双葉は強い不安を押し殺す様に歯を食い縛り、八社女の眼を見ていた。
今、手を差し伸べているこの男が味方でないことは百も承知である。
それこそ、皇國では自分達に襲い掛かってきたのだ。
そんな八社女が、生半可な条件で助けてくれる訳が無い。
陽子と陰斗の解放に協力して、この男に何の利も無い筈だ。
裏を返せば、そんな無意味なことをする代償に、単に私利私欲を満たす様な下らないことを求めるとは考え辛い。
道成寺の様に、体を求める様な下衆な条件ではないだろう。
何かを棄てる覚悟があれば、期待には応えられる筈だ。
「そう身構えなくとも大丈夫だよ。君の人生に深刻な影響を与えるような酷い要求をするつもりは無いさ」
八社女は不気味なほど優しく微笑んだ。
それはまるで、双葉の胸の内に巣くう不安を見透かしているかの様だった。
八社女には人間心理を知り尽くす程の重厚な経験を感じさせる奇妙な風格がある。
そういえばこの男、少年の様な姿をしているが、千年以上も前の奈良時代に生きたなどと語っていた。
「君は一時期、特別警察特殊防衛課の一員として戦っただけでなく、元国会議員、皇奏手防衛大臣の下でも働いたそうじゃないか」
「はい……」
「ならば見ているだろう? 皇奏手は皇國との戦いで日本を守る為という名目のもと多くの違法行為に手を染めている。拉致被害者の法的根拠無き軟禁に、違法薬物である東瀛丸服用の推奨、崇神會という国権とは別に存在する暴力装置との濃厚な関係、その如何わしい秘密政治結社を特殊防衛課として採用するという国権の私物化……。それらの不正を今から紹介する記者に曝露し、彼女の政治生命を完全に絶ってほしい」
八社女は手に何者かの名刺を持っていた。
そこにはおそらく、政治的に皇を追い落としたくて仕方が無い報道関係者の連絡先が記されているのだろう。
確かに、双葉はその人物にとって垂涎ものの情報をいくつも持っている。
双葉は前線から外された後、一時的に皇奏手直々の預かりとなっていた。
その中で、今八社女が並べ立てた皇の悪行を目の当たりにしてきた。
それらは全て、皇が閣僚という権力者であったからこそ押し通せたことである。
しかし、与党は衆議院選挙で大敗し、皇は落選した。
今、選挙に勝った野党は早期の国会召集を求めている。
それが実現すれば首班指名が行われ、政権が変わることになるのだが、特殊防衛課は新政権の意向で動きを止められてしまう可能性が濃厚だった。
その為、総理大臣は今野党や世論の圧力に耐えどうにか国会召集を先延ばしにしている。
しかし、この状況で皇の不正行為が暴露されれば、おそらく保たないだろう。
それこそが武装戦隊・狼ノ牙の首領補佐・八社女征一千の狙う確信的利益だった。
ここで八社女の条件を呑めばどうなるか、それは双葉にも能く解る。
だが双葉が抱いた感想は実に簡単なものだった。
(何だ、そんなことで良いんだ)
彼女は皇を庇おうとも、狼ノ牙の捜査を続けさせようとも全く思っていなかった。
最早国家に協力する義理など無い――それが双葉の答えである。
「そんなことで良いなら喜んで」
「ククク、良い答えだね」
双葉にとって、皇奏手は嫌悪の対象の一人でしかない。
確かに、双葉はこの社会に蠢く「男の欲望」に思う処が有る。
皇はそんな苛酷な環境で戦ってきた女なのだろう。
しかし、如何に彼女が出世しようが、総理大臣になろうが、それは既存の社会規範に乗っかった結果に過ぎない。
それどころか、皇は「公の為の滅私の奉仕」という社会の規範を押し付け過ぎる。
皇は女性であっても、女性の為の社会の味方などではない。
よって、庇う理由など無いばかりか、寧ろ積極的に除かなくてはならない。
――双葉は皇を売ることに些かの躊躇いも、後悔も罪悪感も無かった。
「今の答えで契約は成立した。この番号に電話して、或る女性記者と会う約束をするが良い。僕から話は通してあるから、喜んで取材してくれる筈さ。そこで彼女に洗い浚いを話してしまうんだ。僕は彼女からの連絡を待ち、取材が終わった時点で首領に話しに行こう」
「解りました」
八社女は双葉に名刺を渡すと、その場から忽然と消えてしまった。
双葉はその名詞を胸に仕舞い込むと、わざとらしい早足で歩き出した。
⦿
双葉が歩き出す様子を、物陰から血塗れの男が見ていた。
鍛えられた肉体に、短い髭と濃い眉毛を特徴とした中年男だった。
「はぁ……はぁ……なんということだ……。あの女、皇先生を裏切るつもりか……! このままでは……おのれ……」
男の背後には固太りした中年男の死体が転がっている。
どうやら二人は何者かに襲われてしまったらしい。
「眞咲、悪いが置いて行くぞ。このまま久住双葉を行かせる訳にはいかん……!」
男は体に鞭を打ち、双葉の尾行を続けようとする。
しかし、そんな彼の背後に一人の大男が迫っていた。
「元崇神會三代目総帥・息田琉次郎だな?」
息田琉次郎は声に驚いて振り返った。
瞬間、一本の長槍が生きたの心臓を突き刺して貫通した。
息田は驚愕の表情のまま固まり、物言わぬ屍となって体を宙に掲げられた。
即死である。
「やれやれ、詰めが甘いのだ、増長天の奴め」
「おやおや、息田は生きていたのか。悪かったね、多聞天」
息田を殺した下手人に、八社女が親しげに話し掛けた。
「しかし、あの息田琉次郎を一撃か。流石は本職だね、推城。僕はデブの眞咲刃三しか殺し切れなかったよ」
「ふん、よく言う。本気でやっていなかっただけだろう」
八社女の仲間・推城朔馬の手から槍が消え、息田の死体は土瀝青に落ちて血の花を咲かせた。
「呆気無いものだね。これであの持国天の息子が作り上げた崇神會は完全消滅か」
「元々廻天派とかいう裏切り者集団との戦いで二代目総帥を始めとした主力が喪われ、更に皇國との戦争で殆どの戦力が喪われていたからな。残りの始末など、所詮は塵掃除の様なものだろう」
「それをいうなら、狼ノ牙はどうだろうね?」
「期待はしていないのだろう?」
「まあね。だが思わぬ手柄を立てるかもよ。道成寺が穢詛禍終に好く馴染んでいてね」
「それと、息子の陰斗か。残るこの国の守り手を一人や二人程度始末してくれるかも知れんな……」
「その間に、僕らは御媛様の本命の願いを叶えるべく動くだけさ」
「それが今の一手か。まあ広目天があの女を欲しがるのも解るがな……」
八社女と推城は不穏な会話をしながら、昼下がりの路地裏へと消えていった。
⦿⦿⦿
同日夕刻、陽子は再びビルの中へと呼び戻された。
その場には父親と弟だけでなく、もう一人の男が待ち構えていた。
「やあ、久しぶりだね陽子さん」
「や、八社女首領補佐……」
八社女は陽子を挟んで陰斗と向き合い、不敵な笑みを浮かべて立っていた。
陰斗の隣には道成寺が、首輪で繋がれた金髪の美女を侍らせて椅子に坐っている。
(別府幡黎子……。すっかり調教されてしまったらしいな。無理も無い。今の親父は異常だ……)
陽子は今の別府幡黎子が自分に重なる用に思えた。
陰斗を助け出すと、双葉だけは傷付けないと、そう心に決めた筈なのに、状況に絶望して命惜しさにそれを曲げてしまい、父親の操り人形に成り下がった。
今の自分は、黎子と同じく「嘗て椿陽子だった者の残骸」に過ぎないのだろう。
そんな自己嫌悪に苛まれる陽子に、八社女は穏やかな声で語り掛ける。
「陽子さん、もう久住双葉を呼び出す必要は無いよ」
「ど、どういうことですか?」
「彼女は僕達狼ノ牙にとっての最大の障害を取り除くために動いてくれた」
「ふむ……」
首領Д・道成寺太は顎髭を弄っている。
「それに免じて、陽子と陰斗を解放して欲しい、というのが久住双葉の願いという訳だね、同志八社女?」
「そういうこと。だがまあ、首領としてもおいそれと首を縦に振れないのは解る。そこで、こういう取引はどうだろう?」
話に付いて行けない陽子の頭越しに、八社女は道成寺に提案する。
それはこういうものらしい。
「今後、陽子さんと陰斗君は僕が預かろう。道成寺、君の許からは離れるので久住双葉との取引には反しないし、首領補佐の僕が従えれば組織との繋がりが切れるわけじゃない。君は一人になってしまうが、敵の組織も間もなく動けなくなるだろう。在野の個人として君を狩りに来るかもしれないが、今の君ならば力で捻じ伏せられるだろう?」
「確かにな……。我輩の力は刻一刻と増大している。権力にしがみ付く狗共の反動分子など物の数ではないわ。手始めにこの国から亡国に追い込み、今度こそ狗の民族から日本という虚構を取り上げてやる」
「そういうこと。一応女も用意できているみたいだし、前と同じように社会への不満分子を煽れば人員は集まるだろう? その時、最早姉弟が必要無くなっていれば……」
「……まあいいだろう。そういうことならね」
道成寺は嘗て皇國から革命することに拘っていたことも忘れているらしい。
最早彼は狂気の闇にどっぷりと浸かり切ってしまっていた。
八社女以外の人間の言うことなど真面に聞きはしないだろう。
しかしどうやら、陽子にとってはそれが物事を上手く運んだらしい。
彼女の頬に涙が伝った。
自分は双葉を差し出すつもりだったのに、その双葉が呑んだ取引のお陰で道が拓けた。
「ごめん双葉、私……。ありがとう……」
「では陽子さんに陰斗君、僕と一緒においで」
八社女は陽子と陰斗の手を取り、二人を引いて歩き出した。
「では道成寺、何かあれば先程渡した連絡先に電話してくれ。願わくは次に会う時は、君が立派に組織を立て直して願いを叶えていれば良いね」
「フン、一応感謝しておいてやろう。精々、我輩の子供らに寝首を掻かれんようにな」
八社女と陽子・陰斗が部屋を出て行き、場には道成寺と黎子だけが残された。
「扨て、では一先ず次の種を仕込むとしようか。この体に流れる忌まわしき狗の民族の血を薄めるのも悪くはない。黎子君、そこに四つん這いになり給え」
「はい、首領様……」
黎子は今、完全に道成寺の虜となっていた。
それは相手を魅了するという道成寺の能力の効果である。
黎子は本能で道成寺を求め、逆らうことなど考えられなくなっているのだ。
「良い光景だ。随分従順になったことだし、御褒美をあげないとね」
「ありがとうございます……」
死臭漂う悍ましい場所で如何わしい行為が行われようとしている。
しかしその時、窓の外で小さな人影が動いた。
「道成寺ッッ!!」
突如、窓の外から無数の短剣の嵐が道成寺に襲い掛かった。
道成寺はそれを軽く振り払い、窓の外を禍々しい眼で睨み付ける。
「ほう、逃げた訳ではなかったのか。我輩に挑むとは良い度胸だ。良いだろう、外へ出て行ってやるから待ってい給え」
道成寺は黎子の首輪を引き、割れた窓に足を掛けた。