日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

156 / 399
第四十八話『夢から醒めた血塗れの天使』 急

 航(わたる)の髪を掴(つか)む魅(み)琴(こと)は、彼の顔を恍(こう)惚(こつ)とした表情で見詰めている。

 既に航(わたる)の傷は治りが遅くなり、顔中が痛々しく腫れ上がっていた。

 航(わたる)は一瞬、恋人同士が見つめ合っていると錯覚した。

 しかし、それにしては魅(み)琴(こと)の笑みは随分と悪魔染みている。

 

「まさか貴方(あなた)、自分が望めば終わりに出来ると思っているの?」

 

 航(わたる)は戦慄した。

 さも愉(たの)しそうに問う魅(み)琴(こと)が最(も)早(はや)鬼畜に思えた。

 

「私(わたし)に嫐(なぶ)りものにされるしか能の無い雑魚(ざこ)が、自分で自分の引き際を決められると思った? 都合良く負けさせてもらえると思ったのかしら?」

「あ……、あ……ア……!」

 

 余りの狂気に全身をわなわなと震わせる航(わたる)は、魂までも恐怖に支配されていた。

 当然に、戦うどころではない。

 ここから先は、ただただ地獄が継続するだけである。

 

 しかし、継続は希望である。

 それはそれは、とても残酷な希望である。

 一層、終わりにして絶望を突き付けられた方がどれ程良かったことか。

 

「良い機会だから覚えておきなさいね。真に力の差が大きい場合、弱者は強者に屈服する自由すらも許されないの。唯(ただ)々(ただ)、気が済むまで好き勝手に弄(もてあそ)ばれ続ける。さあ、あの時以上に確(しつか)りたっぷりとトラウマを植え付けてあげるわ。後で思う存分反(はん)芻(すう)しなさいね、うふふふふ、アハハハハ!」

「ヒイイイッッ!!」

 

 悍(おぞ)ましい暴行が再開された。

 

「うぎッ!! ごェッッ!! ギャアアアアアッッ!! ああああああああッッ!! アアアアアアアアアアアッッ!!」

 

 航(わたる)は唯々、悲鳴を上げることしか出来ない。

 悲しみと痛みが絶叫となり、闇空へと谺(こだま)する。

 

「あが……ぐぅぅぅ……!」

 

 暫(しばら)くして、航(わたる)は再び四(よ)つん這(ば)いになり、愛した女を見上げた。

 返り血に染まり、病的且つ嗜(し)虐(ぎやく)的な嬌(きよう)笑(しよう)を浮かべた麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)は、今までのどんな瞬間よりも艶(あで)やかに、蠱(こ)惑(わく)的(てき)に、神(こう)々(ごう)しい程の美しさを全身に湛(たた)えて航(わたる)を見下ろしていた。

 彼女こそはまさに、暴虐の女神。

 

「もう終わりにしてほしい? 許してほしい?」

 

 魅(み)琴(こと)の呟(つぶや)いた言葉が、航(わたる)には至上の慈悲にすら思えた。

 最早抵抗の意思も無く、ただ嫐(なぶ)りものにされるばかりの航(わたる)に出来るのは、彼女に許しを乞うことだけだ。

 ただ縋(すが)り付(つ)く様な眼(め)で彼女を見上げ、憐(あわ)れみを誘うだけだ。

 なんともまあ、惨めな姿である。

 

「そうねえ……」

 

 魅(み)琴(こと)の笑みは大人しくなったものの、尚(なお)も邪悪な色を帯びている。

 彼女はまだ航(わたる)に対して悪意を持っているのか。

 事実、航(わたる)に告げられたのは全く無意味な辱めだった。

 

「許してほしいなら土下座して私(わたし)に謝りなさい。『聞き分けが悪くてごめんなさい。未練たらしくてすみませんでした。雑魚の分際で、魅(み)琴(こと)様の優しさに逆らって申し訳御座いませんでした』と、誠心誠意私(わたし)に謝罪しなさい」

 

 航(わたる)には訳が解(わか)らなかった。

 どうしてそんなことを要求するのだろう。

 何の意味が、理由があって、二人が過ごした日々に積み重ねた想(おも)いをここまで滅(め)茶(ちや)苦(く)茶(ちや)にされなければいけないのだろう。

 

 航(わたる)は悲しみの余り、思わず魅(み)琴(こと)を睨(にら)み上げた、睨んでしまった。

 それを受け、魅(み)琴(こと)は心底不快そうに舌打ちを鳴らす。

 その響きだけで、航(わたる)は全身に怖(おぞ)気(け)が走り抜けるのを感じた。

 魅(み)琴(こと)はというと、地下足袋を履いた右足を航(わたる)の頭に乗せ、踏み付けて無(む)理(り)矢(や)理(り)頭を下げさせる。

 

「気が変わったわ。謝罪の前に靴の裏を舐(な)めてもらいましょうか。早く言うことを聞いた方が良いわよ。ここから先は降伏の条件を追加していくから。次はどんな尊厳凌(りよう)辱(じよく)が待っているかしらね。言っておくけれども、エスカレートに際限なんか無いわよ。ま、私(わたし)はとことんまで付き合ってあげても構わないけれどね。ふふっ……」

 

 ぐりぐりと、航(わたる)の頭が踏み付けられ、顔が地面に擦り付けられる。

 航(わたる)の性癖にとっては夢にまで見た至福の時の筈(はず)だが、終わりを叩(たた)き付(つ)けられた悲しみと拷問に曝(さら)された恐怖でグチャグチャのドロドロに汚れ切っていた。

 

 恐(おそ)ろしい、畏(おそ)ろしい――もう無理だ、と航(わたる)の心に強い想念が浮かび上がった。

 

(この女(ひと)、怖い……)

 

 航(わたる)の心は最早襤(ぼ)褸(ろ)雑(ぞう)巾(きん)の様にズタズタだった。

 そんな航(わたる)の前に、先程まで頭を踏(ふ)み躙(にじ)っていた右足が爪先を上げて差し出される。

 芸術的なまでに美しい足の形だった。

 

「早くしなさい。それとも、もっと続けてほしい? 私(わたし)は別に良いわよ。何回戦でも付き合ってあげる。更なる辱めを追加するのも楽しみだしね」

「ぐふぅっ……!」

 

 ああ、そうか――航(わたる)は悟った。

 

 どの道、魅(み)琴(こと)の我慢が限界を迎えればいつでも問答無用で気絶させられる。

 これ以上耐えたところで、終わりの時がほんの少し延びるだけで、何の意味も無い。

 ただ徒(いたずら)に、痛みと悲しみと恥辱を重ねるだけ。

 

 僕(ぼく)は彼女を引き留められない。

 僕(ぼく)は今の彼女を否定出来ない。

 僕(ぼく)は二人の日々が幻に消えてしまうのを止められない。

 

 僕(ぼく)は無力だ……――航(わたる)は観念した、してしまった。

 

 そして同時に、痺(しび)れを切らした魅(み)琴(こと)が数え始める。

 

「何? 続きを御所望?」

「や、やめっ……!」

「なら早く舐めなさい。ほら十秒以内。じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……」

「ま、待って!」

「六、五、四」

「速い速い速い!!」

「三二一」

「ヒイイイやります! やりますから!」

 

 カウントダウンが止まった。

 航(わたる)は魅(み)琴(こと)の爪先から、靴裏に舌を這(は)わせる。

 

「はぁ……はぁ……うぅ……」

「素敵な思い出が出来て良かったわね、航(わたる)。感謝しなさい」

 

 航(わたる)は悟った。

 これは罰なのだ。

 この美しくも残酷な女神に対し、不(ぶ)躾(しつけ)にも関わり、幼馴染などと言う分不相応なポジションに収まって煩わせ、あろうことか身の程知らずな恋心を抱き、邪な劣情の対象にすらした。

 この女(ひと)に徹底的に屈服させられ、辱められるのは、まさにずっと欲望していたとおりの展開ではないか。

 

 ただ、この後には決定的な別れが待っている。

 女神に脳を焼かれた矮(わい)小(しよう)な男は、女神の居ない世界でどうやって生きていけば良いのだろう。

 航(わたる)に出来るのは、この瞬間を少しでも引き延ばすことだけだ。

 血(ち)塗(まみ)れの舌を靴裏の全体に這わせながら……。

 

「もう良いわ」

 

 それすらも、たった一言で事も無げに終わらせられる。

 女神の言うことは絶対だ。

 逆らえば苛烈極まり無い罰が待っている。

 最早航(わたる)にはそれに耐える気力など一分たりとも残されていない。

 

「次はどうするか、解っているわね?」

「はい……うぅ……」

 

 航(わたる)は両手と額を地べたに着けた。

 土下座姿になった幼馴染を、魅(み)琴(こと)は腕を組んで見下ろしている。

 

「聞き分けが悪くて……ごめんなさい……」

「そうね。私(わたし)だって、出来れば円満に別れたかったわ」

「未練たらしくて……すみませんでした……」

「いいえ、最(さい)期(ご)に楽しめたわ」

「魅(み)琴(こと)様の……優しさに……逆らって……申し訳御座いませんでした……」

「はい、能(よ)く出来ました」

 

 魅(み)琴(こと)は再び航(わたる)の頭をぐりぐりと踏み躙った。

 言葉通りに取るなら、頭を撫(な)でる代わりだろうか。

 二人にはこれが相(ふ)応(さわ)しいのかも知れない。

 

 航(わたる)の頭から足の重みが消え、代わりに目線が近付いてくる。

 魅(み)琴(こと)は屈(かが)み、航(わたる)の髪をまた掴んで顔を上げさせた。

 蠱惑的な嬌笑が心の芯まで凌辱された航(わたる)の顔を見詰めている。

 そして……

 

「ぷっ!」

 

 魅(み)琴(こと)は航(わたる)の顔に唾を吐き付けた。

 それは宛(さなが)ら、決別への駄目押しだった。

 そして、航(わたる)の頭はそのまま激しく混凝土(コンクリート)の地面に叩き付けられた。

 魅(み)琴(こと)は立ち上がり、航(わたる)を冷たく見下ろす。

 

「じゃあね、負け犬君。これから私(わたし)は死にに行くから、どうぞ安心して、何処(どこ)へなりと行き好き勝手に幸せになると良いわ。貴方(あなた)の前途を心から応援しているわよ、糞(くそ)雑(ざ)魚(こ)ヘタレの航(わたる)君」

 

 航(わたる)は朦(もう)朧(ろう)とする意識の中、魅(み)琴(こと)の浮遊する様な別れの言葉を聞いていた。

 打ち上げられた魚の様に痙(けい)攣(れん)しながら。

 いつかの様に小便を垂らしながら。

 長い夢の終わりに打ちのめされながら。

 

 お別れ。

 初恋の終わり。

 生涯の恋は非(ひ)業(ごう)の死を遂げる。

 航(わたる)の意識は深(しん)淵(えん)の闇へと沈んでいった。

 

『磯(し)城(き)島(しま)の、大和(やまと)の國(くに)に、人二人、ありしと思はば、何か歎(なげ)かむ』

 

 ――萬(まん)葉(よう)集(しゅう)、詠(よみ)人(びと)不(しら)知(ず)。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

⦿⦿

 

 

 

⦿

 

 

 

 暫(しば)しの時が流れた。

 先程までの暴虐が嘘(うそ)の様に、魅(み)琴(こと)は静かに佇(たたず)んでいる。

 航(わたる)の身体は動かない。

 意識を失っていることを確信したように、魅(み)琴(こと)は一つ息を吐いた。

 

「扨(さ)て、と……」

 

 魅(み)琴(こと)は航(わたる)に歩み寄り、手を延ばす。

 彼のことも他の者達(たち)同様に飛行機へと積み込もうというのか。

 しかしそんな彼女を、怒りを孕(はら)んだ女の声が制止する。

 

「岬(さき)守(もり)に触るな」

 

 顔を上げた魅(み)琴(こと)は、タラップから降りてきた椿(つばき)陽(よう)子(こ)と顔を見合わせた。

 陽(よう)子(こ)は憤りを眉(み)間(けん)に刻み、強い足取りで近付いてくる。

 そしてそのまま、航(わたる)を挟んで二人は睨(にら)み合(あ)う。

 

「貴女(アンタ)、いくらなんでも酷過ぎるだろ。悪魔かよ……」

 

 陽(よう)子(こ)は魅(み)琴(こと)を痛罵した。

 

「別れる為(ため)に突き放すにしてももう少しやりようがあるんじゃないか?」

「こいつにも言ったけれど、私(わたし)だって最初はそう思ったわ。でも、しつこいから好(い)い加(か)減(げん)うんざりしたのよ」

「そりゃ、こいつの身になれば当然だろ。貴女(アンタ)が多少手荒になるのは仕方が無いよ。でも、やり過ぎなんだよ。あそこまでする必要なんか微(み)塵(じん)も無い。気絶させるんなら最初からそうすれば良い」

 

 魅(み)琴(こと)は陽(よう)子(こ)から目を背けた。

 一方、陽(よう)子(こ)の目には航(わたる)への憐れみの色が宿る。

 

「岬(さき)守(もり)の奴(やつ)、幼馴染にずっと会いたがっていたんだよ。苟且(かりそめ)の仲間に過ぎなかった私(あたし)にも分かるくらいだった。その想いを、貴女(アンタ)は滅茶苦茶に踏み躙ったんだ」

 

 情感を込めて責める陽(よう)子(こ)の言葉に耳を背ける様に、魅(み)琴(こと)は振り返って背を向けた。

 そんな相手の態度に、陽(よう)子(こ)は断言する。

 

「貴女(アンタ)、最低だ」

「ええ、そうよ。こんな女と親しくしたこいつが見る目無く、間抜けだったのよ」

 

 魅(み)琴(こと)は背中越しに陽(よう)子(こ)へと視線を送り、拳を握り締める。

 

「私(わたし)のことなんかどうでも良いわ。口出しするならこいつのこと、さっさと飛行機に乗せて頂戴。日本に連れ帰ってくれるんでしょ?」

「っ……!」

「早くした方が良いわよ。操縦するのが弟ってことは、姉の方は別に意識が無くても良いんだもの。幼馴染の航(わたる)にすらこれなのに、ぽっと出のならず者組織のお嬢さんに掛ける慈悲があると思う?」

 

 陽(よう)子(こ)は険しい顔に憤怒と軽蔑を刻み、航(わたる)の身体を背負い上げた。

 そして魅(み)琴(こと)に背を向けると、最後に一言だけ捨(す)て台(ぜ)詞(りふ)を吐く。

 

「地獄に落ちろ、糞(くそ)女(おんな)」

 

 悪態を魅(み)琴(こと)にぶつけ、陽(よう)子(こ)は航(わたる)と共に飛行機へと乗り込んだ。

 暫くして、飛行機は激しい轟(ごう)音(おん)と共に離陸した。

 

「さようなら、航(わたる)……」

 

 魅(み)琴(こと)は夜空に消える飛行機を見送って呟いた。

 

 西暦二〇二六年七月八日、皇(こう)國(こく)時間二〇時一〇分。

 岬(さき)守(もり)航(わたる)達は翅(はね)田(だ)国際空港を発(た)ち、日本国へと帰国する。

 日本国は東京、横田基地への到着予定は約三時間後、日本時間にして一九時である。

 

 だがその先に航(わたる)の幼馴染。・麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)は待っていない。

 彼女は一人、皇(こう)國(こく)に残って時を待つ。

 彼女には確信に近い予感があった。

 

 皇(こう)國(こく)の新総理大臣・小(お)木(ぎ)曽(そ)文(ふみ)章(あき)が日本国に宣戦布告を通達するのは、確かに時間の問題である。

 だが統(とう)率(そつ)が分散した皇(こう)國(こく)の軍が行動を起こすのは、それよりも早いだろう。

 日本と皇(こう)國(こく)は戦争状態に突入しようとしていた。

 後の世にいう「日本戦争」である。

 

 岬(さき)守(もり)航(わたる)にとって、これは終(しゆう)焉(えん)なのだろうか。

 糜(び)爛(らん)の月に照らされ、彼の青春は壊(え)疽(そ)と化してしまったのだろうか。

 彼が大切に温め続けた想いは徹底的に、見る影も無く、完膚無きまでに破壊し尽くされてしまったのだろうか。

 心が折れた、愛する女に念入りに圧(へ)し折(お)られた航(わたる)は、もう二度と立ち直れないのだろうか。

 

 否、これは始まりである。

 一人の英雄、救世主、真の勇者の目覚めである。

 

 彼は間も無く、相応しき為(い)を纏(まと)いて再びこの地に降り立つだろう。

 それは宛ら、日本人が歩んできた歴史が韻を踏むかの如く。

 古くは神代より繰り返してきた、敗北と挫折の後に活路を見(みい)出(だ)し大事を為(な)す――そんな不(ふ)撓(とう)不(ふ)屈(くつ)の歴史が……。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。