アパートの一室、部屋の入口前に立つ八社女は闇を背負っていた。
闇は玉子の殻に奔る亀裂の様に拡がっていき、彼と対峙する道成寺と久地縄をも呑み込もうとしていた。
その形は八本の足を持つ節足動物にも似ていた。
「道成寺公郎・久地縄穂純……。これは『神瀛帯熾天王』たる僕から『八部衆』たる君達に贈る最後の餞だ。しかし、ここで再び生まれ変われば君達は更なる力を得るだろう。日本を滅ぼす為の絶大な力を……」
「『八部衆』? 我々は『八卦衆』だよ?」
「おや、そうだったかな?」
「それに、餞とはどういうことです?」
「ふふふ……」
八社女は二人に向けて軽く握った拳を差し出した。
彼の背負う闇とは対照的に、手の中から虹色の光が漏れている。
「先程も言ったとおり、今から君達に与えるのはこの世のものではない。神為が己の中の内なる神に近付く『晴れの力』だとすれば、穢詛禍終は神に忌み嫌われる『穢れの力』。しかしその忌避は恐怖でもある。何故ならこの力には、この穢れには、神々が人を縛るこの世の理を蝕み壊す力があるからだ!」
八社女を覆う闇が膨れ上がっていく。
彼の姿は月影に潜む巨大な蜘蛛を思わせた。
「神為は人間の力を神に近付け、現人神とする。それに対し、穢詛禍終は人間をこの世の者ではない別の存在に変えるもの。故に、穢詛禍終を与えられた者は神為とは全く異質の力に目覚めるであろう。葬られた君達の希望は、死の世界から返り咲く……」
八社女の手が開かれた。
そこには網に包まれた二つの球が乗っている。
団栗大の飴玉、それが虹色の光の正体だった。
「それは一体……何かね?」
道成寺は固唾を呑んだ。
その眼は何か、邪悪なものに見せられているかの様に炯々と光っている。
そんな彼に、八社女は不気味な笑みを湛えて答える。
「穢詛禍終を得る為の食べ物『黄泉戸喫』。丁度神為に於ける東瀛丸のようなものさ。但し、東瀛丸と違いこの黄泉戸喫には効力の期限が無い。一度喰らえば、以後死ぬまで穢詛禍終が君達に定着する。尤も、必ずしも得られるとは限らないがね。穢詛禍終を身に付ける為には条件があるんだよ」
「条件?」
久地縄は恐る恐る尋ねた。
今此処で八社女の甘言に乗ってしまえば、おそらく取り返しが付かない。
だが一方で、他に道が無いことも確かだ。
今、二人は藁にも縋らざるを得ない状況だった。
そんな二人の手に、「黄泉戸喫」なる虹色の飴玉が置かれた。
予想以上に軽い、まるで手に何も乗っていないかの様だ。
この軽さが、この世のものではないという八社女の言により説得力を持たせる。
「条件はね、憎悪だよ。この世界に対する憎悪! 生きとし生けるものを根絶やしにしてやるという憎悪だ!」
どす黒い闇が部屋を覆い尽くした。
最早この空間には、三人の姿以外何も見えない。
「冀うならば授けよう! 理外の力、穢詛禍終を! さあ、憎め世界を! 呪え大地を! 怨め人々を! 殺せ神々を! 今こそ、黄泉戸喫を喰らうが良い!」
道成寺は迷わず虹色の飴玉「黄泉戸喫」を口に含んだ。
「首領!?」
「考えるまでも無いだろう、同志久地縄? さあ、君も……」
久地縄は震える手を見詰めていた。
道成寺はこの毒を喰らった。
ならば自分も、それに従うまでだ。
今までずっとそうしてきたのだから。
「で、では……!」
覚悟を決めた久地縄もまた、黄泉戸喫を口に放り込んだ。
すると、二人の胸から紫の闇が拡がり、二人を包み込んだ。
「さあ! 今この時より、君達も神への叛逆者となる! ようこそ、穢れと呪詛に満ちた魔の世界へ!!」
闇が晴れ、部屋が元通りのアパートの景色へと戻っていく。
どうやら力は受け渡されたようだ。
「ククク、これが穢詛禍終か……!」
道成寺は歓喜に震えている。
新たに身に付けた力を実感しているのだろう。
しかし久地縄は突然血を吐いて倒れた。
久地縄は何が起きたのか解らず喉を押さえて苦しむ。
その様子を見て、八社女は溜息を吐いた。
「あーあ久地縄、やはり君は駄目だったか。君はこの期に及んで人を救おうなどと思い上がっていたんだね」
「ぐはッ! ぐはぁッ!!」
「全く笑わせる。君達がいったいどれだけ人を殺したと思っているんだ。君達がしたことは、国を地獄に落とし、そして奪い返されて尚も殺戮を繰り返した、それだけじゃないか。道成寺君はその点素晴らしい。ちゃんと、狗の民族たる日本人への憎悪を自覚しているのいるのだからね」
久地縄は体の穴という穴から血を噴き出して悶える。
そしてその苦しみの中で、一つの結論を突き付けられてしまった。
彼は道成寺を見上げ、血に塗れてしまった魂を絞り出すように問い掛ける。
「どうっ……! 道成寺君!! 君は本当にもう理想は要らないのか!? 日本人への、狗の民族への憎しみだけになってしまったのかッ!? もう二度とあの日々に!! 理想の社会を語り合った若き日々には戻れないのか⁉ 私はずっと信じて……! 今は憎しみに囚われていても、革命を為し再び国を手に入れさえすれば君は本懐を取り戻してくれるとずっと……! 私が感銘を受け、憧れた君はもういないのかッッ!!」
最期の声を振り絞り、その悲痛な胸の内を吐露する久地縄だが、道成寺は最早そんな彼に眼もくれていなかった。
唯々、歪んだ狂気の笑みを湛えて歓喜の声を上げている。
「ふっ……ふはははは!! 素晴らしい! 素晴らしいぞこの力は!! これが穢詛禍終、神の理の外側の力という奴なのか!! これならば勝てる!! 今度こそ皇國を落とし、日本人を地獄に落としてやれるぞォッ!!」
「ああ、出来るとも。何せ穢詛禍終は神為を増幅させることすら可能だからね。嘗て僕が君達の力を引き出した様に、今度は君自身が君の可能性を増幅させるんだ」
自らの新しい力に酔い痴れる道成寺太の姿を、死に往く久地縄は失望と共に見続けていた。
道成寺は遠くへ、取り返しの付かない場所へと行ってしまった。
八社女という得体の知れない男に連れ去られてしまった。
最早嘗ての友はおらず、今際の視界にへばり付いているのは憎悪に塗れた悪魔のみである。
今、嘗て一国を統治したヤシマ人民民主主義共和国の政府だった組織は、完全に闇に堕ちた。
その猛威はまずこの日本国で振るわれることになるだろう。
そして彼の傍らには久地縄の死体が、忘れ去られた理想の残骸の様に打ち捨てられていた。
⦿⦿⦿
皇國皇宮は食堂に続く扉の前、二人の美女が主の言付けで控えていた。
神皇が皇太子時代から召し抱えている近衛侍女、敷島朱鷺緒と貴龍院皓雪である。
それぞれ長身にクラシックなメイド服とゴシックロリータ服を纏っており、帯刀した姿は主君の威信を感じさせる。
「荒木田め、余程あの御方に取り入りたいようだな……」
敷島は眉間に皺を寄せ、主の客人に対する嫌悪感を剥き出しにしていた。
ここ数日、二人の主君である獅乃神叡智は、皇道保守黨総裁・荒木田将夫と何度も引見していた。
選挙と政権運営に対する協力体制について話し合っているようで、近衛侍女たる二人すら話し合いの場からは外されていた。
「でも敷島ちゃん、荒木田の考えは正しいわぁ」
貴龍院は含み笑いを浮かべ、荒木田の思惑を評する。
「どういうことだ、貴龍院殿」
「あの御方は、獅乃神様は極めて純粋な御方よぉ。愛しい者を愛し、守りたい者を守る。その範囲を拡げようとする寛大さを備える一方で、時には果断な処置も辞さない。ならば、周囲の人間はどうするべきなのか。獅乃神様にとって愛すべき、守るべき者となれば良い。そういう意味で、あの御方を自らの思想の擁護者にしようとしている荒木田は正しい」
「それを取り入ると言うのだがな……」
「だから、取り入って正解なのよぉ」
敷島は溜息を吐いた。
獅乃神が神皇となった今、皇國は急激に蘇ろうとしている。
寧ろ、勢い余ってより強くなろうとしている空気すらある。
本来は政治的実権を持たない神皇だが、獅乃神叡智は内閣総理大臣の都築廉太郎をも通り越して復興に影響を与えていた。
一見すると、帝の人徳によって皇國をより良い未来へと導いている様に見えるだろう。
だが、これが危うい傾向であるということも敷島には解っていた。
獅乃神は帝でありながら首班指名を目指し、神皇親政の復古を目論む荒木田に担ぎ出されようとしている。
それは皇國にとって、禁忌の扉を開けることに他ならなかった。
「考え無しに獅乃神様をその気にさせて……。これでは誰にも止められなくなるぞ……」
「あら、抑もあの御方を止めることなど出来るとでも?」
貴龍院が笑みに不穏な闇を宿らせる。
「でも心配することは無いわ。あの御方が皇國を、日本人を心から愛している限り、全ての世界に於ける日本人にとって、あの御方の治世はこの上無い福音となるわぁ……」
敷島は貴龍院の言葉に何処となく凄まじい不穏さを覚えた。
貴龍院は白い歯を見せて笑っている。
「ふふふ、日本人を愛している限り、ね……」
貴龍院の背後に不気味な影が拡がっている。
それは宛ら、巨大な八本足の節足動物――恐るべき蜘蛛の怪物の形に似ていた。