日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第七十話『黄昏時の天空へ捧げる讃美歌』 破

 皇(こう)國(こく)全土に神(しん)為(い)を供給する為、皇宮に詰めていた第二皇女・龍(たつ)乃(の)神(かみ)深(み)花(か)と第三皇子・蛟(みずち)乃(の)神(かみ)賢(けん)智(ち)にも連合革命軍の魔の手が迫っていた。

 二人が控えているのは、宇(う)気(け)比(ひ)の間――嘗(かつ)ては「人工母胎の間」とも呼ばれていた彼らの生(せい)地(ち)である。

 白い照明の光に満ちた部屋の壁際に設置された機械仕掛けの匣(はこ)が、父・神(じん)皇(のう)の精子と謎に満ちた母・臥(が)龍(りゅう)飛鳥(あすか)の卵子を受精させ、その胎児を哺育していた「人工母胎」と呼ばれる装置なのだ。

 しかし今は其(そ)方(ちら)は一切稼働しておらず、代わりに部屋の中央に設置された巨大な真珠の様な物体が主なこの部屋の用途である。

 

 この球体は皇宮の地下から皇(こう)國(こく)全土に張り巡らされた送電網や水脈、その他インフラに接続されている。

 普段は神(じん)皇(のう)がこの球体に神(しん)為(い)を送ることで皇(こう)國(こく)中の基盤となるエネルギー供給源を担っているのだ。

 

「龍(たつ)乃(の)神(かみ)殿下、蛟(みずち)乃(の)神(かみ)殿下、叛(はん)逆(ぎやく)者が皇宮に侵入しました! 此(こ)処(こ)も危のう御座います! 早くお逃げください!」

 

 そんな「宇(う)気(け)比(ひ)の間」で球体前方の椅子に並んで坐(すわ)っていた二人の皇女皇子に事態を告げたのは、蛟(みずち)乃(の)神(かみ)の侍女である伯爵令嬢・刻(とき)御(み)門(かど)竜胆(りんどう)である。

 和装をした上品な淑女で、普段はよく言えば落ち着いている、悪く言えば事務的な彼女だが、今は流(さ)石(すが)に取り乱した様子で二人の皇族に脱出を上申した。

 

「六年ぶりの大規模蜂起か……」

 

 龍(たつ)乃(の)神(かみ)は思い出す。

 丁度皇(こう)國(こく)がこの世界に転移した直後、武(ぶ)装(そう)戦(せん)隊(たい)・狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)は大規模な叛(はん)乱(らん)を起こした。

 当時、叛乱の鎮圧こそ出来たものの、組織の壊滅には至らず、再びの機会を狙って息を潜めていることは明らかだった。

 案の定、皇(こう)國(こく)が戦争で泥沼に引(ひ)き摺(ず)り込(こ)まれている現状を幸いにと国家転覆を狙ってきた――それが二人の皇族の現状理解である。

 

「急に神(しん)為(い)が使えなくなったのは叛逆者の能力に因(よ)るものだろうね。しかし、皇族たる妾(わらわ)達(たち)に通用してしまうとは……」

「何か絡(から)繰(くり)があるんだろうね。嫌な予感がする……」

 

 蛟(みずち)乃(の)神(かみ)の許(もと)に駆け寄った刻(とき)御(み)門(かど)は、主を潤んだ眼(め)で見詰めて懇願する。

 

「殿下、蛟(みずち)乃(の)神(かみ)殿下。大切な殿下に何かあっては私(わたくし)、どうしたら良いか……」

「刻(とき)御(み)門(かど)、心配しないでおくれ。君(きみ)の方こそ、よく無事で居てくれた。僕(ぼく)も君(きみ)無しで生きていくなんて、全く想像出来ないよ」

 

 蛟(みずち)乃(の)神(かみ)は刻(とき)御(み)門(かど)の手を握って彼女に言い聞かせた。

 そんな弟と侍女の関係を察し、龍(たつ)乃(の)神(かみ)は白い眼を向けている。

 蛟(みずち)乃(の)神(かみ)は刻(とき)御(み)門(かど)の肩を抱いて姉の方を向いた。

 

「姉様、刻(とき)御(み)門(かど)の言うとおりに脱出して身を隠そう。僕(ぼく)達が皇宮に留(とど)まっていては近(この)衛(え)兵(へい)達がいつまでも僕(ぼく)達のことを守り続けなければならない。そうだろう、刻(とき)御(み)門(かど)?」

「はい、お察しの通り、既に近衛兵だけでなく大(だい)覚(かく)寺(じ)侍従長もお亡くなりに……」

 

 龍(たつ)乃(の)神(かみ)は苦虫を噛(か)み潰(つぶ)した様な表情を浮かべた。

 弟の言うことは理解するが、圧倒的な強さを誇る筈(はず)の皇族として、叛逆者の破落戸(ごろつき)を相手に尻尾を巻いて逃げなくてはならないのはなんとも情け無い。

 

「歯(は)痒(がゆ)いね、なんとも……」

 

 それでも、龍(たつ)乃(の)神(かみ)は私情を押し殺して立ち上がった。

 この状況で小さなプライドに拘(こだわ)っていては徒(いたずら)に犠牲を増やすということは彼女も解(わか)っている。

 

「問題はどう脱出するか、だね。昔の城郭みたいに隠し通路がある訳でもない」

「御安心ください、龍(たつ)乃(の)神(かみ)殿下。私(わたくし)が案内いたします!」

 

 刻(とき)御(み)門(かど)は人工母胎へと駆け寄り、制御盤を操作した。

 彼女が複雑な数値の入力を終えると、人工母胎の匣(はこ)が動いて通路が現れた。

 

「あったのか、隠し通路」

「両殿下、参りましょう!」

 

 龍(たつ)乃(の)神(かみ)と蛟(みずち)乃(の)神(かみ)は刻(とき)御(み)門(かど)の先導に従い、隠し通路へと足を踏み入れた。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 国会議事堂の衆議院本会議場では、第一皇子・獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)の近衛侍女・敷(しき)島(しま)朱(と)鷺(き)緒(お)が独り、狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)を相手に必死の抵抗を試みていた。

 

「敗ける訳にはいかんっ! 何としても貴様らを成敗しなければ! そしてその後、私(わたくし)も皇族方の御(お)命(いのち)を失わせた責任を取って腹を切る!」

 

 敷(しき)島(しま)の刀が二人の八(はつ)卦(け)衆(しゆう)の猛攻を弾く。

 屋(や)渡(わたり)倫(りん)駆(く)郎(ろう)の肉(にく)槍(やり)も沙(さ)華(はな)珠(たま)枝(え)の毒(どく)鞭(むち)も一筋縄ではいかない恐るべき武器であり、しかも神(しん)為(い)の無い素(もと)の剣技で凌(しの)ぐのは至難の業である。

 しかし達人の敷(しき)島(しま)は二人を相手に辛うじて渡り合っていた。

 

「しぶとい女だなァ、皇族に屈した軟弱女の分際で……!」

「未(いま)だに女剣士気取りとは、恥を知らないのかお前は」

 

 屋(や)渡(わたり)と沙(さ)華(はな)は侮蔑の言葉を投げ付けるが、それは二人掛かりで攻め倦(あぐ)ねている苛(いら)立(だ)ちから来るものだろう。

 神(しん)為(い)を失った上に負傷しているにも拘(かか)わらず、敷(しき)島(しま)の戦い振りは鬼気迫るものがある。

 

「やれやれ、埒が明かんね……」

 

 そんな戦いの様子を議長席から見渡し、首(しゆ)領(りよう)Д(デー)こと道(どう)成(じよう)寺(じ)太(ふとし)は溜息を吐いた。

 

「二人掛かりでは厳しいか、では更なる戦力を投入しよう。同志金(こん)剛(ごう)」

 

 道(どう)成(じよう)寺(じ)の命を受け、狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)別働隊「地(ち)上(じよう)ノ(の)蠍(さそり)座(ざ)」の金(こん)剛(ごう)悟(さとる)が手を挙げた。

 すると天井を突き破り、二機の弐(に)級(きゆう)為(い)動(どう)機(き)神(しん)体(たい)が舞い降りる。

 

「『術(じゆつ)識(しき)神(しん)為(い)・金(ダイヤ)剛(モンド)魔(マ)機(キ)啼(ナ)』。さあ、二人共真の姿を顕(あらわ)せ」

 

 天井の瓦(が)礫(れき)が降り注ぐ中、弐(に)級(きゆう)為(い)動(どう)機(き)神(しん)体(たい)が人間の姿へと変わっていく。

 敷(しき)島(しま)はその光景に冷や汗を掻(か)いた。

 

「金(こん)剛(ごう)が居るということは、やはりそう来るか……」

「元『地(ち)上(じよう)ノ(の)蠍(さそり)座(ざ)』の同志だった貴様は解るよな、水(み)徒(と)端(はた)早(そ)芙(う)子(こ)。いや、逸(はや)って自分で名乗っていた『黄(つ)柳(げ)野(の)早(そ)芙(う)子(こ)』と呼んだ方が良いか?」

「あの男の話はやめろ! あの時裏切られて愛想が尽きたし、抑(そもそ)も結婚していない!」

 

 過去を穿(ほじく)り返(かえ)された敷(しき)島(しま)は動揺し、生じた隙に屋(や)渡(わたり)の槍を体に掠(かす)めてしまった。

 

「うぐっ!」

「薄情な奴(やつ)だな。今呼んだ他の仲間達にも同じ様に冷たくするのか?」

 

 金(こん)剛(ごう)が呼んだ二機の弐(に)級(きゆう)は完全に人の姿に変わった。

 二人は敷(しき)島(しま)の能(よ)く知る男女である。

 

「火(ひ)野(の)初(はつ)音(ね)・地(じ)頭(とう)恭(きよう)輔(すけ)……やはり貴様らか……。日(くさ)下(か)部(べ)と月(つく)夜(よ)は良いのか?」

「あの二人には別の大事な用があるのさ」

「まあ、寂しい気持ちは解るぜ。久し振りに『七(しち)曜(よう)衆(しゆう)』が揃(そろ)うと良かったんだがな。どの道、肝心の黄(つ)柳(げ)野(の)リーダーが欠けちまう」

 

 火(ひ)野(の)初(はつ)音(ね)と地(じ)頭(とう)恭(きよう)輔(すけ)、金(こん)剛(ごう)悟(さとる)は、嘗て水(み)徒(と)端(はた)早(そ)芙(う)子(こ)だった時の敷(しき)島(しま)と共に「地(ち)上(じよう)ノ(の)蠍(さそり)座(ざ)」最高戦力「七(しち)曜(よう)衆(しゆう)」として猛威を振るった者達である。

 後三人、敷(しき)島(しま)が名を挙げた日(くさ)下(か)部(べ)光(みつ)郎(ろう)と月(つく)夜(よ)萌(め)衣(い)、そしてリーダーで水(み)徒(と)端(はた)早(そ)芙(う)子(こ)と恋仲だった黄(つ)柳(げ)野(の)文(ふみ)也(や)の七人で構成されていたが、六年前の蜂起で地(ち)上(じよう)ノ(の)蠍(さそり)座(ざ)が壊滅してからは音沙汰を無くしていた。

 

「扨(さ)て、裏切り者の粛正を開始しようじゃないか」

「裏切り者、か……」

 

 敷(しき)島(しま)は歯(は)噛(が)みし、刀を強く握り締めた。

 

「あの時、誰よりも最後まで戦い続けたのは他ならぬ私(わたくし)だ。文(ふみ)也(や)を奪還しようと動いたのも私(わたくし)一人だった。貴様らは狼(おおかみ)ノ(の)牙(きば)も地(ち)上(じよう)ノ(の)蠍(さそり)座(ざ)も尻尾を巻いてさっさと逃げ、私(わたくし)に全てを押し付けた……」

 

 屋(や)渡(わたり)と沙(さ)華(はな)に加え、金(こん)剛(ごう)・火(ひ)野(の)・地(じ)頭(とう)に囲まれた敷(しき)島(しま)は怒りに体を震わせている。

 

「確かに、叛逆者に身を落としたのは私(わたくし)の拭えない罪と汚点だ! しかし、それでも私(わたくし)は必死だった! 命を懸けて戦い抜こうとした! 戦いもしなかった貴様らがどの面下げて私(わたくし)を粛正しようというのか!」

 

 敷(しき)島(しま)は再び刀を構えた。

 

「来い! 全員纏(まと)めて斬り伏せてやる! 誰よりも畏るべき者を知る私(わたくし)が貴様ら如(ごと)きを恐れるものか!」

 

 意気込む敷(しき)島(しま)。

 とその時、突如として議長席が真二つに割れた。

 その下には穴が開き、下へ階段が続いている。

 そこから三人の男女が昇ってきた。

 

「おお、到着したかね」

 

 道(どう)成(じよう)寺(じ)が先頭の和装女を嬉(うれ)しそうに歓迎した。

 彼女に続く男女は困惑している。

 

「どういうことだ?」

「国会議事堂に続いていたのか?」

「首(しゆ)領(りよう)Д(デー)、龍(たつ)乃(の)神(かみ)・蛟(みずち)乃(の)神(かみ)両殿下をお連れしました」

 

 和装の女・刻(とき)御(み)門(かど)竜胆(りんどう)が道(どう)成(じよう)寺(じ)に頭を下げた。

 

「よく連れてきた。そして、間諜(スパイ)活動を始めたばかりにしては能くやったね、刻(とき)御(み)門(かど)君」

「はい、首(しゆ)領(りよう)Д(デー)。私(わたくし)は首領様の御(ご)命(めい)令(れい)を忠実に実行いたしました。ですから御褒美を……。首領様の愛を沢山下さいませ……」

 

 刻(とき)御(み)門(かど)は道(どう)成(じよう)寺(じ)の足下に擦り寄り、恍(こう)惚(こつ)とした表情で媚(こ)びを売る。

 白地(あからさま)な様子に、蛟(みずち)乃(の)神(かみ)は呆(ぼう)然(ぜん)と立ち尽くしていた。

 その背後で、龍(たつ)乃(の)神(かみ)はばつが悪そうに目を逸(そ)らしている。

 

「扨(さ)て、同志久(く)地(ち)縄(なわ)、準備は出来たかね?」

「ええ。天空上映はいつでも開始出来ます。後は、神(じん)皇(のう)の到着を待つばかりですな」

 

 龍(たつ)乃(の)神(かみ)と蛟(みずち)乃(の)神(かみ)は連合革命軍の一般構成員に身柄を確保された。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 皇宮、神(じん)皇(のう)の寝室は、外の騒乱が嘘(うそ)の様な静けさに包まれていた。

 相変わらず寝台(ベツド)の上で蒼(あお)い顔を浮かべている神(じん)皇(のう)は、唯(ただ)々(ただ)外の景色、黄(たそ)昏(がれ)時(どき)の空を見詰めている。

 

「父上……」

 

 そんな神(じん)皇(のう)の様子を、第一皇子・獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)はいつになく厳しい表情で見守っていた。

 二人は共に、何かを予感しているかの様である。

 神(じん)皇(のう)が小さく溜息を吐いた。

 

「愈(いよ)々(いよ)か……」

 

 神(じん)皇(のう)は徐(おもむろ)に息子の方へ振り向いた。

 その表情は平静そのものだが、普段の威厳が見られず、ただ涼やかさだけを残している。

 

「叡(えい)智(ち)よ、どうやら朕(ちん)から爾(なんじ)に、いや……」

 

 一息、神(じん)皇(のう)は決意の間を挟んだ。

 これからの話を心して聞くようにと、彼の纏う空気が書物の如く雄弁に語っていた。

 

「我から其(そ)方(なた)に最も大事な話をする時が来たようだ……」

 

 神(じん)皇(のう)は布団を開け、寝台(ベツド)から足を下ろして坐った。

 蒼い顔をしながらも降りようとするその仕草に、獅(し)乃(の)神(かみ)は驚いて身を乗り出す。

 

「父上、どうか御安静に。避難なされると仰(おつしや)るなら、お連れしますので」

「案ずるな。この一月、歩行訓練がてら己の足で厠(かわや)へ行っておるだろう。御(お)陰(かげ)で良い塩(あん)梅(ばい)である」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)は肩の力を抜いた。

 奇妙な一時である。

 真夏とは思えぬ清涼さがあった。

 山吹色の光が父と子を照らしている。

 

「叡(とし)智(とも)、我には以前より一つの確信に近い予感があった。おそらく、我が神(しん)為(い)は今が峠なのだ。これより先は緩やかに下降を始め、数年で急速に失われるであろう……」

「どういう……ことですか?」

「神(しん)為(い)の恢(かい)復(ふく)力は遺伝子の修復力にも及び、人に不老長寿を与える。然(さ)れど、それはあくまで人の域を出ることは無い。その限界が大還暦なのだ。今後、我の神(しん)為(い)が再び蘇(よみがえ)ろうとも、二度と以前の力は戻るまい。そして我は確実に老い、衰弱していく……」

 

 神(じん)皇(のう)は獅(し)乃(の)神(かみ)に微(ほほ)笑(え)んで見せた。

 

「解るか、叡(とし)智(とも)よ。この父とて死ぬのだ。時が来ればな」

 

 小柄な父の穏やかな目。

 対して大柄な息子は眼を凝らして見詰めている。

 

「だからですか……。だから、御譲位なさろうと……」

「うむ。次の還暦は到底迎えられまい。嘗て神話の時代、瓊(に)瓊(に)杵(ぎの)尊(みこと)が永遠の命を失って以来、皇族は定命の者となったと伝えられている。その呪いに、絶対的な皇(こう)國(こく)の統治体制を築き、神の領域に達した我ですらも抗(あらが)うことは出来なかったという訳だ」

 

 夕日に照らされた神(じん)皇(のう)の姿は消え入りそうな光の衣を纏っている。

 それはある意味で祝福にも見える。

 この時が、天神の血を引くという彼の死に往(ゆ)く宿命に清い讃(さん)美(び)歌(か)を歌っているかの様だ。

 

「お待ちください、父上。何故(なぜ)今、その様なお話をなさるのですか」

「言ったであろう。時が来たのだ」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)は息を呑(の)んだ。

 そして小さく首を振る。

 

「何を……何を仰いますか……」

「叡(とし)智(とも)よ、大事なのはここからだ。この父の死すべき命より、其(そ)方(なた)の生きる命の話が重要なのだ」

 

 神(じん)皇(のう)は寝台(ベツド)から立ち上がった。

 

「父上?」

「叡(とし)智(とも)、其(そ)方(なた)は気にも留めておらぬだろうが、我は其(そ)方(なた)の神(しん)為(い)を封じておった。我が子女の中でも其(そ)方(なた)の神(しん)為(い)だけは特別中の特別、生まれながらに我をも遥(はる)かに超え、想像を絶する領域にあった。故に、危うく思っていた。幼き其(そ)方(なた)が道を誤れば、三千世界がいとも容(た)易(やす)く無に帰すことになる。我は其(そ)方(なた)の輝かしい才能に蓋(ふた)をせねばならなかった」

「それは……」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)は顔を伏せた。

 言われなくとも知っている。

 だが、それで良かった。

 特に不便を感じたことも無く、神(しん)為(い)など使わなくとも誰もが好(よ)く尽くしてくれた。

 

 力など必要無かった。

 ただこの血筋の祝福があれば、獅(し)乃(の)神(かみ)叡(えい)智(ち)は誰よりも幸福だったのだ。

 

「叡(とし)智(とも)よ、我はこうも夢想している。動(やや)もすると其(そ)方(なた)なら、瓊(に)瓊(に)杵(ぎ)以来(このかた)の呪いを超克出来るのではないか。皇(こう)國(こく)を、日本民族を永久の栄光へ導くことが出来るのではないか、とな。都合の良い妄想であろう。だが幸い、其(そ)方(なた)は立派になった。最(も)早(はや)何も心配は要るまい」

 

 神(じん)皇(のう)は獅(し)乃(の)神(かみ)に触れた。

 

「今、封を解こう。これよりは其(そ)方(なた)の代(よ)である。其(そ)方(なた)の思うとおりの治世を行うが良い。以後、好きにせよ」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)は再び顔を上げ、神(じん)皇(のう)と見つめ合う。

 その視線の交錯が全てを語っていた。

 愛(いと)おしむ様な、肩の荷が下りた様な、そんな柔(にゆう)和(わ)さが神(じん)皇(のう)の微笑みには満ちていた。

 

「では、行くか……」

 

 神(じん)皇(のう)はゆっくりと、寝室の扉へと歩き出す。

 獅(し)乃(の)神(かみ)は慌てて父の手を掴(つか)んだ。

 

「何処(どこ)へ行かれるのですか」

「朕(ちん)を待つ者の所だ」

 

 神(じん)皇(のう)の声に元の威厳が戻っていた。

 獅(し)乃(の)神(かみ)は首を振る。

 

「駄目だ……駄目だ……!」

「手を離せ叡(えい)智(ち)。今はまだ朕(ちん)に無礼を働くでない。行かせよ、これは勅命である」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)が手を離したのは、察したからだ。

 こうなっては、父は自らの腕を引き千切ってでも己を押し通すだろう。

 彼は父を誰よりも慕っている。

 その父を傷付けることなど不本意極まり無かった。

 

 神(じん)皇(のう)は扉に手を掛けた。

 振り返ることなく、清浄の寝室と汚濁の下界を結ぶ門が開かれる。

 

「待て! 父上、行くな!!」

 

 獅(し)乃(の)神(かみ)の叫びは神(じん)皇(のう)を振り向かせることすら叶(かな)わなかった。

 神(じん)皇(のう)は寝室を出て、長大な回廊を歩いて行く。

 遠(とお)く、遙(とお)く、迢(とお)く……。

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