夏を迎えたサバレーゼの川辺は、それはもう美しい。
万年雪から脈々と続くと言われる北方の水源に由来するメドラ川は、その水質と穏やかさゆえにサバレーゼの人間にとって単なる水源以上の価値がある。
赤風丘陵にほど近い川下のほうでは染織物ギルドの色鮮やかな生地がさらされ、その上手では乙女たちが川の名の由来でもあるメドラーの葉を舟代わりに浮かべて遊ぶ。夏の終わりには熟す前の酸っぱい実も口にする。
例年であれば僕も、そこに混じって水辺で濡れるか濡れないかを楽しんでいたことだろう。
「そう、ゆっくりと……力そのものが円を描くように」
囁く声が耳をくすぐる。
しかし、なんとか集中を維持して、僕は初めて粘土の棒を歪め、両端をつなげて輪にすることに成功した。
力を抜くと、疲労感がどっとこみ上げてくる。窓の外から聞こえる虫の声と、それに張り合うような喧騒がようやく耳に入ってきた。
「おめでとうございます。精密操作に関しては期待以上の素質があるようですね」
「一ヶ月かかってようやく輪っかが作れた程度なのに?」
「私は二週間かかりました。私の半分の才能というのは、世間的にはかなり優秀と言っていいでしょう」
正式に家庭教師となってからわかったが、本人の弁のとおりエルメアという女魔術師はまったくもって性格がよくない。悪いと言ってもいい。
声を荒げることも蔑むようなものの言い方をすることも決してしないが、気遣いというものがない。僕がまだ子どもであるということを理解しているのか、本当に疑わしい。
しかし、母のお古を譲り受けて袖のない白いワンピースを着ている彼女が窓辺の席で本を読む姿は、腹立たしいことにとても静かで、そして目を惹かれた。
肩口で切り揃えられた目立たない赤毛も清潔感があり、本人の行儀がいいこともあって彼女は母に娘ができたように可愛がられている。実の息子であり、エルメアの弟子である僕にとっては複雑な話だ。
「それに、座学の吸収もいいですね。錬金術と化学、両方のテキストを並行させていますが、今のところ答案に混乱の様子が見られない。喜ばしいことです」
「それは……どうも」
言っていることはどうかしているが、それでも褒められるのは嬉しかった。
リトは今、彼女の弟子としてたくさんのことを学ばされている。魔術の基礎理論はもちろんのこと、錬金術や化学、地質学のことまで。大荷物だった理由が理解できた。
そして、学ばされた今だからこそわかる。エルメアは異常だ。
土魔術師というのは普通、その都市に常駐するものだ。彼女の言うとおり、市壁の修理から畑の耕作、道の舗装に至るまで、都市には幅広い仕事がある。地味だが、どんな都市でも常に求められる仕事だ。
しかし、エルメアはそうしない。それどころか、異なる土地、異なる土壌であっても魔術を行使できるように、自らの理論に錬金術と化学を取り入れている。
これは言ってみれば、農民なのに定住せず、旅先で必要に応じて魔法で畑を作っているようなものだ。それも、自分が蒔きたい種に合った畑を。
何が彼女をそうさせるのか。
その関心が、僕の学習意欲を大いに高めていた。
「午後からは少し出かけましょう。君も息抜きがしたいでしょうし、川の方まで」
「いいんですか?」
「君のお父様から、メドラ川沿岸の治水状況を確認してほしいと頼まれています」
エルメアと川遊びをするのかと一瞬浮き立った気持ちは、すぐさま落胆に、そして羞恥心に置き換わった。
彼女と過ごす時間は、正直に言って、悪くない。出会いこそあまりいいものではなかったが、次第に僕は、この人のことをもっと知ってみたいと思い始めていた。
僕と同じくらいの年の子どもはサバレーゼにもそれなりにいる。漁師のルーのところには足の早い双子がいるし、錬金術師の息子のグロメルは草笛の名人だ。
しかし、僕の知的好奇心を満たしてくれて、なおかつ僕を侮らず、尊重してくれるような人間はひとりもいなかった。
「川遊びがしたかったですか?」
「……別に。でも、サバレーゼの夏と言えば川遊びです」
「そうですか。構いませんよ」
「え?」
落胆しながら粘土の輪を片付けていた僕は、思わずそれを握り潰してしまった。
厄介なことになった。形を崩したら、棒に整えるところまで魔法でやるように言われている。次に輪を作れるのが何日後か、想像したくもない。
しかし、エルメアはそんな僕の悩みに気づくそぶりすら示さず、膝の上に置かれていた大判の本をぱたりと閉じた。
「支度をしましょう。私が川の様子を確認している間、好きに過ごしていて構いません」
「ああ、はい……」
「気乗りしなければ、調査に同行してもらっても構いませんが。私が川を下ってきたときには特に問題がありませんでしたから、特に教えるべきことも多くはないでしょう」
この鉄面皮を崩してやりたい。
僕が彼女を川遊びに誘いたいのは、そんなちょっとした、いや、それなりの執念によるものだった。
エルメアは僕を褒めるときですら笑わない。父や母と話すときは笑うから、もしかすると子どもが嫌いなのかもしれない。しかし、その割には丁寧に扱ってくれる。
そんな彼女でも川遊びをすればほころぶことくらいあるだろうと、僕はそんな期待をしていた。
水筒と、麦わら帽子が一対。
しかし、師匠であるエルメアを川遊びに引きずり出す口実はこれといって思い浮かばず、結局僕はただ彼女と連れ立ってサバレーゼの北門を潜った。
暑さの割に川はそれほど混んでいなかった。もしかすると、父が先んじてエルメアが調査を行うことのお触れを出したのかもしれない。
僕はなんとなくメドラーの葉を摘んで、指先で弄んだ。トゲのない葉からは少し汁気のある、若い緑のにおいがした。
「私はここから上流のほうまで行って、それから下ってきます。着いてきますか?」
「……ここにいます」
「そうですか。気をつけて遊んでください」
それだけ言い残して足早に北へと向かうエルメアは、本当に川遊びのことなど微塵も考えていないようだった。
僕はそれが不満で、摘んだ葉を水面へ放り投げた。さらに石をいくつか拾って、浮かんだ葉を狙って投げ込みもした。揺れる水面の上で、葉は投げられた石をすり抜けるようにして避けた。
もう一ヶ月もエルメアの下で魔術を学んだ。
先生としてはわかりやすいが、人としてはわかりにくい。それも、ひどくわかりにくい。それが僕の下したエルメアへの評価だった。
初めてエルメアが魔法を見せてくれた日――つまり、土の豚を作った日ではなく崩れた荷物から僕を助けてくれた日のことも、今となってはどういう考えがあったのか疑わしい。
僕は母親以外の大人の女性に手を握られるのなど初めてだった。これは多少胸が高鳴っても仕方のないことだと思う。
しかし、彼女はあの時僕のことを心配していたわけではなく、単に肌を通じて魔力とその性質を測定していただけだったのだ。これは裏切りに等しかった。
「……このっ!」
流れ行く葉を狙って投げた最後の石は、ただ波紋を生むだけで水面下へと消えていった。
少しして、やることのなくなった僕はブーツを脱ぎ、川岸に腰掛けた。
川に足を入れるのは危ないと侍女のアンナは言う。急に水流が強くなったら、小柄な僕は流されてしまうのだそうだ。
しかし、実際にそんなことが起きたことはないし、日の照った夏に冷たい水へと膝から下を浸すのはたまらなく気持ちがいい。
指先から踝へ、踝から脛へと這い上がるような冷たさを感じる。
そんな中で思うのは、ここ一ヶ月学んだ魔術のことだ。
「……土よ、石と砂とより細かきものからなる世界の欠片よ」
呼びかけると、手をついた地面が応じるように脈動する。
まだエルメアのように流暢な呪文は使えないが、呼びかける文言は理解できた。このままいけば、僕は彼女の言うとおり優秀な魔術師になれるのだろう。
魔術は世界の法則、神秘や魔法と呼ばれるそれを解き明かす学問だ。自然哲学よりも実践的で、神秘主義よりも体系的。その合理さは僕の肌によく馴染んだ。
魔術師になる。
ずっと市長の息子として、いつか父を継ぐことだけを考えて育った。まさか自分が魔術を学ぶ日が来るなど、思いもよらなかった。
聞けば、エルメアは父の月謝を支払うという申し出を断ったらしい。一体何を考えて僕を育てようとしているのか、少しも理解できない。エルメアという人物は、彼女が魔術師であるという点を除けば謎しかない。
一夏、たった一夏だ。エルメアを理解するには時間が足りない。
もし、僕が子どもでなくて、十分な実力を示せれば、彼女の旅に同行できるのだろうか。そうしたら、僕はもう少し彼女のことを理解できるのかもしれない。
「――
その瞬間だった。
僕の腰掛けていた岸が途端にみしみしと震えはじめた。まさか地震かと立ち上がろうとしたが、僕の脚は川の中にある。
突如として全身に重みを感じ、視界が急に高くなった。
大地が僕を押し上げている。
違う。
僕が大地を押し上げているのだ。
「う、わ」
そのことに気がついた途端、僕は怖くなって身を強張らせた。地面から手を離し、膝を掴んだ。
すると、大地は半端なところで育つのをやめ、僕は二階ほどの高さから急に放り出された。
内臓がひっくり返ったような、嫌な感触。
ゆっくりと水面が近づいてきたかと思ったら、次の瞬間には全身を冷たさが包んでいた。階段で転んだ時よりもさらに痛い。叫ぼうとして、僕の口と鼻は水で満たされた。
怖い。
無我夢中でもがくと、指先がなにかに当たった。
僕は口から大量の泡を吐き出しながら、それにすがってなんとかよじ登ろうとした。
全身を震えさせて必死に這い上がろうとする僕を、
「――大丈夫です、落ち着いて。ここは足のつく深さですから」
聞こえたその声に安心して、僕は大量の水を吐きながら咳き込んだ。
小さな手が僕の背中をさする。脚はまだ川の中にいて、それがひどく寒く感じた。指先が切れるように痛かった。
「目を離すべきではありませんでしたね、お詫びします。ゆっくり息をして。支えていますから、慌てず岸へ」
促されるままに、一歩一歩確かめるように川を歩いて渡り、僕はエルメアに抱かれたまま岸へとたどり着いた。
僕もエルメアもびっしょり濡れていて、特にエルメアが着ている母のお下がりのワンピースなど目も当てられないほどだった。
「怪我はありませんか?」
「ご……ごめんなさい」
「謝る必要はありません。それよりも、怪我は」
「大丈夫です。……ごめんなさい」
とんでもない馬鹿をやってしまった。
水が詰まってまだすべての音がぼやけているが、それでも思考は戻ってきた。言いつけを破って川に入った挙げ句、魔術を暴発させて、またエルメアに助けられたのだ。
目を合わせられずに俯く僕の耳に、小さな笑い声が流れ込んできた。
聞き間違いではない。
思わず顔を上げると、エルメアがお腹を抱えて笑っていた。
「ふ、ふふ……すみません、安心したらつい。しかし、驚かされました。指導を始めて一ヶ月でこの出力量とは、私の遥か上をいきますね、君は」
エルメアは濡れた服が汚れるのも気にせず、僕が作り上げた半端な隆起に触れた。表土が引き裂かれ、断層がむき出しになっている。彼女はその断層から黒曜石の欠片をひとつつまみ出した。
その表情はとても穏やかで、この人はこんなふうに笑うんだ、と僕はその時初めて知った。
「すごいですよ、君は。君なら、すごい魔術師になれます」
水で耳が詰まっているのがひどく悔しかった。
この人がこんな笑顔で僕を褒めてくれるのは、きっと二度とないだろうという気がしたから。