神秘色をした思い出 ハルビア短編連作集   作:海野波香

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土に触れた日 - 4

 風邪を引いた。

 思わぬ水遊びで濡れたのが災いしたのか、僕は熱を出して寝込んでいた。咳はあまり出ないが、少し頭痛がした。

 錬金術ギルド謹製の栄養剤をハーブ水で割ったものを飲まされたが、まだあまり効き目はなかった。風邪というのはそういうもので、症状を抑えるくらいしかできないと医者が言っていた。

 シーツは汗で貼り付いて気持ちが悪いし、勝手に水遊びをしたことで母やアンナはカンカンになっている。僕自身、悪いことをしたという自覚がある。

 しかし、悪いことばかりではなかった。

 

「海岸地域でした一番大きな仕事といえば、塩害の処理でしょうか。嵐で海水が巻き上げられて、一帯の豆畑が塩びたしになってしまったことがあったんです」

「塩はよくないんですか?」

「ええ。ただ、私の師に言わせれば、完全にないのもまたよろしくないのだそうです。私はできるだけ土壌が悪くならないように考えて、しかし速やかに畑の土から塩を吸い上げる必要がありました」

 

 窓を開けて新鮮な空気を送り込みながら、エルメアが僕の話し相手になってくれていた。僕が目を離した隙に水浸しになったことに責任を感じているようだった。

 彼女が悪いことなど何一つありはしないのだが、それはそれとして授業以外でエルメアと話すのは楽しかった。

 もちろん、見たこともないほど遠い土地の話を聞けることへのわくわくもあった。しかし、それ以上に、彼女の辿ってきた旅路を知れることが今は嬉しかった。

 

「ただの塩害であれば彼らも真水を汲んできてかけたり、石灰を蒔いたりして塩を処理することができます。ただ、その嵐は魔獣が引き起こしたものでした」

「海の魔獣? どんなですか?」

「巨大なタコだったそうです。お祭りの赤い紙ランタンがありますね? あれに足を八本生やしたような生き物です」

「八本も。多いですね」

「私ならこんがらがってしまう自信があります」

 

 僕がくすりと笑うと、エルメアはわずかに頬を緩めた。

 雑談をしている間、彼女はこういう冗談をたまに口にした。それで彼女自身が笑うわけではないが、僕が笑うと嬉しそうにするから、きっと僕を笑わせようと思って冗談を言っているのだった。

 それがたまらなく心地よくて、僕は風邪を引いていることなどとっくに忘れはじめていた。

 

「魔力を帯びた塩を吸い上げるために、私はまず専用の吸着剤を錬成するところから始めました。それを土壌に散布し、吸着させたものだけを取り出すという計画です」

「材料は?」

「牡蠣の殻です。海岸地域の住民にとっては定番の食材で、捨てているものが大量にありました。これを使うと言った時、彼らは大変驚いていました」

 

 牡蠣は僕も食べたことがある。

 メドラ川を少し遡った先にあるアレッシ湖は元々牡蠣がよく穫れる。小ぶりだったのを錬金術師が改良し、今ではサバレーゼでもよく食卓に上がるようになった。

 ただ、父は牡蠣を食べるとお腹を壊す。だから、この家で牡蠣が出ることはめったになく、食べるとすれば収穫祭の串焼きくらいだった。

 思い返せば、エルメアを歓迎する初日の晩餐では牡蠣が振る舞われていたような気がする。僕は身を起こして彼女に問いかけた。

 

「海で穫れる牡蠣は、サバレーゼの牡蠣より大きいですか? 味も違う?」

「安静に、リトくん」

「……ごめんなさい」

「いえ。それで、牡蠣でしたか。そうですね、サイズはこのあたりで穫れるもののほうが立派だったかと。味は違いますね、天然の塩味がついていますから」

「天然の塩味……海の味ってことですよね。いいなあ」

 

 僕は枕に頭を沈めて、しばし海に思いを馳せた。

 船体を打つ波。それを切り裂いて、船は港へと進んでいく。埠頭には人夫が賑やかに作業をしていて、船乗りの帰りを待つ家族や積み荷に期待する商人が入港する船に歓声を上げている。

 空には僕の知らない鳥が飛び交い、籠にはぎっしりと見たこともない魚が詰まっているのだろう。感じたことのない香りを乗せて、風が吹いているのだろう。

 それはたまらなく僕の冒険意欲を掻き立てた。

 

「僕も旅がしたいです。見たこともない、ずっと遠くを」

「それは……」

 

 エルメアは口ごもって、窓の外に視線を向けた。

 しばらく、部屋の中は沈黙に包まれていた。それは僕にとってそれほど居心地の悪いものではなかったが、彼女にとってはそういうわけでもないようだった。

 この部屋には父が持っているような時計がないから、どれくらい時間が経ったかはわからない。ただ、かなりの間を空けて、エルメアは唐突に話を変えた。

 

「君は、王都の魔術院で学びたいですか?」

「魔術院で?」

「ええ。私の母校であり、ハルビアの魔術師にとって最大の名門です」

 

 僕も魔術院のことは知らないわけではない。

 ずっと昔からある、世界の誕生にもかかわるような神秘。それを魔法と呼び、何をどのように扱えば、どのような理由で、どのような結果が生じるかの理論を生み出したのが魔術だ。

 そして、王都の魔術院とは、このハルビアで最も権威のある魔術の学校だ。それはつまり、最も優れた魔術師を世に送りだしている学校ということでもある。

 考えたこともなかった。僕が魔術院に入学するなどということが、ありえるということ自体。

 

「……考えたこともなかったです」

「君には才能があります。魔術師として専門的な教育を受け、訓練を積めば、この都市に帰ってきてもその力はきっと役に立つでしょう」

「うーん……そうですね」

 

 曖昧な返事をしながら、僕は熱っぽい頭で別の計画を企てていた。

 魔術院を出て、僕も流れの魔術師になるのだ。そうすれば、エルメアのように旅をすることができる。いや、それどころか、エルメアと一緒に旅をすることだってできるかもしれない。

 エルメアと一緒に旅をする。

 それはなんとも甘美な響きだった。静かだが穏やかな旅路。ふたりで同じ景色に感動し、同じ美食に舌鼓を打つ。それはなんとも素敵ではないか。

 

「先生は……」

「はい」

「先生は、僕と……」

 

 一緒に旅をしてくれますか。

 そう言おうとして、僕は窓の外を見るエルメアの横顔に目を向けた。夏の昼下がり、端正なその顔立ちが、とても寂しそうな色をしていた。

 僕はかえって躊躇ってしまって、吐き出そうとした言葉がどこかへ言ってしまった。彼女の抱える寂しさを僕が埋めることができるのか、それに少しも自信を持てなかったからだ。

 結局、僕は浅い川で溺れかけて抱き上げられるような、ちっぽけな子どもでしかないのだから。

 嫌になって寝返りを打つ。枕の冷たいところが火照った耳にあたって気持ちがいい。

 

「……ねえ、先生」

「はい」

「どうして、僕だったんですか」

 

 代わりに出てきた質問は、ずっと抱えていたものだった。

 エルメアは子どもが好きなわけではない。サバレーゼの子どもたちとも積極的に関わろうとはしないし、僕の扱いだって別段上手なわけではなかった。

 もちろん、その下手さがあるからこそ、大人扱いされているようで心地よかったのは事実だ。

 しかし、出会ったばかりの子どもに魔術を教えようと思うほど、彼女は軽率でも親切でもない。そのことは、この夏を一緒に過ごしただけの僕にもよくわかった。

 しばらくエルメアは黙っていたが、やがてぽつりとこぼした。

 

「つまらない話です」

「でも、聞きたい」

「そうですか……その、そうですね。いいでしょう、君も暇でしょうから」

 

 その声は先程までよりも強張っていて、僕は話題を間違えたのではないか、彼女を傷つけたのではないかと少しだけ後悔の念に襲われた。

 それに、これまで聞かなかったのにも理由がないわけではない。

 エルメアは理由を言わずに僕を弟子に選んだ。それはどこか、僕が特別ななにかであることを示しているようで、少しだけ優越感を生じさせる妄想に浸らせてくれるからだ。

 今、その夢が引き剥がされるのだと思うと、自分で尋ねておいて僕は少しだけ恐ろしかった。

 

「私の故郷はここよりも北の貧しい村で、私は農家の生まれでした。……弟が、いるんです。私は錬金術と魔術の才を見出され、幼いうちに王都に。弟には、それがなかった」

「じゃあ、弟さんは今も……?」

「畑を継ぎました。一度だけ、故郷に帰ったことがあります。土魔術で彼らを豊かにできればと。しかし……追い出されました。私は、彼らにとってすでに異物だったようです」

「そんな……」

「仕方がありませんね。私の魔術は王道とは言えませんから」

 

 確かに、エルメアの魔術は王道ではない。

 彼女は3つの目で土と向き合っている。化学の目、錬金術の目、そして魔術の目だ。一夏の授業を受けた今、彼女の土魔術を地味だなどとは微塵も思わない。

 しかし、エルメアのことを故郷の村が拒んだのは、きっと別の理由だということは僕にもわかった。それをエルメア自身がわかっているということも。

 

「そういうわけで……私はあまり、ひとところに留まらないようにしています。でも、サバレーゼのような農業都市を訪れると思い出すんです」

「故郷のことを?」

「ええ。この市の豊かさは、もしかしたらありえたかもしれない故郷の姿ですから。……だから、夢を託せる人を探していたんです」

 

 椅子の軋む音がして、彼女が立ち上がったのがわかった。

 その足音が僕の枕元に近づいてくる。僕は彼女の顔を見るのが怖くて、壁の方を向いたまま耳だけをそばだてていた。

 小さななにかが、毛布に覆われた僕の身体をぎこちなく撫でた。それはきっと、エルメアの手だった。そんな体温を、熱っぽい僕の身体は確かに感じた。

 

「家がある程度豊かで、魔術の才能があり、都市計画に参与できる人物。君は、私にできなかった、故郷を魔術で豊かにするという夢を叶えられる人物です」

「先生の、夢……」

「……ごめんなさい、リトくん。君に魔術を教えたのは、私の夢を押し付けたかったからです。誰かが代わりに叶える姿を見て、満足したかった」

 

 それは、懺悔だった。

 静かな部屋で、エルメアは何度も僕の身体を撫でた。その怯えたような手つきは、もっと小さい頃、母に抱かれて寝た時に近くて、それなのに全然似ていなかった。

 彼女はきっと、僕を寝かしつけようとしている。寝てしまえば、僕が彼女の懺悔を忘れるだろうと。風邪と一緒に、悲しい気持ちをどこかへやってしまうだろうと。

 そして、そんなずるい思惑に乗っかってやるほど、僕は素直な子どもではなかった。

 

「僕……旅がしたいんです。先生みたいに、色んなところを巡りたい」

「そう、でしょうね。君の話を聞いていると、世界への強い憧れを感じます。それこそ、国外にすら飛び出るような」

「うん。でも……旅に満足した後なら、先生の夢を叶えてあげてもいいです」

 

 顔は見えないまま、僕はそんな生意気なことを言った。

 小さく息を呑んだ音がする。エルメアは驚いたのだろうか、それとも僕の生意気ぶりに怒ったのだろうか。できれば、前者であってほしかった。

 もっと彼女と話がしたいのに、薬のせいか、それとも彼女の手にそういう魔法があるのか、眠気が増してくる。

 

「叶えてあげるから、絶対……一緒に、見てくださいね。叶うところ」

 

 重い瞼が自然に落ちてくる中で、彼女の手が僕の肩まで毛布をかけなおすのがかすかに見えた。

 そうですね、と小さな声が聞こえたような気がする。

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