妖艶な黒髪の美女、第一皇女・麒乃神聖花が再び航の眼前に迫った。
ただ、今の航は彼女の妹である龍乃神深花に横抱きにされ、なんとも滑稽な姿を曝している。
そんな様子を見て、麒乃神はさも可笑しそうに言った。
「面白い格好ですね」
「いや全然面白くないですよ」
航は正直、この扱いに少し腹を立てていた。
龍乃神の言付けを破ったのは悪かったし、甲公爵邸に乗り込んだのは軽率だったが、この様な辱めを受けるのは不満だった。
「御姉様からも深花様に何とか言ってもらえませんかね?」
航は龍乃神の行いを彼女の姉・麒乃神に抗議した。
その瞬間、麒乃神の眉が動いた。
何か、航が言った言葉の一つが彼女の琴線に触れたらしい。
麒乃神は白い歯を出して口角を上げたが、航は少しその笑顔に寒気を感じた。
「今、御姉様と云いましたか、御前は?」
「はい?」
麒乃神の薔薇色の眼が航を舐める様に見詰めている。
その視線を受け、航は全身に鳥肌が立つ様な思いがした。
宛ら、何か途轍もなく悍ましい怪物に狙いを定められたかの様な、見初められた様な、そんな感覚だった。
龍乃神も姉の異変を感じたのか、半歩後退って呟く。
「拙い……」
航の胸中に一層不安感が募った。
一方、麒乃神は我に返ったのか、一つ咳払いをして話を戻す。
「岬守、御前達拉致被害者の帰国ですが、間も無く両国の政府間で調整も付くでしょう。今のところ、明日の夜を見込んでいます」
「夜まで掛かってしまいますか?」
「最後の詰めが残っていますからね。それから、御前達一人一人に対して能條首相から直々の謝罪と、補償の交渉を行いたいとの意向を奏上されています。そこまで含めた目算です。解りましたか?」
何はともあれ、愈々帰国が実現しそうになっていることは確からしい。
数々の困難はあったものの、漸くその運びとなったことに航は安堵していた。
不本意なこともあったが、全ての障碍は取り除かれた。
今度こそ帰れる――そんな万感の思いが込み上げてくる。
しかし、航には一つだけ気掛かりなことがあった。
此処へ来る前、最後の最後に一つ生まれた大きな懸念である。
それは帰国の障碍ではないものの、帰国の目的には大きく関わる、航にとって人生の一大事だ。
「あの、本国から僕達を迎えに来た人達の中で、麗真魅琴という女性が居ることは御存知でしょうか」
「ええ、承知しておりますよ。御前が訊きたいことも分かっています。これは御本人の言葉を仰ぐべきでしょう」
麒乃神はそう言うと、後ろへ振り向いて件の人物に呼び掛ける。
「皇太子殿下、今夜御誘いの女性は如何なさいますか?」
「ふむ……」
第一皇子・獅乃神叡智がその場で答える。
「明日帰国となれば、その前に改めて話さねばなるまい。父上を含め、皇族総出の晩餐会に招いて紹介したいと考えている」
「だ、そうです。ですので、彼女に関してはその席で帰国するか、皇國に留まるか決めることになるでしょう」
航の心を寂寞の闇が包み込んでいく。
家族に紹介する、ということは、たった一回の食事でもうそこまで関係が進展しているのか。
瓦礫と化した甲邸本館の有様は、まさに荒廃した航の心象風景そのものだった。
「ん? なんだ? 俺に何ぞ用か?」
「あ、いえ……」
航は不意に、獅乃神と眼が合ってしまった。
深紅と柳緑の澄んだ双眸が航の弱った心を清々しく突き刺す。
どこまでも純粋な、敗北や挫折を知らぬ真の強者の眼だった。
そんな視線に航は堪らず目を背けた。
獅乃神は怪訝そうに首を傾げた。
航の胸中など、まるで想像が及ばないのだろう。
麗真魅琴を巡って争っている――航がその相手だとは夢にも思っていまい。
更に、姉の麒乃神も航に追い打ちを掛ける。
「岬守、御前は麗真魅琴の将来をどうこう言えるような関係なのですか?」
言われてしまった。
航と魅琴は、別に将来を約束し合った仲でも恋人同士でもない。
単なる幼馴染である。
唯、誰よりも付き合いが長く、誰よりも最初に片想いしただけである。
尤も、麒乃神の言葉は別に責める様な調子ではなかった。
ただ確認しようとしただけだろう。
しかし、その事実を確かめるという行為そのものが航を強く窘める。
魅琴に誰が言い寄ろうと、魅琴が誰を選ぼうと、積極的に関係を結ばなかった航はそれを咎める立場にないのだ。
「いいえ」
航はそう答えるしか無かった。
それは躊躇い続けた航の臆病さに対する、容赦の無い審判であった。
思えば皇國で再会して少なくとも三度の機会があったにも拘わらず、航はその全てを逸した。
魅琴が遠くへ行こうとしている。
つい先程まではすぐ近くに居たのに、手の届かない深窓の存在になろうとしている。
日を跨ぎ、不可能という名の至上の耽美を獲得しようとしている。
「ふふ……」
そんな中、質問した麒乃神は小さく笑った。
瞬間、航の背筋に再び凄まじい怖気が襲ってきた。
「そうですか。可哀想に。しかしそれならば、一緒に居る手段が無くもないですよ」
麒乃神の手が、抱えられている航の肩を掴んだ。
まるで妹・龍乃神から航を奪い取ろうとしているかの様だ。
「姉様! おやめください!」
龍乃神は姉を止めようとする。
しかし、麒乃神に意に介する様子は無い。
「嗚呼、嗚呼。もう堪りませんね。そんなに麗しい御顔で、そんなに憐れな様子を見せられると、私はどうにもそそられてしまいます。ねえ深花、やはりこの男、私のものにしてしまいたいわ。彼のこと、貰っていきますね」
「なっ!? 姉様! そんな、話が違う!」
龍乃神は姉に抗おうと背を向け、航を守ろうとしたようだが、その瞬間に彼女は航から手を放し、気を失ってその場に崩れ落ちてしまった。
横抱きにされていた航の体はそのままの姿勢で宙に浮き、今度は麒乃神の腕の中へと抱え込まれた。
「賢智、深花は御前が送り届けなさい」
「……はい」
細身の青年――第三皇子・蛟乃神賢智が姉・龍乃神深花の体を抱き上げた。
「相変わらず勝手な女だ……」
蛟乃神は麒乃神に聞かれないように小さく呟いていた。
麒乃神は意に介さず、航を抱えて上機嫌である。
「さあ岬守。あいや、名前で呼んであげた方が良いかしら。航、私の邸宅に御連れしましょう。私からの施し、御前なら屹度よく似合うと思いますよ」
一人で話を進める麒乃神に、航は付いて行けない。
「あの、物凄く嫌な予感がするんですが、『似合う』って一体何のことを仰っているのですか?」
「それは着いてからのお楽しみです」
航は麒乃神の言葉に不安しか感じなかった。
そんな中、第二皇女・龍乃神深花が気を失ったことで、この場の空気は急速に終演の香りを漂わせてきていた。
真先にそんな気配に動かされたのは、第一皇子・獅乃神叡智だった。
彼は面倒臭そうに溜息を吐いた。
「姉上、もうお開きで良いだろう。俺は父上に晩餐会と婚約の勅許を願わねばならんからな、御暇させてもらうぞ」
「ああ、そうですね。お休みなさい、皇太子殿下」
「うむ、お休み」
獅乃神は挨拶を返すと、その場から忽然と姿を消した。
一方で、今度は第二皇子・鯱乃神那智が動く。
二人は色々と話し込んでおり、航の方へは眼を向けていない。
彼は早辺子に言った。
「水徒端、早速仕事だ。二人で私の邸宅に戻る車を手配しろ。運転手の番号を伝える」
「畏まりました、鯱乃神殿下」
早辺子は新たな主の命ずるままに番号を獲得し、そのまま電話を掛けた。
更に、末娘の第三皇女・狛乃神嵐花も動いた。
彼女はこの場で殆ど何もせず、退屈だったのか大欠伸をした。
「んー、獅兄様も帰っちゃったし、私様も明日の学校に備えてねむねむしちゃいますねー」
「そうですか。お休みなさい、嵐花」
「お休みなさーい」
狛乃神もこの場から姿を消した。
次に、第三皇子・蛟乃神賢智が姉の龍乃神を抱えて麒乃神に声を掛ける。
「麒姉様、僕も龍姉様を送り届けて帰ります。お休みなさい」
「お休みなさい、賢智」
蛟乃神と龍乃神もこの場から姿を消した。
そして、鯱乃神が早辺子を伴って麒乃神に声を掛ける。
「姉様、今し方、水徒端が車の手配を終えました。運転手によると、正門に車を寄せるそうなので、そこで待ちます。お休みなさい」
「そうですか」
「麒乃神殿下、色々と御気遣いありがとうございます。それから、岬守様……」
早辺子は一度麒乃神に頭を下げ、そして顔を上げると航の方に視線を遣った。
「岬守様、どういった状況ですか?」
「これから私の邸宅に招待するのです」
航の反応を待たず、麒乃神が即答した。
「まあ、それはそれは……」
早辺子は一瞬だけ眉を顰め、航に冷ややかな視線を送った。
心做しか、怒っている様に見える。
「岬守様、貴方には心に決めた御方がいらっしゃるのでは?」
「いや、それは……その……」
「麗真魅琴のことでしたら、恋人でも何でもないそうですよ」
「そうですか、そうなのですね……」
早辺子は頭を抱えて首を振り、聞こえない程度の小声で何やらブツブツと呟いている。
彼女にとって、麒乃神から説明された今の状況を見ると、心中穏やかではあるまい。
早辺子が航への想いを秘めながら身を引いた理由は、彼が皇國に連れ去られたという経緯も勿論あるが、それに加えて心に決めた相手の存在も大きかった。
しかしその相手が恋人でも何でもないという上に、他の女――それも皇國の貴人の誘いを受けているというのだ。
早辺子は心を落ち着かせる様に深呼吸すると、明らかに取り繕った笑顔を航に向けた。
「岬守様、貴方と再び巡り会えて、私は幸せでした。どうか御達者で。私は貴方の行く末に幸多からんことを、心より願っておりますわ」
「あ、はい。早辺子さんもお元気で……」
航は少し早辺子の雰囲気に気圧されながら挨拶を返した。
そんな二人の険悪な雰囲気を気にも留めず、麒乃神は早辺子に念を押す。
「水徒端、那智に能く仕えるのですよ」
「はい。では、お休みなさいませ、麒乃神殿下。岬守様、失礼いたします」
「お休みなさい、那智・水徒端」
鯱乃神と早辺子は、正門の方へと歩いて行った。
これで、残されたのは亀甲縛りにされた航と、彼の体を横抱きにする第一皇女・麒乃神聖花だけである。
「扨て航、私達も帰りましょうか」
「いやいや、なんだか当然の様に一つ屋根の下へ連れ込まれる流れになってますけど、何なんですかこれ?」
納得の行かない航だったが、彼の意思は一切尊重されなかった。
二人は同時にその場から忽然と姿を消し、甲公爵邸には虚しい残骸と死骸が打ち捨てられるのみとなった。
舞台の幕切れは実に奇妙なものになった。