不定期更新です。好きなようにのんびり書きます。
その魔術師がサバレーゼにやってきたのは、野イチゴが実を結びはじめた初夏のことだった。
西の麦畑を越えた向こう側の赤風丘陵、さらにその先の森まで一帯を治めるフィステル伯に招かれて、この夏いっぱい魔獣の討伐にあたる魔術師。都市市民の生活を守り、都市のさらなる拡張を可能にしてくれる、偉大な神秘の担い手だ。
旗持ちと鼓笛隊に先導されて、丘の方から吹く風に大きなとんがり帽子を飛ばされそうになりながら、その魔術師はサバレーゼの門を潜った。
中央広場に設けられた舞台の上で、不調な拡声魔導器をわんわんと唸らせながら、魔術師は少し困ったように挨拶をした。
「エルメアです、土魔術師です。……あー、こういう挨拶は得意じゃなくて。とりあえず、できる限りで頑張りますので」
女の魔術師。それも、どこか頼りない。
彼女が携える杖は立派なもので、大人の男の身長ほどもあり、先に大粒の琥珀が輝いている。しかし、その杖に見合うだけの実力があるとは誰も思っていなそうだった。
毛織物ギルドのギルド長は苦い顔をしていたし、歳市蔵の番人をしているルイジじいさんは「大丈夫かね、こりゃ」と心配そうにぼやいていた。もっとも、ルイジじいさんは若い者になら誰でも同じ反応をするが。
それよりも僕ががっかりしたのは、彼女が土魔術師だったことだ。
この世界には様々な魔術師がいる。火や風といった彼らが言うところの元素を操る達人もいれば、見えない力を操ったり、獣を呼び出したり、伝説を信じるのなら時間を止められた魔術師もいたという。
都市の子どもたちにとっては、森の魔獣を討伐することよりも、その人がどんな魔法を披露してくれるかのほうがよっぽど重要だった。
だから、市長である父の家に滞在する彼女が、魔術師のなかでもいっとう地味だと噂される土いじりの魔術を修めていたことは、この夏がもたらす刺激に期待していた僕にとっては並大抵でない失望を与えた。
そういうわけがあって、母に促されて初めて挨拶した時の僕はあまり愛想がよくなかったかもしれない。
「よろしくお願いします、先生。息子のリトです。ほら、先生にご挨拶をおし」
「……リトです」
「すみません先生、この子は人見知りで」
「いえ、子どもに好かれないのには慣れていますから」
帽子を脱いで我が家の客人用の椅子に腰掛けたエルメアは存外に美人で、それに気圧されたというのは否定できない。ただ、僕が生来人を品定めしてから口を利く性分なのは事実だ。
ただ、彼女の野イチゴの葉を思わせる深い緑の瞳が子どもを見る目で僕を見ていることが腹立たしくて、僕は押し込めようとする母に逆らって彼女の前に立った。
言いたいことがあるわけではない。しかし、僕は市長の息子だ。つまり、市長として魔術師と仕事の契約をする日だっていつかは来る。その日のためにも、流れの魔術師に舐められたままではいられない。
しかし、こういうときに言うべきことがさっと出てくるほど、僕は父の仕事を真面目に手伝ってはいなかった。せいぜいがマーケットのたびにルイジじいさんのところまで使い走りをする程度の経験では、魔術師を感服させる言葉など思いつきはしない。
ややあって、僕は結局当たり障りのないことを薄っすら微笑むエルメアに尋ねた。
「あの、土魔術はどこで学んだんですか」
「ハルビアの王立魔術院です。師は植物の魔術師でしたが、私は土のほうに適していました」
「卒業したのは何年前?」
「五年前です。それ以来、こうして都市を巡ってはお仕事をいただいています」
「土魔術の仕事を?」
「ええ。魔獣の討伐に限らず、市壁の補修から畑の耕作まで、色々とやらせていただいています。魔術に興味があるんですか?」
先生と呼ばれる身分であるエルメアが僕に丁寧な言葉で答えてくれたことに驚き、またそれがどこか僕を大人として扱っているように思えて、僕は心の内で彼女の評価を一段上げた。
ただ、魔術に興味があるかと問われると、答えるのは難しかった。
憧れないと言えば嘘になる。しかし、才能があるとは限らないし、何より僕はいずれ市長を継いでこのサバレーゼを守っていかなくてはならない。学問などというものにかまけている時間はないだろう。
「あんまり。でも、見せてくれるなら見たいです」
「こら、リト! すみません先生」
「いえ、お気になさらず。そうですね、せっかく泊めていただくのですから披露するのはやぶさかではありません。今日は荷物を整理しなければならないので……明日の朝にでも」
深い緑の瞳を穏やかに輝かせて、エルメアは静かに頷いた。
一番初めの挨拶を抜きにすれば、彼女は落ち着いていていかにも優秀そうな魔術師だった。もっとも、彼女が魔獣をたくさん討伐してくれるほど強いかどうかはまだわからないが。
「約束ですよ」
「ええ、約束です」
「そうしたら、僕、荷物の整理を手伝います」
母の咎めるような視線も気にせず、僕は部屋を飛び出して二階へ駆け上がった。エルメアの荷物が二階に運び込まれていることは、荷役夫たちの掛け声でわかっていた。
彼女のような魔術師はあちこちの都市を旅している。三年前の春に来た雷の矢を放つ魔術師は厳しい男の人であまり話せなかったが、彼女のような穏やかで丁寧な人であれば、他の都市についての話を聞けるかもしれない。
僕は昔から旅に憧れていた。
ハルビアは広い国だ。魔獣のいる森を越えた向こうにもまた別の都市があって、その向こうにも、さらにその向こうにも都市があるのだという。
一度だけ、父の執務室でこっそり地図を盗み見たことがある。この国は広いというのに、さらに先にはまた別の国があって、別の王様がいるらしい。これはとんでもないことだ。
そのすべてとまでは言わないまでも、南の果てにあるという海くらいは見てみたい。
エルメアの荷物を整理する中で、異国を思わせる何かが見られれば。そうすれば、今夜はその想像に夢中になれるだろう。
彼女の荷物が運び込まれた部屋にはすでに侍女が待機していて、部屋の隅に積まれた革の鞄や麻袋を危険物のように青い顔で見ていた。
「ぼ、坊ちゃま……あたし、これを片付けなきゃいけないんでしょうか」
「アンナは下がっていいよ。僕と先生がやるから」
「坊ちゃまが!? 危のうございますよ、魔術師先生にお任せなすったほうがいい。坊ちゃまもご存知でしょう、一昨年、森向こうの市で」
「夏なのに吹雪になった話だろ、聞いてる。アンナの甥が風邪を引いたんだっけ?」
「そのようなことになりでもしたら……それに、最近は流れの魔術師にも騙りがいるそうじゃありませんか。手品の類でだまくらかして、お金だけ持って、ぽん!」
アンナは皺の寄った手で「詐欺師が消える仕草」をしたが、姿をくらますことが本当にできるのならそいつは詐欺師ではなく魔術師だ。依頼をこなさなかっただけの、とつくが。
老いた侍女が不安そうに口をもごもごさせるのを尻目に、僕は尻ポケットから山羊革のグローブを取り出して両手にはめた。触るのは安全であることを示す白の布が口に巻かれた荷物だけだ。
「とりかかるから、アンナは下がって」
「でも、坊ちゃま」
「いいから。危ないことはないよ、それとも父様を疑うの?」
魔術師の荷物は、市に入る際に一度全て検査を受ける。
自然と神秘、どちらにも精通した彼らは、自らの研究資料とともに旅をする。彼らに言わせれば、自然と神秘とは本来ひとつの法則に従うひとつの世界なのだ。
そんな彼らの鞄には特級の錬金術に使われるような素材も入っていれば、赤子のおもちゃ代わりに与えられるような他愛ないものまで入っているという。もしかすると、免状もなしにご禁制の品を持ち歩いている魔術師だっているかもしれない。
所持している資格や免状と照らし合わせ、魔術師の荷物は市が保管すべきもの、魔術師個人が管理するもの、そして滞在する屋敷の使用人が預かってよいものでそれぞれ詰め替えられる。
この仕分けは市長の監督下で、市長の責任で行われる。
滞在中の魔術師を厚くもてなすのは、ただでさえ仕事を頼むのに荷物をいじくり回すことへの詫びの意味もある。父は僕に昨夜そう教えてくれた。
だから、この白い布が巻かれた荷物は使用人が触れて構わないし、それは使用人ではなく僕であってもよいのだ。
市長の息子としての責任感に溢れた表情を作りつつ、内心では胸を高鳴らせながら袋を結わえる麻紐に指をかけた。
「――グローブは革じゃないほうがいいですよ、汚れがつくといけませんから」
「わっ」
背後からかけられた声に驚いて、僕は勢いよく紐を引いてしまった。
途端に均衡を失った袋が崩れ、中の荷物が土砂崩れのように僕へと押し寄せてくる。その中にきらりと光るナイフを見つけて、僕の心臓は危うく止まりかけた。
「乾き、冷えしもの。汝、日の落つるに先んずるなかれ」
思わず目を閉じた僕の後ろから、静かな声が聞こえた。それはきっと、いや、間違いなく、呪文の詠唱だった。とても綺麗で、流暢で、呪文というより詩歌のようだった。
予想に反して、大量の荷物は僕を押し潰すことも、刺し殺すこともなかった。
ゆっくりと目を開ける。
崩れかけた荷物は、僕の目の前で均衡を失ったまま静止していた。
「時間が……止まってるの?」
口にしてから、最初に言うべきことがそれでなかったことにすぐ気がついた。
助けられたのだ。魔術によって、不用心な僕は災難を逃れた。
しかし、静かに扉を閉めたエルメアは、僕の無礼を咎めることなく隣に立って小さく首を振った。その頭には、入市式のときに被っていたものとは別の小さなとんがり帽子を被っていた。
「時間魔術は失伝して久しいですからね、私には使えません。これは荷物に纏わせておいた微粒子を固定化しているんです」
「微粒子……?」
「目に見えないほど細かい砂粒を魔法で留めていると思ってください。触っても大丈夫ですよ、日が沈むまでは崩れないよう命じましたから」
僕が見上げると、エルメアは僕に頷いてくれた。肩口で切り揃えた暗めの赤毛が小さく揺れる。
おずおずと指を伸ばし、その途中で言われたことを思い出してグローブを外す。急いでグローブをズボンのポケットにねじ込んで、僕は崩れかけて見える荷物の一番上に鎮座する小さな包みに触れた。
指先に何か、ざらついた乾きを感じる。冬場の指先に感じるような、少し粉っぽい乾きだ。これが彼女の言う微粒子だろうか。
「私の魔術は土の操作に特化していますが、裏を返せばそれは土のないところでは役立たずということです。だから、土は私にとって常に最も身近でなくてはなりません。それを開けてみてください」
「……いいの?」
「どうぞ。でも、今度はゆっくり」
その声はとても優しくて、僕は先程の醜態がひどく恥ずかしくなった。
耳まで熱くなるのを感じながら、しかしできるだけ気にしていないふりをして、僕は品のいい布でできた包みの口をほどいた。
そこに入っていたのは、真っ白な砂だった。
こんなに白い砂は見たことがない。初雪よりもずっと軽く、包みを傾ければ内側で音もなく流れていく。水を焼いて灰が生じれば、きっとこういう灰になるのだろう。
「南方の海岸地域で採れる石灰です。これを材料にすると洪水でも崩れない頑丈なモルタルが作れるんですよ。私のとっておきです」
「海岸地域……先生は海に行ったことがあるの!?」
「ええ、何度か」
「話……あの、お話、聞かせてほしい、です。あと、これ。ありがとうございました」
急にエルメアがすごい人に思えて、僕は慌てて彼女のとっておきだという包みを突き返すように差し出した。
普通、魔術師が自分のとっておきを明かすことはない。他の魔術師に真似をされてしまえば、それは食い扶持をひとつ潰すも同然だからだ。
散々侮った挙げ句、失礼なことを言ったのに、エルメアは僕にそんな大事なものを教えてくれた。ただの親切と説明するには不自然なくらい、彼女は優しかった。
「リトくん」
「は、はい、先生」
「今、君は疑問に思っているでしょう。なぜ私が君を叱らないのか。私は別に、親切で温厚な人間というわけではないんです」
出会った時は野イチゴの葉を思わせた瞳が、今は渦巻く茨のように暗い。
見上げた顔の静けさに、僕は知らず知らずのうちに汗をかいていた。それは初夏の暑さによるものでも、荷物を崩しかけた申し訳なさによるものでもなかった。
僕が出会った魔術師、地味な赤毛に茨色の瞳をしたエルメアは、細かな土に触れた僕の指先を静かに握った。
「君、この夏の間だけ、私の弟子になりませんか」
それが、僕の夏を始めた言葉だった。