繭月百合菜は胸の内に三つの背徳を秘め、それを酷く嫌悪している。
彼女がその片鱗に初めて気が付いたのは二十歳の頃、大学に合格して初めての夏、家族で久々に夏祭りへ出掛けた時の事だった。
それまで浮ついた話の一つも無かった彼女は、初めて燃える様な情欲を感じた。
母と義父が自分達の世界でロマンスの思い出に浸っているのを余所に、彼女は当時九歳だった腹違いの弟・翅と共に花火を見上げていた。
その時ふと、光に照らされて色合いを変える弟の横顔が、どういう訳かとても艶やかに見えてしまった。
嗚呼、何て愛おしいのだろう、何故狂おしいのだろう。
そんな事を考え、彼女は我を忘れた。
そして気が付くと、彼女は年端も行かぬ弟の頬に唇を近付けていた。
寸での所で思い止まり未遂に終わったものの、突然の事に弟は明らかに戸惑っていたし、それは彼女もまた同じだった。
繭月百合菜は近親愛と小児性愛を同時に抱いてしまったのだと、この時はそう思っていた。
弟は、その僅か一週間後に死んだ。
交通事故だった。
突然の訃報に両親も彼女も皆悲しみに包まれるも、どうにか通夜を執り行った。
弔問客を帰し、棺に眠る弟と家族だけで最期の一時を過ごす最中、その瞬間は訪れてしまった。
当初、彼女は確かに喩えようも無い悲しみに支配されていた。
棺の小窓から覗く弟の顔は、死化粧を施され現実感の無い白亜の色を纏っていた。
溜息交じりに見詰める彼女の思考までもが、呆然とした空白に塗りつぶされていくようだった。
嗚呼、愛おしい弟よ、狂おしい翅よ。
花火の下で見た色めく横顔よりも、悲しみの白が何と幻想的で美しいことか。
姉の顔が弟の顔に近付く。
唇と唇が触れそうになる。
気が付くと、そこは通夜を終えた愛別離苦の空間ではなくなっていた。
もっと悍ましい色欲が彼女を支配していた。
我に返った彼女は己の行いに愕然としていた。
胸に秘めた思いに気が付いてしまった彼女は、とても弟との別れを悲しむどころではなくなってしまったのだ。
あろうことか彼女は「九歳の」「弟の」「死体に」欲情していた。
繭月百合菜の遅い初恋は、斯くも悍ましい狂気だった。
近親愛者・小児性愛者にして、更に死体性愛者という業深き女。
何処までも深い、奈落の如き絶望に突き落とされた彼女は、己をこの世に生まれてくるべきでなかった真正の邪悪と強く強く信じ込んでしまった。
そんな観念から彼女を一時的に解放し、闇から救ったのは五年後の出会い――『紅夜』を名乗るバンドマンだった。
⦿⦿⦿
西の空が茜色に染まる黄昏時、航達はこの日もどうにか乗り切った。
だが、屋渡の命令で切り立つ崖の上に立たされているのは三人だけだった。
「何故お前達だけ残されたか分かるか?」
屋渡は三人にドスの利いた声で凄んだ。
岬守航・虻球磨新兒・繭月百合菜の三人は未だに神為の第三段階「術識神為」に覚醒していない。
成果の悪さに苛立ちを募らせた屋渡は、この日三人だけに居残りを命じたのだ。
他の五人は扇小夜こと水徒端早辺子に連れられ先に公転館へ戻された。
「僕達は……未だ術識神為を会得していない」
「その通りだ、能無し共!」
屋渡は航の腹を殴り、膝を付かせた。
訓練の初日からずっと、航は屋渡から目の敵にされていた。
何か気に入らない事、言い掛かりの余地があると、この様に意味も無く暴行されるのだ。
「ぐ、はっ……!」
「俺もじっくりのんびりやっている訳にはいかんのだ。今日が終われば、首領Дの訪問日まで後四日しか無い。それまでに、全員の体裁を整えねばならんからな」
屋渡の拳が、今度は新兒の顔面を殴打した。
喧嘩慣れした筈の彼の体を一発で崩し、尻餅を搗かせてしまうあたり、何だかんだでこの男の実力だけは本物だ。
「手ン前……!」
新兒は屋渡を睨み上げる。
普段はおちゃらけた彼だが、眼には荒れていた過去を彷彿とさせる獣性が宿っている。
だが、屋渡はそんな新兒を鼻で笑った。
「そんな眼をしたところで、今のお前は落ち零れに過ぎん。悔しかったら一日も早く他の奴らに追い付くことだな」
屈辱感を煽って奮起させる腹積もりだろうが、的外れも良いところである。
抑も、航達には狼ノ牙の革命を成す為に尽力する意欲など基より皆無なのだ。
狼ノ牙のやり方は根本から間違っているが、彼らはそれに気付こうともしない。
「自明な筈だ、お前達が直向きに努力すべき事、戦うべき相手は。皇國という巨悪の脅威、お前達も充分に承知の筈だろう。明治日本もまた、邪悪な帝国主義者に脅かされている。ならばお前達は元から我々と立場を同じくする味方同士の筈だ。多少不本意な形で連れて来られ、何かを犠牲にされたから、それがどうした? 少しでも良心と思慮、理性があれば我々と手を取り合うべきだと解る筈なのだ。寧ろ、戦う機会と力を与えられた事に感謝すべきだろう」
身勝手極まりない論理、これこそが武装戦隊・狼ノ牙という組織の思考回路だ。
それは自身を正義と確信する傲慢というよりは、多少の瑕疵は大目に見てもらえるという甘えである。
当然、こんなものが航達に通用する訳が無い。
屋渡は狂気に満ちた眼を繭月に向ける。
「なあ、お前もそう思うだろう、繭月?」
「ヒッ……!」
折野には臆していなかった繭月が、屋渡には怯えている。
異常な論理で暴力による支配を布く男は、繭月から見ても異常者なのだ。
「お前は特に、訓練に身が入っていない。何故なんだろうな? この俺が直々に連れて来てやったというのに」
繭月は拉致された際に恋人を喪っている。
即ち、彼女は屋渡に大切な人を奪われたのだ。
当然、協力は望めないだろう。
だが、今の彼女はその恨みよりも恐怖が勝っている。
「我々の使命は地球より重い! 怠惰は最大の罪だ! それは皇國に対する消極的加担だからだ! 日本人は巨悪に与する悪癖がある狗の民族だと首領がよく仰っている。狼になれる機会、みすみす逃すものではないぞ」
屋渡は繭月の髪を鷲掴みにした。
「痛い! 痛い!!」
「だが、俺に言わせれば貴様らなど肉食動物すら烏滸がましい。特に、無能な上に怠惰な屑にはな。繭月、お前は術識神為を身に着けるまで豚になれ! これより人語を喋る事を禁ずる! 豚語でブヒブヒ啼くんだよ!!」
あまりの暴言に、航と新兒は同時にキレて立ち上がった。
「手前、この野郎!!」
「繭月さんを放しやがれ!!」
立ち直るのが早かった新兒が先に、航は後から続いて屋渡に向かっていく。
「愚か者共めが」
新兒の右拳が屋渡の顔面を捉えた。
だが、屋渡は頬に拳を突き刺したまま不気味に笑って新兒を見据える。
「三人の中でお前はまだマシな方だな。なかなか良い拳じゃあないか」
航が追い打ちを掛けようとするも、屋渡は繭月の体を航にぶつけてきた。
繭月を支え切れず、航は彼女を庇う形で尻餅を搗いた。
「無様を晒しているそこの二人は駄目だがな」
「ぐっ……!」
航は苦痛に思わず声を漏らしたが、繭月に怪我が無かった事に一先ず少しだけ安堵した。
一方で、屋渡には新兒が一人で追い打ちの拳を振るっている。
だが、両腕を使える屋渡は新兒の攻撃を軽々往なしていた。
「じゃあ、親を殴った罰と成長した子へのご褒美を兼ねて、俺が拳打の手本を見せてやるとするかァ!!」
屋渡は目にも留まらぬ速さで新兒に拳の暴風雨を浴びせた。
一・二発は新兒もどうにか躱したものの、すぐに対応し切れなくなりボコボコに殴られて膝を突いてしまう。
止めとばかりに、屋渡の蹴りが新兒の顎を打ち上げ、意識を遠い所へ消し飛ばしてしまった。
「あ……あぁ……」
屋渡の凄まじい暴力に、繭月はガクガクと震え始めた。
その背中に触れる航にも、彼女の恐怖が伝わってくる。
「さぁて、最悪の問題児二人をどうしたものか、この場で決めてしまうとするかな……」
屋渡は嗜虐的に舌舐めずりし、航と繭月を見下ろす。
しかし、この状況は悪い事ばかりではない。
何故なら、航の脱出計画にとって、屋渡が彼を見限るのは必要条件だからだ。
『私の計画では、先ず貴方達の誰かを屋渡に見限らせる。それを見越して、その方を雑用係として私の下へ配置換えするように言い含めておく。そうすれば、私は屋渡の指示でその方に為動機神体の操縦を教えられる、という訳です。十中八九、選ばれるとすれば岬守様でしょう』
『しかし、そう上手く行きますかね?』
『大丈夫です。……私にお任せください』
航と早辺子の計画が上手く運ぶか、全ては屋渡がどう判断するかに懸かっている。
航は固唾を呑んで結果を待っていた。