嗚呼、生まれ落ちてしまった……。
俺が顕れし此処は何処ぞ。
眩き光に溢れている。
……然れど、俺は誰ぞ。
……而して、誰が俺ぞ。
其処な小さき男よ。
俺の器を取り上げし男よ。
答えよ、汝は俺か。
……成程、神皇を俺に譲る日嗣か。
即ち、汝は俺か。
ならば他の者はどうか。
痩せた老夫は?
若き女は?
稚女は?
もう一人、得体の知れぬ女は?
汝ら皆、俺の生まれ落つるを祝福するか。
……成程、皆俺ということか。
然れど、此の壮麗にして厳粛なる降誕の間に場違いなる翅蟲が一匹。
斯様に無礼・不快・耳障りな翅音を立てるは甚だ不敬不届千万。
俺に非ざるは限り無き嫌悪を催す物也。
消え失せよ……。
……。
危うくこの場の俺を諸共滅殺するところであった。
まだ見ぬ俺を共々鏖殺するところであった。
父を名乗る俺よ、大儀であった。
今、俺の降誕に際し、天地神明・森羅万象・三千世界に問う。
俺は誰ぞ、誰が俺ぞ。
汝ら皆、俺に非ずば在る可からず。
心す可し。
天地神明、総て遍く俺の為に照照たる可し。
森羅万象、余すことなく此の俺を萬福に漬らしめる可し。
三千世界、汎ゆる俺の細胞を末梢まで快樂に満たし続ける可し。
天地開闢・萬物流転、押し並べて今日此時の為、俺の為ぞ。
一先ずは、神皇の在りし神國は俺也と心得た。
然らば、小さき者共よ、此の俺に名を与えよ。
神聖至尊たる此の俺に相応しき名を付けよ。
……。
そうか……。
俺の名は『獅乃神叡智』……。
⦿⦿⦿
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皇紀二六五八年元旦。
神聖大日本皇國は皇宮宮殿、宇気比の間。
神皇・鳳乃神大智と侍従長・大覚寺常定、侍女・砂倉瑠璃花、第一皇女・麒乃神聖花が見守る中、「聖宮」と呼ばれる人工母胎はその匣の蓋を開いた。
人工羊水が排出され、匣と繋がる臍の緒も切り離される。
今此処に、一人の御子が降誕した。
だが侍従長・大覚寺常定はその赤子の様子に困惑を極めていた。
黄櫨染御袍を思わせる茶金色の肌が薄ら青みを帯び、白金色の毛が青く燦めいている。
目蓋の裏から僅かに覗く双眸は、真紅と柳緑の色違いだ。
そして何より、この赤子は泣く様子が全く無かった。
これでは呼吸が出来ない。
青い唇だった為、死産ではないかとも疑った。
「陛下、御子は……」
恐る恐る、大覚寺は神皇に申し出ようとする。
しかし、神皇は構わずこの奇妙な赤子に両手を伸ばし、天からの賜り物を光に翳すように取り上げた。
「素晴らしい……! この太陽の様な、いやそれ以上の、如何様にも形容すること叶わぬ眩い生命力……!」
神皇は興奮を抑えられないといった様子で震えていた。
大覚寺はこの時、初めて赤子が既に呼吸していることに気が付いた。
その神秘的な見目形に、初め彼は底知れぬ畏れを抱いた。
「陛下、御子が御無事で何よりです。一向に泣かれぬもので私はてっきり……」
「大覚寺よ、爾もまだまだよの。この子は既に朕以上に強大な力を備えておる」
「へ、陛下より……!」
冬だというのに大覚寺の額に汗が伝った。
立場上聞いていた神皇の、理解を超えた真の力の凄まじさを更に凌ぐというのか。
「ということは、御子は既に『神の領域』へと……?」
「然様。いや、成長すればその上へと至るやも知れぬ。真に真なる至高、朕もその存在を朧気に感じているに過ぎぬ高み、『造化の領域』へと……!」
神皇の小さな手、短い腕が可能な限り高く子を掲げる。
余りに想像を絶する次元の話に、大覚寺は只々主君を見守ることしか出来なかった。
「聴くが良い、我が嫡子よ。朕は神皇、森羅万象を統べる者、三千世界の大帝也。其は即ち、爾の未来である。そして此処は皇國。爾に約束されし神州也。朕も、この場に控えし臣下も、遍く皇國臣民の悉くも、爾の降誕を心より祝福するものである……!」
神皇は完全に生まれたての我が子に夢中になっている。
「おおっ……!?」
神皇は思わず感嘆の声を漏らした。
赤子は歓喜に笑っていたのだ。
これには思わず、大覚寺も安堵の笑みを浮かべた。
この様子なら安心だ。
神皇陛下の御慧眼に狂いがあろう筈がない。
神皇陛下の御仁徳に間違いがあろう筈がない。
屹度、御子は皇國の未来を一層明るく照らすであろう。
正しく、陛下が形容したように、眩い許りの神力、神為で――そう確信した。
しかし、瞬時に赤子は真顔になった。
宛ら窓の枠に一筋の埃を見つけた様に、眉間に皺が寄っていた。
そして彼は、小さな小さな手を挙げた。
神皇は、刹那に何かを察したようだった。
「いかん!!」
神皇の体から神為が全方位に放出された。
しかしそれはこの空間を何一つ破壊することなく、宇気比の間の外へ拡がっていった。
赤子はそれを受けてか、再び元の穏やかな表情に戻っていた。
「へ、陛下……?」
大覚寺は、汗だくになって肩で息をする主君の身を案じて声をかけた。
神皇は一転、極めて難しい顔をしている。
「蚊だ」
「蚊、でございますか? 莫迦な、在り得ませぬ。この宇気比の間は生れ坐する御子の為に最高水準の清浄が保たれており、埃も菌の類も、空気中に僅かも存在しない筈……」
大覚寺の異論に対し、神皇は首を振った。
「部屋ではない、更に言えば屋内でもない。皇宮の中庭を我が物顔で音を立てて飛んでおったのだ」
「は、はあ……。それが問題であったと?」
「うむ、危ないところであった」
まじまじと自身を見つめる神皇の手に抱かれ、赤子は穏やかに笑っている。
だがこの場の者、特に神皇はそれどころではなかった。
「この子はまだ神為を制御できてはおらぬようだ。いや、神為ではないな。今この小さき手が無造作に握られていれば、例えば空気中の酸素、水素、窒素、炭素、諸々の元素原子が核融合を起こす程の、或いは新たなる天体が生成される程の、途方も無い圧と熱量が発生したであろう」
「そ、それ程でございますか……? 荒唐無稽なお話ですが、陛下が仰るなら真実なので御座いましょう……。いやはや何とも畏ろしい……」
「暫くは朕自らが観てやらねば、冗談ではなく総てを畢らせることになるであろうな」
「す、総てを……」
大覚寺は固唾を飲んだ。
御子を安全に制御出来るとすれば神皇しかいない。
だが、彼にはすべきことがある。
「しかし陛下には皇國に余すことなく神為をお送りいただく尊き御役目が……」
「うむ、付きっ切りでは観られぬ。故に我が嫡子が三千世界の破壊に至ることなきよう『助け』を施す。そして近衛侍従を付け、『助け』を破られる兆候が見られた折には朕に報せることを命ずる」
皇宮に沈黙が流れる。
神皇の言葉の後を侍従長の大覚寺も、侍女・砂倉瑠璃花も紡げずにいた。
しかし、大覚寺と砂倉は気付いていなかった。
この場に呼ばれてもいない奇妙な黒い装いの美女が平然と同席していることを。
幼き皇女・麒乃神聖花が砂倉の袖を引っ張り、部屋の隅を指差しているが、砂倉には尚も分からない。
軈て、神皇は静かに口を開いた。
「其処な女、そろそろ何か申せ。佇まいから見て、爾が此処に参ぜしは我が嫡子に何ぞ関係があるのだろう」
神皇の呼び掛けで、初めて長身の女が認識された。
黒い装束に身を包んだ彼女は、白い歯を見せて不敵に笑う。
「流石は神皇陛下。今宵は私の賜りし神託の日。故に先んじて預言の御子に謁えようと馳せ参じた次第でございます」
「ほう、神託とな……」
女と神皇は視線を合わせる。
神皇の眼は女から何かを感じていたのか、鋭い光を宿していた。
彼女には神皇に負けない程の超然とした雰囲気が纏わりついている。
「まあ良い。女よ、名を告げよ」
神皇は小さく口元で微笑んだ。
女もそれに微笑みと答えを返す。
「貴龍院皓雪。西方の霊山に坐す龍の祖神に縁を持つ巫女の仙娥に御座います」
「成程。では爾がやってみるか? 我が嫡子の近衛侍女を」
「願ってもいない事。基より私以外には荷が重いという思案によりお伺いしました」
即答であった。
神皇はそれに頷き、ゆっくりと彼女に近寄っていく。
「では貴龍院よ、神皇より勅命を授ける。此の子を我が後継に相応しき現人神に育て上げよ。我が嫡子、獅乃神叡智を!!」
神皇から貴龍院に赤子、獅乃神叡智が授けられた。
貴龍院は御子を受け取ると、抱き擁えて不敵に笑った。
「畏れながら謹んで御請け致しましょう、偉大なる神皇陛下」
「うむ、心して務めよ」
斯くして、一つの強大なる存在がこの世に生を受けた。
彼が時空を超越する世界一の大国、その頂点に君臨するという星の下に生まれたのは、果たして単なる偶然か。
その時、貴龍院に抱えられた獅乃神が甲高い良く通る声で言葉を紡いだ。
『神國遍俺唯我獨尊』
この日、三千世界は一つの転換を迎えた。
その新たな局面の名は……。