狛乃神は手を激しく打ち下ろし、魅琴の手を振り解いた。
自身の握力から力尽くで逃れられた魅琴は驚いたのか、一瞬だけ眉をつり上げる。
対する狛乃神は焦りと苛立ちを表情に出し、眉間に皺を寄せて魅琴の方へと振り向いた。
「これはこれは御姉様。将来皇國皇后になろうという御方が、いったい何のおつもり?」
狛乃神は嫌みったらしい口調で魅琴に尋ねた。
兄嫁と呼んではいるが、既に敵視していることは明らかだ。
一方の魅琴も、酷く冷め切った眼をしていた。
恐ろしい程に色の無い、非人間的な表情を浮かべている。
長い黒髪を靡かせる立ち姿が月明かりに照らされ、凍り付く様な美しさを纏っている。
紫紺のホルターネックレオタードに強調された身体の隆線が艶めかしい。
「魅琴……」
航の呼び掛けに魅琴は応えない。
その有様が、航には何処か不安で仕方が無かった。
まるで魅琴が、能く知る幼馴染の彼女が得体の知れない何者かに思える程だ。
「貴女に御姉様呼ばわりされる筋合いは無いわ」
「変なこと言うじゃん。私様、貴女が嫁入りする家の末娘だけど?」
「察しが悪いわね。皇國の皇室はどういう教育をしているのかしら? その嫁入りを断ると言っているのよ」
「それはまたどうして? 世の中には皇國臣民になりたくて仕方の無い奴が居る上で、臣民どころか皇族になれるのに」
魅琴は少し眉を顰めた。
彼女もまた、知己たる虎駕憲進に売国奴の汚名を着せる動画を見ている。
だから狛乃神の言葉が癇に障ったのだろう。
魅琴は小さく溜息を吐いた。
「私は日本国民として、麗真魅弦と皇奏手の間に生まれた娘。基より皇國の人間になるつもりは無い。死ぬ時まで、日本国民として命を燃やして輝かせる」
魅琴の言葉を聞き、航は嬉しい筈だった。
第一皇子が魅琴に婚約を申し込んでいるという話を聞いた時はこの世の終わりかと思ったが、彼女は今はっきりとそれを否定した。
しかし何故か、航は異様な胸騒ぎを覚えていた。
魅琴の言葉が何処か遠く、霧の向こうから聞こえる様な感覚があった。
「ふーん。ま、別にそれは良いけどね。でも、それならそれで穏便に断れば済む話なのに、随分とまあ喧嘩腰じゃん」
「その理由、貴女に判らない筈が無いでしょう。何故あんな捏造動画が大々的に広報されたのか、その理由に予感がある筈よ。これから日本と皇國の間に何が起こるのか……」
魅琴の答えを聞き、狛乃神は嗜虐的な笑みを浮かべた。
この状況、決裂が嬉しくて仕方が無い、といった様相だ。
「つまり敵対する気満々ってことね。了解。実は私様、貴女のこといけ好かないと思ってたんだよね。下民の癖にお高く留まっちゃってさ。皇后は勿論、伯爵家も勿体無いよ」
「鬼獄家なんて知らないわ。私は麗真魅琴よ。生まれてから死ぬまでね」
魅琴と狛乃神の間に緊迫した空気が流れている。
まさに一触即発といったところか。
「狛乃神嵐花、大人しく彼らを日本国に帰しなさい」
「私様に命令するなよ、下民が」
睨み合う魅琴と狛乃神。
先に動いたのは狛乃神だった。
手に鏃を形成し、魅琴を切り付けようとする。
しかし振り被る前に魅琴の拳が狛乃神の顔面に炸裂した。
「ぐっ、この!」
狛乃神は構わず攻撃動作を続ける。
だが今度は魅琴の蹴りが手から鏃を叩き落とした。
更にもう一発、顔面に拳が炸裂。
狛乃神は背筋を弓なりに仰け反らせた。
「こ、こんな拳打効くか莫ー迦!」
魅琴の攻撃に耐える――それだけで狛乃神の耐久力は異様である。
それでも、突如勃発した二人の戦いは魅琴が優位に立っている。
狛乃神の繰り出した拳に魅琴はカウンターを合わせ、三度顔面に強烈な拳を叩き込んだ。
彼女の身体が輝きを放ったところを見るに、素の膂力ではなく神為に因る身体能力強化を上乗せしたらしい。
「ぐはっ!!」
空間が弾け飛ぶかの様な衝撃に、流石の狛乃神も堪らず片膝を突いた。
屈辱に表情を歪めた狛乃神は、その体制から魅琴の足首を掴んだ。
「うがああああッッ!!」
狛乃神は魅琴の身体を片腕で持ち上げ、手拭いの様に振り回しては魅琴の身体を何度も混凝土に叩き付ける。
重金属が落下する様な衝撃音が何度も地響きと共に谺する。
「魅琴!!」
航は居ても立ってもいられず、光線砲ユニットを形成して狛乃神へと向けた。
とは言え、この状況下で射撃すると魅琴に当たってしまう恐れがある。
そしてそんな航の心配を余所に、魅琴はあっさりとこの攻撃から脱出する。
狛乃神の腕が最高点を通る瞬間に回転蹴りの要領で腰を捻って剛腕を振り解くと、そのまま回転蹴りの動作を続けて狛乃神の蟀谷に後回し蹴り、更に地に足を着けて鳩尾に後回し蹴りを叩き込んだ。
「が……はっ……!! ば、莫迦な……! 皇族たる私様が……こんな女に……!」
意識を朦朧とさせてふらつく狛乃神に、魅琴は宙返りしながら飛び掛かる。
そして強烈な踵落としを狛乃神の脳天に叩き付け、彼女の顔面を混凝土に激しく叩き付けた。
狛乃神は伏せられた顔面から血を流し、そのまま動かなくなった。
「ふう、末娘でこのレベルか。流石は皇族、と言ったところ……」
魅琴は身体に付いた土埃を払いつつ、冷血な眼で倒れ伏した狛乃神を見下ろしていた。
「魅琴、大丈夫か?」
「貴方が心配する必要は無いわ」
光線砲ユニットを消して駆け寄った航に対しても、魅琴の態度はどこか余所余所しく冷淡だった。
それは拉致に会う前の態度とも違う、極めて他人行儀な雰囲気だ。
「魅琴、油断しちゃ駄目だ。すぐに起き上がってくるかも知れない」
「心配要らないと言っているでしょう。完全に気絶しているから当分は起きないわ」
「いや、でも……」
「五月蠅いわね……」
魅琴は溜息を吐くと、無造作に、苛立ちをぶつける様に狛乃神の身体を蹴り飛ばした。
狛乃神の身体は風に跳ばされた紙屑の様に滑走路を転がっていく。
「なっ、魅琴!」
「何よ、文句あるの?」
魅琴のぞっとする様な冷たい視線に射竦められ、航はそれ以上彼女の態度を追求出来なかった。
おかしい、明らかに今の魅琴は何かが変だ。
そんな航の困惑を余所に、魅琴は狛乃神を前に倒れていった日本人達を担ぎ上げる。
「ほら、さっさと飛行機に積み込むわよ。一刻も早く離陸の準備をしないと」
「あ、ああ……」
有無を言わさず促されるまま、航も仲間を担ぎ上げた。
魅琴が根尾弓矢・白檀揚羽・久住双葉を、航は虻球磨新兒と繭月百合菜を担いでいる。
「向こうに虎駕の遺体もあるんだ。一緒に帰らせてやりたいんだが」
「別に、勝手にすれば?」
魅琴は航に眼も向けず、根尾と白檀を肩に、双葉を背中に負ってタラップを昇る。
素気ない態度だったが、航は少し安心した。
なんとなく、今の魅琴に頼めば無下に断られる予感がしたのだ。
「じゃ、行ってくるね」
「早くしなさいね。その二人は預かっておいてあげるわ」
先に担いだ三人を飛行機に積み込んだ魅琴は航に向かって手を出し、新兒と繭月を受け取った。
航はタラップを駆け下りると、途中、雲野兄妹と擦れ違う。
「君達も飛行機に乗っておいてくれるかな?」
「ハイです」
「解った」
航はタラップを昇る雲野兄妹を見送ると、虎駕の許へと向かった。
⦿
航が虎駕の遺体を背負って戻ると、タラップの下で魅琴が待っていた。
「どうした、魅琴?」
「飛行士は何処?」
質問を質問で返された航だが、魅琴の問いにはぞっと来るものがあった。
飛行士が居なければ、当然飛行機は飛ばない。
呼んでこなければ航達は帰国出来ない。
しかし、飛行場の建屋が爆破された今、飛行士が無事かどうかは解らない。
仮に無事だったとして、この状況で航達を日本国へ返してくれるとも限らない。
「探してくるしかないか……」
航は一縷の希望を信じて破壊された建屋へと向かおうとした。
とそのとき、夜空の月を背に一台の自動二輪車が滑走路へ飛び降りてきた。
「お前らは……!」
一組みの男女が二人で自動二輪車に跨がっている。
後部に坐る女は航の能く知る人物だった。
「久し振りだね、岬守」
椿陽子が自動二輪車から降り、航と魅琴の許へと歩み寄ってきた。
彼女を連れてきたのは弟の道成寺陰斗だ。
二人は何処で覗き見ていたのか、帰国目前で立往生する航達の前に突然現れたのだ。
「何の用だ、椿?」
航は警戒していた。
知り合いとはいえ、椿陽子は拉致被害者の中に紛れていた武装戦隊・狼ノ牙の内通者である。
つまり、味方の振りをしていた敵なのだ。
突然の出現に、素直に迎えろという方が無理だろう。
そんな航に、陽子は驚くべき事を言い出した。
「飛行士は始末されているよ。ここは私達に任せな」
「任せる?」
「私の弟・陰斗はどんな機械でも一通り操ることが出来る。卓越した技術がある訳じゃないけどね。つまり、飛行機も操縦出来るんだ」
「何が言いたい?」
質問する航だが、意図は分かっている。
だが、彼は陽子を信用していない。
そんな彼女に、航の方から頼み事をすることは出来なかった。
「私達が貴方達を帰国させてあげるってことさ」
「何だと?」
航は陽子の目を睨んだ。
有難い提案ではあるが、素直に受け取ることは出来ない。
「何を考えているんだ?」
「一つはこっちの事情さ。この混乱を機に組織が動くらしい。それを見越して、私と陰斗は明治日本で待機する様に言われているんだ」
「お前ら、まだ日本をそっちの革命ごっこに巻き込む気か……!」
航は流石に怒りの感情を禁じ得なかった。
狼ノ牙の活動で、死ななくても良かった日本人が何人も死んでいる。
この上まだ日本で何かを企んでいるのだ。
到底容認出来なかった。
だが陽子は愁いを含んだ眼を伏せた。
その様子から、ただ狼ノ牙としての思惑だけで動く訳では無いと見て取れる。
「そう言われても仕方ないと思う。でも、貴方達をこのままにはしておけないよ。このまま皇國から帰れないなんて、あっちゃいけないと思う。だから……」
陽子は握り締めた拳を振るわせていた。
その様子は嘘と思えず、航から頭ごなしに否定する感情が薄れていく。
元々帰国したいのは山々なのだ。
航は何処かで、陽子を信じる理由を求めていたのかも知れない。
「良いんじゃない? 別に」
そんな航の胸中を知ってか知らずか、魅琴は素気なく言ってのけた。
「背に腹は代えられないでしょう御言葉に甘えておきなさい」
「あ、ああ。まあ魅琴がそう言うなら……」
「ありがとう。陰斗、飛行機に乗り込むよ」
「わかった、姉さん」
陽子と陰斗の姉弟はタラップを昇っていった。
愈々、滑走路には航と魅琴だけが残されている。
「魅琴、僕達も行こう」
航は魅琴に声を掛けた。
一時はどうなることかと思ったが、決して無事とは言えないが、それでもどうにか二人揃って帰国する時が来たのだ――そう思っていた。
だが、魅琴は動こうとしない。
それどころか、彼女は信じられないことを言い出した。
「私は帰らない。皇國に残るわ」
「え? な、何を言っているんだ!?」
航は我が耳を疑った。
魅琴はつい先ほど、狛乃神に日本国民として生き、死んでいくと言った筈だ。
ならば帰国すると、当然そう思っていた。
しかし魅琴は駄目押しとばかりに繰り返す。
「私は皇國に残ってやることがある。貴方は仲間達と一緒に帰りなさい」
「じ、冗談言ってる場合じゃないだろ!」
問い詰める航だが、魅琴は揺るがない。
「冗談ではないわ。航、今までありがとう。貴方とは此処でお別れよ」
二人の間に暗い風が一陣吹いていた。