日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

16 / 399
第五話『視界消失』 急

 航(わたる)達七人が落とされた穴はテニスコート程の大きさで、その狭いスペースに三米(メートル)の羆(ひぐま)と一緒に閉じ込められた格好になっている。

 羆と戦う航(わたる)と新(しん)兒(じ)の戦況を見守りつつ、折(おり)野(の)は虎(こ)駕(が)に話し掛ける。

 

「おい」

「あ? 何なのだ?」

「出遅れちまったな。今更自分も戦える、なんて言えねえよなあ」

 

 虎(こ)駕(が)は僅(わず)かに震えた。

 

「な、何故(なぜ)判(わか)ったのだ?」

「羆を見た時、手(テ)前(メエ)は怯(おび)えていた。だが、同時に戦わねえといけねえって焦りも見えた。つまり、その当てがあったって事だろ?」

 

 折(おり)野(の)の指摘は図星を突いていた。

 ワゴン車の中でも最後まで冊子を読み込んでいた通り、虎(こ)駕(が)は本来真面目で勉強熱心な性格である。

 そんな彼もまた、椿(つばき)と同じく独断で、冊子に書かれた内容を実演しようと追加で練習していたのだ。

 だが、航(わたる)や新(しん)兒(じ)、椿(つばき)と違い、この危機的な状況でそれを役立てられなかった。

 有事に足が竦(すく)み、身に付けた知識や能力を上(う)手(ま)く活用出来なかった。

 

「まあ、良いんじゃねえか? 岬(さき)守(もり)の奴(やつ)も言ったが、俺(おれ)達はまだ他にやることがある。その時に備えて力を温存しとくのもアリだ」

「その時?」

「寝(ね)惚(ぼ)けてんのか、手(テ)前(メエ)? 俺(おれ)達は今日この後、あの扇(おうぎ)って女を脅して脱走するんだろ? だったら、手(テ)前(メエ)は隠し球になれるだろうが」

「あっ……」

 

 折(おり)野(の)の助言で、虎(こ)駕(が)は自分がまだ役に立てると気付かされ、胸の奥から沸々と勇気が込み上げてきていた。

 まだ遅くはない、手遅れにはなっていない――そう考えられたことは虎(こ)駕(が)にとって小さな救いだった。

 学生として、余計な事を悩んで一年棒に振ってしまった彼にとっては。

 

「折(おり)野(の)……」

「礼なら働いて返せよ。あいつらが羆をぶっ殺したらすぐ動くぞ。俺(おれ)と手(テ)前(メエ)であの女のもとへ跳び上がり、そして取り押さえる、一気にだ」

「お前と?」

「クク、俺(おれ)もまた同じってこった。力はあった方が逃亡し易(やす)いだろ?」

 

 度々見せる観察眼(め)といい、折(おり)野(の)は侮れない男である。

 その凶悪な人相以上に、虎(こ)駕(が)は彼の秘めたる恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 だが、今は折(おり)野(の)に乗ってみるのも悪くない。

 

「ああ、解(わか)ったのだよ」

 

 戦いの裏で、二人の男が次の展開を見据えていた。

 

⦿

 

 扇(おうぎ)によって課された熊殺しの試験、戦力になるのは神(しん)為(い)の第二段階に達した航(わたる)と新(しん)兒(じ)、そして椿(つばき)だけだが、椿(つばき)は他の四人を守る役目を買って出ている。

 つまり、航(わたる)と新(しん)兒(じ)の二人だけで協力して羆を無力化しなければならない。

 

「うおおおおっ!!」

 

 羆の怒(いかり)爪(づめ)を躱(かわ)した航(わたる)は、そのまま拳の一撃を獰(どう)猛(もう)な眼に叩(たた)き込(こ)んだ。

 怯(ひる)んだ隙に更なる拳を顎(あご)に一発、序(つい)でに頬(ほお)にもう一発、喉(のど)への蹴りを駄目押しに一発、流れるように見舞う。

 

(信じられない体験だ。素手で羆と互角以上に戦うなんて、魅(み)琴(こと)に言っても妄想癖を笑われるな。いや、憐(あわ)れまれるかな?)

 

 戦いの最中に余計なことを考えてしまった航(わたる)に、羆は容赦無く狂える牙を向ける。

 

「岬(さき)守(もり)っ!」

「あの莫(ば)迦(か)、何やってんだ!」

 

 間一髪、新(しん)兒(じ)と椿(つばき)がラリアットの挟み撃ちを羆の両蟀谷(こめかみ)に見舞った。

 羆は崩れ落ちて苦痛と憤怒の唸(うな)り声(ごえ)を上げている。

 

「悪い、助かった!」

 

 思いがけず危機に陥り、そして味方の助けで脱した航(わたる)は、目の前に転がり込んだ絶好のチャンスに気を取り直す。

 

「っらぁッッ!!」

 

 航(わたる)は羆の顎を思い切り蹴り上げた。

 会心の一撃に、羆は大きくバランスを崩す。

 凶悪な口がだらしなく開き、舌が力なく垂れ下がり、涎(よだれ)を滴らせる。

 第二段階の深みに達した神(しん)為(い)は、一見ごく普通の青年に、蹴りで羆を横転させるという神業を為(な)させた。

 

 倒れた羆は打って変わって弱々しい声で鳴くばかりだ。

 自分より遥(はる)かにひ弱な動物で飢えを凌(しの)ぐつもりが、その実化け物の群れに狩られていた――そんな恐怖に動揺しているのだろうか。

 

「良し」

 

 相手を無力化することに成功した、これ以上徒(いたずら)に攻撃を加えることもないだろう――そう考え、航(わたる)は止めを刺さずに立ち去ろうとする。

 

「ま、決着だろ。やったな、岬(さき)守(もり)」

 

 新(しん)兒(じ)が航(わたる)に肩を組んできた。

 昔は荒れていた、という風なことを度々語っていた彼だが、この馴(な)れ馴(な)れしさは悪く取れば鬱(うっ)陶(とう)しく、良く取れば親しみ易い。

 そんな彼が航(わたる)と同じく羆を追撃しないのは、不良時代も同様の考えで喧(けん)嘩(か)に興じていたからだろうか。

 

 だが、そう考えない者も居た。

 椿(つばき)の下段回し蹴りが羆の脳天を叩(たた)き割(わ)った。

 

「椿(つばき)」

「詰めが甘いんだよ、貴方(アンタ)ら。戦いの最中ですぐ気を抜くし、所詮は素人か」

「んだァ手(テ)前(メエ)?」

 

 椿(つばき)の物言いが癇(かん)に障ったのか、新(しん)兒(じ)は上から彼女に眼(がん)を付ける。

 金髪で日に焼けた柄の悪い男が気の強い女に絡んでいるようにしか見えないその様子は、どうしても物騒な絵面に見えてしまう。

 

「おい、お前ら……」

 

 航(わたる)が二人を宥(なだ)めようとした、その時だった。

 

「みんな、手を貸すのだよ!」

 

 崖の上から虎(こ)駕(が)の呼ぶ声が響いた。

 穴の中から見上げる航(わたる)達の視線が三人の男女に集まる。

 折(おり)野(の)が背後から扇(おうぎ)の後首を鷲(わし)掴(づか)みにし、両手を後に回させて自由を奪っていた。

 

 航(わたる)と椿(つばき)が真っ先に虎(こ)駕(が)の元へ跳び上がり、新(しん)兒(じ)が慌てて後に続いた。

 神(しん)為(い)の第二段階に達した者がどれ程の跳躍力を発揮出来るか、航(わたる)には六年前にその経験がある。

 

「岬(さき)守(もり)」

「ああ、解ってるよ」

 

 折(おり)野(の)もまた、宛(さなが)ら獰猛な獣だった。

 このまま彼の思うがままにさせていると、平気で扇(おうぎ)を殺しかねない。

 如(い)何(か)に彼女が悪(あく)辣(らつ)な拉致犯の一味であろうと、それは防がねばならないと航(わたる)は考える。

 おそらく、虎(こ)駕(が)の言う「手を貸せ」も半分はそういう意味だろう。

 

「どういうつもりですか?」

 

 しかし、扇(おうぎ)の態度は至って冷静である。

 冷や汗一つ掻(か)いていない。

 

「解るだろ? 俺(おれ)達はここいらで手(テ)前(メエ)らとオサラバしようと思ってるんだ。要求は三つ、先(ま)ず車の鍵を寄(よ)越(こ)せ。次に俺(おれ)達が今何処(どこ)に居るか、何処へ行くべきか、その大体の場所を吐け。それから、手(テ)前(メエ)の組織にはこう報告しな。攫(さら)ってきた連中は全員羆の餌になりました、ってな」

 

 折(おり)野(の)の手に力が籠(こ)もる。

 逆らえば殺す、という意思表示である。

 だが扇(おうぎ)は揺るがない。

 唯(ただ)々(ただ)、冷徹な瞳で航(わたる)達を見ていた。

 

(何だ、このプレッシャーは?)

 

 逆に航(わたる)達の方が扇(おうぎ)に気(け)圧(お)されている。

 直接彼女の眼を見ていない折(おり)野(の)も何かを感じたのか、僅かに眉を動かし手の力を緩めた。

 

「お断りします。皆様は見事試験に合格しました。どうぞ御乗車ください」

「あ? 何言ってんだ、手(テ)前(メエ)? 言っとくがこのまま殺しちまっても良いんだぜ? 車の鍵なら奪えば良い、現在地なら多分カーナビがある、組織への連絡はどうせ時間稼ぎにしかならねえ。こっちの要求は謂(い)わば手(テ)前(メエ)への慈悲なんだよ。俺(おれ)は今更人殺しなんざ何とも思わねえんだぜ?」

 

 首根っこを掴(つか)む手に力を込め直した折(おり)野(の)はどこか焦っていた。

 状況とは裏腹に、この場を支配しているのは脅されている扇(おうぎ)に思える。

 そんな彼女は小さく溜(ため)息(いき)を吐いた。

 

「承知いたしました。ならば私(わたくし)は私(わたくし)の仕事を遂(すい)行(こう)するまでです」

 

 扇(おうぎ)の長いポニーテールとメイド服のスカートが舞い上がる。

 航(わたる)達が得体の知れない気配に慄(おのの)いた、その時だった。

 

『術(じゅつ)識(しき)神(しん)為(い)・朦朧苦滴下(モロクティカ)』

 

 耳というよりは意識に直接言い付けるような声が聞こえたかと思うと、航(わたる)達七人は一様に体の力を失い、その場に倒れ伏した。

 また、何日も徹夜した後の様な抗(あらが)い難(がた)い眠気が意識を何処か遠い所へと連れ去って行く。

 

「何……だ? これ……は……?」

「神(しん)為(い)の第三段階、異能の発現。今の皆様に私(わたくし)を出し抜き逃亡する力は御座いません。宿へは御(お)送(おく)りしましょう。明日からは地獄の様な鍛錬の日々が始まりますので、本日はどうか御(ご)緩(ゆる)りとお休みくださいませ」

 

 幽(かす)かに消えかかった視界で揺らめく扇(おうぎ)の姿を睨(にら)みながら、航(わたる)は頭へ響く声に対して懸命に抗う。

 既に他の六人は完全に眠りへ落ちている。

 航(わたる)は失いかけた意識を振り絞るように叫んだ。

 

「必ず帰る!! 絶対に、こんな場所に縛られはしない! 日本へ、僕(ぼく)らの生きる場所へ……」

 

 実際、どんな声が出たのか、叫べたのかどうかすら航(わたる)には判らない。

 だが落ちる最後の瞬間まで、航(わたる)は抵抗の意思を点(とも)し続けた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。