか、ひとまずは置いておくとして……」

 

曇王の視線が横に流れ、そのまま狩人へと移る。

その穏やかな目に、再び厳しげな光が宿った。

 

「猟犬よ。冷酷で忠実な子飼いと聞いていたが。まさか……貴様が裏切るとは」

 

「フン、知ったような口をきくな。『死人返り』の分際で」

 

小馬鹿にするように鼻を鳴らす狩人。銃をいつでも構えられるよう、指先を軽く動かして血を通わせる。

 

「死人か」

 

何かを自身の内に刻むように、王は重々しく呟いた。台座に立てかけられた長大な剣に目を止めると、その柄にゆっくりと手を伸ばす。

柄頭に軽く触れ、そこから鍔に向かってなめらかに指を滑らせてから、ようやく握りしめた。固く張りつめ、ひび割れた岩のような手は、武骨ながら流麗な両手剣に驚くほど馴染んでいる。

 

礼拝堂の内に籠もる微かな明かりを受け、その刀身が青く輝いた。それは紛れもなく、主の心と魂の帰還に歓喜する剣そのものの意思であった。

 

「英雄がお役御免になった理由を教えてくれる約束であったな、猟犬」

 

輝く剣を携え、紺の外套をひるがえし、狩人に向き直る曇王。その威風堂々たる姿は、まさにお伽話に語られる伝説の人物そのものだった。

 

見上げるほどの背丈が、一段高い場所にいるせいでよりいっそう大きく見える。白雪姫のものと同じ澄んだ青い瞳は、彫りの深く精悍な顔立ちと相まって、神秘の如き威厳を醸していた。

 

王子はもちろん、槍の騎士までもが魅入られたように怯み、動くことができずにいる。狩人も思わず息を呑むが、怯えたのはほんの一瞬だった。

 

「ご指名とはな。光栄の至りだ」

 

ニヤリと笑い、ここぞとばかりに猟銃を構える狩人。引き金に指をかけるが、正確な狙いをつける前に、横から王子が割って入る。

 

「お待ちください、ヴァルデック王! 僕たちが戦う必要はありません!」

 

必死な形相で訴える王子を、曇王はどこか冷めた目で見ていた。段を一歩一歩踏みしめ、草臥れた絨毯の上に降り立つ。

彼らと同じ高さに立ったものの、少しも小さくなったようには見えない。「余に従え、エドワード」

 

「え……?」

 

「そなたを臣下に欲しいと、以前から考えていた」

 

彼の言葉に、さながら電流が走ったように固まる王子。頬を赤くし、口をパクパクと動かすが、声は出てこない。

しかし少し間を置いてから、はっきりとした口調で返す。

 

「申し訳ありません。僕はイングランドとその民に忠を尽くします。物心ついたときから誓っていることです」

 

「ならば是非もない」

 

王の声はさながら宣告のように響いた。

俯きがちな顔に影が差し、その表情を量ることはできない。ただ迸る殺気だけが、彼の意思をその場の者にはっきりと伝えていた。

長大な剣を片手で握り、頭上へと無造作に振り上げる。

 

王子の反応は鈍かったが、反対に狩人は素早かった。ハッと目を瞠った後に舌を打ち、彼を抱えて横に飛ぶ。

数瞬遅れ、王の剛剣が振り下ろされた。あまりの速さと重さに、その刀身の先は空気の壁を突破する。引き裂かれて生じた真空が、白銀の刃となって彼らに迫った。

 

「くそっ」

 

顔を歪めて悪態を吐く狩人。事前に察して動いたが、それでも避けきれる速さではない。

しかし床に身を投げ出した彼らに、風の刃は届かなかった。深々と地に突き立てられた銀の槍が、直前で受け止めたのである。

 

「お前に命を救われるのはこれで二度目か? すこぶる気分が悪いな。吐きそうだ」

 

しかめ面で立ち上がる狩人に、槍の騎士は何も返さなかった。厳しい表情のまま、無言で床から槍を引き抜く。

風の余波で震える槍身の無事を確かめると、にこりともせずに言い放った。「エドワード様、お二人を連れて撤退を」

 

「なに……?」

 

狩人は聞き返すが、王子は素早く頷くと、彼と白雪姫の腕を掴んで出口へと走る。「早く、こちらへ!」

 

「お父様、やめて! この方たちは敵ではありません!」

 

姫は必死に叫ぶが、王は眉一つ動かさなかった。

出口の扉が開かれ、乱暴に閉じられるのを見送ると、一人残った勇敢な騎士に顔を向ける。

 

「道化よ。貴様の出る幕はもうない」

 

曇王は低く、どこか冷めた声で騎士に宣った。

 

「この世界は既に、余のものなのだ」

 

 

 

 

 

 礼拝堂から飛び出してきた狩人たちを迎えたのは、二人の小人だけだった。中庭をほうほうの体で走ってくる彼らに気づくと、小人たちは慌てて駆け寄る。

 

「お姫様を取り返したんだね!」

 

「ああ、まあな」

 

「大丈夫だった? 雷が落ちたみたいだけど。誰もケガしてない?」

 

『おとぼけ』の言葉に、狩人は眉根を寄せた。

 

「雷は問題ないが、雷親父が復活した。俺はそいつに殺されそうになってる」

 

「ええ、どういうこと?」

 

首をひねる『おとぼけ』に、狩人は頭を掻きながら説明する。

 

「ほら、昔から言うだろ。地震、雷、火事、親父ってな」

 

「???」

 

ますます首をひねる『おとぼけ』。

王子は不安そうに振り返ると、意を決したように拳を握った。一度は腰の鞘に納めていた細剣を再び抜き放つ。

 

「狩人さん、姫を連れて行ってください。ここは僕が食い止めます」

 

「お前が食い止められる相手なのか? 俺にはそうは思えんが」

 

「そ、それは……」

 

王子が言い淀むと、狩人は肩をすくめて言った。

 

「股間が槍の騎士様に任せておけばいいんだよ。あいつならなんかこう、なんだ。なんか上手いことやってくれるだろ」

 

「それは……そうかもしれませんが」

 

力なく俯く王子。

その横に立つ白雪姫は、紅い小さな唇をぎゅっと引き結んでいた。狩人と王子の二人を交互に見やったあと、掠れた声を洩らす。

 

「お父様は……曇王は軍神です。剣や槍では決して倒れません」

 

「そうは言うがな、股間の騎士様も大概だぞ」

 

狩人はそこまで言ってから視線を移し、心なしか大人しく見える『くしゃみ』を見た。

 

「いざとなったら大先生の出番だ。城ごと吹き飛ばしてやれば良い。そうだろ?」

 

「そのことなんだけど……」

 

『おとぼけ』は気まずそうに『くしゃみ』と視線を合わせる。「実はもう、大きなくしゃみは撃てそうにないんだ」

 

「は? 何でだ」

 

狩人が眉をひそめると、『おとぼけ』はびくつきながらも続けた。

 

「寒かったり空気が乾燥してたりしないと、くしゃみが出にくいんだよ。今は暖かいし雨が降りそうで湿ってるでしょ? だから……」

 

「知るかそんなの。気合いで出せ」

 

身を乗り出して凄む狩人に、『おとぼけ』はとうとう縮こまってしまう。

『くしゃみ』は彼を庇うように前に出ると、素直に頭を下げた。「ごめんなさい」

 

「いや、おま、お前……」

 

狩人はわなわなと震えつつも、なんとか口を動かす。

 

「お前、謝れたのか? 謝るタイミングがおかしいだろ。もっと謝るべき時は今までに何度もあったろうが。何で今になって謝るんだ。おかしいだろ。お前……」

 

「か、狩人さん。落ち着いて」

 

見かねた王子が彼の腕に触れようとした、次の瞬間。地を震わせるほどの音と衝撃が、彼らの足をすくませた。

 

「ちっ。また雷か」

 

舌を打ち、音のした方へ顔を向ける狩人。そして思わず悪態をついた。骨組みだけを残し、礼拝堂の屋根が崩れ落ちていたのだ。

彼らの位置からはすでにそれなりに距離があるが、切り裂かれた大気の熱と漆喰の焼ける臭いが、風に乗って流れてくる。

 

「くそったれ。あの野郎、負けやがったな」

 

数秒ほど礼拝堂を睨みつけていた狩人は、再び悪態をついた。背中に腕を回し、猟銃を手元にぐいと引き寄せる。

装填作業に移る傍ら、顔を青くしたまま立ち尽くす王子に向けて言った。「お前らは逃げろ。あいつの狙いは俺だ」

 

「そんな! 置いていけるわけないでしょう!」

 

彼は激しく首を振るが、狩人は取り合わない。

銃口二つともに弾を詰めると、倒れた木の影に身を潜ませる。「行け。今、白雪姫を守れるのはお前だけだ」

 

「そっ、そんな言い方……!」

 

王子はそこまで言ってから唇を震わせ、「ずるいです」と、ほとんど聞き取れない声を洩らした。

白雪姫は狩人の近くに寄ると、決意の籠もった眼差しを向ける。「狩人様の傍にいます」

 

「……おい」

 

「私は王の娘です。私が近くにいれば、父は貴方を攻撃できない。そうすれば話し合いだって……」

 

「絶対にそうなると言い切れるか?」

 

狩人の言葉に、彼女はハッと息を呑んだ。

金縛りにあったように動きを止め、強張った表情のまま彼を見返す。

 

「まあ、確かにお前さんだけは逃げる必要ないな。さすがの雷親父も実の娘には……」

 

狩人がそこまで言ったときだった。

銃声に似た、空気の壁を打ち破る音が辺りに響く。そして地を奔り迫る銀の閃光が、二人の間の石畳を切り裂いていた。割れた倒木が、まるで嵐に吹かれたように軽々と宙を舞う。

 

飛び散る粉塵を吸い込み、『くしゃみ』は小さいくしゃみをした。

『おとぼけ』は怯えて尻餅をつき、ガタガタと身体を震わせる。「お、王様だ! 生き返ったんだ、本当に……!」

 

「何をしてやがる、このデカブツが!」

 

驚きや恐怖もそこそこに吐き捨てる狩人。

姫が無事なことを確認するや、荒っぽく立ち上がって銃を構えた。「危ないだろうが! テメエの娘だろ!!」

 

「真に余の血を引く者なら、この程度では死なぬ」

 

礼拝堂の影から姿を現した曇王は、悠々とした足取りで迫ってくる。「それよりも、貴様の能は逃げるか隠れるだけか?」

 

「……ちっ」

 

狩人は舌を打ち、銃の狙いを定めた。照準を王の胸の中心に合わせると、深く吐き出してから息を止め、引き金に指をかける。

 

「よかろう。試してみるがいい」

 

遮蔽物も何もない、庭園の真ん中に堂々と立つ曇王。狩人は残酷な笑みに口の端を歪めるが、瞳には怯えの色が混じっていた。

乾いた火薬の音が響く。放たれた銀の弾丸は狙いを違わず、甲冑に守られた胸部に命中する。

 

しかし王は倒れるばかりか、よろめくことすらしなかった。

狩人はぎりぎりと歯を鳴らし、二発目の引き金に指をかける。「さっさと死ね!」

 

次の弾が放たれる直前、王の巨体がまるで風のように消えた。人離れした脚力で地を蹴り、彼の元へと一瞬で移動したのだ。

驚く間もなく、狩人は王の拳を顎に受け、呆気なく昏倒してしまう。

 

「やはりな。銃ごときでは英雄は殺せん」

 

地に伏した狩人を冷ややかに見下ろす曇王。

彼の身に纏う鎧は、かつての錆びてくすんだものではない。高貴な灰金色の甲冑へと変わっていたのである。

銀の弾はその中心にわずかなへこみを残すのみで、貫通した跡はない。

 

「英雄は死なぬのだ。猟犬よ」

 

王は静かな声で宣うと、剣を持ち上げ、狩人にとどめを刺そうとした。だが眼前に割って入った白雪姫の姿に、煩わしげに眉をひそめる。「何をしておるのだ、ブランカ」

 

「狩人様は恩人です!」

 

威圧的な王の声にも、彼女は一歩も怯まなかった。両腕を広げたまま、必死な形相で叫び続ける。「私の命を何度も救ってくださいました!」

 

「美しく、愚かな我が娘よ」

 

王は冷たい目で白雪姫を見据える。「あの女が本気でお前の命を奪うとでも?」

 

「……っ!」

 

白雪姫はハッと息を呑んだ。その青く綺麗な瞳に見る見るうちに涙が溜まると、曇王は溜め息をつく。「退け。戦場は女の立つ場所ではない」

 

王は姫を軽く突き飛ばすと、狩人の前に立った。

剣の柄を両手で握り、頭上高く振り上げる。「せめて苦しまぬよう、一息で首を刎ねてくれる」

 

「狩人さんから離れろ!!」

 

あわやという瞬間にようやく王子が飛び出し、細剣を鞭のように鋭く振るった。針のような刀身は大きくしなりつつ曇王の手首を打ち、火薬の破裂に似た、けたたましい音を響かせる。

 

「ようやく勇気を搾り出したか、エドワード」

 

髭に覆われた口元に鋭い笑みを浮かべる曇王。

王子の剣を受けた手甲はわずかに傷ついたが、彼本人は顔をしかめてすらいなかった。剣こそ地についていたが、再び持ち上げ構えをとる。

 

ただし今度は狩人ではなく、王子に狙いを定めていた。「この曇王を伐つ覚悟はできたか?」

 

「狩人さんを守ります」

 

「良かろう。来るがいい」

 

王は高らかに宣うと、ゆっくりと足を動かし、倒れたままの狩人から距離を取る。

だが数歩も歩かぬうちに、地に伏す彼の上体がわずかに持ち上がった。王を見上げる泥だらけの顔は、狡猾な笑みに歪んでいる。

 

「ぶったまげろ」

 

狩人はこっそり懐から取り出していたラッパ銃を、曇王に向けて発砲した。やかましい爆発音とともに撒き散らされた礫が、彼の顔面を襲う。

とっさに片腕を上げ、その大半を防ぐ曇王。しかし指の間をすり抜けた礫片のうちの一つが、彼の片目を深く抉った。

 

「……ッ!」

 

王子は息を呑み、一瞬迷った後、飛び込むように狩人と曇王の間に割って入る。彼を背中に庇い王に向き直ると、油断なく剣を構えた。

 

「逃げる隠れるに加え、騙し討ちも付けるか、猟犬」

 

曇王は変わらず冷ややかな声で言った。

片目を潰されたというのに怯むばかりか、手で庇う素振りもない。瞼が破れ、眼球も痛々しく潰れているが、顎を伝う血や体液をそのままにしている。

 

「銃の味はどうだ、英雄。ざまあみやがれ」

 

狩人が挑発を返すが、曇王は鼻を鳴らすだけだった。潰れた左目に初めて手をやると、苦笑気味に笑う。「あるべき姿に戻ったまでのこと」

 

「ならもう片方の目も潰してやるよ」

 

狩人は素早く腰に手をやり、火薬袋を取り出すと犬歯で噛み切った。ラッパ銃に火薬を流し込んだあと、その辺りの砂利を広い銃口で掬い取り、装填を完了する。「そのムカつくツラを吹っ飛ばしてやるぜ」

 

片膝をついたまま、銃を王に向ける狩人。

だが脳を揺らされた結果が今になって表れたのか、にわかに腕が震えてしまい、照準が安定しない。

 

「……クソッ」

 

悪態を吐く狩人を、曇王は蔑みの目で見下ろした。肩をすくめると、両手剣を高々と天に掲げる。「素直に眠っておれば楽に死ねたものを」

 

「!」

 

王子は目を見開き、攻撃を警戒して身構えた。だが次に眼前で起きた光景は、彼の想像を遥かに超えるものだった。

空気の妙な渇きと緊張を肌で感じる狩人。また雷が落ちると本能で悟った。だが回避に移る前に、稲妻は熾烈に天を裂きながら王の長大な剣に命中する。

 

「は……?」

 

王子と同様に、彼もあんぐりと口を開けていた。

後に続くべき激しい音と衝撃はなく、空気を焦がす臭いもない。ただ目も眩まんばかりの青白い光が、天を突く王の剣に宿っていた。

 

「受けてみよ、我が雷剣を」

 

「おいちょっと待て待て待て待て。それは流石にふざけんな!」

 

「命乞いか? 先ほどの道化はもっと潔かったぞ」

 

乾いた笑みに唇の端を歪める曇王。そして気迫とともに頭上の剣を振り下ろし、その刃先から閃光を解き放つ。

 

「……チッ」

 

雷の速さを理解していた狩人は、もはや舌打ちする以外にできることがなかった。

 

だが稲妻は狩人はおろか、前に立つ王子にすら当たらない。熾烈に歪みながら地を奔る閃光は彼らの脇に逸れ、後方の噴水を粉々に打ち砕いた。

微笑む女神の割れた顔面の一部が、狩人の足元を愉しげに転がっていく。

 

「ほう? 良い腕だな、小人よ」

 

手甲のわずかな隙間に突き立った小さい矢を一瞥し、曇王は感心したように片方の眉を上げる。

『おとぼけ』は弓を構えた姿勢のままプルプルと震え、息をすることすら忘れているように見えた。

 

「どこぞの犬よりよほど筋が良い。我が師の教えは剣や魔術に留まらぬらしいな」

 

王はどこか満足げに呟くと、手首に刺さった矢を抜いて地面に捨てる。だがその一瞬、微かに眉をひそめた。

腕がにわかに震えだし、柄から剣先にまで揺れが伝わっている。

 

「か、狩人さん、逃げて! し、し、神経毒の効果は長くは続かない!」

 

震えの止まらぬ唇でようやくそれだけ口にする『おとぼけ』。

 

「逃げる? もっといい手があるぜ」

 

狩人はにやけ面で銃を持ち上げる。立てた片膝の上に銃床を突き、照準を安定させた。「あのむさ苦しい髭面を吹き飛ばしてスッキリさせてやるんだ」

 

そうして引き金に指をかけたが、やがて目を細める狩人。火薬の匂いとともに、煙が周囲に充満し始めたのだ。

曖昧な灰色に染まる庭園を恨めしげに睨むが、嗅覚を頼りに王のいる大雑把な位置に当たりをつけ、発砲しようとする。

 

「やめろ。無意味だ」

 

何者かに腕を掴まれ、彼は胡乱げな視線をそちらに向けた。

黒ずくめの小人が、鋭い目で彼を見返している。

 

「どうせ仕留めきれない。それより、ここから離れるぞ」

 

「お前に指図される筋合いはないと言ったら?」

 

狩人の言葉に『照れ屋』は一瞬考えたあと、懐に忍ばせた紙に指を走らせる。表に返したそれには一言『困る』とだけ書かれていた。

 

 

 

 

 

 恥ずかしがり屋の小人の援護のおかげで、狩人たちは何とか無傷で庭園から逃げることができた。暗く静まり返った城内を抜け、大広間まで辿り着く。

 

「おい、なんだコイツ。こんなのいたか?」

 

狩人が指さす先には、立派な金の羽毛をなびかせた一匹の雄鶏がいた。ただの鶏よりも一回りは大きく、鶏冠や尾も立派に見える。

彼は狩人の声に反応して振り返り、なにやらきょとんと目を瞬かせていた。

 

「今は鳥さんに構っている場合ではありませんよ」

 

王子は唇を尖らせてそう言うが、正面に向き直ってから思わず足を止めた。玉座の後背に立ち並ぶレリーフが、以前と絵柄が変わっていることに気づいたのである。

力強さ溢れる烏と狼の姿が彫られていたはずだが、それらは綺麗に姿を消していた。まるで初めからそこにいなかったかのように。

 

「……!」

 

彼は辺りを見回し、変化しているのはレリーフだけではないことに気づいた。壁に飾られた刀剣や天井に吊された盾も、磨かれたばかりのように美しく輝いている。

以前見たときは、確かに埃を被って色褪せていたはずなのだ。

 

「美術の観賞会が今やるべきことなのか? さすがは将来有望な御仁だ。勤勉でいらっしゃる」

 

「わ、分かってますよ。意地悪言わないでください」

 

狩人の皮肉に顔を赤くする王子。頭を振って気を取り直すと、音もなく先行する『照れ屋』の後に続いた。

 

「おい、まさか真正面から帰る気か」

 

狩人の言葉に、黒ずくめの小人は振り返ることなく返す。「そのつもりだ」

 

「この国の兵士の間抜けっぷりはよく知ってるが、さすがにそれは無謀すぎやしないか?」

 

狩人が訊ねると、『照れ屋』はそのときになってようやく振り返った。

 

「行きに使った隠し通路はすでに塞がれていた。だが城門前は兵の監視が緩く、どういうわけか市民が続々と集まってきている。彼らに紛れてしまえばまず見つかることはない」

 

「なるほどな」

 

狩人は頷くが、ややあってから再び口を開く。

「密偵の女の姿がないぞ。あと『怒りんぼう』も。そいつらはどうする気だ?」

 

「黒い女のことか」

 

「お前も黒いだろ」

 

「彼女は動けるようになっていたはずだが、いつの間にか姿を消していた。『怒りんぼう』は……」

 

そこまで言いかけ、彼は何かを思いだしたようにハッとする。そして懐から紙を取り出すと、指に泥をつけてから綴った後、裏返してみせた。

 

『城下町まで飛ばされていた。そこで合流する手筈になっている』

 

「そこまで筆談にこだわる理由を知りたいところだが、まあ今はいい」

 

狩人は肩をすくめ、後ろを小走りでついてくる白雪姫をちらりと見た。

 

「アイツをどうすべきだと思う? ここに残れと言ったんだが、聞きやしないんだ」

 

「俺たちが決めることじゃない」

 

「そうは言うがな、あの女が死んで雷親父が生き返った今じゃ、だいぶ事情が……」

 

狩人がそこまで口にしたときだった。

大広間の扉の隙間から外を覗いていた『おとぼけ』が、慌てて彼らの方に戻ってくる。

 

「ダメだよ。こっちは兵隊さんたちがたくさん集まってる」

 

『なら兵舎の庭から城壁沿いに外に出よう』

 

黒ずくめの小人は紙にそう記すと、彼らに見えるように交互に角度を変えて掲げた。

後ろにいる王子や白雪姫にも見せると、彼女は不安そうに訊ねる。

 

「非常時とはいえ、兵舎にも人は残っていると思います。危険ではありませんか?」

 

「俺が先行する」

 

『照れ屋』は間を置かずにそう言うと、広間の端にある小さな扉に向かって早足に進んだ。取っ手に指をかけてから「十秒数えたら入ってこい」と呟き、次の瞬間、彼の姿は影となって微かに開いた扉の隙間に消える。

 

「やっぱゴキブリだよなアイツ」

 

狩人が同意を求めるように『おとぼけ』を見るが、彼は悲しそうな顔をするだけだった。

 

 

 

 

 

 兵舎に残っていた数人の兵士たちは、『照れ屋』の手によって呆気なく無力化されていた。

彼は十秒と言ったが、実際は数秒でケリがついていたのだろう。狩人たちが入ってきたときには、すでに気絶した兵士たちが丁寧に縄で縛られていた。

 

「屋上から直接城壁の上に抜けられるよ!」

 

上階の様子を見に行っていた『おとぼけ』の声が天井越しに響くと、狩人は弾薬を物色していた手を止める。

 

「だ、そうだ。何か言ってやれ」

 

狩人が呟くと、『照れ屋』は頭上に顔を向けて言った。「そっちはダメだ。見張りの塔が近すぎる」

 

「庭から城壁に上るんだったか」

 

「そうだ」

 

「フン」

 

狩人は鼻を鳴らしつつ、棚に並んだ薬莢のうちの真新しそうないくつかを鞄に入れる。

 

「城内の地理にまで詳しいとは恐れ入る。あの女がお前を警戒していた理由も頷けるな」

 

黒ずくめの小人は彼に視線を移すと、低いがよく響く声で静かに言った。「さっきの話だが……」

 

「あ?」

 

「曇王はあんたに執着している。今は姫よりも自分の心配をすべきだ」

 

「昔からおっさんやジジイにばかりモテるタチでな。慣れてるさ」

 

何でもないことのように肩をすくめる狩人。

その場で踵を返すと、庭に続く出口の扉を静かに開けて外を覗いた。「少し先を見てくる」

 

『気をつけろ』

 

紙にそう記して見せてくる『照れ屋』を無言で一瞥してから、狩人は猟銃を構えて建物の外に出た。五感を研ぎ澄ませ、人の気配がないことを悟ると、少しばかり警戒を緩める。

 

兵舎と城壁に挟まれた庭は、先ほどの庭園のように広くなく、これといった装飾もなかった。あるのは訓練用の藁人形や弓の的、薪の山くらいで、ひどく殺風景に見える。

灯りは壁沿いに置かれた篝火が一つだけであり、夜闇が物寂しさに拍車をかけていた。

 

「誰かと思えば、狩人のあんちゃんか」

 

「!?」

 

狩人は慌てて銃を持ち直し、声のした方に向ける。彼からはやや死角となった壁際の影に、一人の老人が立っていた。ひょろりと背の高く痩せた身体に、緋色のぼろ布を纏っている。

 

「じーさん、あんたこんなとこで何してんだ?」

 

「それはこっちのセリフじゃよ」

 

老人はフードを外し、髪と髭を綺麗に剃った顔を見せた。酒場でたびたび顔を合わせる馴染みのしわくちゃ顔である。

狩人は銃口を下ろすが、視線はもう一度周囲の影の間を彷徨う。「あんたの他には誰もいないな?」

 

「おらんよ」

 

「本当か?」

 

「相変わらずビビリじゃのう」

 

「うるせえよ」

 

彼は溜め息を吐くと、気怠げに猟銃を肩に担いだ。「人の気配はなかったんだがな。俺もヤキが回ったか」

 

「何じゃ疲れた顔をしおって、らしくない」

 

老人は少し心配そうに眉尻を下げる。「何かあったのか?」

 

「さあな」

 

「いつもそうやってすっとぼけおって」

 

狩人を睨むが、やがて肩をすくめる老人。

 

「まあいい。それより王妃様を知らんか? 城の中を探しとるんじゃが、姿が見えなくてな」

 

老人の問いに、狩人は真顔でじっと彼を見返した。次第にその口元に鋭く、暗い笑みが広がっていく。

 

「ククッ、あの女か? あの女はなぁ、俺が殺した」

 

「またつまらん冗談を……」

 

老人は呆れたように首を振った。だが、不意にその目を驚きに見開く。

彼の視線は、兵舎から顔を出す王子の顔に注がれていた。「お前……隣の国の連中とつるんでおるのか」

 

「こいつを知ってるのか?」

 

狩人の問いに、老人は顔を強張らせる。「わしの質問に答えろ」

 

「狩人さん、この方は?」

 

王子の言葉を片手で遮り、狩人は眉をひそめた。「だったら何だ」

 

「何処に案内する気じゃ?」

 

少なからずうろたえた様子の老人に、彼は表情を変えずに返す。「今は帰るところだ。もう目的は達したからな」

 

「……何ということだ」

 

老人は呟き、ふらふらと壁に寄りかかった。

浅黒い肌に血色の悪さが混じり、少し白くなったように見える。

 

「どうした疲れた顔をして。らしくないな」

 

「……」

 

狩人が声をかけても、老人は顔を上げなかった。

彼は頭を掻くと、視線を逸らして付け加える。

 

「みんな大好き王様が蘇りやがった。あの女が最期に何かしたらしい」

 

「ああ、分かっていたよ。あの方ならやり遂げると」

 

老人は独り言のように呟いた。

ようやく顔を上げると、狩人をじっと見据える。

 

「これからどうする気じゃ」

 

「さあな」

 

狩人はしばらく曇天を見上げていたが、不意にその顔が鋭い笑みに歪む。「あの偉そうなツラが、どうにも気に入らん」

 

「なんじゃと?」

 

「俺はあの野郎に命を狙われてる」

 

腰に手を当て、不敵に笑ってみせる狩人。「軍神とやらと殺し合うのも悪くないかもな」

 

「無謀だ。勝てるわけがない」

 

「どうかな? こっちには頼りになるお友達がたくさんいるぜ」

 

「……そうか」

 

老人は再び力なく俯く。だが次に顔を上げたとき、その目には暗く静かな決意の色があった。黒い瞳の奥に、小さくも煌々とした紅い光が宿る。

篝火の立てるパチパチという音が、おもむろに大きく響いた。

 

「王妃様の愛も、鎖も……貴様を縛ることはできなかったというわけか」

 

「何の話だ」

 

訝しげに顔をしかめる狩人に向け、老人はゆっくりと片手を伸ばす。纏ったぼろ布がずれると、腕に隙間なく彫られたルーンの焼き印が顕わになった。

 

「もっと早く、こうするべきだったのかもしれん」

 

「……!」

 

辺りに満ちる身を焦がすような殺気に、狩人は思わず背筋を震わせる。

まるで何かに呼応するように、篝火が激しく燃え上がった。火柱となって天に立ち上り、周囲に火の粉を撒き散らす。

 

彼は身構えるが、あまりにも遅すぎた。

 

「が……あ、あぁ……!?」

 

掠れた悲鳴とともに銃を落とす狩人。

老人が虚空を握りしめると、まるでその指が食い込むかのように気道が締め上げられる。

しかし狩人が最初に感じたのは、苦痛ではなく熱さだった。自身の喉が焼ける臭いが鼻孔を満たすと、強烈な吐き気に見舞われる。だが狭まった気道では吐くことすらできない。

 

彼は胃の中のものの代わりに、悪態を吐き捨てる。「クソッ……タレがぁ……!」

 

己の首を絞める何かを止めるべく、彼は喉を掻きむしる。だが指先を掠めるのは微かな熱のみで、あとは皮膚が裂けて血が流れるばかりだ。

 

意識が薄れゆく刹那、狩人は目を見開いた。老人の殺気に呼応して彼の首に手をかける何かが、ぼやけた視界の中に垣間見えたからだ。

 

それは火のように赤く揺らぐ輪郭を持つ、大きな腕だった。まるで炎の巨人の腕だ。そうとしか形容できない。ふわりと宙に浮かび、二本の指で摘まむように彼の首筋を歪めている。

 

「はあぁっ!」

 

気合いの声とともに飛び出した王子の細剣が、炎の腕を貫いた。

聖別された銀の刃は幻にすら傷を与えるのだろう。巨人の腕は痛みに指先を震わせた後、跡形もなく消えてしまった。

 

狩人は膝から崩れ落ち、激しく咳き込みながらも、地面に落ちた猟銃を握りしめる。

 

「助けるのが遅れてすいません! 何が起きてるのか分からなくて、それで……!」

 

「いや、上出来だ」

 

掠れた声で返す狩人。自身の喉に手をやり、火傷の具合を確かめる。

肌は引きつってざらつき、痛みはほとんど感じない。ただ血肉の焼ける嫌な臭いだけがひどく鼻をついた。

 

「楽には殺してやれそうにないな」

 

老人は疲れたように溜め息を吐く。

その背後に一瞬、炎に象られた巨人の姿が浮かび上がるが、再び霞みがかったように消え去る。少なくとも、狩人にはそう見えた。

 

「クソジジイめ……」

 

狩人は額に脂汗を浮かべながらも、歯を剥き出すように笑う。

 

「酒場で飲んだくれていれば良かったと思わせてやるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

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