鷹番栞――旧名・鸙屋敷栞は、結婚して一年で不可解な自殺を遂げた。
その訃報は、程無くして親友の水徒端早芙子にも伝わった。
その顛末は、早芙子に貴族社会への疑念を抱かせるには充分だった。
彼女は修身院大學への進学をやめ、一般の私立大学への進学を選んだ。
早芙子は進学先の大学で、一人の先輩男子学生と親しくなった。
今日はそんな彼と待ち合わせをし、裏町を案内してもらうことになっている。
貴族社会に生きていた頃には触れ合うことの無かった世界が知りたかったのだ。
「文也!」
大学の正門へ向かっていた早芙子は、男の姿を認めて駆け寄った。
黄柳野文也――もう何年も在学しているという美青年で、小柄で細身でやや幼い顔立ち、そして強い意志を秘めた眼が印象的である。
「悪い文也、待たせたかな?」
「僕が好きで待ったんだよ。この社会で生きて行くには時間という支配者に隷属しなければならない。逆に言えば、無為に時間を浪費することこそが人生に於ける究極の贅沢なのさ。愚かな成功者はこの贅沢を知らないけれどね。憐れなものだよ」
「ふふ、御父様が聞いたら頭を抱えそうな言葉だ。だが、そうかも知れないな」
早芙子の父・水徒端賽蔵は世界を股にかける実業家である。
それ故、娘が庶民の生活を知りたいと言いだしても、それで知見を広められるならばと理解してくれた。
水徒端男爵は愛の深い男で、事業の傍ら二人の娘の相手も決して疎かにしなかった。
しかしそれでも、父は何処までも上流階級の人間だった。
「文也には色々なことを教わってばかりだな」
「そうでもないさ。僕は早芙子さんと過ごす時間が楽しくて仕方が無いからね。確実な幸せが訪れるのを待つ瞬間にこそ、実は本当の幸せがあるものさ。僕は早芙子さんに、そんな掛け替えの無いものを貰っているんだよ」
黄柳野文也との会話には、この様に何処か浮き世離れした哲学的な話題が多い。
しかし彼は人生に於いて大切なことを確信している――澄んだ眼がそう語っていた。
早芙子もまた、文也と過ごす時間が好きだった。
獅乃神叡智の様な力強い頼もしさとは異なる、聡明さと安心感に満ちたところに惹かれていた。
「では早芙子さん、行こうか」
「ああ」
早芙子は文也に守られているような気がした。
彼と居ればこの風景の中に自分が存在しても許される気がしたのだ。
栞の死以来、早芙子は心に黒い靄を抱えていた。
しかし文也はそんな彼女の闇を理解し、受け止めてくれる。
「そうだ、早芙子さん」
「どうした、文也?」
文也は突然何かを思い出したように立ち止まった。
「実は近い内に、会わせたい人が居るんだよ。折角だから、今日この後で彼のことも呼んで良いかな?」
「会わせたい人?」
「簡単に言えば、僕に自分の道を教えてくれた人だよ。彼に会えば、屹度君の悩みの答えも見付かると思うんだ」
「文也……」
早芙子は嬉しかった。
文也は自分の悩みに対して真剣に向き合ってくれている。
自分の為に態々人と会う約束まで取り付けて、手間を掛けてくれる。
「ありがとう。文也がそこまで言う人なら、私も是非会ってみたい」
「本当かい? では、彼の都合を確認してみるよ」
文也はそう言うと、何者かに電話を掛けた。
相手の合意も取れたようで、会合の席を設けることになった。
⦿⦿⦿
二人は喫茶店に入り、テーブル席に向かい合って坐った。
「もう少しで来ると思うから、何か頼んでおこう」
「ああ。文也は何が良い? 遠慮せず、好きなものを頼んでくれ」
「いや、今日は早芙子さんの奢りじゃなくて良いよ。僕が無理を言って来てもらったんだし、この後で人も来るからね」
そんな話をしつつ、二人は飲み物を注文した。
早芙子の珈琲が届いた頃、見計らったかのように一人の壮年男が入店してきた。
どうやら待ち人が来たようだ。
「初めまして。安珍清と申します」
長身の男だった。
黒い装束は、どこか加特力の神父を思わせる。
洗練された雰囲気を纏っているが、どういう訳かいい知れぬ不穏さもまた含んでいる。
(なんだ? この男、どこかで……)
早芙子は安珍に見覚えがあった。
しかし、どういう訳か全く思い出せない。
そんな早芙子の不安を余所に、安珍は文也の隣に腰掛けた。
「扨て、水徒端早芙子さん、でしたかな?」
「あ、はい」
「黄柳野君から話は聞いています。何か、悩みがあるそうですね」
安珍は早芙子をじっと見詰めてくる。
その視線に、彼女は生まれて初めて恐怖を覚えた。
(この眼は……引き摺り込まれる……! 文也、どうして?)
早芙子は助けを求める様に文也の方へ目を遣った。
しかし、文也もまた早芙子を真直ぐに見詰めている。
普段、早芙子はこの眼で見られると、自分のことを包み隠さずに話すことが出来る。
それが今は、包み隠すことを許していない様だ。
「私は……」
早芙子は観念して話すことにした。
親友の栞が鷹番公爵家に嫁ぎ、そして非業の死を遂げたこと。
それを切掛に、自分が皇國の貴族社会に疑念を抱くようになったこと。
「ふむ、成程……。それは大変胸の痛む話だね……」
顔を顰める安珍だったが、その仕草にはどうにも胡散臭さが漂っている。
早芙子は話してしまったことに後悔を覚えずにはいられなかった。
「しかしだ、君も解っているとは思うが、このまま貴族社会の闇に目を背け続けたところで、君は決してその柵から逃れられはしない」
「やはり……そうでしょうか……」
「当然だ。抑も、君は水徒端家から離れるつもりはあるかね? 君の通っている大學の学費は決して安くない。修身院と比べれば庶民に馴染んだつもりかも知れんが、それでも何不自由なく通えているのは男爵令嬢としての恩恵に与っている証左に他ならない」
「それは……解っています……」
早芙子は膝の上で拳を握り締めた。
正直、これは安珍の言うとおりだと思った。
だが、そんな彼女を見て安珍は深い溜息を吐く。
「解っていないよ。では我輩が、君に真実を教えてやろうではないかね」
「え?」
安珍が合図をすると、一人の女が入店してきた。
ピンク色のラメが入った服を着た、如何にも派手な装いと厚化粧が印象的な女だった。
「どうも、貴族のお嬢さん」
女は早芙子の退路を塞ぐ様に隣の席に腰掛けた。
「あの、貴女は?」
「そうだね……お前のせいで酷い目に遭った女、とだけ言っておこうか」
「何……?」
女は憎しみに満ちた笑みを浮かべ、早芙子を睨める様に見詰める。
その表情は、どこか蛇を思わせた。
「実はね、酷い婚姻には君も無縁ではないのだよ、水徒端早芙子君。鸙屋敷栞が鷹番夜朗と結婚した頃、君の御父上もまた君の縁談を進めていたのだ」
「え?」
初耳だった。
しかし、父親がそういう話を進めるであろうことは、早芙子自身解っていたことだ。
「君の父上は猪熊子爵家との縁談を進めようとしていた。鷹番の結婚から一年が過ぎた頃、つまり栞嬢が亡くなった頃だ。だが彼女の不幸があって、水徒端賽蔵はこの話を考え直した。動もすると、君のこともまた不幸な目に遭わせるかも知れないと恐れたのだ。そして調査の結果、縁談は立ち消えになった」
「私は……栞が死ななければ……結婚していた……?」
「うむ。君の縁談が無くなったのは、猪熊子爵家に恐るべき秘密があったからだ。君の縁談相手には悍ましい性癖の弟が居た。弟は女を甚振ることがやめられない真性の嗜虐趣味者だった。それが破談の理由だ」
「そう……か……。鷹番公爵といい、これが皇國の貴族社会……」
「他人事の様だがね、君の御父上はこの事実を決して公表しなかったのだよ。その結果が、君の隣に居る彼女の身内に厄災として降り掛かったのだ」
早芙子はギョッとして隣の女を見た。
厚化粧の裏に、憎悪に満ちた眼を輝かせている。
「猪熊家の次男坊はな、私の妹と結婚した。そして、殺したんだよ! 水徒端家が貴族社会での地位を守る為に、猪熊子爵家の秘密を握り潰したせいでこうなった! お前だって無関係じゃない! だってそうだろう? 水徒端賽蔵はお前のことだけ守ろうとしたんだから! お前は守りたかったが、私の妹のことはどうでも良かったんだ!」
「そんな、違う……! 御父様は、そんな人じゃ……」
「そこで親父を庇う時点で、お前も薄汚い貴族共と同じ穴の狢なんだよ!」
早芙子は激しく糾弾された。
テーブル席は、彼女を吊るし上げる法廷と化した。
斯くして、水徒端早芙子は安珍清――本名・道成寺太により自己批判を迫られ、革命戦士となることを余儀無くされた。
新華族の令嬢が叛逆者に堕ちたという悲報は皇國上流階級に衝撃を与えた。
結果、武装戦隊・狼ノ牙など叛逆組織の勧誘は、特別高等警察から厳重に取り締まられることになる。
そして皇國内に増員の当てを失くした狼ノ牙は別時空の日本に手を伸ばし、軈て八卦衆による拉致へと奔るのだ。