二人は魅琴の家に戻り、先ずはシャワーを浴びる。
と、その前に航は魅琴に借りた手巾で汗を拭いた。
「魅琴、君がシャワーを浴びる間、僕は洗濯物を取り込んでアイロンを当てておくよ」
「ありがとう」
航はベランダから庭へ出た。
夏は終わりつつあるが、日が傾くのはまだまだ遅い。
(夜の海、か……)
洗濯物を取り込みながら、航は思い出す。
狼ノ牙に拉致される直前、海で魅琴との関係にかなり思い詰めていた。
時間帯を考えると、今回もあの海浜公園へ行くことになるだろう。
(そういえばあの時、タクシーを使ったけど……)
航がアイロンを掛けていると、着替えを済ませた魅琴が襖扉を開けた。
気合いを入れてお洒落をした一日目とも、動きやすく露出が多めの二日目とも異なる、自然な普段着といった服装だ。
だが、元の顔とスタイルの良い魅琴はそれでも充分に魅力が出ている。
「魅琴、一旦自宅に戻るから、ちょっと待っていてくれないか?」
「どういうこと?」
「良い事を思い付いたんだ。ただ、もしかしたら駄目かも知れないから、そのときは普通に戻って来るよ。ま、ほんのり期待して待っていてくれ」
航はそう魅琴に告げると、釈然としない様子の魅琴を残して玄関へ、そのまま自宅へと向かった。
⦿⦿⦿
日が沈み、西の空で夕日の残り火が一日の終わりを惜しんでいる。
そんな東京の街並を、二人乗りのバイクが風を切って走っていた。
航が自宅へ戻ったのは、魅琴を後に乗せて走らせるバイクを取りに行ったのだ。
二箇月弱もの間放置されていたのは大きな懸念点だったが、幸いにもバッテリーの充電とタイヤの空気圧調整でどうにか走れると判断出来た。
(折角、魅琴にプレゼントしてもらったバイクだからな。結構錆びが拡がっちゃったのは残念だけど、ガソリンから変な匂いがしなくて良かったよ)
このバイク、大学合格記念に魅琴が航の為に購入したものである。
予備のヘルメットがあったことが幸いし、二人乗り出来ることを思い出したのだった。
(良い風だ。魅琴もそう思ってくれているかな?)
腰に回された魅琴の腕が少し締まり、背中越しに彼女の感触が密着感を強める。
満更でもない心境を気取るには充分だった。
この瞬間もまた、二人にとって掛け替えのない思い出になるだろう。
(扨て、もうすぐか……)
バイクは例の海浜公園へと差し掛かろうとしていた。
⦿⦿⦿
夜の海岸で、航と魅琴は海を眺めながら、互いに肩を寄せ合っていた。
「本当に夢みたい……」
波打つ音を奏でる水面は黒い影に染まり、月明かりを映し昏い空と混ざり合っている。
そんな景色を、魅琴は言葉通り夢見るように見詰めていた。
「私、今大好きな人と明日を見ているのね」
二人の視線の先に拡がる空には、既に煌星が鏤められている。
それは昼間の重厚な入道雲が嘘の様に、満天の煌めきを余す事無く披露していた。
まるで太陽が訪れる東の空を浪漫に染めるように。
そんな夜空に陶酔する二人はこの瞬間、どこまでも混じり気無く至純の恋人同士だった。
魅琴は想いの言の葉を綴り続ける。
「私は神皇と刺し違えて死ぬものだとばかり思っていた。先があるなんて考えられなかった……。違うわね。考えると心が揺れてしまうから、避けるようにしていたの」
「そうか……」
「けれども、今の私には未来がある。貴方が切り開いてくれた未来が。その当たり前の幸せが、とても愛おしい」
魅琴は航の肩に寄り掛かった。
「私を助けに来てくれた時の航、今思い出しても本当に格好良かったわ。それまでも、皇國で再会した航は随分見違えたけれど、あの時は本当に特別で……」
ふと、航は昨日過った考えを再び思い起こす。
魅琴は様々な顔を、新鮮な魅力を色々と見せてくれている。
では航の方は魅琴に同じ様な感動を与えているのだろうか――その答えを今、魅琴が語っているような気がしていた。
「昨日と今日は、やっぱりちょっとヘタレで情けないところもあって、それは安心したわ。でも、だからこそあの時のギャップが際立つの。この二日間で、私は貴方を好きになった気持ちを再確認したし、もっと想いが深まった気がする……」
航の目に涙が滲んだ。
あの魅琴が、こんなにも自分に想いを寄せてくれているなんて――そんな感動を禁じ得なかった。
航は魅琴の肩を抱き寄せる。
波の音が美しい旋律を奏で、愛の詩を載せている。
今、あれだけ敵わないと思っていた彼女のことを守りたくて仕方ない――そんな気持ちが溢れていた。
「勿論、貴方に絶対負けない強い自分も気に入ってはいる。でも、こうして大好きな男の人に甘えられる今の自分も幸せ」
「うん」
「一層、このまま時が止まって欲しいとすら思える」
「おいおい……」
そうなったら、夢見ている将来も無くなってしまうぞ――航はそう言おうとした。
しかし、それを待たずに魅琴の口から同じ言葉が出てきた。
「でもやっぱり、明日も明後日もずっと貴方と居たいから、それは無しね」
「僕も同じことを言おうとしたよ」
「あら嬉しい。じゃ、二人の将来の事をちょっと考えましょうか」
魅琴は悪戯な表情で指を航の胸に這わせる。
少し冷えた体に突然の刺激が与えられ、航は思わず情けない声を漏らした。
魅琴はそんな航の様子を見て、嬉しそうに語り出す。
「とりあえず、二十代前半はこのまま恋人同士として色々と楽しい思い出を作りましょう。で、二十代後半になったら結婚。そのまま暫くは新婚気分でやっぱり色々楽しんで、三十前には子供を作りたいわね。そうね……三人くらい欲しいかな。だから頑張ってね」
「ず、随分気が早いな……」
されるがままになっている今の航の状態が、二人が今まで辿りこれから作る関係をどことなく示唆していた。
魅琴は揶揄うように微笑む。
「普通の人って小さい頃に何となくそういう将来設計の妄想をするって聞いた事があるわ。私はそれが今やっと出来るようになったから、色々溢れているのよ」
「さ、さいですか……」
とはいえ、悪い気分はしない。
そこには理想的な幸せが溢れている。
「素敵な家族を作って、末永く幸せな夫婦でいましょうね」
「だからまだ結婚はしてないって……」
「いいじゃない、時間の問題なんだから」
夏が二人の恋模様を羨み、弾けて終わろうとしている。
それはまるで夢の様に甘美な一時であった。
屹度これから、沢山こんな風に思い出が作れるだろう。
屹度万事全てが上手く行き、最高の大団円を迎えるのだ。
二人は疑いなくそう思っていた。
⦿⦿⦿
何処かの闇の中、四人の男女が膝を突き合わせている。
歪んだ蝋燭の不気味な焔が揺れている。
「停戦交渉……なんとも情けない……」
苦虫を噛み潰した様な表情で、旧日本軍の軍服を着た老翁が呟いた。
閏閒三入――日本国に嗾ける目的で皇國の建国を先代神皇に吹き込んだ鬼獄魅三郎の現在の姿である。
「まさかあの息子がここまで無能だとは思わなんだ」
「全くだわ……」
ゴシックロリータ服の女が溜息を吐く。
閏閒の息子・鬼獄康彌遠征軍大臣を粛正したのは他ならぬ彼女・貴龍院皓雪である。
「あんな連中を獅乃神様の臣下に置いておく訳にはいかない。皇國政界は一度大掃除する必要があるわね。三入君もそう思うでしょう?」
「誠に面目ない。この責任として、この儂が必ずや媛様の眼鏡にかなう統治体制を再構築しましょうぞ」
「だが、少々性急に方針を変え過ぎたのではないか?」
筋骨隆々とした大柄な偉丈夫が女と老翁の会話に割って入った。
能條緋月元首相の秘書で、甲夢黝に内通していた男・推城朔馬は如何にも不服といった仏頂面を浮かべている。
「獅乃神叡智の践祚を急ぎ過ぎた。革命動乱の復興に感けて侵攻が疎かになれば、我らの計画にも支障を来すぞ」
「僕のせいだって言いたいのか、推城?」
小柄な少年が大男を睨み付けた。
彼、八社女征一千は武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐を務め、今回の戦争で蜂起の機を窺うよう道成寺太に言い含んでいた。
「そうとは言わん。寧ろ、革命で先代神皇を排除して獅乃神叡智に皇位を継承させるのは最終手段として予め計画していたことだ。私が問題にしているのは、その発動判断が早過ぎたことだ」
推城は机を拳で叩いた。
「獅乃神叡智が日本国との停戦を望んでおり、皇國政府はその意を酌もうとしている。これでは皇國に日本国の皇統を途絶えさせる計画は台無しになりはしないか? まさか広目天よ、日和った訳ではあるまいな?」
「あら、随分な言い種ね。この私の情念が、高々数百年程度の恨みしか抱えていない貴方に変心を疑われるとは思わなかったわぁ……」
「そうだよ。僕達は皆、同じ傷を心に抱えた魂の同志だろう?」
八社女が不気味な笑みを浮かべ、推城を宥めた。
「色に狂い、恩を忘れ、統治すら投げ出した皇統……。この僕ですら三人分の恨みを見てきたんだ。況して御媛様がこのまま終わらせる訳がないじゃないか」
「その通りよ」
貴龍院が白い歯を見せて笑った。
「三人とも、あの御方を甘く見てはいけないわ。あの御方はね、それはそれは恐ろしい御方なのよ。必ずや私達の願いを叶えてくれる。私達を樂園へと導いてくれるわ」
「樂園、か……」
推城は目を細めた。
「期待して良いならば私は引き続き協力を惜しまない。いや、基より退路は無いか……」
「そうだよ、推城。僕達はただ御媛様と共に冥府魔道を行くだけ、だろう?」
「嬉しいことを言ってくれるわね、征一千君。なら、貴方と朔馬君には頼み事をお願いしようかしら」
八社女と推城の眼が貴龍院の方を向いた。
「頼み事?」
「二人には日本国へ赴き、邪魔者を排除してほしいの。その間、私と三入君は皇國の体制を作り直し、獅乃神様の御協力を取り付けるわ」
貴龍院の言葉で、円卓の四人は二つの立場に分かれた。
日本国と皇國、それぞれの場で陰謀の為に暗躍する二つの立場に。
二組はそれぞれ向き合い、双方の志を濁った眼の中に確かめる。
「確かに、その必要性は否めんな。よく考えれば、我々は敵を侮り過ぎたかも知れん。皇國が武力行使さえすれば、日本国など容易く蹂躙出来ると……。あいわかった」
「丁度、僕の手駒も向こうに居ることだし、有効活用させてもらうよ」
八社女と推城が立ち上がった。
「では儂は軍部に工作を仕掛けるとしますかな」
「ええ。獅乃神様のことは私に任せておきなさぁい」
貴龍院と閏閒も立ち上がった。
「私達は必ずや、樂園へ辿り着く」
「その為にも、まだまだ戦争を終わらせる訳には参りませんな」
「其方は任せよう。我々は奴らに借りを返す」
「楽しみにしておいてよ」
蝋燭の炎が弱まっていく。
辺りは完全なる闇に包まれようとしていた。
「みんな、良い働きを期待しているわ。樂園で会いましょう。皇統が絶えた世界、日本が存在しない世界で……」
何処かの闇の中、陰謀が蠢いている。
光り溢れる明日の暁を闇に鎖す為に、神瀛帯熾天王は良からぬ企みを尚も巡らせていた。
そして夏が終わり、混沌の季節が訪れる。
――第三章『争乱篇』完