高く高く上っていく昇降機の中に、三人の男女が並んでいる。
麗真魅琴を挟んで二人の侍従と侍女――灰祇院在清と敷島朱鷺緒が、まるで護衛する様に、或いは逃がさぬとでも云うかの様に構えている。
部屋全体を取り囲む窓の外では、皇國首都統京の華々しい夜景が小さくなっていく。
この最上階に居を構える高級料理店に、あの男が待っている。
魅琴は息を整えた。
これから会う相手は一国の皇太子である。
生半可な気持ちで前には出られない。
そんな彼女に、敷島が念を押す。
「麗真様、車内で私が申し上げましたこと、努々お忘れ無きよう……」
魅琴は何も答えない。
そして敷島もそれ以上は何も言わなかった。
最初から答えなどは訊いていない、これは要求ではなく命令だ、といったところだろうか。
昇降機が止まり、ゆっくりと扉が開く。
見るからに上質な赤絨毯に踏み出すと、居並ぶ従業員達が一斉に頭を深く下げた。
そして洋装に身を包んだ一人の男が三人の前に出て、恭しく挨拶する。
「いらっしゃいませ。麗真様、で御座いますね。お連れ様がお待ちで御座います。案内いたしましょう」
三人は先導に従い、店内を歩いて行く。
流石は皇族、この階を占める高級料理店を貸し切りらしく、他に客は見当たらない。
そして店の奥、壁一面の大窓から煌星の様な夜景が一望出来る特等席では、食卓の脇にゴシックスタイルの服装を身に纏った女が控えており、席には白金色の長く美しい髪をした偉丈夫が魅琴に背を向けて坐っていた。
「殿下、お連れ様が御来店です」
店員の報せを受けて、男は徐に立ち上がった。
二一六糎の長身が高々と聳え立ち、圧倒的な存在感を示して憚らない。
偉丈夫――皇國第一皇子・獅乃神叡智は魅琴の方へ振り向くと、眉目秀麗な顔に満面の笑みを浮かべた。
「来たか、待ち侘びたぞ」
獅乃神は両腕を拡げ、魅琴に歓迎の意思を表した。
「相変わらず実に見目麗しい。壮健そうで何よりだ」
対して、魅琴も獅乃神に頭を下げる。
「御無沙汰しております、皇太子殿下。本日はお誘いに与り、光栄の至りに存じます」
「まあそう硬くなるな。俺の事も名前で呼んでくれて構わん。さあ、席に着くが良い。此処の料理は統京に数ある名店の中でも絶品中の絶品。この俺が保証する」
ゴシックスタイルの装いを身に着けた獅乃神の近衛侍女・貴龍院皓雪が上座の椅子を引き、獅乃神が席に着くよう促した。
一瞬、席に向かう魅琴と貴龍院の眼が合ったが、心做しか貴龍院の視線には敵意が潜んでいる。
一方で魅琴は、そんな貴龍院を見咎める様な灰祇院の視線もまた背後から感じていた。
(どうやら思っていたよりも複雑な事情がありそうだ。敷島さんは何か事情や思う処あって獅乃神叡智に表面上盲従している。貴龍院さんは私が獅乃神に誘われたことを快く思っていない。そして、灰祇院さんはそんな状況から私を守ろうとしている……)
そして上座に腰掛けた魅琴は、獅乃神と相対した。
(何一つ他意の見えない無垢な笑顔……まるで子供みたい……)
魅琴は車内で敷島と話した内容を思い出していた。
(いや、「みたい」じゃなくて、本当に子供なのか……)
敷島の話から推察するに、獅乃神叡智の世界観は生まれたままの全能感――幼児的万能感を修正されずに保っているに違いない。
それを思えば、先日大人しく引き下がってくれたのは、寧ろ奇跡的であった。
あの後、第二皇女・龍乃神深花によって航達との合流に道筋が立ったということは、宣言通りに助力してくれたのだろう。
それを思えば獅乃神叡智の人柄は、我が儘放題に育った割に純粋で善良なのかも知れない。
「扨て、先ずは食事だ。大事な話もあるが、それは此処の料理に一頻り舌鼓を打ってからにしようではないか」
胸を弾ませ心を躍らせる感情を隠そうともしない獅乃神の様子に、魅琴は引き続き敷島の言葉を思い出した。
『私は唯、あの御方に変わってほしくない。あの御方に、今の純粋な御心のままで居てほしい』
魅琴は敷島の言葉が少し解る様な気がした。
⦿⦿⦿
龍乃神邸は騒然としていた。
岬守航が血相を変えて出て行ったと、使用人の一人から第二皇女・龍乃神深花と女公爵・十桐綺葉に報告が上がったのだ。
龍乃神と十桐は航が飛び出した詳細な時間や彼が前後に取った行動から、原因を水徒端男爵からの電話が漏れたこと、目的を甲公爵邸へ殴り込みを掛けに行ったのだと推察した。
緊急の事態に、龍乃神は十桐だけでなく日本国の者達も同室に集め、話し合いの場を設けて卓を囲っていた。
「あの阿呆餓鬼! 龍乃神殿下が態々御食事の機会を設けられてまで御忠告なさった言葉をその日の内から無視しおって!」
十桐は激怒していた。
当日の朝、龍乃神ははっきりと外を出歩かないように伝えていた筈だった。
その龍乃神もまた眉間に皺を寄せ、白地に立腹を表に出している。
「根尾殿、水徒端早辺子は彼らの恩人だと言っていたね……」
「はい。狼ノ牙に潜入していた、部下の仁志旗という男が脱走時の詳細を伝えてくれました。水徒端早辺子の尽力無しに、今回の脱出劇はあり得なかったと」
「成程。危険を顧みず、妾の忠告に背いてまで、強大な相手の許へと無謀にも立ち向かっていったというわけか。勇敢で結構な事じゃないか」
「なんで一人出て行くんじゃ! 我らに相談せんか! 頭がおかしいのか!」
一方で、航の仲間達もそれぞれの考えを述べる。
「ま、要するに例の甲とかいう奴をぶちのめせば良いんだろ?」
「虻球磨君、流石にそういう訳じゃないと思う。岬守君が何を考えているか解らないよ……」
「今回ばかりは久住に同意なのだよ」
「思い返せば、彼には少し向こう見ずなところはあったけど……」
おそらく深く考えていない虻球磨新兒を除き、概ね航の行動には否定的なようだ。
また、彼らを預かっている根尾弓矢と白檀揚羽も困り果てていた。
「一寸これは拙いですねー。甲夢黝に帰国を阻む大義名分を与えちゃいますよー」
「皇先生にこのこと伝えて、日本国としての対応を検討して貰わねばならんな」
共通しているのは、岬守航がこの様な行動に出た事について、皆理解に及んでいないということだ。
否、ただ一人だけ想像の付いている人物が居た。
龍乃神深花が手を叩き、全員の注意を引いた。
「帰国に関しては多少の問題ならば揉み消せるだろう。元々、甲に対抗する手立てを打っているからね。それに関しては、先程妾の弟・第三皇子の蛟乃神賢智から連絡があった。甲の件も含めて、上手く事が運べば岬守君のことはどうにかなるだろう」
日本国の面々に安堵の空気が流れた。
しかし、龍乃神は溜息を吐いて付け加える。
「但し、岬守君の事は帰国まで拘禁させてもらう」
「え? な、何もそこまで……」
久住双葉が龍乃神の言葉に疑問を呈したが、龍乃神の眼は一片たりとも揺るがない。
日本と皇國では人権に対する扱いが異なり、強行的な措置に躊躇いが無い――その違いがよく現れた眼だった。
双葉がたじろいだのも無理は無い。
「妾は思い違いをしていた。岬守航のことを、単なるお人好しで綺麗事好きの甘ちゃんだと思っていた。だが、どうやらそうではない。知り合いに一人、似た様な人物を知っている……」
龍乃神の眼には憂いの光が宿っていた。
「岬守航は狂人なんだよ。彼は自分の中に行動規範を支配する何者かを棲まわせている。謂わば奴隷なんだ。それの命令を受けてしまうと決して他人の言う言葉に折れなくなってしまうし、後先考える余裕も無く行動に出てしまう。仮令その先にどんな破滅が待っていようとも……」
腑に落ちない、といった様子の皆を横目に、龍乃神は席を立った。
「行くところがある。十桐、悪いがもう一度留守を預かってくれ」
「畏まりました、龍乃神殿下」
龍乃神は一人、部屋を後にした。
⦿⦿⦿
甲公爵邸、煉瓦造りの地下室で航は、解放されて力無く崩れ落ちる早辺子の体を抱き留めた。
「岬守様……嗚呼、岬守様。私の為に何ということを……」
「気にしなくて良いさ。さっきも言ったけど、あいつをとっちめて不問にさせれば済む」
「そのような道理、通る筈が無いでしょう。貴方、正気ですか?」
大丈夫、と航は早辺子に根拠無く言い聞かせた。
早辺子は航の行動に戸惑いの表情を見せているものの、その眼を潤ませて航をじっと見詰めている様子から、想いは今も変わっていないと見て取れる。
しかしその時、二人の再会に激しい地響きが水を差した。
「な、なんだ!?」
「ま、まさか甲公爵は超級を出すつもりでは?」
「なんだと!?」
航は戦慄した。
甲が超級為動機神体を持っていることは、烏都宮警察署で襲撃を受けたことから航も承知している。
しかしこんな場でもし超級が起動され、航に向けてその暴を解き放ったとしたら、被害は甲邸に留まらず、周辺の市街に甚大な破壊と殺戮を齎すだろう。
少なくとも、碌にその力を発揮しないまま魅琴に機体を解体されて守られた烏都宮警察署の程度では済むまい。
ならばこのままにはしておけまい。
航は早辺子の眼を見て問い質す。
「早辺子さん、甲が逃げた先に超級があるということですか?」
「はい。私軍とは別に集めているようです」
「つまり、甲が動かそうとしている機体の他にもまだ超級はあるんですね?」
航は決意を固めた。
「僕が撃墜して止めます。早辺子さんは屋敷の人達を避難させてください」
航はそれだけ言い残すと、甲の後を追って隠し通路の奥へと急いだ。