岬守航が水徒端早辺子と決めた脱出の決行日まで、残り一週間を切った。
飢餓訓練を終えて早辺子から話を聞いた所に依ると、屋渡倫駆郎の説得は順調らしい。
今日か明日辺り、航に配置換えが言い渡されるだろう、とのことだ。
『でも、神為の第三段階に達していないのは僕だけじゃないですよ』
『残りのお二方はまだ見込みが無くもない、と屋渡は云っていました。つまり、予定通り岬守様が一番に見限られることになります。上出来ですね』
そんな昨晩の会話を思い出しながら、航は久々の朝食を準備する。
才能弄りももう慣れてしまった。
神為の第三段階、特殊な異能の発現は俗に「術識神為」と呼ばれるのだという。
七人の中でこれに達したのは四人である。
先ず、飢餓訓練の開始前に折野菱、椿陽子が能力に覚醒していた。
この二人は特に才能があるとして、屋渡も高く評価している。
次に、訓練の前半で虎駕憲進が覚醒に至った。
久住双葉に対してやや勝ち誇るような眼を向けた彼だったが、それに反発したのか、訓練が終わりへ差し掛かる頃に双葉もまた覚醒に至った。
取り残されたのは虻球磨新兒、繭月百合菜、そして航である。
特に、航の才能の無さ、進捗の悪さは群を抜いているようで、時折屋渡から総括と称して暴行を受けた。
(あと少し、ほんの少しの辛抱だ。だけど、大丈夫か? 本当に条件は整うのか?)
配置換え、即ち為動機身体に触れられる立場に置かれるのは、早辺子の言葉を信じるとして、彼は未だに自力で実戦起動出来ていない。
飢餓訓練で暫く操縦訓練が出来なかったのだから、その分遅れているのだ。
『何とか形にする他御座いませんね。これからはより一層厳しくいきますので、そのおつもりで』
危機感もあり、航は早辺子のスパルタ宣言が逆に有難いと思った。
表には出さないように努めているが、航は少しずつ精神的に追い詰められていた。
(みんなの命は僕が預かっているんだ)
朝食の支度を終えた航は俯いてそんな事を考えていた。
と、その時、食堂の扉が開いた。
「ふあぁ、やってるー?」
「あ、おはようございます。随分早いですね」
珍しい人物だった。
繭月百合菜はこれまでずっと恋人を喪ったショックから塞ぎ込んでおり、朝食を摂るのはいつも最後か、摂らない日もあった。
彼女は眠そうに目を擦りながら席に着いた。
寝癖で跳ねた髪の毛が、半ば寝惚けたままろくに身支度もしないまま降りてきた事を雄弁に物語っている。
尤も、航は彼女のこういっただらしのなさには慣れていたし、自室に同じ様な人種も居るので、今や特に気にすることもなく朝食を配膳していく。
「一寸嫌な夢を見ちゃってさ。早く目が覚めちゃった。二度寝したら絶対寝坊するから、もう起きちゃおう、ってね……」
目が覚めた、という割には不明瞭な発音だった。
「そうですか、大丈夫ですか?」
悪夢、と聞いて航は心配になった。
繭月はずっと精神の安定を欠いている。
一人部屋にすると自殺するかも知れない、という懸念はあったが、彼女の強い希望もあってそうした。
時折、航・双葉・虎駕・新兒・椿で交代して声を掛け、彼女の無事を確かめている。
「ありがとね。でも、前からよく見る夢だから平気よ。寧ろ、心が前の状態に戻ってきたのかも知れない……」
平気、と言ってはいるが、繭月の表情はどこか哀しげで、儚げな厭世観を露わにしているように見えた。
繭月の行動、心理は実のところ読めない。
全てがどうでも良く、死にたいといった様子で塞ぎ込んでいたかと思えば、生命の危機から脱した時は思わず航に抱き付いてきたりする。
だが、この奇妙な雰囲気はいつも彼女に纏わり付いているように思える。
「御無理はなさらないでくださいね」
あまり気の利いた言葉が見付からない航は、差し障りの無い事しか言えなかった。
繭月は小さく「うん」とだけ頷いた。
と、そこへもう一人、珍しい男が入って来た。
折野菱が黙って繭月の隣に坐った。
ここ最近、特に飢餓訓練中から、折野は繭月を気に掛けるようになっていた。
曰く「どこかそこはかとなく死がへばり付いているような妙な匂いがして好みだ」とのことだ。
よく分からない感性だが、航も感じている厭世的な雰囲気の事を言っているのだろうか
そんな繭月は、折野を気にせず黙々と食事を続けている。
折野は奇妙な視線を繭月に注いでいた。
麗真魅琴を見る自分の視線も、端から見ればこんな感じなのだろうか、と航は居心地が悪かった。
「おい、早く俺の飯も用意してくれよ」
「あ、悪い」
「人間、腹減ると気が短くなって、一寸した冷遇が癇に障るようになるんだよ。こういう状況じゃなきゃぶち殺してるぞ」
不覚にも配膳し忘れていたことを脅迫気味に指摘され、航はいそいそと折野の分の朝食を用意した。
しかし、折野は並べられた食事に手を付ける事なく、ただじっと繭月の横顔を眺めていた。
流石に航は腹を立てたが、その得も知れぬ異様な雰囲気に文句を言う気を挫かれた。
「今日は元気そうじゃねえか」
不意に折野が繭月へ話し掛けた。
突然の事に航は驚いたが、繭月は平然としている。
「まあねー、御陰様で」
「ふん、相変わらず面白くねえ反応だな」
折野の言う通り、彼に対して繭月は航達の中で唯一恐怖でも警戒でもない当たり前の反応を返す。
それは塞ぎ込んでいた時から変わらず、折野がいくら威圧しようが柳に風だった。
(案外、強い人なのか?)
航は繭月への認識をそう改めつつあった。
折野もまた、彼女にそんな印象を持っているのかも知れない。
「他の奴らみてえに過剰な怖がり方されるのも心外だが、貴女みてえに特に何でもなく見られるのも自信失くすぜ」
折野は漸く朝食に手を付け始めた。
そんな彼に対し、繭月は奇妙な事場を返す。
「だって貴方、経歴笠に着て粋ってるだけで普通の人じゃない」
折野だけでなく、航も開いた口が塞がらなかった。
隣に座っている相手は両親を含めて何人も殺害した凶悪犯である。
凶行に至った狂気はその眼光に充分表れており、到底「普通の人」等と評して良い人物ではない。
折野はプライドに障ったのか、血走った目で繭月を凝視していた。
「ほーう、お姉ちゃんはこの俺のどこが普通だって言うんだい?」
航は折野の態度に「拙い」と警戒を強めた。
何かあった時には、折野から繭月を守らなければならない。
だがそんな航の心境を知ってか知らずか、繭月はあっけらかんとして答える。
「貴方、損得勘定ちゃんと出来るでしょ? 閉鎖空間に女が四人も居るのに、誰にも暴行を働いたりしない。『取り敢えず』でこの中の誰かを殺してみたりもしない。そんな、理に適わない無意味な凶行には走らない」
「いやいや繭月さん、そこまでやるようなのは単なる異常者ですよ」
航は繭月の極端な言い分に苦笑いを浮かべた。
しかし、彼女は揺るがない。
「だから、異常者じゃないんだってば、この人。多分、殺人に対するハードルが低いだけで、内面は普通の人。やったら確実にバレる状況で犯罪はしないけど、バレないと思ったら万引や横領くらいはする。そんな、ごく普通の感性で殺人までやっちゃうだけだよ」
そういう人間は、普通の人とは呼ばないだろう。
第一、普通の人はいくらバレなくとも万引も横領もしないのだ。
しかし、航としては繭月の言いたいことも解らなくはない。
要するに、必要以上に警戒せずとも理解不能な行動を取る様な人間ではないということだろう。
だが、当の折野は納得がいかない様子だった。
「へーえ、貴女にとっての異常者ってのは、思考回路からして異質な奴って事か」
「妙に突っかかるなあ。別に、異常者と思われて良い事なんか無いんだから、正常扱いで良かったと思いなさいよ」
二人の遣り取りの中で、航の中に一つの違和感が生じていた。
ひょっとすると、繭月の言う通りではないか。
客観的に見て異常な折野は自分を異常だと主張しているが、繭月は正常だと主張している。
もしかすると、正常なのは折野の方で、繭月の方が異常なのではないか。
折野もそれを感じたのか、普段大なり小なり振り撒いている殺気を完全に沈めて溜息を吐いた。
繭月は平然と味噌汁を口にし、初めから折野の殺気の有無など問題にしていないかの様だ。
「あのな、姉ちゃんよ」
折野は諭す様に口を開いた。
「確かに、世の中には何考えてんのか分かんねえ変な思考の奴はごまんと居るよ。そういうのに比べたら、俺は寧ろ分かり易いかも知れねえ。でも、そいつらって大半は社会の中で普通に生活している真当な人間なんだわ」
航は折野の言に「それはそうだ」と深く納得した。
繭月は黙って聴き入っている。
「結局、ヤバい奴と真面な奴を分けるのは、そいつが何を考えているか、じゃなくて何をやらかしたか、なんだわ。頭ん中でどんだけ身の毛が弥立つ邪悪な事考えてようが、真当に生きてる奴はそれだけで充分真面な人間なの。逆にどんな御立派なお題目掲げる実直な奴でも、やってる事が邪知暴虐ならそいつは極悪非道、鬼畜外道なんだよ」
折野は言葉を切って一息入れると共に朝食の白米を掻き込み、味噌汁を一気に飲み干した。
まるで何か別の事に腹を立てている様な手付き・咀嚼だった。
「だからな、これは岬守にも言っておくぜ、俺は武装戦隊・狼ノ牙とかいう奴らの事ははっきり言って気に入らねえ。何の罪もね奴をいきなり攫って、その内一人をあっさり殺して悪びれねえ。そんな事を平気でやる癖に、さも自分達を正義の味方かのように吹聴しやがる。悪党としちゃ最低の部類だ。悪には悪の自覚がねえと駄目なのさ」
どうやら折野には彼なりの悪の美学があるらしい。
尤も、自分の悪行に対する開き直りに思えなくもない。
「だから岬守、どうせまだ脱出するつもりではいるんだろ? それ、絶対に諦めるな。決してこんな奴らに染まるんじゃねえぞ」
言われる迄も無い――航は強く念じた。
折野は航の意思が通じたのか否か、乱暴に空になった食器を置いて手を合わせた。
「ごっそさん」
折野は二人の反応を待たず食堂を後にした。
ふと繭月の方を見ると、彼女は立ち去る折野の後ろ姿を呆然と眺めていた。
航には二人がよく解らなかった。
その後、早辺子に呼ばれて七人はその日の訓練へ向かった。