当初思っていたより学校は楽しかった。
表向き、私は極普通の女の子になっていったと自負している。
ただ、転校初日にしでかしたことは結構長く尾を引いた。
そんな中、終始航は私と仲良くしてくれた。
好都合だった。
私にとって、航は格好の玩具。
彼と一緒に過ごすことは、有りと有らゆることで幾度と無く彼を負かす遊戯。
そうして彼のことをじわじわと壊していく。
私にはそれが堪らなく楽しかった。
けれどもどういう訳か、こんな私の仕打ちにも拘わらず、彼もまた満更でもない様子を見せるようになった。
妙なことになってきた。
自分が壊されていることに気付いていないのだろうか?
尚、物理的に人間を壊す遊戯をやめたわけではない。
祖父は相変わらず変な人達と関わりがあったようで、壊す相手には困らなかった。
ただ少しずつ、煩わしくなってきていた。
好きな料理が沢山出来た今となっては、昔は一番好きだった料理でも、何なら今でも好物ではあるけれども、毎日食べていると辟易してしまう――喩えるならばそんなところだろうか。
私は次第に、航と共に過ごす時間そのものが好きになっていた。
それはまるで家族のことを無条件で愛していたように。
⦿⦿⦿
小学校も高学年になって、航の様子に変化があったことに気が付いた。
私と遊んでいても浮かない顔をすることが多くなったのだ。
初め、私はとうとう壊れてきたのかと思った。
平気な顔をしてはいたものの、じわじわとダメージが溜まっていたのかと、そう思った。
人間を壊す上で楽しいのは、壊す前・壊す途中・壊れかけ・壊れた姿と、段階的に移ろう変化が人によって様々なことだ。
その違い――苦しみ方、悔しがり方、怒り、悲しみ、絶望の千差万別を愉しむのだ。
当然、私は航に変化の兆候が現れたら心が躍るものだとばかり思っていた。
しかしどういう訳か、航の塞ぎ込んだ様子が私には面白くなかった。
話をよくよく聞いてみると、どうやら航は唯一の家族である母親とトラブルがあり、不仲になってしまったらしい。
同時期、御母様が殆ど家族と接点を持たなくなっていた私は、父の体調が悪化していたこともあって、身につまされた。
獲物を横取りされている気分になった。
私は航の心を守ることにした。
家族が冷たくなったなら、新しく温かい家族を与えてあげれば良い。
序でに、家事能力の差も思い知らせてあげよう。
航のことを、他の誰にも手が出せないようにして囲いつつ、引き続きゆっくりと壊して遊ぶのだ。
けれども、やはり航は嬉しそうだった。
何故だろう、私は何かやり方を間違えているのか。
航の様子が違う意味でおかしい。
もしかすると航は、私のことを好きになったのか。
失敗だった。
私は家族が好きだ。
だったら、航を私の家族にすれば航が私を好きになっても何らおかしくはない。
だがよく考えてみると、どうして私は航にこれ程拘るのだろうか。
別に、人間を物理的にではなく精神的に時間を掛けて壊したいのならば、航以外にも相手は居るだろう。
航の心が弱っていたとき、思っていた程面白い気分でなかったのは、本当に獲物を横取りされそうだったからなのか。
そう考えた時、私は気付いてしまった。
私にとって航は、とっくに家族と同じ枠に入っていたのだ。
もう随分前から、私の方が航を好きになっていたのだ。
航は輝きに満ちた世界を色々と教えてくれる兄の様でもあったし、残酷な世界から何かと守ってあげたい弟の様でもあった。
或る時は格好良くて素敵な人。
また或る時は情けなくて可愛い人。
その本心に気付いてから、世界は一気に彩度を増した。
巡る季節の色めく鮮やかさを知った。
もう人間を壊すことが私の全てではない。
私はこのとき漸く邪悪な獣を脱却し、一人の人間の少女になった。
またこの頃から私の視界は大きく拡がった。
航だけでなく、その周りに居る友達も見えるようになった。
虎駕君を始め、航以外の人達にもそれぞれの事情を抱えている。
この世には多くの善良な好ましい人達が居て、その人達にも千差万別に大切な物が、譲れない思いが、愛する人達が居るのだ。
私の中で、御父様と御爺様の言葉が結び付いた。
人間は美しいものだ。
日本は美しい国だ。
この世界は掛け替えのないものだ。
善き人々は無闇矢鱈と壊すものではない。
とても壊れやすく脆いからこそ、守るべきものだ。
自分の手で壊す為ではなく、この愛おしい者達が永く継続していくように。
思えばこの時の日々が一番眩しかったかも知れない。
航は私のことが好き、私も航のことが好き。
それはとても嬉しくて幸せで、けれどもほんの少し怖くて切なくて……。
だって航は私を普通に――少しだけ発露の仕方が歪んでいた様な気はするけれども――健全な中学生男子の恋愛感情を持っていたのに対し、私の中には依然として邪悪な異常性が潜んでいたのだから。
私達はお互い、関係を深めることに臆病だったのかも知れない。
そしてもう一つ、私達の関係に一つの影が迫っていた。
もう一人の壊れやすく脆い大切な人に、終焉の時が近付いていたのだ。
⦿⦿⦿
白状すると、どこかで目を背けていた。
御父様の体調が悪化していることは分かっていた筈なのに……。
航が家に来るようになってから、暫くは快復した様に思えたのも良くなかった。
海釣りに出掛けたあたりがピークだったと思う。
高校受験が終わった頃から、御父様はまた急激に悪くなった。
私は御父様がもう長くないのだと理解してしまった。
以前から、私には人体について人並み外れた察しの良さがあった。
御父様の体調の変化を察知したのはいつも私が最初だった。
私は中学生ながら、汎ゆる手を尽くして御父様を延命しようと考えた。
でも、何が出来る筈も無かった。
私はただ、少しでも評判の良い医者を探して藁にも縋る思いで託す他無かった。
麗真家が金を持っているせいか、医者以外に妙な連中が群がってきたのはかなり煩わしかった。
そして卒業を目前に控えた時期、御父様は逝った。
私は初めて人の死に立ち会った。
身近で世話になった大切な人を喪うという、思春期にありふれた傷を負った。
家族と葬式の準備をする中、私は考えていた。
世の中には自分の力ではどうにもならないことがあるのだ。
ただ与えられた結果を受け容れ、平伏すしかない絶対的な宿命力とでもいうべきものが。
御爺様が再三言っていたことがなんとなく解った気がした。
私はどうすれば良かったのだろう。
御父様に生きて欲しいという私の願いは無意味で、滑稽なものだったのだろうか。
でも、最期の会話で御父様は私に「幸せだった」と言ってくれた。
私の頑張りに「ありがとう」と言ってくれた。
そんなことを伝えられても、貴方はもう居ないではないか。
悲しみが増すだけではないか。
そんな私に寄り添ってくれたのは、両親に悪魔と忌み嫌われていた御爺様だった。
『お前にも解った筈じゃ』
『何がですか?』
『お前が云う、絶対的な宿命力を唯々諾々と受け容れる……ことなど、そう易々と人には出来ん』
『はい……』
『お前は受け容れなかった。運命を変えようとして、そして打ちのめされた』
『そうは云っても、何も出来ませんでした』
『それで良い。重要なのは抵抗の意思を示したこと。それで変わったものが本当に何も無いなどということはあり得ぬ。少なくとも、魅弦の最期は変わったと、儂は信じておる』
『……そうでしょうか?』
『お前は何も感じんかったか?』
『……いいえ』
御爺様が私に伝えたかったこと、今ならはっきり解る。
同時に、それは御父様や御母様が私を御爺様から遠ざけようとした理由なのだ。
御爺様は私に自らの悲願を託そうとしていた。
その為に、自分と同様の相応しい心構えを教えたかったのだ。
国家の為に人生を尽くし、国家の為に絶望的な抵抗に身を投じ、国家の為に命を投げ出す心構えを……。
とどのつまり、御爺様は私を洗脳したかったのだ。
『儂に見えているもの、お前にも解るな?』
『はい……。皇國は……神聖大日本皇國は……本当に来るのでしょうか……』
『来ないなら、それに越したことはない。来たとして、お前に戦う意思が無ければどうにもならん。戦う意思があればどうにかなるとは、口が裂けても言えんが……』
『そう……ですか……』
『皇國の力は、神皇の力は絶望的な宿命力にも近いかも知れん……』
『では……』
次に御爺様は珍しいことを言った。
私は耳を疑った。
『嫌ならば戦わずとも良い』
『え?』
『抵抗の確固たる意思が無ければ戦えん相手に、嫌々向かわせてもむざむざお前を死なせるだけじゃ。儂とて、出来れば可愛い孫娘にその様な真似はさせとうない』
『御爺様……』
『魅琴よ、こういう言い方は全く以て不本意じゃが、儂の命あるうちに伝えられて良かった。今までお前は一切の挫折を知らんかった。そんなお前に、皇國との戦いから身を引くという選択肢を与えても理解出来んかったじゃろう。四方や息子の死が切掛になろうとはな……。そこだけは全く以て不本意じゃが……』
御父様の死因は崇神會の人伝に聞いた。
御爺様は自分の娘と息子に皇國と戦う為の過酷な訓練を施そうとした。
しかしそのやり方は手探りの稚拙なものだった。
結果、娘である魅弓伯母様は逐電し、息子である御父様は身体を壊したのだと云う。
『御爺様、命あるうちに、ということはやはり……』
『流石じゃ、察しておったか。その通り、儂とて長くはない。すぐに儂もこの世を去るじゃろう。魅弦と顔を合わせて謝ることは出来んじゃろうが……』
私は考えた。
もし私が戦わなければどうなるのだろう。
御爺様の云うとおり、挫折を知った私は初めて負けることを意識した。
もし私が戦わず、或いは負けて、皇國が日本を好き放題にしてしまったら?
答えは出なかった。
しかし、考えたくないという想いが脳裡に過った。
私の周囲には、まだ喪いたくない、守りたい人達が居たからだろう。
私は自分の運命について、生と死について考えるようになった。
何の為に生まれ、何の為に生きるべきなのか。
神社巡りをするようになったのは、そんな問いの答えを求めたからかも知れない。
いつの間にか御爺様の思想に毒されていた私は、御爺様の深層と根源に何かを見出そうとしたのかも知れない。
日が経つにつれ、私の心と体に使命と愛着が馴染んでいくような気がした。
此処は、大切な人と共に生きた社会は、風俗は、文化は、紛れも無く私の故郷だ。
咀嚼された毒が血肉に変わっていった。
それでも、答えを出すのは年の瀬まで待たなければならなかった。