西暦二〇二六年七月八日水曜日――後の時代に於いて、日本国と神聖大日本皇國の間に勃発した争い――通称「日本戦争」が開始されたのはこの日の夜、両国間の海域「皇海」にて為動機神体同士の交戦が生じた時とされる。
戦いを先に仕掛けたのは皇國だったのか、将又日本だったのか、それは解釈が分かれることになるが、開戦当初に於ける日本の見通しは絶望的であったという見方は概ね共通する。
神聖大日本皇國は、この世界に顕現するまで絶対的な覇権国家として君臨していた米国をワンサイドで撃破した新たなる超大国であり、人口と国土面積は双方ともに日本国の十倍である。
更には無尽蔵のエネルギー資源、空間転移によるノータイム侵攻や波動相殺によるレーダー探知のほぼ完全なる無効化を実現する軍事技術、超常的な力を持つ兵士を擁する兵力、それらを総合した未知の文明力を有する脅威のチート国家に対し、日本国は為す術無く敗北するであろうと予想された。
しかし、日本国は皇國が顕現して以来、この事態に備えて多くの手を打っていた。
一国での対応は不可能と、数多くの国との連携を深めていた。
それらに国々には、嘗て皇國に煮え湯を飲まされ、表立っては対立出来なくなったこの国も含まれる。
「そうか、遂に日本と皇國は戦争になったか……」
一夜明けて七月九日木曜日。
ホワイトハウスの自席にて、米国の大統領はその報告を聞いて静かに呟いた。
「我が国は四年前の敗戦以来、皇國との間に屈辱的な同盟関係を結ばされている。よって本来、日本に肩入れすることは出来ない。しかし、日本国との同盟関係も依然として維持されている為、皇國にも肩入れすることもまた出来ない。至急、その旨を皇國側に通達してくれ」
「大統領、日本へはどのような対応を?」
「言うまでもないだろう」
大統領は眉間に皺を寄せ、卓上に両肘を突いた。
「日本と皇國、双方に対して直接的な支援は一切しない。しかし、この戦争による混乱は間違い無く世界経済に深刻な影響を与え、またインド太平洋地域でならず者国家が新たな軍事的行動を起こす切掛にもなりかねない。関係国には支援せざるを得んだろう。それらの国が偶々日本国を助けようとも、我々が介入出来るところではない」
「例えば、今までも我が国の支援を受ける一方で友好国に我が国と敵対する国が入っている例はいくらでもありますからね」
「それに如何なる措置を取るかはその時々の情勢次第で、必ずしも制裁を加える訳ではない。今の我々は国の立て直しに精一杯で、徒に他国と敵対している余裕は無い。よって、皇國と敵対する日本国に我が国の支援が横流しされようと黙認せざるを得ない。そうなる程にアメリカの威信を破壊し尽くしてくれたのは、他ならぬ皇國だ」
「皮肉なものです。我が国が拵えた憲法を理由に片務的な安全保障条約を押し付けてきた日本のやり口を思い出しますな……」
米国は皇國に敗れ、半ば属国の様な状態に陥っていた。
しかし、覇権国家への返り咲きを諦めた訳ではない。
そんな米国の心理を見抜き、このような提案を秘密裏に打診したのは他ならぬ日本政府だった。
「我が国の嘗ての敵にして旧き友人の健闘を祈ろうではないか」
大統領はその眼に捲土重来の焔を宿し、意味深に口角を上げた。
⦿⦿⦿
同日、皇國皇宮は宮殿の大広間では、政府高官が雁首揃えて沈痛な空気を醸し出していた。
同じ席に、貴族院議員でもある第一皇女・麒乃神聖花を初めとした皇族も渋い顔を並べている。
神皇が襲撃され、意識不明の重体に陥った――それは皇國の存亡を大きく揺るがす一大事である。
まだ公表されてはいないが、近い内に全土でインフラ毀損への大掛かりな対処を強いられるだろう。
その報が皇國政府・上位貴族に齎した激震は建国以来類を見ないものだった。
今日、皇宮ではその方策を話し合うべく政府首脳と軍上層部の面々が朝早くから緊急招集されたのだ。
「それにしても、一体なんですかこの為体は?」
第一皇女・麒乃神聖花が苛立ち混じりに口を開いた。
真直ぐ下ろした長く艶やかな黒髪に、張り詰めた弓弦の様に凜と背筋を伸ばした長身、怜悧な眼差しを湛えた美貌が、雲一つない晴天の様に澄み渡った声で放たれた叱責を殊更高圧的に演出し、政府や軍の高官を萎縮させていた。
「皇宮へ侵入した賊に襲われた陛下が御命を取り留められたのは偶々皇太子殿下が参られたから。皇國本土へ侵入した敵の兵装が臣民に向かなかったのは下手人の回収で手一杯だったから。何れも一歩間違えば取り返しの付かぬ事態、致命的な損害となってもおかしくはなかった。侍従達も近衛師団も国防軍も……皆揃いも揃って何を寝惚けているのですか」
麒乃神聖花に問い詰められて蒼い顔をしない者は皇國に存在しない。
況してや昨夜起きた事態は、相手が誰であっても申し開きの利かない大失態である。
通常ならば内閣は総辞職に追い込まれ、軍の上層部は纏めて首を挿げ替えられてもおかしくはない。
しかし、その中にあって唯一人、この男だけは怒れる第一皇女を宥めることが出来る。
「姉上、その辺にしておいたらどうだ。今は過ぎたことを追求する時ではないだろう」
第一皇子・獅乃神叡智が腕を組み、落ち着いた様子で姉を制した。
白金色の髪と茶金色の肌を初めとした浮き世離れした色彩感と、二米を優に超える筋骨隆々とした体格の威圧感が、静かな佇まいながらも強烈な存在感を示している。
「父上の絶対的な強大さ、新皇軍の圧倒的な強力さ故、緩みが生じてしまっていたということだろう。皆、今回の一件は猛省し、二度と無きよう深く心に刻んで貰いたい」
獅乃神の言葉に、政府や軍の高官達は益々縮こまった。
声の主との体格差がその小ささをより強調してすらいる。
だがそんな彼らに獅乃神が掛けるのは、ただただ苦言ばかりではなかった。
「しかしだ、余はそれでも尚、汝らを信じている。栄えある皇國臣民は、偉大なる大和民族は必ずや再起し、この難局を乗り切れると信じて疑わん。だから先ずはその方策を話し合うべきだ。この場はその為の緊急会合だろう」
弟の言うことも尤もだと思ったのか、麒乃神は肩を落として大きく息を吐き、それ以上は追求しなかった。
そんな中、逆に獅乃神の言葉を受けて一人の閣僚が発言しようとしていた。
「では獅乃神殿下、一つ宜しいですかな?」
「鬼獄伯爵か、申してみよ」
鬼獄康彌――昨夜、皇族の晩餐会に招待された新華族・鬼獄伯爵家の当主である。
この男は能條内閣の閣僚もまた務めていた。
「この国難に対処するに当たり、権限の所在を明確にしておく必要があります。御存知の通り、昨夜は政局としても激動の一日でして、内閣総理大臣でありました能條緋月氏が急死しており、暫定的に小木曽副総理内務大臣がその職務を代行しております。私としては、このまま能條内閣の顔触れを引き継ぐ形で小木曽文章氏が内閣総理大臣を正式に就任すべきかと存じます」
「ふむ……」
獅乃神は姉の方へ目を遣った。
「姉上、貴族院議員としてどう思う?」
「良いのではないですか? 責任の追及は後回しにしたばかりですからね。小木曽、頼みますよ」
「畏まりました」
小木曽文章は深々と頭を下げた。
そんな彼を、一人の皇族が睨んでいる。
第二皇女・龍乃神深花は小木曽に強い不信感を抱いていた。
能條内閣は元々、日本国との開戦に消極的であった。
しかしながら、能條前首相は不可解な展開の末に日本国への軍事侵攻を仄めかし、そのまま急死した。
その能條内閣で不測の事態に総理職を引き継ぐ副総理内務大臣・小木曽文章もまた、慎重派だと思われていた。
だが実際は、この小木曽こそが開戦へと踏み切ったのだ。
龍乃神深花は皇族で最も穏健な考えの持ち主である。
大抵の場合、皇國で日本国への武力行使に積極的か消極的かという二つの派閥の争いについて、日本国の吸収そのものに反対している者は極めて少ない。
両者の立場は、あくまでもその結果に向かう筋道の差である。
龍乃神は、その極めて少ない考えの持ち主だ。
そんな龍乃神が、今の小木曽を信用出来ないのは当然である。
しかし、龍乃神が真に警戒すべきは小木曽ではない。
今この場で、小木曽が正式に総理大臣職を引き継ぐよう進言したのも、彼女にとって良からぬ者にとってその方が都合が良いからだ。
「では、この鬼獄康彌も能條内閣から引き続き、遠征軍大臣として小木曽新総理のもと尽力しましょうぞ」
「宜しくお願いします、鬼獄伯爵。推挙、感謝いたします」
小木曽に頭を下げられた鬼獄は不気味に北叟笑んでいた。
この男にはもう一つの顔がある。
「では先ず、遠征軍大臣として私が最初の議題を。神皇陛下を欠いた状態で、如何にして明治日本を制圧し吸収するか、皆様の知恵をお借りしたい」
鬼獄伯爵家は新華族の中でも最も格が高いとされる一族である。
その理由は、現当主の父こそが神皇に帰還を上奏し、神聖大日本皇國建国の切掛を作ったからである。
その父、鬼獄魅三郎とは麗真魅琴の曾祖父。
つまり、日本国と皇國の間で良からぬ事を企み、暗躍する黒幕集団の一人である。
鬼獄康彌は政治的に父の傀儡である。
即ち、彼の父・鬼獄魅三郎――黒幕の首魁である貴龍院皓雪に与えられた名を閏閒三入という男は、軍関係の閣僚を傀儡として操り、皇國の軍に影響力を伸ばしているのだ。
故に、鬼獄は断固たる意思で戦争を遂行しようとしている。
「鬼獄……。貴様、皇國がこの様な状況にありながら、尚も外国に手を伸ばそうというのか……!」
怒りに震える龍乃神を、鬼獄は冷笑的な眼で見下ろしていた。