間一髪、命の危機から逃れた幽鷹は魅琴の傍らで静かに涙を拭っていた。
「怖かった、怖かったぁ……」
そんな幽鷹に、魅琴は頭を撫でながら微笑みかける。
その姿は宛ら聖母であった。
「目を離してしまってごめんなさいね。もう大丈夫よ」
「麗真魅琴さん、御兄様を守ってくれて、ありがとうなのです」
魅琴は兎黄泉の方にも微笑みを向けた。
そして再び倒れている八社女の方へ冷めた視線を戻した。
八社女は浜に打ち上げられた魚の様な無様な姿でのたうち回っている。
「ぐはっ、ぐはっ……! な、なんて拳打だ……!」
八社女は辛うじて起き上がろうとしていた。
「クク……やあ、お嬢さん。君には烏都宮で世話になったなあ……」
「何のことかしら? 生憎私はお前の如き、子供を手に掛けようとする卑劣漢に覚えは無いのだけれど」
「ふふふ、まああの時は機体の中だったからねえ。超級為動機神体・ミロクサーヌ零式、と言った方が通じるのかな?」
二日前、拉致被害者は本来ならば烏都宮警察署で取り調べが済んだ後、日本国・皇國両政府の計らいでそのまま帰国出来る筈だった。
だが、突如として襲ってきた超級為動機神体・ミロクサーヌ零式によって予定が狂い、十人で龍乃神邸を目指すことになったのだ。
そのミロクサーヌ零式を操縦していた八社女は、この事態の元凶とも言えるだろう。
立ち上がった八社女は魅琴の方へと振り返った。
痛烈無比な拳を叩き込まれた筈の顔面には傷一つ付いていない。
「それにしても、超級為動機神体を素手で解体した超絶なる拳、まさかこの身で受けることになるとは思わなかったよ。こんなものを浴びせられたら、屋渡の心も折れる訳だ」
言葉では不敵な態度を装う八社女だったが、その両脚は子鹿の様に震えていた。
魅琴の拳が余程堪えたのだろう。
「見てよこれ……。体の傷は修復されても、刻み付けられて消えない恐怖が脚に来てしまっている。たった一発でこの様、魂まで震え上がってしまっている。あの男が作り上げた崇神會なる組織、大した事の無い御遊戯事かと思っていたら、密かにこんな怪物を育て上げていたとは……。僕達は些かあの男の執念を読み違えていたらしい……」
引き攣った笑みを浮かべる八社女は、視線を動かして何かを探している。
と次の瞬間、八社女は素早く踵を返し、魅琴とは反対方向へ一気に駆け出した。
その先には非常口があり、厄災から逃れようとする者の為に開け放たれている。
明らかに八社女は逃亡しようとしていた。
「こんなのを相手になどしていられるか! 遺憾だがこの場は退散させて貰うぞ!」
八社女は震えが嘘の様に真直ぐ、綺麗な姿勢でブレ無く走っていく。
このままでは取り逃がしてしまう――誰もがそう思った。
しかし、魅琴は一歩も動こうとしない。
まるで、八社女の逃走が上手く行かないと、そう確信しているかの様に。
「ははははは、は……は……」
八社女の足取りは急激に衰えた。
何者かが八社女の逃走を防ぐべく、吸引力を発生させて逃げられない様にしていた。
「何……だ……。体が……吸われ……る……?」
八社女の動きは次第に鈍くなり、とうとう止まってしまった。
彼の体は吸引式のモップに吸い寄せられ、囚われの身となった。
「貴様は……!」
八社女は自身を捕縛した男の顔を見て瞠目した。
「岬守航! 忘れていた……。もう一人、取るに足らぬ凡夫が居たことを……!」
モップを駆使して八社女の動きを封じたのは岬守航だった。
一緒に行動していた魅琴がこの場に辿り着いたのだから、航がすぐに到着するのも当然だろう。
房糸に捉えられた八社女が逃れようと藻掻くが、航はモップの柄を力強く握って放さない。
「随分な言われ様だな全く……。ま、その『取るに足らぬ凡夫』にお前は足元を掬われた訳だが……」
皮肉を言った航は、八社女から目を離して仲間達の方を向いた。
「で、こいつは一体誰ですか?」
航は問い掛けた。
丁度この時、上の階から続々と仲間が集まってきていた。
遅れて降りてきた根尾が答えを返す。
「そいつは八社女征一千、武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐だ! そしてそいつは首領Д以上の重要参考人になる!」
二人の男を背負う根尾だけでなく、少女の様に小柄な女を背負う久住双葉も姿を現した。
その双葉の背中から、重傷を負った十桐綺葉が恨めしそうに付け加える。
「我も根尾殿から話は聞いた。この男、ある意味では一桐卿の仇とも言えるの。小僧、確り抑えておれ。其奴は長年誰一人として一切の素性が掴めなかった男じゃ。警察に突き出せばお前は英雄、最早誰も帰国を阻むことは出来ぬじゃろうて」
「了解。誰だが存じませんが、そういうことなら逃がしゃしませんよ。丁度、筋力も殆ど戻ったところだ」
航はモップの柄を握る手に力を込め、房糸の吸引力を更に上げた。
狼ノ牙の大幹部に今更関心は無いが、間違い無く悪人であろう。
拘束しておくことが帰国に繋がるというなら折角戻った力を存分に使えば良い。
それより、航が気になるのは仲間達の様子である。
満身創痍なところを見るに、何やら一悶着あったらしい。
「何かあったんですか、根尾さん?」
「六摂家当主の襲撃に遭ったが、済んだことだ。その中から一人、十桐綺葉卿が新たに我々の協力者となってくれた。これ以上、龍乃神邸までに障碍となる者は現れないだろう」
再び、航は双葉に体を預けている小柄な女に眼を遣った。
双葉に危害を加える様子も無いし、帰国の為の助言をくれたことを考えると、信用して問題無いだろう。
「我の使用人に連絡して大型の車を三台用意させる。二台はお前達を龍乃神邸へ運び、一台はこの叛逆者を警察へ引き渡す」
「それはありがとうございます」
「迷惑を掛けたからの。せめてもの罪滅ぼしじゃ」
十桐は体を丸める八社女を怒りの籠った眼で見下ろしていた。
「ぐぅぅ、動けん……!」
八社女は最早藻掻くことすらままならない様子だった。
謎のヴェールに包まれていた筈の男の、実に呆気ない逮捕劇――そう思われた。
しかし、八社女は不気味に笑い出した。
「ふふふふふ、まさかこんなことになるとはね。ここ数日、少し派手に動き過ぎたのは良くなかったね。慣れないことはしないものだ。これは、最終手段に出ることも已むを得ないか……」
「何? 余計な動きはするな!」
航は八社女の動きを封じようと更に力を込めた。
とその時、八社女の額に蜘蛛の紋様が浮かび上がった。
紋様は妖しい光を放ち、八社女の全身を包み込む。
何やら大きな力が八社女の中で胎動し始めている。
「みんな伏せて!!」
突如、魅琴が航に飛び付いてきた。
航は体勢を保てず、モップを放して魅琴に押し倒されてしまった。
その瞬間、八社女の体は爆発し、木端微塵に砕け散った。
魅琴の呼びかけで皆は辛うじてその場に伏せ、爆風の威力から逃れることが出来た。
「莫迦な、自爆だと……?」
突然の事態に、航だけでなく皆一様に驚きを隠せない様子だ。
爆発の衝撃をもろに受けてしまったのか、魅琴の衣服が破れて下に着ていたレオタードスーツが露わになっている。
彼女が咄嗟に庇わなければ、一番近くに居た航は特に唯では済まなかっただろう。
『ははははは、一先ずこの場は退散させてもらうよ』
立ち上がった彼らを嘲笑う様に、何処からともなく八社女の声が響いた。
自爆したのは見せ掛けで、彼は今尚何処かで生きているらしい。
『そしてここまで追い詰めてくれた御褒美に、僕の正体について少しだけ教えてあげよう……。白檀揚羽、先程君にも言った通り、僕もまた君と同じく孤児だった。そしてもう一つの共通点として、政に関わる上流階級の女性に引き取られた。丁度君が、皇奏手防衛大臣兼国家公安委員長の両親が経営する孤児院の出身である様に、僕もまた孤児院で育てられた……』
白檀はその顔に不快感を滲ませていた。
しかし、続いて八社女が紡いだ言葉は全てを吹き飛ばす衝撃的なものだった。
『僕を引き取った女性の名、戒名は法均。俗名、和氣廣虫!』
一際大きな声で響いたその名に、航・魅琴・根尾・虎駕・繭月はこれ以上無い程に大きく瞠目した。
辺りには八社女の不気味な笑い声が谺し、次第に小さくなって消えていった。
「あり得ない……」
根尾が小さく呟いた。
事情を呑み込めない新兒がその真意を尋ねる。
「何があり得ないんだ?」
「奴が口にした名前、皇國の人物ではない……。和氣廣虫、歴史上の……奈良時代の人物だ!」
和氣廣虫――日本史に於いて、有名なのは彼女よりも弟である和氣清麻呂の方かも知れない。
当時の女性天皇・孝謙天皇は後継者問題に悩まされていた。
天武天皇嫡流の男系皇族が少なくなっていたことが理由の一つである。
その候補として、皇族ではないが天皇の信頼が篤かった高僧・道鏡の名が挙がった。
天皇に「道鏡を皇位に就かせるべし」という旨の宇佐八幡宮の神託が下ったと奏上されたのだ。
事の真相を確かめる為に、天皇は宇佐八幡宮に和氣清麻呂を派遣した。
清麻呂が持ち帰った神託は「我が国は開闢以来君臣の分定まれり、臣を以て君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」というものだった。
即ち、日本に於いては国の興りから一貫して帝は帝の血筋から立てるものであり、この例に背いてはならない、これを曲げようとする道鏡は排除すべし、ということである。
この事件は通称「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれ、道鏡が皇位に就くことはなくなったが、怒りを買った清麻呂は姉の廣虫共々改名の上処罰され、それぞれ大隅国・備後国へと配流となった。
孝謙天皇が崩御し、天智天皇の男系孫であり志貴皇子の子である光仁天皇の治世になると、姉弟は許されて復権し、逆に道鏡は天皇の後盾を失って失脚した。
その和氣廣虫だが、確かに孤児の養育に熱心だったという話が伝えられている。
特に、藤原仲麻呂の乱の後は八十名以上の孤児を引き取って養子にしたという。
彼らは後に葛木首姓を賜ったとも云われている。
そんな人物の名を養母として出した八社女の言葉は、あまりにも荒唐無稽なものだ。
だが、抑も世界そのものを荒唐無稽な事態が襲ったこの現実にあっては、あり得ない話と切って捨てることも出来ない。
何やら想像を絶する陰謀が背後に蠢いているのかも知れない。