九月二六日土曜日の夕刻、根尾弓矢は一人、街で車を走らせていた。
先週は事態が目紛るしく動き、一時は王手まで掛けたものの、結局捜査に進展は得られていない。
それどころか寧ろ、特殊防衛課は逆に追い詰められていた。
(一先ず岬守君達の契約は前倒しで延長したが、まさか週刊誌であんな記事が出てくるとはな……)
木曜日、青天の霹靂が彼らを襲った。
週刊誌が皇奏手の行いについて、有ること無いこと並べ立てて報じたのだ。
拉致被害者の軟禁、東瀛丸の利用、崇神會との濃厚な関係――それらは事実に基づいていたものの、記事の書き方はかなり誇張されており、あたかも皇が皇國との戦争を利用して国家を私物化しようとしたかの如く報じられていた。
(皇先生が特別警察特殊防衛課を始めとした皇國と戦う為の諸制度を作り、運用する為に様々な違法・脱法的手段を用いたのは事実だ。しかし、自由民主主義と法治主義の破壊と独裁を目論んでいた事実は無い。寧ろ皇國からそれらを守るにはそうするしか無かったのが実情だ。しかし、そう言っても通用せんのだろうな……)
根尾は溜息を吐いた。
国会召集と内閣総辞職を二日後に控え、愈々特殊防衛課は動きを止められてしまうかも知れない。
そうなると、武装戦隊・狼ノ牙や神瀛帯熾天王のことは私的に追うしかなくなってしまう。
血液の提供など、警察からの捜査協力もこれまで通りには得られなくなるだろう。
(なのにあれから道成寺の行方は全く掴めていない。奴の二人の子も、神瀛帯熾天王のことも……)
根尾は一度、道成寺の潜伏先を掴み、人員をそこへと結集するところまでは行っている。
しかし、彼は囚われの別府幡黎子を救出することと、久住双葉の安否確認を優先してしまった。
御陰で道成寺は逃亡し、また潜伏先を変えてしまった。
今のところ、その手掛かりは完全に消滅している。
(仁志旗の様には行かんということか。所詮、俺は素人だからな……)
根尾は今は亡き部下・仁志旗蓮のことを思い出していた。
驚異的な調査能力を持つ、諜報のプロフェッショナル――彼ならば、道成寺や神瀛帯熾天王の潜伏先もあっさりと掴んでしまったのだろうか。
彼は実に優秀な懐刀だった。
車を走らせる根尾は、気が付くと見覚えのある路地へと出ていた。
皇の議員秘書だった時代、何度か通った道だ。
有力な支持者だった神社へ参っていた記憶が昨日の様に思い出される。
ふと懐かしくなった彼は、車を近くの駐車場に置いて久々に参ってみたくなった。
行き詰まった現状に、過ぎ去った時代の残り香に誘われて逃避してみたくなったのかも知れない。
鳥居を前にした彼が最初に感じたのは、議員秘書時代には無かった寂しさだった。
建物も敷地も、鳥居も獅子狛犬も、心なしかすべてが小さく見える。
(気の持ちようで景色の見え方はこうも変わるのか)
彼は溜息を吐いた。
現実が変わらず存在し続ける以上、気晴らしというものの何と無意味な事か。
夕日が神域を朱色に照らし、過去を荼毘に付そうとしている。
余り長居するものでもないし、根尾は軽く参ってその場を立ち去り、ホテルに戻ろうと考えた。
「む……」
その時、根尾は一人の中年女性と眼が合った。
痛々しい傷跡の残る犬を連れ、日課の散歩で通りかかったらしい。
根尾は彼女のことを知っている。
「根尾さん、お久し振りです」
「二井原さん……」
二井原椛――武装戦隊・狼ノ牙に拉致された被害者のうち、最初に殺されてしまった女子高生・二井原雛火の母親である。
以前は娘の担当だった愛犬の散歩だが、今は彼女が請け負っているようだ。
果たして如何なる心持ちで毎日この道を、この神社を通っているのだろう。
根尾と椛は、互いに一礼した。
「二井原さん、娘さんの件は力になれず、お詫びする言葉も見付かりません……」
根尾にとって、椛は合わせる顔の無い人物だ。
彼らは狼ノ牙に拉致された国民全員を帰国させられた訳では無かった。
救出する前に死亡してしまった者も居れば、不手際で死なせてしまった者も居る。
そして椛は、拉致事件発覚の切掛であり、皇奏手に藁にも縋る思いで調査を頼んできた人物であり、最も若くして還らぬ人となった被害者の遺族である。
根尾は椛からの汎ゆる罵声を覚悟していた。
しかし、椛の表情は思いの外穏やかなものだった。
大いなる悲しみが宿った眼をしてはいた。
しかし、根尾に対する批難は殆ど感じられない。
「他の方が帰国されたということは、皇先生は間違いなく娘の為に力を尽くしてくれたということですよね。それに根尾さんもまた自ら皇國へ乗り込み、命辛々戻られたと聞いています。私達家族としては感謝こそすれ、恨み辛みを申し上げるつもりなど毛頭御座いません」
椛の言葉を意外に想った根尾は瞠目し、一瞬言葉に詰まった。
「……勿体無い御言葉です」
「それに、今は娘を拉致した犯人の一味を追い掛けてくれているんでしょう? 駅前に指名手配のポスターが貼られていますし、何人かはもう捕まったんですよね」
武装戦隊・狼ノ牙が日本国へ逃亡してすぐ、彼らは警察に八卦衆の指名手配を要請した。
幸いなことに彼らの姿は世界中の空に映し出されていて、顔写真には困らない。
その内、情報提供を今も受け付けているのは首領の道成寺太とその血縁だけだ。
「国家の安全保障の為ですから……」
根尾は答えを濁した。
正確には、捜査を終えた三人に関しては容疑者死亡という結末になっている。
決して胸を張れる成果ではない。
だが根尾はどこか心に西日が差した様な気がした。
自分達がやってきたことで、ほんの少しでも報われたと感じている人は確かに居るのだ。
椛の表情は決して明るくない。
作り笑いには一言で表せない複雑な心情を隠しているのだろう。
根尾に対する感情も、言葉通りではあるまい。
しかし、全てが嘘という訳でもないだろう。
(彼女は俺に対して、努めて穏当に接してくれている。少なくとも、彼女の中ではまだ俺達はそうすべき相手なのだろう……)
根尾は考える。
彼女は今、根尾や皇のことをどうにか許せているのだ。
それは彼女の心が完全な闇に染まっていないということである。
自分達の戦いが、彼女の中で小さな光を保っている。
「二井原さん」
「はい」
「仕事が一段落したら、一度娘さんに手を合わさせていただけませんか?」
「それはつまり……」
椛は軽く目を開いた。
そして一瞬だけ眉を下げると、再び小さく微笑みを見せる。
夕日が影を差した、物悲しげな笑顔だった。
「お気持ちだけ頂いておきます。どうか御無理はなさらないでください。皇先生のように倒れてしまっては元も子もありませんよ」
「出過ぎた言葉でした。御気遣い、感謝いたします」
何処までも穏当な椛の気遣いが根尾の身に染みた。
決して晴れやかな気分ではないが、視界が開けていく気がする。
「では根尾さん、私はこれで。皇先生にも宜しくお伝えください」
「はい。御時間をいただき、ありがとうございました」
椛は愛犬「ミッキー」を連れて神社を後にした。
根尾はその背中を見送りつつ、考える。
(出来れば帰してやりたかったよ。娘の雛火さんをな……)
二井原雛火を拉致したのは道成寺太本人である。
この情報もまた、仁志旗から齎されたものだ。
つまり、椛の娘の敵は未だ取れていない。
根尾は奥歯を噛み締めた。
(こんなことをしている場合ではない。まだ日数は残されている)
そう、まだ終わった訳ではない。
政権が変われば、特別警察特殊防衛課は廃止され、現行の組織も凍結されるだろう。
だが、まだその日程までは決まっていない。
まだ諦めるには全然早過ぎるのだ。
(なんとしても、道成寺太に然るべき報いを受けさせなくては!)
根尾は決意を新たに歩き出した。
その足取りは、来た時とは打った変わって力強いものだった。