虎駕憲進の両親はかなり確固としたリベラルの人間達だった。
育児や教育には熱心で、親の責任を立派に果たそうとしていたが、過干渉なのが玉に瑕であった。
その点、岬守航や麗真魅琴の場合とは逆であったと言えるかも知れない。
虎駕の両親は事あるごとに自分達の考えや教育方針を息子に押し付け続けた。
思春期までの彼自身はその期待に能く応え、正義感の強い真面目な青年に育っていった。
しかしその心の奥底には人並みの脆さ・弱さ・汚さや、怠惰・エゴが息衝いていた。
ただ、それを身内に却々見せられなかったのだ。
そんな虎駕憲進に影響を与えた人物が二人居る。
一人は、兄である彼の父と不仲だった叔父である。
不仲の理由には兄弟間の思想の相違があった。
叔父と交流を持つようになったのは高校生の頃だった。
その頃から、虎駕憲進の思想は少しずつ培われた。
そしてもう一人、影響を与えたのは中学時代に出会った一人の少女である。
その少女の、凜と大和撫子然とした出で立ちに理由も無く惹かれた。
残念ながら少女には既に気心知れる相手が居たが、それでも彼の中には淡い思いが燻り続けた。
彼が祖国を愛したのは、そんな彼女の面影を無意識に重ねていたからかも知れない。
虎駕憲進は元来真面目な青年である。
彼は叔父やその仲間達に強く影響を受け、心の底から共感していった。
虎駕憲進は正義感の強い青年である。
彼は嘗て亡き友の為にそうした様に、叔父達の力になりたいと切に願った。
虎駕憲進はそれなりに聡明な青年である。
彼は叔父から様々なことを学び、素直に吸収していった。
しかし虎駕憲進が己の中に確固たる芯を形成するには、あまりにも未熟で時間が足りなかった。
虎駕憲進は初恋を引き摺る普通の弱い青年に過ぎなかった。
⦿⦿⦿
夜の暗闇の中、波の打ち付ける音が脇から繰り返し聞こえる。
人生の岐路に立たされ、心が強い憂いに支配される中で海を見続けるのは毒だ。
虎駕憲進は独り、ポケットの中を探って重量のある小瓶の感触を確かめる。
それは此処へ来る前、秘書を通して能條緋月から渡されたものだ。
震える手でその小瓶を取り出し、蓋を開ける。
思う様に手が動かずとも、今の彼には封を切ることなど容易かった。
そんな中、彼は自身が道を誤って袋小路に追い詰められてしまったのだと悟った。
動悸が激しくなる。
汗が止め処なく溢れてくる。
目に汁が入り、滲んで見えなくなる前に、彼は小瓶の中身を手の中に握り締めた。
胸の奥に去来する手遅れ染みた考えを握り潰す様に……。
(もう、どうにもならない……)
愚かな男に、最早選択肢など残されてはいなかった。
過ぎた時は戻らず、人生に引き返す道など無いのに、彼は明らかな行き止まりを選んでしまった。
ふと、顔を上げて陸の方へと目を遣った。
自分達の為に用意された飛行機が、随分と、いくら手を伸ばそうと届かずどれだけ歩き続けようと辿り着けない程遥か遠くに見える。
全身が湿った。
(嗚呼、俺はこの国で死ぬしか無いんだ……)
自分で選んだ筈なのに、もう日本国に居場所が無いと思うと笑える程に悲しい。
致命的に人生を脱線してしまった彼は込み上げて来る感情を抑えられなかった。
彼は遂に、泣きながら笑い出した。
その時、一人の青年が彼に駆け寄ってきた。
「虎駕!」
呼び掛けに振り向いた虎駕が目にしたのは、つい今し方裏切ってしまった友・岬守航だった。
虎駕は航の眼を見るのが堪らなく辛かった。
「来るな!」
虎駕は拒絶の言葉を叫ばずにはいられなかった。
自分の愚かさを悔い、消えてしまいときに突き付けられる他者との繋がり程、胸を締め付け心を責め苛むものは無い。
航はそんな彼に、普段と変わらぬ様子で手を差し伸べてくる。
「虎駕、大丈夫だ。一緒に日本へ帰ろう」
「帰れる訳が無いだろう! 俺は日本を売って皇國に奔った筋金入りの売国奴なんだぞ! ただ帰化しようって訳じゃない! 敵国と手を組んで自国を攻めさせた人間なんて、手を組んだ敵国からも軽蔑される! 俺にはもう何処にも居場所なんて無いのだよ!」
一歩、航が虎駕との距離を縮めてくる。
一歩、虎駕は航と距離を離れる。
ほんの僅かでも近寄られたくない。
張り裂けそうな拒絶感が反磁性を生んでいた。
「あんなの信じるかよ。皇國臣民になりたいと思ったのは確かかも知れないけれど、日本を攻撃させる必然性は無い。それに、日本を棄て切れなかったから逃げたんだろ? あんな出来の悪い捏造、信じる方がどうかしているよ。みんな解っているさ」
航は再び手を差し伸べてきた。
だが、虎駕にはとても取れない。
「駄目なのだよ。その出来の悪い捏造を疑いもしない人間はお前が思っている以上に多い。そしてそれは時と共に一人歩きし、悪意を持って広められ、気が付いた時には誰にも覆せなくなっている……」
「流石にそんなことは無いだろう」
「無くないさ。俺には分かるのだよ」
虎駕の絶望は航には想像も出来まい。
だから、航は虎駕に歩み寄ることが出来るのだ。
手を取ることが出来るのだ。
虎駕は掴まれた手の温もりを火傷する程に痛く感じた。
「放してくれよ」
「虎駕、僕は絶対にお前を見棄てたりなんかしない。居場所なら僕が取り戻してやる。死ぬしか無い未来なんて、僕が覆してやる」
「無理なことを簡単に言うなよ!」
虎駕は航の手を無理矢理振り解いた。
この期に及んでは友の厚意など虚しいだけだ。
「虎駕」
そんな虎駕に向けられた航の眼には、責める様な色は微塵も見られない。
その澄んだ瞳は、戻れない日常への憧憬を再び呼び起こしてしまう。
「虎駕、僕は諦めが悪いんだってこと、この一箇月で思い知っただろう?」
「やめてくれよ!」
「お前の言う様に茨の道でも、僕は傷付きながら進み続ける。不可能に思える程に困難な道でも、残りの人生全て懸けてでもやり通してみせる。絶対にお前を助けるから」
「やめてくれよ!!」
虎駕は耐えられなかった。
こんな愚かな人間の為に、一人の友が人生を犠牲にするなど耐えられる筈が無い。
虎駕は独りになりたかった。
だが、どうやら航は許してくれそうにない。
「そんなことやめてくれよ……」
虎駕の目から涙が零れた。
「お前ならやりかねないと思うと、自分の愚行を悔やんでも悔やみ切れなくなる。頭が割れそうになる。なんでお前がこんな莫迦の為にそんなことをしなければならないんだ。なんでこんな莫迦がお前にそんなことをさせられるんだ」
悲痛な思いで言葉を絞り出した虎駕に、航は尚も微笑みかけている。
そしてそのまま、航は平然と答えた。
「友達だろ」
何も不思議なことは無い、と航は言っていた。
虎駕はその言葉に、全身から悪い痺れが抜けていく様な感覚に包まれた。
(嗚呼、そうか。それで良いのか……)
短い言葉の意味が虎駕には実に豊潤に感じられた。
一人の愚か者を、人生を懸けて救おうとする理由がそれか。
真直ぐに、どんな受難が降り掛かろうとも、冤罪を晴らす為に己の全てを捧げる。
それに足る理由は、こんなにも単純なものなのか。
ただ、友達だから。
それだけで、たったそれだけでこの莫迦な男のことを信じて良いというのか。
(そうか……。人間、それで良いのか……)
虎駕の心に光が差し込んだ。
頭上を流星群が駆け抜けた様に思えた。
「岬守、凄い奴なのだよお前は……」
不思議な程に虎駕の頭は晴れていた。
暗鬱とした雲が嘘の様に消え去り、果てしなく澄み渡っていた。
たった一言で虎駕は人生の全てが救われた気がした。
「ありがとう。俺、お前が居てくれて良かったのだよ……」
「ああ、帰ろう」
航は安心した様に笑い、改めて手を差し伸べてきた。
しかし虎駕は依然としてその手を取らない。
「だけど、やっぱりお前にそんなことはさせられないのだよ。どれだけ不毛なことか知っているからな。そんなことより、お前は麗真のことを幸せにしてやってくれ」
航は不穏な困惑に戸惑いを見せている。
だが憑物が落ちた虎駕に迷いは無かった。
「虎駕?」
虎駕は航を突き飛ばした。
距離を取る必要があった。
「虎駕!?」
航は尻餅を搗いた。
これならば止められまい。
虎駕は空かさず手に握っていた二粒の錠剤を、東瀛丸を口の中に放り込んだ。
手から地面に落ちた小瓶から少し中身が零れる。
その中身を見て航は青褪めた。
「止せ! 虎駕、やめろ!!」
虎駕はそれが服毒自殺を意味すると知っていた。
目の前で一桐陶麿の自害を見ていたから。
航はそれが服毒自殺を意味すると知っていた。
目の前で甲夢黝の自害を見ていたから。
だがもう遅かった。
虎駕は二粒の東瀛丸を呑み込んだ。
それらは胃の中に沈み、吸収されて一気に全身へと駆け巡る。
巨大化した神為が暴れ、弾ける様に全身から鮮血を噴き出させる。
赤く、紅く染まる死……。
僅かに残された意識と時間で、虎駕は最期の言葉を声にならない声に乗せた。
仮令伝わらずとも、改めてこれだけは言っておきたかった。
「ありが……と……」
虎駕の体は動かなくなった。