娘の声に、曇王はこれといった反応を示さなかった。変わり果てた魔女の傍に跪くと、その遺体を優しく抱き上げる。
「哀れな女だ。そなたの賢さ、美しさを以てすれば、他に生き方などいくらでもあったはずなのに……」
低い声で呟く曇王。しかしやがて頭を振ると、自嘲の笑みを溢した。
「いや……これも余のせいか。余の生き方、余の理想が、そなたの氷の心に火を灯してしまったのだな」
王は彼女を台座の上に寝かせ、今は瑞々しさを喪った銀色の髪を愛しげに撫でる。
「お前は何も諦められなかった。何一つ、捨てることができなかったのだ」
「ヴァルデック王……」
王子の掠れた声が響くと、曇王の視線が初めて彼らの方へ動いた。巌のような険しい顔に、親しげな笑みが混じる。
「エドワードか? カリーでの講和会議以来だな。息災であったか」
「その、お久しぶりです」
王子が戸惑いながら会釈をすると、彼は微笑んで応じた。「少しは大きくなったか。何故そなたがここにいるのか、ひとまずは置いておくとして……」
曇王の視線が横に流れ、そのまま狩人へと移る。
その穏やかな目に、再び厳しげな光が宿った。
「猟犬よ。冷酷で忠実な子飼いと聞いていたが。まさか……貴様が裏切るとは」
「フン、知ったような口をきくな。『死人返り』の分際で」
小馬鹿にするように鼻を鳴らす狩人。銃をいつでも構えられるよう、指先を軽く動かして血を通わせる。
「死人か」
何かを自身の内に刻むように、王は重々しく呟いた。台座に立てかけられた長大な剣に目を止めると、その柄にゆっくりと手を伸ばす。
柄頭に軽く触れ、そこから鍔に向かってなめらかに指を滑らせてから、ようやく握りしめた。固く張りつめ、ひび割れた岩のような手は、武骨ながら流麗な両手剣に驚くほど馴染んでいる。
礼拝堂の内に籠もる微かな明かりを受け、その刀身が青く輝いた。それは紛れもなく、主の心と魂の帰還に歓喜する剣そのものの意思であった。
「英雄がお役御免になった理由を教えてくれる約束であったな、猟犬」
輝く剣を携え、紺の外套をひるがえし、狩人に向き直る曇王。その威風堂々たる姿は、まさにお伽話に語られる伝説の人物そのものだった。
見上げるほどの背丈が、一段高い場所にいるせいでよりいっそう大きく見える。白雪姫のものと同じ澄んだ青い瞳は、彫りの深く精悍な顔立ちと相まって、神秘の如き威厳を醸していた。
王子はもちろん、槍の騎士までもが魅入られたように怯み、動くことができずにいる。狩人も思わず息を呑むが、怯えたのはほんの一瞬だった。
「ご指名とはな。光栄の至りだ」
ニヤリと笑い、ここぞとばかりに猟銃を構える狩人。引き金に指をかけるが、正確な狙いをつける前に、横から王子が割って入る。
「お待ちください、ヴァルデック王! 僕たちが戦う必要はありません!」
必死な形相で訴える王子を、曇王はどこか冷めた目で見ていた。段を一歩一歩踏みしめ、草臥れた絨毯の上に降り立つ。
彼らと同じ高さに立ったものの、少しも小さくなったようには見えない。「余に従え、エドワード」
「え……?」
「そなたを臣下に欲しいと、以前から考えていた」
彼の言葉に、さながら電流が走ったように固まる王子。頬を赤くし、口をパクパクと動かすが、声は出てこない。
しかし少し間を置いてから、はっきりとした口調で返す。
「申し訳ありません。僕はイングランドとその民に忠を尽くします。物心ついたときから誓っていることです」
「ならば是非もない」
王の声はさながら宣告のように響いた。
俯きがちな顔に影が差し、その表情を量ることはできない。ただ迸る殺気だけが、彼の意思をその場の者にはっきりと伝えていた。
長大な剣を片手で握り、頭上へと無造作に振り上げる。
王子の反応は鈍かったが、反対に狩人は素早かった。ハッと目を瞠った後に舌を打ち、彼を抱えて横に飛ぶ。
数瞬遅れ、王の剛剣が振り下ろされた。あまりの速さと重さに、その刀身の先は空気の壁を突破する。引き裂かれて生じた真空が、白銀の刃となって彼らに迫った。
「くそっ」
顔を歪めて悪態を吐く狩人。事前に察して動いたが、それでも避けきれる速さではない。
しかし床に身を投げ出した彼らに、風の刃は届かなかった。深々と地に突き立てられた銀の槍が、直前で受け止めたのである。
「お前に命を救われるのはこれで二度目か? すこぶる気分が悪いな。吐きそうだ」
しかめ面で立ち上がる狩人に、槍の騎士は何も返さなかった。厳しい表情のまま、無言で床から槍を引き抜く。
風の余波で震える槍身の無事を確かめると、にこりともせずに言い放った。「エドワード様、お二人を連れて撤退を」
「なに……?」
狩人は聞き返すが、王子は素早く頷くと、彼と白雪姫の腕を掴んで出口へと走る。「早く、こちらへ!」
「お父様、やめて! この方たちは敵ではありません!」
姫は必死に叫ぶが、王は眉一つ動かさなかった。
出口の扉が開かれ、乱暴に閉じられるのを見送ると、一人残った勇敢な騎士に顔を向ける。
「道化よ。貴様の出る幕はもうない」
曇王は低く、どこか冷めた声で騎士に宣った。
「この世界は既に、余のものなのだ」
礼拝堂から飛び出してきた狩人たちを迎えたのは、二人の小人だけだった。中庭をほうほうの体で走ってくる彼らに気づくと、小人たちは慌てて駆け寄る。
「お姫様を取り返したんだね!」
「ああ、まあな」
「大丈夫だった? 雷が落ちたみたいだけど。誰もケガしてない?」
『おとぼけ』の言葉に、狩人は眉根を寄せた。
「雷は問題ないが、雷親父が復活した。俺はそいつに殺されそうになってる」
「ええ、どういうこと?」
首をひねる『おとぼけ』に、狩人は頭を掻きながら説明する。
「ほら、昔から言うだろ。地震、雷、火事、親父ってな」
「???」
ますます首をひねる『おとぼけ』。
王子は不安そうに振り返ると、意を決したように拳を握った。一度は腰の鞘に納めていた細剣を再び抜き放つ。
「狩人さん、姫を連れて行ってください。ここは僕が食い止めます」
「お前が食い止められる相手なのか? 俺にはそうは思えんが」
「そ、それは……」
王子が言い淀むと、狩人は肩をすくめて言った。
「股間が槍の騎士様に任せておけばいいんだよ。あいつならなんかこう、なんだ。なんか上手いことやってくれるだろ」
「それは……そうかもしれませんが」
力なく俯く王子。
その横に立つ白雪姫は、紅い小さな唇をぎゅっと引き結んでいた。狩人と王子の二人を交互に見やったあと、掠れた声を洩らす。
「お父様は……曇王は軍神です。剣や槍では決して倒れません」
「そうは言うがな、股間の騎士様も大概だぞ」
狩人はそこまで言ってから視線を移し、心なしか大人しく見える『くしゃみ』を見た。
「いざとなったら大先生の出番だ。城ごと吹き飛ばしてやれば良い。そうだろ?」
「そのことなんだけど……」
『おとぼけ』は気まずそうに『くしゃみ』と視線を合わせる。「実はもう、大きなくしゃみは撃てそうにないんだ」
「は? 何でだ」
狩人が眉をひそめると、『おとぼけ』はびくつきながらも続けた。
「寒かったり空気が乾燥してたりしないと、くしゃみが出にくいんだよ。今は暖かいし雨が降りそうで湿ってるでしょ? だから……」
「知るかそんなの。気合いで出せ」
身を乗り出して凄む狩人に、『おとぼけ』はとうとう縮こまってしまう。
『くしゃみ』は彼を庇うように前に出ると、素直に頭を下げた。「ごめんなさい」
「いや、おま、お前……」
狩人はわなわなと震えつつも、なんとか口を動かす。
「お前、謝れたのか? 謝るタイミングがおかしいだろ。もっと謝るべき時は今までに何度もあったろうが。何で今になって謝るんだ。おかしいだろ。お前……」
「か、狩人さん。落ち着いて」
見かねた王子が彼の腕に触れようとした、次の瞬間。地を震わせるほどの音と衝撃が、彼らの足をすくませた。
「ちっ。また雷か」
舌を打ち、音のした方へ顔を向ける狩人。そして思わず悪態をついた。骨組みだけを残し、礼拝堂の屋根が崩れ落ちていたのだ。
彼らの位置からはすでにそれなりに距離があるが、切り裂かれた大気の熱と漆喰の焼ける臭いが、風に乗って流れてくる。
「くそったれ。あの野郎、負けやがったな」
数秒ほど礼拝堂を睨みつけていた狩人は、再び悪態をついた。背中に腕を回し、猟銃を手元にぐいと引き寄せる。
装填作業に移る傍ら、顔を青くしたまま立ち尽くす王子に向けて言った。「お前らは逃げろ。あいつの狙いは俺だ」
「そんな! 置いていけるわけないでしょう!」
彼は激しく首を振るが、狩人は取り合わない。
銃口二つともに弾を詰めると、倒れた木の影に身を潜ませる。「行け。今、白雪姫を守れるのはお前だけだ」
「そっ、そんな言い方……!」
王子はそこまで言ってから唇を震わせ、「ずるいです」と、ほとんど聞き取れない声を洩らした。
白雪姫は狩人の近くに寄ると、決意の籠もった眼差しを向ける。「狩人様の傍にいます」
「……おい」
「私は王の娘です。私が近くにいれば、父は貴方を攻撃できない。そうすれば話し合いだって……」
「絶対にそうなると言い切れるか?」
狩人の言葉に、彼女はハッと息を呑んだ。
金縛りにあったように動きを止め、強張った表情のまま彼を見返す。
「まあ、確かにお前さんだけは逃げる必要ないな。さすがの雷親父も実の娘には……」
狩人がそこまで言ったときだった。
銃声に似た、空気の壁を打ち破る音が辺りに響く。そして地を奔り迫る銀の閃光が、二人の間の石畳を切り裂いていた。割れた倒木が、まるで嵐に吹かれたように軽々と宙を舞う。
飛び散る粉塵を吸い込み、『くしゃみ』は小さいくしゃみをした。
『おとぼけ』は怯えて尻餅をつき、ガタガタと身体を震わせる。「お、王様だ! 生き返ったんだ、本当に……!」
「何をしてやがる、このデカブツが!」
驚きや恐怖もそこそこに吐き捨てる狩人。
姫が無事なことを確認するや、荒っぽく立ち上がって銃を構えた。「危ないだろうが! テメエの娘だろ!!」
「真に余の血を引く者なら、この程度では死なぬ」
礼拝堂の影から姿を現した曇王は、悠々とした足取りで迫ってくる。「それよりも、貴様の能は逃げるか隠れるだけか?」
「……ちっ」
狩人は舌を打ち、銃の狙いを定めた。照準を王の胸の中心に合わせると、深く吐き出してから息を止め、引き金に指をかける。
「よかろう。試してみるがいい」
遮蔽物も何もない、庭園の真ん中に堂々と立つ曇王。狩人は残酷な笑みに口の端を歪めるが、瞳には怯えの色が混じっていた。
乾いた火薬の音が響く。放たれた銀の弾丸は狙いを違わず、甲冑に守られた胸部に命中する。
しかし王は倒れるばかりか、よろめくことすらしなかった。
狩人はぎりぎりと歯を鳴らし、二発目の引き金に指をかける。「さっさと死ね!」
次の弾が放たれる直前、王の巨体がまるで風のように消えた。人離れした脚力で地を蹴り、彼の元へと一瞬で移動したのだ。
驚く間もなく、狩人は王の拳を顎に受け、呆気なく昏倒してしまう。
「やはりな。銃ごときでは英雄は殺せん」
地に伏した狩人を冷ややかに見下ろす曇王。
彼の身に纏う鎧は、かつての錆びてくすんだものではない。高貴な灰金色の甲冑へと変わっていたのである。
銀の弾はその中心にわずかなへこみを残すのみで、貫通した跡はない。
「英雄は死なぬのだ。猟犬よ」
王は静かな声で宣うと、剣を持ち上げ、狩人にとどめを刺そうとした。だが眼前に割って入った白雪姫の姿に、煩わしげに眉をひそめる。「何をしておるのだ、ブランカ」
「狩人様は恩人です!」
威圧的な王の声にも、彼女は一歩も怯まなかった。両腕を広げたまま、必死な形相で叫び続ける。「私の命を何度も救ってくださいました!」
「美しく、愚かな我が娘よ」
王は冷たい目で白雪姫を見据える。「あの女が本気でお前の命を奪うとでも?」
「……っ!」
白雪姫はハッと息を呑んだ。その青く綺麗な瞳に見る見るうちに涙が溜まると、曇王は溜め息をつく。「退け。戦場は女の立つ場所ではない」
王は姫を軽く突き飛ばすと、狩人の前に立った。
剣の柄を両手で握り、頭上高く振り上げる。「せめて苦しまぬよう、一息で首を刎ねてくれる」
「狩人さんから離れろ!!」
あわやという瞬間にようやく王子が飛び出し、細剣を鞭のように鋭く振るった。針のような刀身は大きくしなりつつ曇王の手首を打ち、火薬の破裂に似た、けたたましい音を響かせる。
「ようやく勇気を搾り出したか、エドワード」
髭に覆われた口元に鋭い笑みを浮かべる曇王。
王子の剣を受けた手甲はわずかに傷ついたが、彼本人は顔をしかめてすらいなかった。剣こそ地についていたが、再び持ち上げ構えをとる。
ただし今度は狩人ではなく、王子に狙いを定めていた。「この曇王を伐つ覚悟はできたか?」
「狩人さんを守ります」
「良かろう。来るがいい」
王は高らかに宣うと、ゆっくりと足を動かし、倒れたままの狩人から距離を取る。
だが数歩も歩かぬうちに、地に伏す彼の上体がわずかに持ち上がった。王を見上げる泥だらけの顔は、狡猾な笑みに歪んでいる。
「ぶったまげろ」
狩人はこっそり懐から取り出していたラッパ銃を、曇王に向けて発砲した。やかましい爆発音とともに撒き散らされた礫が、彼の顔面を襲う。
とっさに片腕を上げ、その大半を防ぐ曇王。しかし指の間をすり抜けた礫片のうちの一つが、彼の片目を深く抉った。
「……ッ!」
王子は息を呑み、一瞬迷った後、飛び込むように狩人と曇王の間に割って入る。彼を背中に庇い王に向き直ると、油断なく剣を構えた。
「逃げる隠れるに加え、騙し討ちも付けるか、猟犬」
曇王は変わらず冷ややかな声で言った。
片目を潰されたというのに怯むばかりか、手で庇う素振りもない。瞼が破れ、眼球も痛々しく潰れているが、顎を伝う血や体液をそのままにしている。
「銃の味はどうだ、英雄。ざまあみやがれ」
狩人が挑発を返すが、曇王は鼻を鳴らすだけだった。潰れた左目に初めて手をやると、苦笑気味に笑う。「あるべき姿に戻ったまでのこと」
「ならもう片方の目も潰してやるよ」
狩人は素早く腰に手をやり、火薬袋を取り出すと犬歯で噛み切った。ラッパ銃に火薬を流し込んだあと、その辺りの砂利を広い銃口で掬い取り、装填を完了する。「そのムカつくツラを吹っ飛ばしてやるぜ」
片膝をついたまま、銃を王に向ける狩人。
だが脳を揺らされた結果が今になって表れたのか、にわかに腕が震えてしまい、照準が安定しない。
「……クソッ」
悪態を吐く狩人を、曇王は蔑みの目で見下ろした。肩をすくめると、両手剣を高々と天に掲げる。「素直に眠っておれば楽に死ねたものを」
「!」
王子は目を見開き、攻撃を警戒して身構えた。だが次に眼前で起きた光景は、彼の想像を遥かに超えるものだった。
空気の妙な渇きと緊張を肌で感じる狩人。また雷が落ちると本能で悟った。だが回避に移る前に、稲妻は熾烈に天を裂きながら王の長大な剣に命中する。
「は……?」
王子と同様に、彼もあんぐりと口を開けていた。
後に続くべき激しい音と衝撃はなく、空気を焦がす臭いもない。ただ目も眩まんばかりの青白い光が、天を突く王の剣に宿っていた。
「受けてみよ、我が雷剣を」
「おいちょっと待て待て待て待て。それは流石にふざけんな!」
「命乞いか? 先ほどの道化はもっと潔かったぞ」
乾いた笑みに唇の端を歪める曇王。そして気迫とともに頭上の剣を振り下ろし、その刃先から閃光を解き放つ。
「……チッ」
雷の速さを理解していた狩人は、もはや舌打ちする以外にできることがなかった。
だが稲妻は狩人はおろか、前に立つ王子にすら当たらない。熾烈に歪みながら地を奔る閃光は彼らの脇に逸れ、後方の噴水を粉々に打ち砕いた。
微笑む女神の割れた顔面の一部が、狩人の足元を愉しげに転がっていく。
「ほう? 良い腕だな、小人よ」
手甲のわずかな隙間に突き立った小さい矢を一瞥し、曇王は感心したように片方の眉を上げる。
『おとぼけ』は弓を構えた姿勢のままプルプルと震え、息をすることすら忘れているように見えた。
「どこぞの犬よりよほど筋が良い。我が師の教えは剣や魔術に留まらぬらしいな」
王はどこか満足げに呟くと、手首に刺さった矢を抜いて地面に捨てる。だがその一瞬、微かに眉をひそめた。
腕がにわかに震えだし、柄から剣先にまで揺れが伝わっている。
「か、狩人さん、逃げて! し、し、神経毒の効果は長くは続かない!」
震えの止まらぬ唇でようやくそれだけ口にする『おとぼけ』。
「逃げる? もっといい手があるぜ」
狩人はにやけ面で銃を持ち上げる。立てた片膝の上に銃床を突き、照準を安定させた。「あのむさ苦しい髭面を吹き飛ばしてスッキリさせてやるんだ」
そうして引き金に指をかけたが、やがて目を細める狩人。火薬の匂いとともに、煙が周囲に充満し始めたのだ。
曖昧な灰色に染まる庭園を恨めしげに睨むが、嗅覚を頼りに王のいる大雑把な位置に当たりをつけ、発砲しようとする。
「やめろ。無意味だ」
何者かに腕を掴まれ、彼は胡乱げな視線をそちらに向けた。
黒ずくめの小人が、鋭い目で彼を見返している。
「どうせ仕留めきれない。それより、ここから離れるぞ」
「お前に指図される筋合いはないと言ったら?」
狩人の言葉に『照れ屋』は一瞬考えたあと、懐に忍ばせた紙に指を走らせる。表に返したそれには一言『困る』とだけ書かれていた。
恥ずかしがり屋の小人の援護のおかげで、狩人たちは何とか無傷で庭園から逃げることができた。暗く静まり返った城内を抜け、大広間まで辿り着く。
「おい、なんだコイツ。こんなのいたか?」
狩人が指さす先には、立派な金の羽毛をなびかせた一匹の雄鶏がいた。ただの鶏よりも一回りは大きく、鶏冠や尾も立派に見える。
彼は狩人の声に反応して振り返り、なにやらきょとんと目を瞬かせていた。
「今は鳥さんに構っている場合ではありませんよ」
王子は唇を尖らせてそう言うが、正面に向き直ってから思わず足を止めた。玉座の後背に立ち並ぶレリーフが、以前と絵柄が変わっていることに気づいたのである。
力強さ溢れる烏と狼の姿が彫られていたはずだが、それらは綺麗に姿を消していた。まるで初めからそこにいなかったかのように。
「……!」
彼は辺りを見回し、変化しているのはレリーフだけではないことに気づいた。壁に飾られた刀剣や天井に吊された盾も、磨かれたばかりのように美しく輝いている。
以前見たときは、確かに埃を被って色褪せていたはずなのだ。
「美術の観賞会が今やるべきことなのか? さすがは将来有望な御仁だ。勤勉でいらっしゃる」
「わ、分かってますよ。意地悪言わないでください」
狩人の皮肉に顔を赤くする王子。頭を振って気を取り直すと、音もなく先行する『照れ屋』の後に続いた。
「おい、まさか真正面から帰る気か」
狩人の言葉に、黒ずくめの小人は振り返ることなく返す。「そのつもりだ」
「この国の兵士の間抜けっぷりはよく知ってるが、さすがにそれは無謀すぎやしないか?」
狩人が訊ねると、『照れ屋』はそのときになってようやく振り返った。
「行きに使った隠し通路はすでに塞がれていた。だが城門前は兵の監視が緩く、どういうわけか市民が続々と集まってきている。彼らに紛れてしまえばまず見つかることはない」
「なるほどな」
狩人は頷くが、ややあってから再び口を開く。
「密偵の女の姿がないぞ。あと『怒りんぼう』も。そいつらはどうする気だ?」
「黒い女のことか」
「お前も黒いだろ」
「彼女は動けるようになっていたはずだが、いつの間にか姿を消していた。『怒りんぼう』は……」
そこまで言いかけ、彼は何かを思いだしたようにハッとする。そして懐から紙を取り出すと、指に泥をつけてから綴った後、裏返してみせた。
『城下町まで飛ばされていた。そこで合流する手筈になっている』
「そこまで筆談にこだわる理由を知りたいところだが、まあ今はいい」
狩人は肩をすくめ、後ろを小走りでついてくる白雪姫をちらりと見た。
「アイツをどうすべきだと思う? ここに残れと言ったんだが、聞きやしないんだ」
「俺たちが決めることじゃない」
「そうは言うがな、あの女が死んで雷親父が生き返った今じゃ、だいぶ事情が……」
狩人がそこまで口にしたときだった。
大広間の扉の隙間から外を覗いていた『おとぼけ』が、慌てて彼らの方に戻ってくる。
「ダメだよ。こっちは兵隊さんたちがたくさん集まってる」
『なら兵舎の庭から城壁沿いに外に出よう』
黒ずくめの小人は紙にそう記すと、彼らに見えるように交互に角度を変えて掲げた。
後ろにいる王子や白雪姫にも見せると、彼女は不安そうに訊ねる。
「非常時とはいえ、兵舎にも人は残っていると思います。危険ではありませんか?」
「俺が先行する」
『照れ屋』は間を置かずにそう言うと、広間の端にある小さな扉に向かって早足に進んだ。取っ手に指をかけてから「十秒数えたら入ってこい」と呟き、次の瞬間、彼の姿は影となって微かに開いた扉の隙間に消える。
「やっぱゴキブリだよなアイツ」
狩人が同意を求めるように『おとぼけ』を見るが、彼は悲しそうな顔をするだけだった。
兵舎に残っていた数人の兵士たちは、『照れ屋』の手によって呆気なく無力化されていた。
彼は十秒と言ったが、実際は数秒でケリがついていたのだろう。狩人たちが入ってきたときには、すでに気絶した兵士たちが丁寧に縄で縛られていた。
「屋上から直接城壁の上に抜けられるよ!」
上階の様子を見に行っていた『おとぼけ』の声が天井越しに響くと、狩人は弾薬を物色していた手を止める。
「だ、そうだ。何か言ってやれ」
狩人が呟くと、『照れ屋』は頭上に顔を向けて言った。「そっちはダメだ。見張りの塔が近すぎる」
「庭から城壁に上るんだったか」
「そうだ」
「フン」
狩人は鼻を鳴らしつつ、棚に並んだ薬莢のうちの真新しそうないくつかを鞄に入れる。
「城内の地理にまで詳しいとは恐れ入る。あの女がお前を警戒していた理由も頷けるな」
黒ずくめの小人は彼に視線を移すと、低いがよく響く声で静かに言った。「さっきの話だが……」
「あ?」
「曇王はあんたに執着している。今は姫よりも自分の心配をすべきだ」
「昔からおっさんやジジイにばかりモテるタチでな。慣れてるさ」
何でもないことのように肩をすくめる狩人。
その場で踵を返すと、庭に続く出口の扉を静かに開けて外を覗いた。「少し先を見てくる」
『気をつけろ』
紙にそう記して見せてくる『照れ屋』を無言で一瞥してから、狩人は猟銃を構えて建物の外に出た。五感を研ぎ澄ませ、人の気配がないことを悟ると、少しばかり警戒を緩める。
兵舎と城壁に挟まれた庭は、先ほどの庭園のように広くなく、これといった装飾もなかった。あるのは訓練用の藁人形や弓の的、薪の山くらいで、ひどく殺風景に見える。
灯りは壁沿いに置かれた篝火が一つだけであり、夜闇が物寂しさに拍車をかけていた。
「誰かと思えば、狩人のあんちゃんか」
「!?」
狩人は慌てて銃を持ち直し、声のした方に向ける。彼からはやや死角となった壁際の影に、一人の老人が立っていた。ひょろりと背の高く痩せた身体に、緋色のぼろ布を纏っている。
「じーさん、あんたこんなとこで何してんだ?」
「それはこっちのセリフじゃよ」
老人はフードを外し、髪と髭を綺麗に剃った顔を見せた。酒場でたびたび顔を合わせる馴染みのしわくちゃ顔である。
狩人は銃口を下ろすが、視線はもう一度周囲の影の間を彷徨う。「あんたの他には誰もいないな?」
「おらんよ」
「本当か?」
「相変わらずビビリじゃのう」
「うるせえよ」
彼は溜め息を吐くと、気怠げに猟銃を肩に担いだ。「人の気配はなかったんだがな。俺もヤキが回ったか」
「何じゃ疲れた顔をしおって、らしくない」
老人は少し心配そうに眉尻を下げる。「何かあったのか?」
「さあな」
「いつもそうやってすっとぼけおって」
狩人を睨むが、やがて肩をすくめる老人。
「まあいい。それより王妃様を知らんか? 城の中を探しとるんじゃが、姿が見えなくてな」
老人の問いに、狩人は真顔でじっと彼を見返した。次第にその口元に鋭く、暗い笑みが広がっていく。
「ククッ、あの女か? あの女はなぁ、俺が殺した」
「またつまらん冗談を……」
老人は呆れたように首を振った。だが、不意にその目を驚きに見開く。
彼の視線は、兵舎から顔を出す王子の顔に注がれていた。「お前……隣の国の連中とつるんでおるのか」
「こいつを知ってるのか?」
狩人の問いに、老人は顔を強張らせる。「わしの質問に答えろ」
「狩人さん、この方は?」
王子の言葉を片手で遮り、狩人は眉をひそめた。「だったら何だ」
「何処に案内する気じゃ?」
少なからずうろたえた様子の老人に、彼は表情を変えずに返す。「今は帰るところだ。もう目的は達したからな」
「……何ということだ」
老人は呟き、ふらふらと壁に寄りかかった。
浅黒い肌に血色の悪さが混じり、少し白くなったように見える。
「どうした疲れた顔をして。らしくないな」
「……」
狩人が声をかけても、老人は顔を上げなかった。
彼は頭を掻くと、視線を逸らして付け加える。
「みんな大好き王様が蘇りやがった。あの女が最期に何かしたらしい」
「ああ、分かっていたよ。あの方ならやり遂げると」
老人は独り言のように呟いた。
ようやく顔を上げると、狩人をじっと見据える。
「これからどうする気じゃ」
「さあな」
狩人はしばらく曇天を見上げていたが、不意にその顔が鋭い笑みに歪む。「あの偉そうなツラが、どうにも気に入らん」
「なんじゃと?」
「俺はあの野郎に命を狙われてる」
腰に手を当て、不敵に笑ってみせる狩人。「軍神とやらと殺し合うのも悪くないかもな」
「無謀だ。勝てるわけがない」
「どうかな? こっちには頼りになるお友達がたくさんいるぜ」
「……そうか」
老人は再び力なく俯く。だが次に顔を上げたとき、その目には暗く静かな決意の色があった。黒い瞳の奥に、小さくも煌々とした紅い光が宿る。
篝火の立てるパチパチという音が、おもむろに大きく響いた。
「王妃様の愛も、鎖も……貴様を縛ることはできなかったというわけか」
「何の話だ」
訝しげに顔をしかめる狩人に向け、老人はゆっくりと片手を伸ばす。纏ったぼろ布がずれると、腕に隙間なく彫られたルーンの焼き印が顕わになった。
「もっと早く、こうするべきだったのかもしれん」
「……!」
辺りに満ちる身を焦がすような殺気に、狩人は思わず背筋を震わせる。
まるで何かに呼応するように、篝火が激しく燃え上がった。火柱となって天に立ち上り、周囲に火の粉を撒き散らす。
彼は身構えるが、あまりにも遅すぎた。
「が……あ、あぁ……!?」
掠れた悲鳴とともに銃を落とす狩人。
老人が虚空を握りしめると、まるでその指が食い込むかのように気道が締め上げられる。
しかし狩人が最初に感じたのは、苦痛ではなく熱さだった。自身の喉が焼ける臭いが鼻孔を満たすと、強烈な吐き気に見舞われる。だが狭まった気道では吐くことすらできない。
彼は胃の中のものの代わりに、悪態を吐き捨てる。「クソッ……タレがぁ……!」
己の首を絞める何かを止めるべく、彼は喉を掻きむしる。だが指先を掠めるのは微かな熱のみで、あとは皮膚が裂けて血が流れるばかりだ。
意識が薄れゆく刹那、狩人は目を見開いた。老人の殺気に呼応して彼の首に手をかける何かが、ぼやけた視界の中に垣間見えたからだ。
それは火のように赤く揺らぐ輪郭を持つ、大きな腕だった。まるで炎の巨人の腕だ。そうとしか形容できない。ふわりと宙に浮かび、二本の指で摘まむように彼の首筋を歪めている。
「はあぁっ!」
気合いの声とともに飛び出した王子の細剣が、炎の腕を貫いた。
聖別された銀の刃は幻にすら傷を与えるのだろう。巨人の腕は痛みに指先を震わせた後、跡形もなく消えてしまった。
狩人は膝から崩れ落ち、激しく咳き込みながらも、地面に落ちた猟銃を握りしめる。
「助けるのが遅れてすいません! 何が起きてるのか分からなくて、それで……!」
「いや、上出来だ」
掠れた声で返す狩人。自身の喉に手をやり、火傷の具合を確かめる。
肌は引きつってざらつき、痛みはほとんど感じない。ただ血肉の焼ける嫌な臭いだけがひどく鼻をついた。
「楽には殺してやれそうにないな」
老人は疲れたように溜め息を吐く。
その背後に一瞬、炎に象られた巨人の姿が浮かび上がるが、再び霞みがかったように消え去る。少なくとも、狩人にはそう見えた。
「クソジジイめ……」
狩人は額に脂汗を浮かべながらも、歯を剥き出すように笑う。
「酒場で飲んだくれていれば良かったと思わせてやるよ」