日本と皇國の幻争正統記   作:坐久靈二

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第八十六話『理想の崩壊』 序

 九月十五日夕刻、天気は小雨。

 駅前のロータリーに一台のタクシーが停(と)まった。

 後部座席のドアが開き、一人の小柄な女が車を降りる。

 

 タクシーは特別警察特殊防衛課の課長・根(ね)尾(お)弓(きゅう)矢(や)が手配したもので、久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)を自宅まで送迎する為(ため)のものだった。

 しかし、双(ふた)葉(ば)は自分から申し出て、最寄り駅の前で降ろしてもらったのだ。

 双(ふた)葉(ば)の背後で空車のタクシーが発車し、彼女は一人で雨に濡(ぬ)れる。

 

 湿ったタイヤの音が聞こえなくなってから、双(ふた)葉(ば)は黙ったまま雲に沈んだ空を見上げる。

 天の雫(しずく)が顔に落ち、潤んだ筋となって流れていく。

 

(やっちゃった……嫌われちゃった……)

 

 スマートフォンが通知を報(しら)せている。

 しかし今、双(ふた)葉(ば)はそれを確認する気になれなかった。

 もしこれが岬(さき)守(もり)航(わたる)や麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)からの連絡だったとしたら、屹(きっ)度(と)胸が苦しくなって蹲(うずくま)ってしまう。

 

 双(ふた)葉(ば)にとって航(わたる)と魅(み)琴(こと)は初めて深く付き合った友人である。

 高校二年の時に二人と出会うまで、双(ふた)葉(ば)は却(なか)々(なか)友達を作れなかった。

 親の仕事の都合で転校しがちだったことと、彼女自身の内向的な性格がそれを阻んでいた。

 人付き合いが長続きしない彼女は、思春期に入る頃には自分の性格にすっかり自信をなくしていた。

 

 孤独感に付(つ)き纏(まと)われた彼女はいつしか一人で楽しめる趣味――主に漫画やアニメに没頭していき、暇さえあれば絵を描くようになっていた。

 そんな彼女は、高校一年の時、辛い境遇に置かれることになる。

 虐(いじ)めを受け始めたのだ。

 

 彼女をそこから救い出してくれた者達こそ、岬(さき)守(もり)航(わたる)と麗(うる)真(ま)魅(み)琴(こと)だった。

 

 ずっと応援してきた二人の恋、それは実った。

 だが、同時に二人とは考え方が変わり過ぎてしまっていた。

 最(も)早(はや)二人の友人でいることは出来ない、そう強く感じさせたのが椿(つばき)陽(よう)子(こ)を巡る一連の出来事だった。

 

 双(ふた)葉(ば)は「同調圧力」を嫌(けん)悪(お)している。

 虐めに手を染める者は、決まってその理由を相手に求めるものだ。

 その典型的な理由付けが「皆に合わせない」というものである。

 

 何より大事なのは自分の気持ちだ。

 社会だろうと国家だろうと、その優先順位を捻(ね)じ曲(ま)げることなどあってはならない。

 それは結局、場を支配する強い者達や支配される事(こと)勿(なか)れ主(しゅ)義(ぎ)者達の都合に過ぎない。

 その構造に組み込まれてしまうと、人間は人間で無くなってしまう。

 ……双(ふた)葉(ば)はそう信じていた。

 

 しかし、航(わたる)と魅(み)琴(こと)は国家の為の戦いに身を投じており、其(そ)処(こ)から一向に抜け出そうとしない。

 この考え方の違いは埋められないだろう。

 思想を違えた両者は、すっかり対岸の存在となってしまった。

 仮令(たとえ)手を伸ばしても、もう向こう側から掴(つか)まれることは無いだろう。

 

(帰ろ……)

 

 双(ふた)葉(ば)は歩き出そうとした。

 踏み出すことを躊(ため)躇(ら)い続けたのは、それが二人との訣(けつ)別(べつ)の一歩になることを恐れたのかも知れない。

 しかし、同時に彼女は振り切ってしまいたかった。

 元々疎遠になっていたのだから、楽しかった思い出だけを胸に仕(し)舞(ま)い、また一人で生きていけば良い。

 

 しかしその時、双(ふた)葉(ば)に聞き覚えのある女の声が掛かった。

 

「あれ? 久(く)住(ずみ)じゃん、久しぶり」

 

 ぞくり、と双(ふた)葉(ば)の背筋に寒いものが奔(はし)った。

 そう、この声の主に良い思い出は無い。

 振り向いて顔を見た双(ふた)葉(ば)は、胸に強い痛みを感じた。

 

「曽(そ)良(ら)野(の)……さん……?」

 

 枯れ枝の様な細い手足に、年不相応な服装や小物を纏(まと)った女だった。

 団(どん)栗(ぐり)の様な目に蛭(ひる)の様な涙袋が盛り上がった顔は、双(ふた)葉(ば)の知っている頃とは随分様変わりしたが、腐った性根が公衆便所の様に臭ってくる笑みは面影を残している。

 

 高校時代の同級生、曽(そ)良(ら)野(の)千(ち)果(か)――おそらくは、双(ふた)葉(ば)に対して陰湿な虐め行為を陰で行っていた中心人物である。

 それでいて、確定的な証拠は航(わたる)や魅(み)琴(こと)ですらも上げることは出来なかった。

 尤(もっと)も、それは双(ふた)葉(ば)があの二人と連(つる)み始めてから虐めが収まったからに過ぎない。

 双(ふた)葉(ば)自身も深追いする気は無かったし、高校卒業後進路も分かれたので、拉致されから今の今までは双(ふた)葉(ば)の記憶から完全に消えていた。

 

「ひ、久しぶり……」

 

 双(ふた)葉(ば)は当時に戻ったかの様におどおどとした対応しか取れなくなっていた。

 相変わらず、この千(ち)果(か)は双(ふた)葉(ば)の事を心底見下す眼(め)をしている。

 

「今何してんの? まだ漫画家とか目指してるとか?」

 

 答えに詰まる。

 何より、千(ち)果(か)が双(ふた)葉(ば)を莫(ば)迦(か)にしていた、見下していた、そしておそらく虐めていた理由は、双(ふた)葉(ば)の絵にあった。

 グループの輪に加わろうとせず、漫画・アニメ調の絵ばかり描いている暗い女。

 愛想良く周りに合わせようしない、「下手の横好き」「莫迦の一つ覚え」の「ダサキモいオタク女」――それが千(ち)果(か)から見た双(ふた)葉(ば)だっただろう。

 

 仮に今の双(ふた)葉(ば)がばっちり成功を収めるか、或(ある)いはその途上を順調に歩んでいれば、千(ち)果(か)に見(み)得(え)を切ってぎゃふんと言わせられた。

 だが、現実は甘くなかった。

 

「ま、まだ諦めてないんだったら頑張ってよ。私(あたし)、久(く)住(ずみ)のことも応援してるからさ」

「も……?」

 

 双(ふた)葉(ば)の顔から血の気が引いていく。

 彼女にとって最も耐え難い現実は、自身の夢が行き詰っていることではなかった。

 千(ち)果(か)は勝ち誇った笑みを浮かべ、スマートフォンの画面を双(ふた)葉(ば)に見せつけてきた。

 

「だから久(く)住(ずみ)さんもぜひ応援して欲しいんだよね。今度アニメになるこの漫画、作者は私(あたし)の妹だからさー」

「あ、うん……。千(ち)絵(え)ちゃん……だよね……。あの歳(とし)で凄(すご)いよね……」

 

 人気漫画家・碧(へき)空(くう)千(ち)絵(え)――本名・曽(そ)良(ら)野(の)千(ち)絵(え)。

 そう、千(ち)果(か)の妹は双(ふた)葉(ば)の夢見た方面で双(ふた)葉(ば)より若くして成功を収めていた。

 

「あー、そういえば千(ち)絵(え)と久(く)住(ずみ)ってアシスタント仲間だったんだって?」

「うん、まあ……」

「そっかそっかー。ま、千(ち)絵(え)は昔から絵も話作りも上(う)手(ま)かったからなー……」

 

 千(ち)果(か)の言葉は露骨に妹と双(ふた)葉(ば)を比較し、双(ふた)葉(ば)の才能の乏しさを貶(けな)していた。

 だが、双(ふた)葉(ば)に返す言葉は無かった。

 さっさとこの場を切り上げて立ち去ってしまいたかった。

 

「あの、曽(そ)良(ら)野(の)さん。私(わたし)、もう行くね? 傘、忘れちゃったから帰りたいんだ」

「なんだよ、相変わらずノリ悪いなー。本当、自分勝手だよね久(く)住(ずみ)って」

「ご、ごめん……。でも妹さんのことは私(わたし)も応援してるから……。じゃ……」

 

 双(ふた)葉(ば)はその場から逃げるように立ち去った。

 背中越しに千(ち)果(か)のあの心底存在を見下した薄ら笑いを想像し、吐き気を覚えながら。

 屹度、千(ち)果(か)からは尻尾を巻いた様に見えて愉快に違いない――そう高校時代の苦い記憶と共に反(はん)芻(すう)しながら……。

 

 

 

⦿⦿⦿

 

 

 

 久(く)住(ずみ)双(ふた)葉(ば)は高校卒業と共に、予(かね)てよりの夢であった漫画家を目指し始めた。

 アルバイトの合間に出版社への持ち込みを繰り返し、担当編集の紹介でプロ漫画家のアシスタント業に就くなど、本人なりに手応えのある日々を送っていた。

 

 だがそれは、後輩アシスタントとして碧(へき)空(くう)千(ち)絵(え)こと曽(そ)良(ら)野(の)千(ち)絵(え)が入ってくるまでのことだった。

 才能のある後輩が入ってくる、そのこと自体は双(ふた)葉(ば)にとって大した問題ではなかった。

 周りから凄い逸材が出たからと言って、自分には自分の道があるとは思っていた。

 しかし、彼女はよりにもよってあの曽(そ)良(ら)野(の)千(ち)果(か)の妹だったのだ。

 

 勿(もち)論(ろん)、千(ち)絵(え)は何も悪くない。

 双(ふた)葉(ば)も最初は千(ち)果(か)のことは気にしないように努めた。

 だが、千(ち)絵(え)が心底楽しそうに自分には到底描けないような絵を描く度に、どうしても思ってしまうのだ。

 

 この娘(こ)は自分と同じ目に遭わなかったに違いない。

 つまり、千(ち)果(か)は双葉を「絵を描いていたから」見下して虐めたのではない。

 それならばこの妹も自分よりもよっぽど的にされ、この様に心底楽しそうになど描ける筈(はず)が無い。

 

 つまり、自分が千(ち)果(か)の虐めに遭ったのは、自分が下(へ)手(た)糞(くそ)だから。

 誰と比べてか、最も身近な妹だ。

 抑(そもそ)も、今時オタク趣味の人間など珍しくないのだから、身内にオタクが居ることも有り触れている。

 

 千(ち)絵(え)との才能、技量の差を思い知る度に、どうしても高校時代の記憶を思い出して辛くなる。

 彼女は彼女、自分は自分と考えはしたものの、それでも千(ち)絵(え)だけが成功して自分は夢を叶(かな)えられなかったら、それは千(ち)果(か)の勝ちになるような気がしてしまった。

 

 それからというもの、止(よ)した方が良いと自分で解(わか)ってはいたものの、双(ふた)葉(ば)は何かと千(ち)絵(え)と張り合おうとした。

 彼女がSNSでイラストをアップすれば自分もアップし、その伸び方を比べたりもした。

 そして当然の如く打ちのめされる。

 

 千(ち)絵(え)が賞に投稿すれば自分も負けじと同じ賞に投稿した。

 千(ち)絵(え)は処女作が佳作を受賞したが、自分は箸にも棒にも掛からなかった。

 

 自分はこのままでは駄目だ。

 生まれてここまで嫌がらせにもめげずにやってきた意味が失われてしまう。

 

 双(ふた)葉(ば)は日に日に追い詰められていった。

 しかし、彼女を本当に挫折させたのはもっと残酷で劣悪な環境だった。

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