日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第四十八話『夢から醒めた血塗れの天使』 破

 航(わたる)は血の付いた口を拭いながら立ち上がった。

 シャツを破いた上半身の肌に生(なま)温(ぬる)い風が吹き付けている。

 

 恐怖があった。

 あの魅(み)琴(こと)が、自分に暴力を向けると宣言したのだ。

 皇(こう)國(こく)へ来て、勝てる相手ではないと言うことを今までで一番深く理解していた。

 

(でも魅(み)琴(こと)を止めるにはそれしかない……しかし……)

 

 航(わたる)が思い出すのは、決して幼き日に彼女から受けた暴力の記憶だけではない。

 寧(むし)ろその後に築いた絆(きずな)と掛け替えのない思い出の方が輝かしく蘇(よみがえ)る。

 

(一撃でも入れられたら魅(み)琴(こと)を取り戻せる。でも、だからって殴るのか? 蹴るのか? 僕(ぼく)が、あの魅(み)琴(こと)を……)

 

 自然と、航(わたる)の眉(み)間(けん)と奥歯に力が籠(こも)る。

 魅(み)琴(こと)が突き付けた条件は、航(わたる)に何重ものジレンマを強いるものだった。

 

 彼女に、何年も想(おも)い続けた相手に暴力を振るえる訳がない。

 出会ったばかりの、幼く未熟だった頃とは何もかも違うのだ。

 かといって、やらなければ死地へ向かうことを許容してしまう。

 しかしそれ以前に、魅(み)琴(こと)に一撃を入れるという条件自体のハードルが凄(すさ)まじく高い。

 

(なるべく魅(み)琴(こと)を傷付けず、一撃を入れたも同然の状態に持ち込む……。それくらいしか考え付かない。魅(み)琴(こと)だって莫(ば)迦(か)じゃない。後(うしろ)を取られて手を掴(つか)まれただとか、しがみ付かれただとか、そうなったら最早僕(ぼく)が勝ったようなものだって解(わか)る筈(はず)だ。やらなきゃ、ここでやらなきゃ駄目なんだ……!)

 

 航(わたる)は覚悟を決めた。

 

「思い出すわね、航(わたる)」

 

 そんな航(わたる)に対し、魅(み)琴(こと)は意外にも朗らかに笑い掛けた。

 

「私(わたし)達の出会いもこうだった。鬱(うつ)陶(とう)しく付(つ)き纏(まと)う貴方(あなた)、暴力で捻(ね)じ伏(ふ)せた私(わたし)。あの時の航(わたる)ったら本当に、惨めで、情けなくて、滑稽だったわ」

「……やっぱりそう見えていたのか。解っちゃいたけど、口に出されるとショックだな」

「あれ以来無闇に暴力を振るうのも躊(ため)躇(ら)われるようになったから、貴方(あなた)の醜態なんて思い出す機会もそう無かったもの。自分でも丸くなっていたと思うわ。皇(こう)國(こく)が顕(あらわ)れないままなら、或(ある)いは大人しいままで居られたんでしょうけれど」

 

 魅(み)琴(こと)の表情にもまた、航(わたる)との思い出を懐かしむ感傷が浮かび上がっている様に見えた。

 彼女もまた、別れたくて別れる訳ではないのかも知れない。

 もしかすると、魅(み)琴(こと)自身も止まるだけの言い訳を欲しているのではないか――航(わたる)の脳(のう)裡(り)にふと、そんな都合の良い考えが過(よぎ)った。

 それならば、航(わたる)は魅(み)琴(こと)の為(ため)に何としても期待に応えなくてはならない。

 

「なあ、魅(み)琴(こと)」

「何?」

「未練があるならやめようとは思わないか?」

「まさか」

 

 一(いち)縷(る)の望みを懸けて駄目元で訊(き)いてみた航(わたる)だったが、魅(み)琴(こと)はそれを一笑に付す。

 

「私(わたし)は暴力で解決するのは嫌い。でも、必要とあらばやらなければならないということは解っているの。だからこそ、皇(こう)國(こく)に乗り込んだ訳だしね」

 

 魅(み)琴(こと)は軽やかにステップを踏む。

 単純な動きながら、その姿は宛(さなが)ら舞踊の様に美しかった。

 そして……。

 

「それに、抑(そもそ)も……」

 

 突如、魅(み)琴(こと)の姿が消えた。

 眼(め)にも留(とど)まらぬ速さで、刹那のうちに航(わたる)との間合いを詰めたのだ。

 何の反応も出来ない航(わたる)に、魅(み)琴(こと)は左スマッシュ・右アッパー・左ボディブロー・右ストレート――計四発の拳を叩(たた)き込(こ)んだ。

 

「ごッッ……はああああッッッ!!」

 

 航(わたる)は堪(たま)らず膝を突いた。

 一発一発が信じられない程に重く、まるで耐えられる気がしない。

 早くも、こんな暴力と対(たい)峙(じ)してしまったことを後悔せずにはいられない、勝ち筋を僅(わず)かでも考えてしまった自分を呪わずにはいられない、そんな痛烈すぎる連撃だった。

 

 魅(み)琴(こと)はそんな航(わたる)の髪を鷲(わし)掴(づか)みにした。

 無(む)理(り)矢(や)理(り)立たされた航(わたる)は、満面の笑みを向けられて震えた。

 

「私(わたし)、暴力自体は大好きなの」

「ヒッ……!!」

「覚悟なさい。じっくり丁寧に、壊してあげる」

 

 戦慄を覚えたのも束(つか)の間(ま)、すぐさま魅(み)琴(こと)の追撃が航(わたる)を襲った。

 頬(ほほ)を打った一発目の左フックで航(わたる)は一瞬意識を失ったが、脳天に叩き込まれた肘打ちで強制的に意識を戻された。

 

「簡単に寝ちゃうなんて勿(もつ)体(たい)無(な)いわよ。十五年も交流したんだから、どうせなら最後のお別れ、たっぷりと愉(たの)しみましょう?」

 

 魅(み)琴(こと)の声が弾んでいる。

 まるで、幼馴染に対して振るう出会った時以来の暴力を心底愉しんでいるかの様だ。

 攻撃は常に偶数発、無理矢理身体を起こし、気絶させられては叩(たた)き起(お)こされる。

 

「ぐああああああッッ!!」

 

 魅(み)琴(こと)は航(わたる)を弄(もてあそ)んでいた。

 さっさと終わりにしたければそのまま寝かせておけば良いものを、わざわざ叩き起こして暴行を続ける。

 航(わたる)を振り切る、手切れを目的とした行為ではない。

 明らかに暴行そのものを愉しんでいる、そんな仕草だった。

 

 踊っている。

 蝶(ちよう)の様に軽やかに舞っている。

 月明かりに照らされ、全身に艶(えん)態(たい)の美を存分に湛(たた)えて華麗に舞踏を演じている。

 

 叩(たた)いている。

 蜂(はち)の様に激しく刺している。

 鮮血に塗れ、全身に暴力の脅威を存分に纏(まと)って苛烈に武闘を演じている。

 

 痛(いた)い。

 傷(いた)い。

 イタイ……。

 

 航(わたる)は苛(さいな)まれていた。

 恋い焦がれる心に痛みを刻まれ、重ねた日々を傷物にされ、共に居たいという願いを全否定されていく。

 

「はぁ……はぁ……」

 

 航(わたる)はそれでも立ち上がる。

 立ち上がってどうにか希望を紡ごうとする。

 そんな航(わたる)に、魅(み)琴(こと)の重すぎる拳が突き刺さる、蹴りが浴びせられる。

 

「うげエッッ!! ぐええっっ!!」

 

 骨が折れ、臓(ぞう)腑(ふ)が潰(つぶ)れる。

 苦痛が歪(ゆが)んだ旋律を体中に響かせる。

 恐ろしいことに、航(わたる)が負った数々の損傷は驚異的な速度で修復されてしまう。

 つまり、何度も何度も同じ骨が折られ、同じ臓腑が潰される。

 

「がふっ……ゴホッ……!」

 

 血を吐く航(わたる)のぼやけた視界の中、魅(み)琴(こと)が幽(ゆう)鬼(き)の様に不気味な笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 そして、繰り返し暴力を振るう。

 その拳は、蹴りは、航(わたる)の意識と恢(かい)復(ふく)力と痛覚を絶妙に操り、可能な限り最大限の苦痛が絶え間なく繰り返される様に弄び続けていた。

 航(わたる)が考える限界すらも超え、航(わたる)以上に航(わたる)の肉体の機微を能(よ)く解して凄まじい拷問を刻み続けていた。

 

 対する航(わたる)は既に抵抗する術を失っていた。

 どうにも手が出せず、受けることも出来なかった。

 想い人を殴る・蹴るなどという行為はやはり出来ないが、それ以前に恐怖とトラウマで真(まと)面(も)に身体が動かない。

 心に鞭(むち)打(う)ち、前へ出ようとしても、魅(み)琴(こと)が攻撃の素振りを見せるだけで身体が強(こわ)張(ば)ってしまう。

 

 こんな状態で真面に戦える訳が無い、勝てる訳が無い。

 それを自覚したとき、航(わたる)の心はミシミシと音を立てて罅(ひび)割(わ)れ始めた。

 諦め切れないという未練だけが、彼の震える両脚を木偶(でく)の様に立たせている、そんな状態だった。

 

「フフ……」

 

 ふと、航(わたる)は気付いてしまった。

 笑う魅(み)琴(こと)の頬が僅かに紅潮し、息が荒くなっている。

 

 魅(み)琴(こと)は今、心底愉しんでいるのだ。

 航(わたる)の苦痛に、損傷に、絶望に、心底悦(よろこ)びを感じているのだ。

 思い出の中、様々な場面で航(わたる)に見せた彼女の優しい像が音を立てて崩れていく。

 それを悟ってしまったとき、奇妙なことに、航(わたる)もまた力無く笑ってしまっていた。

 

「あら航(わたる)、何その顔?」

 

 魅(み)琴(こと)は邪悪で嗜(し)虐(ぎやく)的な嬌(きよう)笑(しよう)を零(こぼ)し、航(わたる)を嘲(あざけ)りながら問い掛ける。

 

「それは媚(こび)かしら? 本当、気持ちの悪い男!」

 

 凄惨な暴行は続く。

 悍(おぞ)ましい光景であった。

 異常な打音と悲鳴、そして哄(こう)笑(しよう)が奏でる歪んだ交響曲が夜空に響き、月が震える。

 

「愉しいわねえ、航(わたる)! 今の貴方(あなた)、どんなに酷(ひど)く傷付けても、綺(き)麗(れい)に治ってくれるんだもの! だからホラ、何度でもその可(か)愛(わい)いお顔を台無しにしてあげる! 何回でも眼球を、内臓を、睾(こう)丸(がん)を潰してあげる! 何本でも肋(ろつ)骨(こつ)を、鎖骨を、上腕骨を、大(だい)腿(たい)骨(こつ)を、脛(けい)骨(こつ)を折ってあげる! そういえばあの時、歯は何本折ったんだっけ? 乳歯で良かったじゃない! 今回は永久歯だけれど、また後で綺麗に治るなんて、本当に運が良いわ! つまり、何回でも生えてきた歯を折ってあげるってことだけどね! 良かったわねえ、航(わたる)! 今回は、あの時みたいに止めてくれる人は誰も居ないわよ! 航(わたる)! ねえ航(わたる)! ほら航(わたる)! ほぉらもっと! もっと! もっとぉぉっ!! あはっ! あははは! アッハハハハハハ!!」

 

 地獄絵図、阿(あ)鼻(び)叫(きよう)喚(かん)、そう形容すれば良いだろうか。

 ふと、航(わたる)は良からぬ事を考える。

 今、魅(み)琴(こと)は自分を使って心底から愉悦を得ている。

 その姿の、なんと扇情的で、美しいことだろうか。

 

 航(わたる)は今、ある意味で報われているような気がした。

 これは寧ろ、極楽浄土か、桃源郷か。

 全身を駆け巡る激痛を愛(あい)撫(ぶ)と錯覚してしまう様な、全身から噴き出る血潮を射精と倒錯してしまう様な、永続的な絶頂感が航(わたる)を包み込んでいる。

 

 ある意味で悲願の成(じよう)就(じゆ)の様な、積年の想いを遂げる目(まぐ)合(わ)いの様な、破滅的な悦楽に溺れていく。

 激痛が奔(はし)る度に脳内麻薬が虹色の火花を散らす。

 悪夢であっても夢心地。

 そんな陶酔感の中、ボロボロになった航(わたる)はゆっくりと崩れ落ち、両肘と両膝を突いてがっくりと項(うな)垂(だ)れた。

 

「ごひゅ……。ぜえ……、ぜえ……」

 

 攻撃が途切れた。

 その束の間が、航(わたる)の脳を異常な世界から現実へと急激に戻し、普段以上に冷静に覚まし、明瞭に冴(さ)えさせる。

 

「ふん、不(ふ)甲(が)斐(い)無(な)い……」

 

 魅(み)琴(こと)は酷く冷たく、突き放す様に吐き捨てた。

 背中越しに、蔑(さげす)みに満ちた視線を突き刺されているのだと分かる。

 

「はぁーっ……はぁーっ……」

「ヘタレの航(わたる)にとってはさぞ辛いでしょうね。延々と頑張らされ続けるのは……」

「うぅ……!」

 

 航(わたる)は自分の顔から血ばかりでなく涙が零(こぼ)れ落(お)ちるのを感じた。

 自分の中で何かが決壊したのだろう。

 事(こと)此(こ)処(こ)に至り、航(わたる)の心は完全に折れていた。

 

「魅(み)琴(こと)……酷いよ……」

「そ」

「なんでこんな……こんなこと……。こんなの嫌だ……あんまりだよ……」

「じゃ、もう終わりにする?」

 

 魅(み)琴(こと)の問い掛けが航(わたる)に重く伸(の)し掛(か)かる。

 終わり――既に限界を迎えた航(わたる)にとって、それは潰れる程の重圧だった。

 航(わたる)は最(も)早(はや)自力で起き上がれず、立とうとした瞬間に崩れ落ちて額を地に着けてしまう。

 こんな有様では、魅(み)琴(こと)を止めることも魅(み)琴(こと)に寄り添うことも望めない。

 

(ここまでか……! ここまでなのか……!!)

 

 航(わたる)は苦渋の選択を迫られていた。

 自分でその選択をさせられる――そう思っていた。

 

 だが、魅(み)琴(こと)は航(わたる)の想像を遥(はる)かに超えて残酷な女だった。

 彼女の手は再び航(わたる)の髪を鷲掴みにし、彼を無理矢理立たせる。

 航(わたる)は目を皿の様に見開いた。

 その瞳に、魅(み)琴(こと)の信じ難(がた)いほどに悍ましくも美しい微(ほほ)笑(え)みが映された。

 

「終わりに……させてもらえると思った?」

 

 航(わたる)は身震いを禁じ得なかった。

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