航の髪を掴む魅琴は、彼の顔を恍惚とした表情で見詰めている。
既に航の傷は治りが遅くなり、顔中が痛々しく腫れ上がっていた。
航は一瞬、恋人同士が見つめ合っていると錯覚した。
しかし、それにしては魅琴の笑みは随分と悪魔染みている。
「まさか貴方、自分が望めば終わりに出来ると思っているの?」
航は戦慄した。
さも愉しそうに問う魅琴が最早鬼畜に思えた。
「私に嫐りものにされるしか能の無い雑魚が、自分で自分の引き際を決められると思った? 都合良く負けさせてもらえると思ったのかしら?」
「あ……、あ……ア……!」
余りの狂気に全身をわなわなと震わせる航は、魂までも恐怖に支配されていた。
当然に、戦うどころではない。
ここから先は、ただただ地獄が継続するだけである。
しかし、継続は希望である。
それはそれは、とても残酷な希望である。
一層、終わりにして絶望を突き付けられた方がどれ程良かったことか。
「良い機会だから覚えておきなさいね。真に力の差が大きい場合、弱者は強者に屈服する自由すらも許されないの。唯々、気が済むまで好き勝手に弄ばれ続ける。さあ、あの時以上に確りたっぷりとトラウマを植え付けてあげるわ。後で思う存分反芻しなさいね、うふふふふ、アハハハハ!」
「ヒイイイッッ!!」
悍ましい暴行が再開された。
「うぎッ!! ごェッッ!! ギャアアアアアッッ!! ああああああああッッ!! アアアアアアアアアアアッッ!!」
航は唯々、悲鳴を上げることしか出来ない。
悲しみと痛みが絶叫となり、闇空へと谺する。
「あが……ぐぅぅぅ……!」
暫くして、航は再び四つん這いになり、愛した女を見上げた。
返り血に染まり、病的且つ嗜虐的な嬌笑を浮かべた麗真魅琴は、今までのどんな瞬間よりも艶やかに、蠱惑的に、神々しい程の美しさを全身に湛えて航を見下ろしていた。
彼女こそはまさに、暴虐の女神。
「もう終わりにしてほしい? 許してほしい?」
魅琴の呟いた言葉が、航には至上の慈悲にすら思えた。
最早抵抗の意思も無く、ただ嫐りものにされるばかりの航に出来るのは、彼女に許しを乞うことだけだ。
ただ縋り付く様な眼で彼女を見上げ、憐れみを誘うだけだ。
なんともまあ、惨めな姿である。
「そうねえ……」
魅琴の笑みは大人しくなったものの、尚も邪悪な色を帯びている。
彼女はまだ航に対して悪意を持っているのか。
事実、航に告げられたのは全く無意味な辱めだった。
「許してほしいなら土下座して私に謝りなさい。『聞き分けが悪くてごめんなさい。未練たらしくてすみませんでした。雑魚の分際で、魅琴様の優しさに逆らって申し訳御座いませんでした』と、誠心誠意私に謝罪しなさい」
航には訳が解らなかった。
どうしてそんなことを要求するのだろう。
何の意味が、理由があって、二人が過ごした日々に積み重ねた想いをここまで滅茶苦茶にされなければいけないのだろう。
航は悲しみの余り、思わず魅琴を睨み上げた、睨んでしまった。
それを受け、魅琴は心底不快そうに舌打ちを鳴らす。
その響きだけで、航は全身に怖気が走り抜けるのを感じた。
魅琴はというと、地下足袋を履いた右足を航の頭に乗せ、踏み付けて無理矢理頭を下げさせる。
「気が変わったわ。謝罪の前に靴の裏を舐めてもらいましょうか。早く言うことを聞いた方が良いわよ。ここから先は降伏の条件を追加していくから。次はどんな尊厳凌辱が待っているかしらね。言っておくけれども、エスカレートに際限なんか無いわよ。ま、私はとことんまで付き合ってあげても構わないけれどね。ふふっ……」
ぐりぐりと、航の頭が踏み付けられ、顔が地面に擦り付けられる。
航の性癖にとっては夢にまで見た至福の時の筈だが、終わりを叩き付けられた悲しみと拷問に曝された恐怖でグチャグチャのドロドロに汚れ切っていた。
恐ろしい、畏ろしい――もう無理だ、と航の心に強い想念が浮かび上がった。
(この女、怖い……)
航の心は最早襤褸雑巾の様にズタズタだった。
そんな航の前に、先程まで頭を踏み躙っていた右足が爪先を上げて差し出される。
芸術的なまでに美しい足の形だった。
「早くしなさい。それとも、もっと続けてほしい? 私は別に良いわよ。何回戦でも付き合ってあげる。更なる辱めを追加するのも楽しみだしね」
「ぐふぅっ……!」
ああ、そうか――航は悟った。
どの道、魅琴の我慢が限界を迎えればいつでも問答無用で気絶させられる。
これ以上耐えたところで、終わりの時がほんの少し延びるだけで、何の意味も無い。
ただ徒に、痛みと悲しみと恥辱を重ねるだけ。
僕は彼女を引き留められない。
僕は今の彼女を否定出来ない。
僕は二人の日々が幻に消えてしまうのを止められない。
僕は無力だ……――航は観念した、してしまった。
そして同時に、痺れを切らした魅琴が数え始める。
「何? 続きを御所望?」
「や、やめっ……!」
「なら早く舐めなさい。ほら十秒以内。じゅーう、きゅーう、はーち、なーな……」
「ま、待って!」
「六、五、四」
「速い速い速い!!」
「三二一」
「ヒイイイやります! やりますから!」
カウントダウンが止まった。
航は魅琴の爪先から、靴裏に舌を這わせる。
「はぁ……はぁ……うぅ……」
「素敵な思い出が出来て良かったわね、航。感謝しなさい」
航は悟った。
これは罰なのだ。
この美しくも残酷な女神に対し、不躾にも関わり、幼馴染などと言う分不相応なポジションに収まって煩わせ、あろうことか身の程知らずな恋心を抱き、邪な劣情の対象にすらした。
この女に徹底的に屈服させられ、辱められるのは、まさにずっと欲望していたとおりの展開ではないか。
ただ、この後には決定的な別れが待っている。
女神に脳を焼かれた矮小な男は、女神の居ない世界でどうやって生きていけば良いのだろう。
航に出来るのは、この瞬間を少しでも引き延ばすことだけだ。
血塗れの舌を靴裏の全体に這わせながら……。
「もう良いわ」
それすらも、たった一言で事も無げに終わらせられる。
女神の言うことは絶対だ。
逆らえば苛烈極まり無い罰が待っている。
最早航にはそれに耐える気力など一分たりとも残されていない。
「次はどうするか、解っているわね?」
「はい……うぅ……」
航は両手と額を地べたに着けた。
土下座姿になった幼馴染を、魅琴は腕を組んで見下ろしている。
「聞き分けが悪くて……ごめんなさい……」
「そうね。私だって、出来れば円満に別れたかったわ」
「未練たらしくて……すみませんでした……」
「いいえ、最期に楽しめたわ」
「魅琴様の……優しさに……逆らって……申し訳御座いませんでした……」
「はい、能く出来ました」
魅琴は再び航の頭をぐりぐりと踏み躙った。
言葉通りに取るなら、頭を撫でる代わりだろうか。
二人にはこれが相応しいのかも知れない。
航の頭から足の重みが消え、代わりに目線が近付いてくる。
魅琴は屈み、航の髪をまた掴んで顔を上げさせた。
蠱惑的な嬌笑が心の芯まで凌辱された航の顔を見詰めている。
そして……
「ぷっ!」
魅琴は航の顔に唾を吐き付けた。
それは宛ら、決別への駄目押しだった。
そして、航の頭はそのまま激しく混凝土の地面に叩き付けられた。
魅琴は立ち上がり、航を冷たく見下ろす。
「じゃあね、負け犬君。これから私は死にに行くから、どうぞ安心して、何処へなりと行き好き勝手に幸せになると良いわ。貴方の前途を心から応援しているわよ、糞雑魚ヘタレの航君」
航は朦朧とする意識の中、魅琴の浮遊する様な別れの言葉を聞いていた。
打ち上げられた魚の様に痙攣しながら。
いつかの様に小便を垂らしながら。
長い夢の終わりに打ちのめされながら。
お別れ。
初恋の終わり。
生涯の恋は非業の死を遂げる。
航の意識は深淵の闇へと沈んでいった。
『磯城島の、大和の國に、人二人、ありしと思はば、何か歎かむ』
――萬葉集、詠人不知。
⦿⦿⦿
⦿⦿
⦿
暫しの時が流れた。
先程までの暴虐が嘘の様に、魅琴は静かに佇んでいる。
航の身体は動かない。
意識を失っていることを確信したように、魅琴は一つ息を吐いた。
「扨て、と……」
魅琴は航に歩み寄り、手を延ばす。
彼のことも他の者達同様に飛行機へと積み込もうというのか。
しかしそんな彼女を、怒りを孕んだ女の声が制止する。
「岬守に触るな」
顔を上げた魅琴は、タラップから降りてきた椿陽子と顔を見合わせた。
陽子は憤りを眉間に刻み、強い足取りで近付いてくる。
そしてそのまま、航を挟んで二人は睨み合う。
「貴女、いくらなんでも酷過ぎるだろ。悪魔かよ……」
陽子は魅琴を痛罵した。
「別れる為に突き放すにしてももう少しやりようがあるんじゃないか?」
「こいつにも言ったけれど、私だって最初はそう思ったわ。でも、しつこいから好い加減うんざりしたのよ」
「そりゃ、こいつの身になれば当然だろ。貴女が多少手荒になるのは仕方が無いよ。でも、やり過ぎなんだよ。あそこまでする必要なんか微塵も無い。気絶させるんなら最初からそうすれば良い」
魅琴は陽子から目を背けた。
一方、陽子の目には航への憐れみの色が宿る。
「岬守の奴、幼馴染にずっと会いたがっていたんだよ。苟且の仲間に過ぎなかった私にも分かるくらいだった。その想いを、貴女は滅茶苦茶に踏み躙ったんだ」
情感を込めて責める陽子の言葉に耳を背ける様に、魅琴は振り返って背を向けた。
そんな相手の態度に、陽子は断言する。
「貴女、最低だ」
「ええ、そうよ。こんな女と親しくしたこいつが見る目無く、間抜けだったのよ」
魅琴は背中越しに陽子へと視線を送り、拳を握り締める。
「私のことなんかどうでも良いわ。口出しするならこいつのこと、さっさと飛行機に乗せて頂戴。日本に連れ帰ってくれるんでしょ?」
「っ……!」
「早くした方が良いわよ。操縦するのが弟ってことは、姉の方は別に意識が無くても良いんだもの。幼馴染の航にすらこれなのに、ぽっと出のならず者組織のお嬢さんに掛ける慈悲があると思う?」
陽子は険しい顔に憤怒と軽蔑を刻み、航の身体を背負い上げた。
そして魅琴に背を向けると、最後に一言だけ捨て台詞を吐く。
「地獄に落ちろ、糞女」
悪態を魅琴にぶつけ、陽子は航と共に飛行機へと乗り込んだ。
暫くして、飛行機は激しい轟音と共に離陸した。
「さようなら、航……」
魅琴は夜空に消える飛行機を見送って呟いた。
西暦二〇二六年七月八日、皇國時間二〇時一〇分。
岬守航達は翅田国際空港を発ち、日本国へと帰国する。
日本国は東京、横田基地への到着予定は約三時間後、日本時間にして一九時である。
だがその先に航の幼馴染。・麗真魅琴は待っていない。
彼女は一人、皇國に残って時を待つ。
彼女には確信に近い予感があった。
皇國の新総理大臣・小木曽文章が日本国に宣戦布告を通達するのは、確かに時間の問題である。
だが統率が分散した皇國の軍が行動を起こすのは、それよりも早いだろう。
日本と皇國は戦争状態に突入しようとしていた。
後の世にいう「日本戦争」である。
岬守航にとって、これは終焉なのだろうか。
糜爛の月に照らされ、彼の青春は壊疽と化してしまったのだろうか。
彼が大切に温め続けた想いは徹底的に、見る影も無く、完膚無きまでに破壊し尽くされてしまったのだろうか。
心が折れた、愛する女に念入りに圧し折られた航は、もう二度と立ち直れないのだろうか。
否、これは始まりである。
一人の英雄、救世主、真の勇者の目覚めである。
彼は間も無く、相応しき為を纏いて再びこの地に降り立つだろう。
それは宛ら、日本人が歩んできた歴史が韻を踏むかの如く。
古くは神代より繰り返してきた、敗北と挫折の後に活路を見出し大事を為す――そんな不撓不屈の歴史が……。