日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第三十七話『孤児』 急

 間一髪、命の危機から逃れた幽(ゆ)鷹(たか)は魅(み)琴(こと)の傍らで静かに涙を拭っていた。

 

「怖かった、怖かったぁ……」

 

 そんな幽(ゆ)鷹(たか)に、魅(み)琴(こと)は頭を撫(な)でながら微(ほほ)笑(え)みかける。

 その姿は宛(さなが)ら聖母であった。

 

「目を離してしまってごめんなさいね。もう大丈夫よ」

「麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)さん、御(お)兄(にい)様(さま)を守ってくれて、ありがとうなのです」

 

 魅(み)琴(こと)は兎(と)黄(よ)泉(み)の方にも微笑みを向けた。

 そして再び倒れている八(や)社(おと)女(め)の方へ冷めた視線を戻した。

 八(や)社(おと)女(め)は浜に打ち上げられた魚の様な無(ぶ)様(ざま)な姿でのたうち回っている。

 

「ぐはっ、ぐはっ……! な、なんて拳打だ……!」

 

 八(や)社(おと)女(め)は辛うじて起き上がろうとしていた。

 

「クク……やあ、お嬢さん。君(きみ)には烏(う)都(つの)宮(みや)で世話になったなあ……」

「何のことかしら? 生(あい)憎(にく)私(わたし)はお前の如き、子供を手に掛けようとする卑劣漢に覚えは無いのだけれど」

「ふふふ、まああの時は機体の中だったからねえ。超(ちよう)級(きゆう)為(い)動(どう)機(き)神(しん)体(たい)・ミロクサーヌ零(れい)式(しき)、と言った方が通じるのかな?」

 

 二日前、拉致被害者は本来ならば烏(う)都(つの)宮(みや)警察署で取り調べが済んだ後、日本国・皇(こう)國(こく)両政府の計らいでそのまま帰国出来る筈(はず)だった。

 だが、突如として襲ってきた超(ちよう)級(きゆう)為(い)動(どう)機(き)神(しん)体(たい)・ミロクサーヌ零(れい)式(しき)によって予定が狂い、十人で龍(たつ)乃(の)神(かみ)邸(てい)を目指すことになったのだ。

 そのミロクサーヌ零(れい)式(しき)を操縦していた八(や)社(おと)女(め)は、この事態の元凶とも言えるだろう。

 

 立ち上がった八(や)社(おと)女(め)は魅(み)琴(こと)の方へと振り返った。

 痛烈無比な拳を叩(たた)き込(こ)まれた筈の顔面には傷一つ付いていない。

 

「それにしても、超(ちよう)級(きゆう)為(い)動(どう)機(き)神(しん)体(たい)を素手で解体した超絶なる拳、まさかこの身で受けることになるとは思わなかったよ。こんなのを浴びせられたら、屋(や)渡(わたり)の心も折れる訳だ」

 

 言葉では不敵な態度を装う八(や)社(おと)女(め)だったが、その両脚は子鹿の様に震えていた。

 魅(み)琴(こと)の拳が余程堪えたのだろう。

 

「見てよこれ……。体の傷は修復されても、刻み付けられて消えない恐怖が脚に来てしまっている。たった一発でこの様(ざま)、魂まで震え上がってしまっている。あの男が作り上げた崇(す)神(じん)會(かい)なる組織、大した事の無い御遊戯事かと思っていたら、密(ひそ)かにこんな怪物を育て上げていたとは……。僕(ぼく)達(たち)は些(いささ)かあの男の執念を読み違えていたらしい……」

 

 引(ひ)き攣(つ)った笑みを浮かべる八(や)社(おと)女(め)は、視線を動かして何かを探している。

 と次の瞬間、八(や)社(おと)女(め)は素早く踵(きびす)を返し、魅(み)琴(こと)とは反対方向へ一気に駆け出した。

 その先には非常口があり、厄災から逃れようとする者の為に開け放たれている。

 明らかに八(や)社(おと)女(め)は逃亡しようとしていた。

 

「こんなのを相手になどしていられるか! 遺憾だがこの場は退散させて貰(もら)うぞ!」

 

 八(や)社(おと)女(め)は震えが嘘(うそ)の様に真(まつ)直(す)ぐ、綺(き)麗(れい)な姿勢でブレ無く走っていく。

 このままでは取り逃がしてしまう――誰もがそう思った。

 

 しかし、魅(み)琴(こと)は一歩も動こうとしない。

 まるで、八(や)社(おと)女(め)の逃走が上(う)手(ま)く行かないと、そう確信しているかの様に。

 

「ははははは、は……は……」

 

 八(や)社(おと)女(め)の足取りは急激に衰えた。

 何者かが八(や)社(おと)女(め)の逃走を防ぐべく、吸引力を発生させて逃げられない様にしていた。

 

「何……だ……。体が……吸われ……る……?」

 

 八(や)社(おと)女(め)の動きは次第に鈍くなり、とうとう止まってしまった。

 彼の体は吸引式のモップに吸い寄せられ、囚(とら)われの身となった。

 

「貴様は……!」

 

 八(や)社(おと)女(め)は自身を捕縛した男の顔を見て瞠(どう)目(もく)した。

 

「岬(さき)守(もり)航(わたる)! 忘れていた……。もう一人、取るに足らぬ凡夫が居たことを……!」

 

 モップを駆使して八(や)社(おと)女(め)の動きを封じたのは岬(さき)守(もり)航(わたる)だった。

 一緒に行動していた魅(み)琴(こと)がこの場に辿(たど)り着(つ)いたのだから、航(わたる)がすぐに到着するのも当然だろう。

 房(ふさ)糸(いと)に捉えられた八(や)社(おと)女(め)が逃れようと藻(も)掻(が)くが、航(わたる)はモップの柄を力強く握って放さない。

 

「随分な言われ様だな全く……。ま、その『取るに足らぬ凡夫』にお前は足元を掬(すく)われた訳だが……」

 

 皮肉を言った航(わたる)は、八(や)社(おと)女(め)から目を離して仲間達の方を向いた。

 

「で、こいつは一体誰ですか?」

 

 航(わたる)は問い掛けた。

 丁度この時、上の階から続々と仲間が集まってきていた。

 遅れて降りてきた根(ね)尾(お)が答えを返す。

 

「そいつは八(や)社(おと)女(め)征(せい)一(い)千(ち)、武(ぶ)装(そう)戦(せん)隊(たい)・狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)の首領補佐だ! そしてそいつは首(しゆ)領(りよう)Д(デー)以上の重要参考人になる!」

 

 二人の男を背負う根(ね)尾(お)だけでなく、少女の様に小柄な女を背負う久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)も姿を現した。

 その双(ふた)葉(ば)の背中から、重傷を負った十(とお)桐(どう)綺(あや)葉(は)が恨めしそうに付け加える。

 

「我も根尾殿から話は聞いた。この男、ある意味では一(いち)桐(どう)卿(きよう)の仇(かたき)とも言えるの。小僧、確(しつか)り抑えておれ。其(そ)奴(やつ)は長年誰一人として一切の素(す)性(じよう)が掴(つか)めなかった男じゃ。警察に突き出せばお前は英雄、最(も)早(はや)誰も帰国を阻むことは出来ぬじゃろうて」

「了解。誰だが存じませんが、そういうことなら逃がしゃしませんよ。丁度、筋力も殆(ほとん)ど戻ったところだ」

 

 航(わたる)はモップの柄を握る手に力を込め、房糸の吸引力を更に上げた。

 狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)の大幹部に今更関心は無いが、間違い無く悪人であろう。

 拘束しておくことが帰国に繋(つな)がるというなら折(せつ)角(かく)戻った力を存分に使えば良い。

 

 それより、航(わたる)が気になるのは仲間達の様子である。

 満(まん)身(しん)創(そう)痍(い)なところを見るに、何やら一(ひと)悶(もん)着(ちやく)あったらしい。

 

「何かあったんですか、根(ね)尾(お)さん?」

「六摂家当主の襲撃に遭ったが、済んだことだ。その中から一人、十(とお)桐(どう)綺(あや)葉(は)卿が新たに我々の協力者となってくれた。これ以上、龍(たつ)乃(の)神(かみ)邸までに障(しよう)碍(がい)となる者は現れないだろう」

 

 再び、航(わたる)は双(ふた)葉(ば)に体を預けている小柄な女に眼(め)を遣った。

 双(ふた)葉(ば)に危害を加える様子も無いし、帰国の為(ため)の助言をくれたことを考えると、信用して問題無いだろう。

 

「我の使用人に連絡して大型の車を三台用意させる。二台はお前達を龍(たつ)乃(の)神(かみ)邸へ運び、一台はこの叛(はん)逆(ぎやく)者を警察へ引き渡す」

「それはありがとうございます」

「迷惑を掛けたからの。せめてもの罪滅ぼしじゃ」

 

 十(とお)桐(どう)は体を丸める八(や)社(おと)女(め)を怒りの籠(こも)った眼で見下ろしていた。

 

「ぐぅぅ、動けん……!」

 

 八(や)社(おと)女(め)は最早藻掻くことすらままならない様子だった。

 謎のヴェールに包まれていた筈の男の、実に呆(あつ)気(け)ない逮捕劇――そう思われた。

 しかし、八(や)社(おと)女(め)は不気味に笑い出した。

 

「ふふふふふ、まさかこんなことになるとはね。ここ数日、少し派手に動き過ぎたのは良くなかったね。慣れないことはしないものだ。これは、最終手段に出ることも已(や)むを得(え)ないか……」

「何? 余計な動きはするな!」

 

 航(わたる)は八(や)社(おと)女(め)の動きを封じようと更に力を込めた。

 とその時、八(や)社(おと)女(め)の額に蜘蛛(くも)の紋様が浮かび上がった。

 紋様は妖しい光を放ち、八(や)社(おと)女(め)の全身を包み込む。

 何やら大きな力が八(や)社(おと)女(め)の中で胎動し始めている。

 

「みんな伏せて!!」

 

 突如、魅(み)琴(こと)が航(わたる)に飛び付いてきた。

 航(わたる)は体勢を保てず、モップを放して魅(み)琴(こと)に押し倒されてしまった。

 

 その瞬間、八(や)社(おと)女(め)の体は爆発し、木(こっ)端(ぱ)微(み)塵(じん)に砕け散った。

 魅(み)琴(こと)の呼びかけで皆は辛うじてその場に伏せ、爆風の威力から逃れることが出来た。

 

「莫(ば)迦(か)な、自爆だと……?」

 

 突然の事態に、航(わたる)だけでなく皆一様に驚きを隠せない様子だ。

 爆発の衝撃をもろに受けてしまったのか、魅(み)琴(こと)の衣服が破れて下に着ていたレオタードスーツが露(あら)わになっている。

 彼女が咄(とつ)嗟(さ)に庇(かば)わなければ、一番近くに居た航(わたる)は特に唯(ただ)では済まなかっただろう。

 

『ははははは、一(ひと)先(ま)ずこの場は退散させてもらうよ』

 

 立ち上がった彼らを嘲(あざ)笑(わら)う様に、何処(どこ)からともなく八(や)社(おと)女(め)の声が響いた。

 自爆したのは見せ掛けで、彼は今(いま)尚(なお)何処かで生きているらしい。

 

『そしてここまで追い詰めてくれた御(ご)褒(ほう)美(び)に、僕(ぼく)の正体について少しだけ教えてあげよう……。白(びやく)檀(だん)揚(あげ)羽(は)、先程君(きみ)にも言った通り、僕(ぼく)もまた君(きみ)と同じく孤(みなし)児(ご)だった。そしてもう一つの共通点として、政(まつりごと)に関わる上流階級の女性に引き取られた。丁度君(きみ)が、皇(すめらぎ)奏(かな)手(で)防衛大臣兼国家公安委員長の両親が経営する孤児院の出身である様に、僕(ぼく)もまた孤児院で育てられた……』

 

 白(びやく)檀(だん)はその顔に不快感を滲(にじ)ませていた。

 しかし、続いて八(や)社(おと)女(め)が紡いだ言葉は全てを吹き飛ばす衝撃的なものだった。

 

『僕(ぼく)を引き取った女性の名、戒(かい)名(みよう)は法(ほう)均(きん)。俗名、和(わ)氣(けの)廣(ひろ)虫(むし)!』

 

 一際大きな声で響いたその名に、航(わたる)・魅(み)琴(こと)・根(ね)尾(お)・虎(こ)駕(が)・繭(まゆ)月(づき)はこれ以上無い程に大きく瞠目した。

 辺りには八(や)社(おと)女(め)の不気味な笑い声が谺(こだま)し、次第に小さくなって消えていった。

 

「あり得ない……」

 

 根(ね)尾(お)が小さく呟(つぶや)いた。

 事情を呑み込めない新(しん)兒(じ)がその真意を尋ねる。

 

「何があり得ないんだ?」

「奴(やつ)が口にした名前、皇(こう)國(こく)の人物ではない……。和(わ)氣(けの)廣(ひろ)虫(むし)、歴史上の……奈良時代の人物だ!」

 

 和(わ)氣(けの)廣(ひろ)虫(むし)――日本史に於(お)いて、有名なのは彼女よりも弟である和(わ)氣(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)の方かも知れない。

 

 当時の女性天皇・孝(こう)謙(けん)天皇は後継者問題に悩まされていた。

 天(てん)武(む)天皇嫡流の男系皇族が少なくなっていたことが理由の一つである。

 その候補として、皇族ではないが天皇の信頼が篤(あつ)かった高僧・道(どう)鏡(きよう)の名が挙がった。

 天皇に「道(どう)鏡(きよう)を皇位に就かせるべし」という旨の宇(う)佐(さ)八(はち)幡(まん)宮(ぐう)の神託が下ったと奏上されたのだ。

 

 事の真相を確かめる為に、天皇は宇佐八幡宮に和(わ)氣(けの)清(きよ)麻(ま)呂(ろ)を派遣した。

 清(きよ)麻(ま)呂(ろ)が持ち帰った神託は「我が国は開(かい)闢(びゃく)以来君臣の分定まれり、臣を以(もつ)て君と為(な)すこと未(いま)だあらざるなり。天(あま)津(つ)日(ひ)嗣(つぎ)は必ず皇(こう)緒(しょ)を立てよ。無道の人は宜(よろ)しく早く掃除すべし」というものだった。

 即(すなわ)ち、日本に於いては国の興りから一貫して帝(みかど)は帝の血筋から立てるものであり、この例に背いてはならない、これを曲げようとする道(どう)鏡(きよう)は排除すべし、ということである。

 

 この事件は通称「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれ、道(どう)鏡(きよう)が皇位に就くことはなくなったが、怒りを買った清(きよ)麻(ま)呂(ろ)は姉の廣(ひろ)虫(むし)共々改名の上処罰され、それぞれ大(おお)隅(すみの)国(くに)・備(びん)後(ごの)国(くに)へと配(はい)流(る)となった。

 孝(こう)謙(けん)天皇が崩御し、天(てん)智(ち)天皇の男系孫であり志(し)貴(きの)皇(み)子(こ)の子である光(こう)仁(にん)天皇の治世になると、姉弟は許されて復権し、逆に道(どう)鏡(きよう)は天皇の後盾を失って失脚した。

 

 その和(わ)氣(けの)廣(ひろ)虫(むし)だが、確かに孤児の養育に熱心だったという話が伝えられている。

 特に、藤(ふじ)原(わらの)仲(なか)麻(ま)呂(ろ)の乱の後は八十名以上の孤児を引き取って養子にしたという。

 彼らは後に葛(かづら)木(き)首(おびと)姓を賜ったとも伝えられている。

 

 そんな人物の名を養母として出した八(や)社(おと)女(め)の言葉は、あまりにも荒唐無稽なものだ。

 だが、抑(そもそ)も世界そのものを荒唐無稽な事態が襲ったこの現実にあっては、あり得ない話と切って捨てることも出来ない。

 何やら想像を絶する陰謀が背後に蠢(うごめ)いているのかも知れない。

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