日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第三十七話『孤児』 序

 隔離空間は消え、辺りの景色は薄闇から立体駐車場の内部に変わっていた。

 自動車の通る冷たい混凝土(コンクリート)の上に、虻(あぶ)球(く)磨(ま)新(しん)兒(じ)と虎(こ)駕(が)憲(けん)進(しん)は倒れ伏したまま起き上がれずにいた。

 六摂家の一角、一(いち)桐(どう)公爵家の当主・一(いち)桐(どう)陶(すえ)麿(まろ)の圧倒的強さに打ちのめされた二人は、当(まさ)に絶体絶命のピンチを迎えていた。

 今この場に根(ね)尾(お)弓(きゆう)矢(や)が現れなければ、二人は間違いなく殺されていただろう。

 

 一(いち)桐(どう)陶(すえ)麿(まろ)に厳しい視線を向けられて気(け)圧(お)されたのか、根(ね)尾(お)は僅(わず)かに後(あと)退(ずさ)った。

 依然として、一(いち)桐(どう)から見れば根(ね)尾(お)もまた殲(せん)滅(めつ)対象の一人である。

 言葉次第によっては、この場で死体になる人間が一人増えるだけだろう。

 

 背の高さで言えば、実のところ一(いち)桐(どう)は虎(こ)駕(が)とそう変わらず、この場の男達の中では低い方である。

 根(ね)尾(お)に至っては、一(いち)桐(どう)よりも十三センチも身長が高い。

 しかし、鍛え抜かれた肉体と潜(くぐ)り抜(ぬ)けた視線に裏付けられた圧力が一(いち)桐(どう)を空気の絶対的支配者たらしめていた。

 

「一(いち)桐(どう)卿(きよう)……」

 

 根(ね)尾(お)はゆっくりと語り始めた。

 今や、この場の者達の命運は彼が握っていた。

 問題は、一(いち)桐(どう)陶(すえ)麿(まろ)という百年以上もの年月を国賊掃討に捧(ささ)げ、己が肉体を鍛え続けた護国の怪物を変心させることが出来るか、ということだ。

 

「閣下、貴方(あなた)は騙(だま)されているのです」

 

 根(ね)尾(お)の言葉に、一(いち)桐(どう)は眉(み)間(けん)に皺(しわ)を寄せて更に厳しい表情を浮かべた。

 明らかに怪(け)訝(げん)の念、不信感に満ち満ちた眼(め)である。

 

「貴公は根(ね)尾(お)弓(きゆう)矢(や)でおじゃるな?」

「自分を御(ご)存(ぞん)知(じ)なのですか?」

「貴公のことは甲(きのえ)卿から名指しで確実に始末すべき者として挙げられておる。即(すなわ)ち、貴公が如(い)何(か)様(よう)な言葉を弄(ろう)そうとも、麿(まろ)を誑(たぶら)かすことは出来ぬということでおじゃる」

 

 聞く耳持たぬ――それが一(いち)桐(どう)の答えだった。

 しかし、根(ね)尾(お)としてはそれで終わる訳にも行くまい。

 今度は一つの問いを投げ掛けた。

 

「自分は何故(なぜ)、甲(きのえ)公爵閣下から名指しされたのですか?」

「それを聞いて何とする?」

「己が死する理由も知らずに死ね、と?」

 

 痛いところを突かれたのか、一(いち)桐(どう)は目を眇(すが)めた。

 

「気の毒だが麿(まろ)も詳しくは聞かされておらん。甲(きのえ)卿は政治家であるが故に、秘匿せねばならぬ事情があるのであろう。しかし、こと情報網に於いて皇(こう)國(こく)で甲(きのえ)卿の右に出る者はおらぬ。彼の叛逆者を炙り出す眼は確かでおじゃる」

「一(いち)桐(どう)卿、自分には貴方(あなた)が、何も理由を話されぬを良しとする方だとは思えません。聞かされずともそれは已(や)むを得(え)ないという事情があったのですね?」

「貴公は何が言いたいのだ?」

「自分の推察は、貴方(あなた)がこの根(ね)尾(お)弓(きゆう)矢(や)の名を甲(きのえ)卿から直接聞いた訳ではないというものです」

 

 一(いち)桐(どう)は低い声で唸(うな)った。

 

「その反応、当たりということですね、一(いち)桐(どう)卿。貴方(あなた)は甲(きのえ)卿から直接自分の名を聞いたのではない。自分の名を貴方(あなた)に告げたのはズバリ、推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)ではありませんか?」

 

 根(ね)尾(お)のこれは一(いち)桐(どう)の言葉尻を捉えた当て推量(ずっぽう)ではない。

 丹(に)桐(どう)士糸(あきつら)と戦う前、既に推(つき)城(しろ)から名指しされたと報(しら)されていた。

 ただその事実を一(いち)桐(どう)に突き付けることで、説得の突破口にしようとしていた。

 

「それが……どうした? 推(つき)城(しろ)殿は甲(きのえ)卿の秘書、単なる伝達係に過ぎぬ」

「即ち、単なる伝達係であるが故に、甲(きのえ)卿の意図までもは言わなかったと、そういうことですか……」

 

 一(いち)桐(どう)は苛(いら)立(だ)ち紛(まぐ)れに溜息を吐いた。

 

「言葉を弄しても無駄だと言っておる。時間を稼いで他の者だけでも逃がそうという腹か?」

「いいえ、そうではありません。自分は貴方(あなた)の誤解を解きたいのです」

「それは言葉を弄して麿(まろ)を誑かしたいという風にしか聞かぬと、麿(まろ)はそう言っておるのだ」

 

 一(いち)桐(どう)は想像以上に頑迷だった。

 だが、一方で根(ね)尾(お)との対話を一方的に打ち切って始末しようとまでは考えないようだ。

 

「閣下、貴方(あなた)は誠の紳士だ。口で何と言おうと、自分に弁明の機会を与えてはくれている。そのことに感謝し、最後にこう問い掛けたい」

「ほう、何と?」

「ズバリ、推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)は本当に甲(きのえ)夢(む)黝(くろ)卿の操るがままに動いているのですか、という質問で御座います」

「……どういうことだ?」

 

 一(いち)桐(どう)は怪訝そうに少し首を傾(かし)げた。

 根(ね)尾(お)の言葉が一(いち)桐(どう)の心に一点の疑念を芽生えさせたらしい。

 根(ね)尾(お)は畳み掛ける。

 

「実は自分の部下が先日、推(つき)城(しろ)朔(さく)馬(ま)について一つのスキャンダルを掴(つか)んだのです」

 

 根(ね)尾(お)は一(いち)桐(どう)の傍(そば)に寄ると、電話端末に写真を表示させて差し出した。

 武(ぶ)装(そう)戦(せん)隊(たい)・狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)に送り込んだ諜(ちよう)報(ほう)員(いん)・仁(に)志(し)旗(き)蓮(れん)から送られてきた写真だ。

 そこには四人の男女が映されている。

 

「推(つき)城(しろ)殿が誰かと密会している写真か。彼の他には少年が一人、軍服の、顔が曖昧な男が一人、後向きで顔が写っていない女が一人……。この内の誰が問題なのだ?」

「顔の判(わか)らない二人の素(す)性(じよう)は不明です。しかし、この少年の名前は判っている」

 

 根(ね)尾(お)は写真を閉じ、電話端末を操作してファイル名を見せた。

 

「この少年の名はファイル名が示すとおり。武(ぶ)装(そう)戦(せん)隊(たい)・狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)の首領補佐・八(や)社(おと)女(め)征(せい)一(い)千(ち)!」

「な、何だと!?」

 

 一(いち)桐(どう)は驚(きよう)愕(がく)に声を荒らげた。

 

「何故貴公がその名を知っておる! 剰(あまつさ)え、その男が八(や)社(おと)女(め)などと……! 首領補佐・八(や)社(おと)女(め)征(せい)一(い)千(ち)は皇(こう)國(こく)の特別高等警察ですら名前以外何も把握出来ていない、それ程の謎に包まれた存在なのだぞ!」

 

 一(いち)桐(どう)は明らかに動揺していた。

 根(ね)尾(お)の言葉に、最(も)早(はや)疑念を挟むことも無い。

 

 何故なら、八(や)社(おと)女(め)征(せい)一(い)千(ち)の素性は狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)内部の者も殆(ほとん)ど知らない。

 逆説的に、ただ狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)と通じ合った程度に過ぎない外国の政治家が八(や)社(おと)女(め)について教わった筈(はず)も無い。

 それはつまり、根(ね)尾(お)が狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)から究極の極秘情報を奪取した者であるということ、協力者に非(あら)ずという状況証拠になっていた。

 更に、神(しん)為(い)に因(よ)って認識力を大幅強化された一(いち)桐(どう)の眼は、人工知能による画像生成で誤(ご)魔(ま)化(か)すことも出来ない。

 

「なんということだ……! 推(つき)城(しろ)が八(や)社(おと)女(め)と密会していた、通じ合っていたとなると、その情報を入手した貴公を始末せよというのは甲(きのえ)卿の意志とは無関係の、推(つき)城(しろ)の独断! それどころか、甲(きのえ)卿にとって推(つき)城(しろ)は当に獅(し)子(し)身(しん)中(ちゆう)の虫!」

「そういうことです、閣下。推(つき)城(しろ)は事もあろうに六摂家当主たる皆様を利用し、自らの黒い交際の証拠を闇に葬ろうとしていたのです」

「し、しかし推(つき)城(しろ)の独断は根(ね)尾(お)弓(きゆう)矢(や)、貴公の始末を優先する件についてのみ! 叛(はん)逆(ぎやく)者に与(くみ)した明治の民の始末は甲(きのえ)卿から直接依頼されたこと!」

「それについても、甲(きのえ)卿自身が推(つき)城(しろ)に誑かされていたとしたらどうでしょうか」

 

 一(いち)桐(どう)は顔面蒼(そう)白(はく)となり、手で口元を押さえた。

 今や彼は完全に動揺していた。

 そんな彼らの許(もと)へ、更に別の女二人が下の階から上がってきた。

 

「い、一(いち)桐(どう)卿……! その者達を……殺しては……なりませぬ……!」

「十(とお)桐(どう)卿?」

 

 久住双葉の方を借り、十(とお)桐(どう)綺(あや)葉(は)が一(いち)桐(どう)の説得に現れたのだ。

 

「明治の民は叛逆者に一切加担しておりませぬ。我らは皆、甲(きのえ)卿に乗せられてしまったのですじゃ……!」

「ば、莫(ば)迦(か)な……!」

 

 一(いち)桐(どう)は頭を抱えた。

 

「甲(きのえ)卿が推(つき)城(しろ)にとって偶(たま)々(たま)都合良く彼らを始末しようとしたと、それは考えられぬ! 即ち、根(ね)尾(お)殿の言うとおり甲(きのえ)卿もまた推(つき)城(しろ)に誑かされたと考えるが自然! ならば麿(まろ)は……麿(まろ)ら六摂家当主は……全員叛逆者に加担する国賊の片棒を担がされた……!! 誰よりも長く、篤(あつ)く、神(じん)皇(のう)陛下に忠義を尽くしてきた麿(まろ)すらも、陛下に弓を引く奴(やつ)原(ばら)の片棒を!!」

 

 一(いち)桐(どう)は余りの無念からか咆(ほう)哮(こう)した。

 長く、立体駐車場そのものを震わせるような慟(どう)哭(こく)だった。

 その両目からは血涙すら流れていた。

 

 一(いち)桐(どう)には、百年もの間只管(ひたすら)に皇(こう)國(こく)の、神(じん)皇(のう)の敵と戦い続けたという自負心が積み上がっていた。

 ヤシマ人民民主主義共和国時代、抵抗者であった頃ならば、ここまで噎(むせ)び泣(な)くことも無かっただろう。

 だが、今や一(いち)桐(どう)は勝利と栄光を重ね過ぎた。

 高く高く積み上がったそれは、唯(ただ)一度叛逆者の企(たくら)みに後(こう)塵(じん)を拝しただけで脆(もろ)く崩れ去るような状態になってしまっていたのだ。

 

 一(ひと)頻(しき)り叫んだ後、一(いち)桐(どう)は膝を突いて項(うな)垂(だ)れた。

 

「情けない限り、慚(ざん)愧(き)に堪えぬとはこのことでおじゃる……」

 

 そう呟(つぶや)くと、一(いち)桐(どう)は指貫(さしぬき)袴(ばかま)に手を入れた。

 その姿を見て、十(とお)桐(どう)は青(あお)褪(ざ)めた。

 

「い、いかん! 誰か! 一(いち)桐(どう)卿を止めなされ!」

 

 十(とお)桐(どう)の叫びが場の空気に火急の事態を告げた。

 そんな中、一(いち)桐(どう)は何やら薬剤包装を取り出し、中から錠剤二錠を手にした。

 

「斯(か)くなる上は是非にも及ばず。此(こ)度(たび)の失態、責任は最年長たるこの一(いち)桐(どう)陶(すえ)麿(まろ)が一身に背負いましょう。何(なに)卒(とぞ)、他の者達は御容赦くださいませ。一時は浮浪孤児にまで身を落とした麿(まろ)を掬(すく)い上(あ)げられ給(たま)い、その上畏れ多くも八十年にも亘(わた)り仕えさせ奉りし僥(ぎよう)倖(こう)、身に余る光栄に御座いました。心よりの感謝を、陛下に……」

 

 気付いたのは根(ね)尾(お)だった。

 

「東(とう)瀛(えい)丸(がん)!? いけません閣下!」

 

 根(ね)尾(お)は一(いち)桐(どう)に飛び掛かってでも、これから彼がすることを止めようとした。

 しかし一(いち)桐(どう)はいとも容(た)易(やす)く根(ね)尾(お)を投げ飛ばした。

 圧倒的な強(きよう)靱(じん)さを誇る一(いち)桐(どう)を止められる者はこの場に誰も居なかった。

 

「くっ!」

 

 根(ね)尾(お)が起き上がった時には、一(いち)桐(どう)は既に手の中の錠剤を口に含んでいた。

 そして喉の鳴る音が嚥(えん)下(げ)を告げる。

 

「皇(こう)國(こく)に弥(いや)栄(さか)あれ……」

 

 一(いち)桐(どう)がそう呟いた次の瞬間、彼の全身から勢い良く血が噴き出した。

 鍛え抜かれた体が力無く草(くた)臥(び)れ、血溜(だま)りの中へと倒れ伏した。

 

「な、何だ?」

「何が起きたの……?」

 

 新(しん)兒(じ)と双葉は困惑していた。

 虎(こ)駕(が)も瞠(どう)目(もく)し、言葉を失っていた。

 立ち上がった根(ね)尾(お)は顔を伏せ、一(いち)桐(どう)の最(さい)期(ご)を見届けて語る。

 

「東(とう)瀛(えい)丸(がん)を二錠以上飲むには十日以上の間隔を空けなければならない。それより短いと、短い程に大きな健康被害が生じる。そしてもし二錠同時に飲んでしまったら、服用した者は神(しん)為(い)の暴走が抑えられず、今の様にその場で死んでしまうのだ……」

 

 根(ね)尾(お)は十(とお)桐(どう)に頭を下げる。

 

「一(いち)桐(どう)卿を追い詰め、自害を止められませんでした。申し開く言葉も見付かりません」

「その責任は我にこそある。我は一(いち)桐(どう)卿と近い関係にありながら、彼を止める言葉を持たなかった。もう少し物を言えればと、後悔が尽きぬ……」

 

 双葉の背で十(とお)桐(どう)は両眼を閉じ、一(いち)桐(どう)の死を悼んだ。

 根(ね)尾(お)は虎(こ)駕(が)と新(しん)兒(じ)に肩を貸す。

 

「下の階で残りの者と合流しよう。龍(たつ)乃(の)神(かみ)邸へ急がねば……」

 

 根(ね)尾(お)の表情にもまた、自害を防げなかった忸(じく)怩(じ)たる思いが滲(にじ)んでいた。

 また、心の内を曝(さら)け出し合った虎(こ)駕(が)の目からも涙が零(こぼ)れていた。

 

「一(いち)桐(どう)……様……」

 

 ある意味、虎(こ)駕(が)は誰よりも一同の無念を理解出来たのかも知れない。

 後味の悪い結果となったが、六摂家当主の襲撃を躱(かわ)し切った彼らは、二階下で待っているという白(びゃく)檀(だん)揚(あげ)羽(は)と雲(くも)野(の)兄妹、一足先に其(そ)方(ちら)へ向かった繭(まゆ)月(づき)百(ゆ)合(り)菜(な)との合流を目指す。

 

 だがそこにはまだ一つの波乱が忍び寄って来ていた。

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