神秘色をした思い出 ハルビア短編連作集   作:海野波香

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土に触れた日 - 2

 朝日を背にして丘を登る。

 赤風丘陵は、サバレーゼの農地とその先の森とを隔てる天然の城壁だ。つまり、市壁と併せてサバレーゼは二枚の壁で守られていることになる。赤風丘陵のある限り、そう簡単に魔獣は都市区に迷い込まない。

 いわばこの丘は僕たちの前哨基地であり、それゆえに赤風丘陵の開拓はあまり進んでいない。農道に面する東側にいくつかの採石場があるくらいだ。

 今日、僕は初めて丘の頂上を知る。

 

「まだ歩けますか?」

「だい、じょうぶです」

 

 口では強がっても、僕の顎からは大粒の汗が滴っていた。

 錬金術ギルドのギルド長謹製の気象計によれば、今日は少し早い真夏日を迎えるらしい。僕は侍女のアンナに頼んで水筒にハーブ水を入れてもらったが、もうその半分は飲んでしまった。

 先導するエルメアは大きな杖を携え大きな鞄を背負っているというのに、僕よりも軽やかに丘を登っていく。

 

「ここの土はいい土です。森まで入ると表土が腐植土ばかりになりますが、この丘なら有り余る量の粘土が採れるでしょう」

「ふしょく……? それってどう違うんですか」

「そうですね……どちらも生命が生み出す土壌なのですが、最も複雑な有機物と、最も複雑な鉱物の違いでしょうか」

 

 僕にとってエルメアの言葉はその一割も理解できないものだった。

 昨晩の晩餐でわかったことだが、エルメアは純粋な魔術師ではない。錬金術のアカデミーで学び、それから魔術を修めた異例の魔術師なのだそうだ。

 だからだろうか、彼女は土というどこにでもあるそれを秘薬か何かのように語る。そして、その言葉はきっと理論に裏打ちされた、しかし、彼女にしかわからない言葉だ。

 それに、屋敷にいるときとは違って、彼女は少しも微笑んでくれなかった。どうやら彼女の愛想は市長向けの売り物で、僕には用意されていないようだった。

 背の低い草が茂る丘を登る途中で、エルメアは時折地面に杖を突き立てた。

 

「答えよ。骨はあるか。血潮はあるか。苦みに満ちているか」

 

 その問いかけは僕に対してではなく、大地に対しての呪文だった。彼女がそう唱えるたび、杖の先に収まった大粒の琥珀はきらきらと輝いて内側に何かを映し出した。

 エルメアは満足げに頷いたり、小さく首を傾げたりしながら、先に進んでまた同じ呪文を唱えた。

 

「それは……なんですか? 骨とか、血とか」

 

 杖を突き立てたエルメアにこれ幸いと水筒の水を呷ったあと、僕は彼女にその呪文について問いかけた。

 聞いたところでわかるわけではない。エルメアは確かに丁寧な説明をしてくれるが、根本的に僕とは話す言葉が違っているようにすら思える。

 それでも、この夏の間弟子をやると約束した僕には、その問いかけをする権利があった。

 

「土に含まれる成分の測定をしているんです。石灰質、鉄、苦土。そういった成分が不足すると土は乾き、やがて雨水に流されてしまうようになります」

「それは……よくないこと?」

「必ずしもよくないとは限りません。この丘の麓にある麦畑が豊作なのは、雨や風に乗せられて栄養の豊富な土が流れ込むおかげでもあるでしょうから」

 

 これは僕にもわかる話だった。

 歳市蔵の番人であるルイジじいさんは、赤風丘陵から吹く乾いた赤い風の話をよくしてくれる。普通、嵐は畑を駄目にする。しかし、サバレーゼの畑は赤い風のおかげで嵐の翌年には多くの実りを約束する。

 決まってルイジじいさんは「だからサバレーゼに生まれた男は苦しいときこそ伸びにゃならん」と説教に続けるのだが、今はそれは関係ない。

 昔からある言い伝えに正しい意味があるとわかって、僕は不思議と嬉しくなった。

 

「ここの土は腐植土の混合が少ない粘土で、陶芸に適していそうです。陶芸はわかりますか?」

「えっと……確か、焼き物は錬金術ギルドがやってます」

 

 僕は自分が市長の息子であることを思い出して、慌てて彼女の問いに答えた。

 侍女のアンナが磨いている皿のほとんどは錬金術ギルドで作られていて、木に塗物をしたものか、来客用の銀製のものかのどちらかだ。

 しかし、最近になって錬金術ギルドは僕の家のような裕福で権力のある家向けに新しい商品を生み出した。それは東方から伝来した陶磁器を真似た、土でできた金属のような皿だ。

 ただ粘土をこねて焼いたのとはわけが違う、白や青、緑の透き通った色をまとって、指先で弾くとりん、と鳴る涼し気な姿。ハルビア全土で流行りはじめていると、噂好きのアンナが楽しそうに語っていた。

 製法は全くの秘密。市長である父すら知らないだろう。

 どうやらエルメアはその陶磁器について、何かしら知っているようだった。やはり、錬金術を修めているからだろうか。

 

「まあ、そうでしょうね。しかし、いつかは陶工のギルドができることでしょう。そのとき君が市長になっていたら、今日のことをよく思い出してくださいね。もう少し歩きます、ついてこれますか?」

「はい、先生」

 

 水筒に栓をして返事をする。

 実を言うと、僕は彼女が何の目的でこの丘を登っているのか知らなかった。森に入るのなら僕のことは連れて行かないだろうし、魔法を見せるという約束を果たすだけなら土は市壁を出てすぐのところにだってある。

 聞けば説明してくれるのだろう。ただ、最初に説明なく連れ出されたものだから、僕は意地を張って今まで聞かないでいた。

 そして。

 

「――ここが、目的地です」

 

 エルメアが杖を地面に突き立てた。そこはおそらく、赤風丘陵の最も標高が高い一点だった。

 彼女の杖が突き立てられたすぐ近くに、いくつかの石が積まれている。市長の息子である僕は、その石の意味がよくわかっていた。

 墓標だ。

 森を跋扈する魔獣は、衛兵や自警団で対処できる程度の脅威ではない。魔力の通った皮は矢も槍も通さず、獲物を逃さず追い込む知性もある。

 都市を広げ、少しでも冬の飢えをしのげるようにするために、何人もの無謀な若者が森に散った。ルイジじいさんの息子も帰ってこなかったし、よく遊んでくれたパン屋の跡継ぎは折れたナイフだけが見つかった。

 僕たちは彼らを悼んで、サバレーゼを見下ろせる一番高いここに彼らの石を積む。

 

「リトくん。君には魔術の才能があります。しかし、魔術を学ばないことも選べます。君に、この積石に加わる義務はありません」

 

 振り返らず、森を見下ろしたまま、エルメアは静かに語りはじめた。

 

「魔獣の脅威が身近な都市では、魔術はいつだって戦いの技術です。しかし、本当はもっと、日々の豊かさのためにだって魔術は使えるのです」

「日々の、豊かさ……」

「拡声魔法器で避難を呼びかけるのではなく、吟遊詩人の詩と楽器の音色を拡声したっていい。私は土魔術を、魔獣を屠るために使うのがあまり好きではありません」

「それは、でも!」

 

 一瞬、僕の脳裏にアンナが語っていた詐欺師の話が思い浮かんだ。

 市から魔獣討伐の報酬を受け取って、仕事を果たさずに消えてしまう。そんな詐欺師が昨今は出回っているという。まさか、エルメアもそういった手合なのだろうか。

 しかし、エルメアは小さく頭を振った。

 

「安心してください、仕事はします。私が言いたいのは魔獣狩りとしてでない、魔術師としての私の学びを継承してほしいということです」

「……そんなの、何の役に立つんですか」

 

 サバレーゼは豊かな都市だ。

 北方から川沿いに下ってくる交易商はサバレーゼの麦を高値で買ってくれる。魚もよく穫れるし、錬金術師は貝を大きく育てる餌を発明した。

 それでもサバレーゼが小さな地方都市のひとつなのは、土壌の豊かな西の大地を遮るように魔獣の森が広がっているからだ。あの森さえなければ、僕たちはもっと幸せに暮らせる。

 エルメアの言葉は無責任だ。僕たちは魔獣に苦しめられている。その事実を、彼女は軽く見ている。魔獣を狩れるならそれに越したことはない、そうに決まっている。

 僕が睨むように彼女を見上げると、彼女は膝をかがめて、僕と目線を合わせた。

 

「たとえば、魔獣討伐以外の方法で都市を豊かにする市長になることができます。戦わずとも、生活のために知恵を働かせる魔術師が都市にいるのはいいことです」

「豊かに……」

 

 茨色の瞳がじっと僕を見ている。

 本当なら、喜んで飛びつく話だ。僕は市長の息子だし、同じくらいの年の子どもよりもずっと賢くて好奇心がある。だから、彼女から学んだ魔術で都市を豊かにする市長になるのは、とてもいいことだ。

 しかし、どこかで僕は喜べないでいた。それがなぜかは、僕にもわからなかった。

 

「少し、話が急すぎましたね。約束を果たしましょう、魔術を使います」

 

 エルメアが杖に手をかけると、まるで丘の地面が沼に変わったかのように音もなく杖が呑み込まれていった。

 そして、彼女は腰に結わえていた袋――昨日、僕が見せてもらった石灰の袋を開き、そこから一握り掬い上げて宙に放った。

 風に乗るはずの細かな粒子が、そのまま中空にとどまっている。向こう側に見える朝方の青空は砂に阻まれて靄がかかったようだった。

 

「原なる四大が一。大いなる全を巡る黒胆汁。冷たく乾いた憂鬱質。汝は不浄の獣であり、最も純潔から遠きもの。その貪欲を示し、癒えない乾きに喘ぎたまえ」

 

 ごう、と空を舞っていた白い砂が音を立てて渦巻きはじめた。

 その渦はまるで小さな竜巻のように細長く伸び、そのまま丘を下っていく。森に近づくにつれて、白かった砂は灰色に濁っていった。

 音と風を感じながら、僕は竜巻の通った道がえぐれていることに気がついた。それはまるで、丘の土を竜巻が吸い上げているようだった。

 

「石灰が一に対し粘土が二、我が魔力を一とし、汝の体躯を練り上げよう。土の王、偶蹄にして牙持つ獣よ、汝の寝床を荒らす魔を討て」

 

 竜巻は今や丘の麓、森の入口にまで下っていっていた。

 そこで僕は、信じられないものを目にした。竜巻の内側から、大きな獣が現れたのだ。

 荒々しい、岩のような灰色の肌。延びた鼻先と、目立つ大きな二本の牙。四肢は短く、胴体は樽のようにたくましい。

 見覚えのある姿だ。それはきっと、豚だった。

 馬車よりも大きな、土でできた灰色の豚。エルメアが見せてくれたそれは、ちらりと僕たちの方を見上げた後、のしのしと森の中に入っていった。

 

「さ、帰りますよリトくん」

「……えっ、これだけ?」

 

 呆気に取られて見上げる僕に、エルメアは少しも困ったような様子を見せずに地面から杖を引っ張り上げた。

 

「あの豚は夏中ずっと魔獣を追い回して殺します。魔力が続く限り修復し、夏の終わりには自壊して土に還ります。依頼されていた討伐には十分な成果を上げますよ」

「そうなんですか? でも、もっと、こう……」

「派手な魔術が見たかったですか」

「そう、です。はい」

 

 拍子抜けだった。

 もっと、巨大なゴーレムを生み出すとか、地面ごと森をひっくり返してしまうとか、そういうことを期待していたのだ。せめて、魔獣に直接土の矢を撃ち込むくらいはしてほしかった。

 僕の思いに反して、エルメアはすっかり興味をなくしたように森に背を向け、丘を降りはじめていた。

 

「確かに、都市向けの興行として見栄えのいい魔術を使う魔術師はいます。しかし、私は大道芸をするために雇われたわけではありませんから」

「……本当に、あの豚は魔獣を殺してくれるんですか?」

 

 まだ丘を降りようとしない僕の問いかけにエルメアは立ち止まって振り返り、無表情のまま小さく頷いた。

 

「ここの森に多い魔獣はなんでしたか」

「……ヒュドラです。森の沼に住む、狡猾な毒蛇」

「そうです。だから、あの豚が負けることは絶対にありません。豚にヘビ毒は効きませんし、豚は沼地の王ですから」

 

 それだけ言って、いよいよ道を下りだしたエルメアの後ろ姿を、僕は慌てて追いかけた。

 彼女はきっと、とても頭のいい人だ。その言葉には一切の無駄がない。ただ、僕にはそれを理解するだけの賢さがないだけで。

 

「これで討伐の仕事は半分終わりです。残りの期間は君の教育に使いますので、そのつもりでいてください」

「……はい、先生」

 

 僕は、この人を理解できるのだろうか。

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